イザヤ書 46章3~4節 「神に背負われて」
~高齢者の日礼拝~
わたしたちは人生の中で、お金はもちろんのこと、人間関係における優位性といったものに頼りたくなるときがあります。しかし、それらは決してわたしたち自身を背負ってはくれません。むしろ、わたしたちがそれらを背負うことで、かえって悩み苦しむことが少なくありません。疲れて、弱り切っている時にこそ、いのちがけでわたしたちを背負ってくださる方、それがまことの神です。聖書の神は偶像ではありません。驕り高ぶる者には審きを、弱っている者には慰めを与えるのです。具体的な言葉と導きによってです。この神の行動を第2イザヤの今日の箇書では「背負う」イメージに寄せて、捉え直しているのです。「白髪になるまで」、つまり年老いていく現実の中で、神はわたしたちを背負ってくださるのです。この「背負う」という言葉には、単なる支え以上の深い意味があります。それは、重荷を引き受け、責任を持ち、目的地まで運んでくれる、深い愛の行為です。神はわたしたちの人生の重み、体力の衰えや病気、そして孤独といった不安をすべて知っておられ、それを共に担ってくださる方なのです。
歳を重ねることは、「終わり」に向かう絶望や諦めの季節ではありません。むしろ、人生の集大成であり、神の恵みを証しする時です。教会においても、高齢者の存在はかけがえのないものです。その信仰の歩みは若い世代の希望となり、神の真実さを語る生きた証人となることができます。
イザヤ書は「救い出す」と語っています。これは、単なる慰めではなく、永遠の命への約束です。人生の終わりに向かう旅路において、神は私たちを最終的に死から救い出し、神の国へと導いてくださいます。どんなに弱くなっても、神の救いは確かであり、わたしたちは神の腕の中で安らぐことができるのです。「神に背負われて」とあるのですから。
しかし、だからこそ逆説的に、わたしたちはそれぞれに負うべきものを負うことができるのです。わたしたちは、自分の力ですべてを背負う必要はありません。主イエス・キリストの神がわたしたちと共にいてくださり、担い、背負い、救い出してくださる約束があるからこそ、わたしたちは安心して歩み続けることができるのです。見棄てることなど決してなく、私たちの生涯をご自身のものとして受け止め、担ってくださる。そのように、神に信頼していいのです。神に委ね、頼っていいのです。負いきれない重荷もまとめて、神がわたしたちを背負ってくださっていることを信じる幸いに包まれているのです。


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