エフェソの信徒への手紙 2章14~16節 「キリストの平和」
子どもとおとなの合同礼拝~平和を求めて~
今日の聖書で問題になっているのは、教会の中での民族の違いについてです。ユダヤ人とユダヤ人以外の異邦人と呼ばれる人たちとの間に諍いがあったのです。平和ではなかったのです。何を食べ、どのような生き方をするのかという習慣や価値観や言葉遣いなど、様々な違いがあることが、お互いに許せなくなっていたのです。これはとても不幸なことです。何とかして仲良くなれないのだろうか、一緒に生きていくことはできないだろうかと、このエフェソの信徒への手紙は教えて、考えをまとめるように促しているのです。
それにはまず、主イエス自身に立ち返ることが重要です。人が人として胸を張って生きることと、同じように神からのいのちを尊びあって大切にしていくことです。このような言葉があります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と語りかけるのです。「敵意」という「憎しみ」を乗り越える力が主イエスにこそあるというのです。このことは、聖書の言葉としては教会の中でのことになります。しかし、主イエスの心は教会の中にだけ留まるものではありません。世界中に広がっていく言葉です。
主イエスは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と言いました。主イエスを信じる神様の子どもとしての使命は平和を作り出していくことと同じだというのです。しかし、わたしたちは世界中の戦いを前に全く無力であることを、実感しています。それでも、祈ることと希望を失ってはならないのです。世界が抱える問題の大きさを理解し、地球全体のことへと思いを馳せながら、身近なところで行動を起こしていけば、どこかで世界につながっていくことができるのだと信じることはできます。
主イエス・キリストの神からの力が多くの人たちに送られて、行動する勇気が与えられることを信じることはできるのです。主イエスが、「敵意という隔ての壁」一切をきれいさっぱりとなくし、お互いが暖かく手を取り合っていく世界に向かって、招いてくださるのです。主イエス・キリストの神は、平和を願い続けています。この願いに応える人たちが、一人でも多く起こされていく道がきっとあるのです。わたしたち一人ひとりの知恵や力は小さいかもしれないけれども、平和な世界がきっと実現していくに違いないと信じるところに、神さまの子どもとして生きるわたしたちがいるのだと信じていたいのです。


最近のコメント