ペトロの手紙一

2024年10月20日 (日)

ペトロの手紙一 3章11節 「平和を求め、これを追え」

~キリスト教教育週間~

 今日のキリスト教教育週間のテーマは、人のいのちを救う病院です。アハリー・アラブ病院はイスラエルの攻撃を受けても、医療活動をやめてはいません。宗教という枠を越えて、いのちでつながる働きをしているのです。アッラーにしてもヤーウェにしてもイエス・キリストも、神は人を殺すことを求めているのでしょうか。十戒には「殺してはならない」という戒めがあります。タルムード(ヘブライ語聖書に次ぐユダヤ教の聖典)よりも優先させなければならない、律法の中心とも言うべき十戒にあるのです。

 ユダヤ人からパレスチナ人に対する攻撃的な態度、1948年のイスラエル建国以前から今まで続いています。かつてはパレスチナという土地にあって宗教や国家観、暮らし方の違いや小さな諍いはあったとしても、両者が仲良くできていた時代はあるのです。それが愛から憎しみや殺意の時代に移り変わってきたのです。歴史を巻き戻すことはできないのかもしれません。しかし、新しい友人として、また開かれた意味での隣人としてお互いのいのちを大切にしあって喜んで生きられるような世界を求めていくことはできるのではないでしょうか。

 今日のテーマの聖句は「平和を求め、これを追え」です。これは共同訳聖書(最新版)によっています。わたしたちの使っている新共同訳では「平和を願って、これを追い求めよ。」となっています。報道によれば、イスラエルの攻撃が収まる気配は感じられません。激しくなるばかりです。ハマスの指導者が殺され続けています。指導者を殺すために、より多くの人を殺しても良いのだと主張する人もいるでしょう。しかし、指導者を殺しさえすれば問題は解決するのでしょうか。サダム・フセインを殺して、ビンラディンを殺して、カダフィを殺して、世界に平和が訪れたのでしょうか。より混乱が大きくなり広がったのではないでしょうか。如何にして殺さないで問題に対処できるのかが人に与えられた平和を求めてこれを追え、という課題に応えていく道ではないでしょうか。そのためにこそ、学ぶことの必要性を感じています。

 聖書には、覇権主義や殺しを良いこととして教えている箇書が確かにあります。これは否定できません。しかし、わたしたちが第一には読むべきは平和という課題に向かう箇書です。 イザヤ書24節にはこのようにあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」。戦うことを学ばない生き方を求めたいのです。お互いのいのちを慈しみ合い「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」というローマの信徒への手紙1215節の言葉が本当になるような世界を求めて祈りましょう。

2023年7月16日 (日)

ペトロの手紙一 3章18~19節 「よみにくだり」

 「よみにくだり」の「よみ」とは、当時の世界観の一つの表現です。ハイデルベルク信仰問答44によれば、「御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れ」であり、その「よみ」に下った主イエスだからこそ「わたしが最も激しい試みの時」に歩みよって「地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ」というのです。インマヌエル、我々と共にいることの貫きが、「地獄のような不安と痛み」を共に担っていてくださるのだという信仰的確信が主イエスにおいてなっているのです。

 そしてこのことは、わたしという個人が解放されていることに留まりません。洗礼を受けた自分たちは救われた光の子だけれども、外にいるあの人たちは闇の世界から自由になれない滅びの子だ、みたいな主イエスの恵みを独り占めするような閉じられたものではありません。確かにそのような信仰理解も存在しますが、主イエスの「よみにくだり」という象徴的な言葉には、あの人この人という他者への広がりがあるのです。

 「よみ」とは、個人においても他者との関係性においても、うごめき続ける悪しきものであり、虚無であり、絶望であり、孤独であり、地獄を思わせる世界であり力なのかもしれません。人間一人ひとりとそのあらゆる関係を歪め、憎しみや妬みなどによって「幸い」でないことへと誘う何かなのだと思います。今日の「よみにくだり」が示すのは、使徒信条の前の部分「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」た主イエスが、苦しみの道の先にある十字架の死を経てなお「よみ」という深みにまでおりてわたしたちに寄り添うことを貫き通した方だということです。ここから帰ること、つまり「よみがえり」によって絶えず新しい関係を打ち立ててくださるのです。だから、わたしたちは主イエスの「幸い」に与ることによって罪あるままで救われる、つまり全面的に、そして無条件に受け入れられると同時に「わたしたち」という広がりへと招かれることによって、何度でも初めから生き直し、やり直すことができるのです。「よみにくだり」の主イエスは今日もわたしたちの「よみ」を自ら引き受けてくださっているのです。

2019年6月23日 (日)

ペトロの手紙一 3章18~22節 「陰府にくだり-使徒信条講解13」

 ペトロの手紙一は、キリスト者の生活を整える根拠を、キリストの苦しみから天に上って神の右へと至る旅路のあり方から示そうとしています。ノアの物語を思い起こさせながらキリスト者の生活の初めとしての洗礼を位置付けます。水の中を通ってという動機について、その時は8人にすぎなかったけれども、キリスト者はすでに増えているのだからとも言いたげです。キリストの苦しみ、死、天に上る、そして神の右に至る旅が、キリスト者の今を復活において救われているとしています。さらには、天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服していると続けます。
 「陰府にくだり」という言葉の示す方向は、死のかなたの低みの低み、呪われた場、忌まわしい場であったとは言えそうです。
 わたしたちは、多かれ少なかれ生きながらにして「陰府」あるいは「地獄」のようなものを経験することがあります。「試み」だと思われることや困難な課題のただ中に置かれる時に感じる経験です。「陰府にくだり」という文言は、主イエスがそこおいても共におられる仕方で来られた(来られる)という事実確認が課題になっているのです。
 たとえば、讃美歌21の200番の羊飼いの「遠くの山々 谷そこまで」行く姿を「陰府にくだり」と重ね合わせて読むことができるのではないでしょうか。
 主イエスをキリストと信じ、告白するということは、ただ単に心の、内面の問題や課題ではありえないと言わなければなりません。主イエス・キリストの「陰府にくだり」という事実は、わたしたちの困難な課題や問題のただ中において支えきる、守り切るという決意を信じる言葉です。
 「陰府にくだり」という箇条を唱え、聖書を読み、祈る中で、ふと振り向いたときに、そこにいる共に来て(いて)くださる主イエスに気づくことがあるのだと信じるのです。
 「陰府にくだり」という文言に示されているのは、主イエスの旅の方向性です。誕生、生涯、十字架の死、陰府、よみがえり(陰府帰り)、昇天という道は、図式としての教えに留まらないのです。人それぞれの抱えている課題に対して、寄り添う主イエスの決意の表れが動的に記されているのです。主イエスの旅路は、わたしたちを生かし、支え、導くのです。わたしたちの、この世から天に向かう旅路の同行者であるがゆえに、今この世に生きるわたしたちにとって、信仰という一本の杖として、主イエスはわたしたちの旅に伴っていてくださるのです。ここに信頼を寄せつつ歩む群れでありたいと願います。

無料ブログはココログ