イザヤ書

2025年9月14日 (日)

イザヤ書 46章3~4節 「神に背負われて」

~高齢者の日礼拝~

 わたしたちは人生の中で、お金はもちろんのこと、人間関係における優位性といったものに頼りたくなるときがあります。しかし、それらは決してわたしたち自身を背負ってはくれません。むしろ、わたしたちがそれらを背負うことで、かえって悩み苦しむことが少なくありません。疲れて、弱り切っている時にこそ、いのちがけでわたしたちを背負ってくださる方、それがまことの神です。聖書の神は偶像ではありません。驕り高ぶる者には審きを、弱っている者には慰めを与えるのです。具体的な言葉と導きによってです。この神の行動を第2イザヤの今日の箇書では「背負う」イメージに寄せて、捉え直しているのです。「白髪になるまで」、つまり年老いていく現実の中で、神はわたしたちを背負ってくださるのです。この「背負う」という言葉には、単なる支え以上の深い意味があります。それは、重荷を引き受け、責任を持ち、目的地まで運んでくれる、深い愛の行為です。神はわたしたちの人生の重み、体力の衰えや病気、そして孤独といった不安をすべて知っておられ、それを共に担ってくださる方なのです。

 歳を重ねることは、「終わり」に向かう絶望や諦めの季節ではありません。むしろ、人生の集大成であり、神の恵みを証しする時です。教会においても、高齢者の存在はかけがえのないものです。その信仰の歩みは若い世代の希望となり、神の真実さを語る生きた証人となることができます。

 イザヤ書は「救い出す」と語っています。これは、単なる慰めではなく、永遠の命への約束です。人生の終わりに向かう旅路において、神は私たちを最終的に死から救い出し、神の国へと導いてくださいます。どんなに弱くなっても、神の救いは確かであり、わたしたちは神の腕の中で安らぐことができるのです。「神に背負われて」とあるのですから。

 しかし、だからこそ逆説的に、わたしたちはそれぞれに負うべきものを負うことができるのです。わたしたちは、自分の力ですべてを背負う必要はありません。主イエス・キリストの神がわたしたちと共にいてくださり、担い、背負い、救い出してくださる約束があるからこそ、わたしたちは安心して歩み続けることができるのです。見棄てることなど決してなく、私たちの生涯をご自身のものとして受け止め、担ってくださる。そのように、神に信頼していいのです。神に委ね、頼っていいのです。負いきれない重荷もまとめて、神がわたしたちを背負ってくださっていることを信じる幸いに包まれているのです。

2024年11月10日 (日)

イザヤ書 11章6~8節 「子どもから始まる」

~子どもとおとなの合同礼拝(子ども祝福)~

 今日の聖書に書かれているのは、普通では考えにくい風景です。狼と子羊、豹と子山羊、子牛と若いライオンとよく肥えた家畜がみんな一緒にいて仲良くしているのです。狼と豹と若いライオンは、子羊や子山羊や家畜を襲って食べてしまうものなのに、みんな仲良くできていて、そのリーダーが小さな少年だというのです。そして、さらに牝牛と熊は一緒に草を食べてライオンも藁を食べるというのです。赤ちゃんが毒蛇の巣で遊ぶというのです。

 何だか変です。普通の世界では起こらないことが書かれています。肉を食べる動物は草を食べる動物を襲って食べますが、みんな仲良しになっているのです。そして、小さな少年がその状況へと導くと言います。

 これは、現実ではありえません。でも、今日の聖書の言いたいことは、ありえないことはありえないとあきらめることはないということです。ここで描かれているのは、一言で言えば「平和」な世界です。

 「平和」な世界は子どもから始まっていくのだよと聖書は言いたいようです。一方で、世界の歪みの被害は、まず子どもから始まります。食べ物が足りなかったりなかったりすること、貧しさ、戦争や紛争、家庭の中での困ったことなど、まず最初に悲しく辛い思いをするのは子どもたちです。

 だからこそ、平和は子どもたちから始まるのだと言いたいのでしょう。あの不思議な群れのリーダーが小さな少年だということは、子どもこそがおとなが作れない「平和」を作り出すことができると聖書は言っているのだと思います。教会は、この子どもの姿にクリスマスの主イエスを見ています。今日の聖書の弱い動物と強い動物、襲うものと襲われるものが一緒に仲良く暮らす群れを率いていく少年の姿が主イエスなのです。

世界は今、「平和」ではありません。しかし、主イエスには強い願いがあります。強いものが弱い者を痛めつけてはいけない。富んでいる者が貧しいものを軽蔑し貶めてはいけない。有り余るほどの食べ物を自由にする人たちが食べられない人たちを作り出すことはよくない。クリスマスの赤ちゃんの主イエスは、みんなが「平和」で生きられるための世界を求め続けていったのです。

 子どもから始まる平和への願いは実現していくのだと信じることができるなら、すべての子どもたちも素直な心で赤ちゃんの主イエスの心と響き合えるかもしれません。赤ちゃんや子どもの「平和」を求める心を忘れてしまったおとなたちも少しばかりは、そのことを思い起こすことへと導かれるのではないかとも思うのです。

2024年9月15日 (日)

イザヤ書 46章3~4節 「高齢者の神」~高齢者の日礼拝~

 「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」ここには、イスラエルの民をこの世に生まれさせた道についての宣言があります。人間は、いのちも人生も自らで作り出してきたと錯覚しがちです。ここに傲慢があります。しかし、主体はあくまで神なのです。他の可能性はありません。わたしたちの人生は背負われているのです。救い出されているのです。信じるべき方は、この方以外にはないとのイスラエルの信仰的確信がここにはあります。

 歳を重ねていくことには、悲しみや苦しみや痛みなどが伴います。いわゆる、「老い」の事実は避けられない現実だからです。それぞれの人生において、幼いころから成長し、歳を重ねる中で様々な経験の中でいのちの充実に向けて成熟してきたことが事実です。しかし、若い頃とつい比べてしまい、身体の調子が今一つ冴えない、病気との付き合いもあるし医者通いも増えてきた、記憶力の低下など、身体や心、精神的な側面についても「衰え」から自由ではなくなってくる現実に心を痛めることもあるでしょう。

 これらの「老い」を巡る「衰え」を突き付けられた時に、向かうべき課題があるのだろうと思います。これらの現実を受け止めつつ、今を生かされてあることへの感謝の生き方です。たとえばマタイによる福音書1128節以下の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」。主イエスのもとにあれば、「疲れ」や「重荷」も主イエスが共に担ってくださっていることによって少し楽になって安らぎが与えられて行く道があると信じるという課題です。主イエスが、このわたしの身体を共に支えて下さり、共に歩んでくださっていると信じ、平安の内に生きる道です。あるいはまた、パウロのコリントの信徒への手紙二 416節の「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」。「老い」による「衰え」さえも 「『内なる人』は日々新たにされて」いることを実感する道です。ここには、「高齢者の日」において祝福されたいのちへの全面的な肯定が語られているのではないでしょうか。この祝福が確かであると信じる道への招きがあるのではないでしょうか。

2023年9月17日 (日)

イザヤ書 46章4節 「人生を導く神」

(高齢者の日礼拝)

 今日の聖書です。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」。これらの言葉を、わたしたちが故郷に帰るイメージとして解釈してみたいと思います。神の息によって造られたわたしたちは神に背負われている存在であることが宣言されています。第二イザヤの文脈によれば、バビロン捕囚から解放されて故郷であるイスラエル、ユダの地、やがて復興され中心となるエルサレムに向かうことが歌われています。しかし、今日はその場を天国ないしは神の国として読んでみたいと思います。

 讃美歌484の『主われを愛す』の1番によれば、「主われを愛す」がゆえに「恐れはあらじ」として今を受け入れて、OKとする信仰です。主イエスが愛してくださっているがゆえに、歳を重ねることにまつわるマイナスに見える事柄一切を含めながら、全面的にその一人ひとりの丸ごとのいのちが受け入れられて祝福されてしまっている現実を、応答として賛美しているのです。歳を重ねていく中に人生を導く神の働きの本当・リアリティーが存在するのです。わたしたちのこの世における使命の中心には「主われを愛す」があります。この現実から人生は「本国は天」、つまり神の国・天国に向かっていくのです。神の国・天国とは、単なる死後の世界なのではありません。神の支配のことであり、その領域のことでもあります。主イエス・キリストの願いや思い、その優しさや慈しみの満ち満ちた世界であり場のことです。「御心が天になるごとく」が実現されている場です。わたしたちの導かれる人生の目標でもあります。

 主イエス・キリストによって保証され、守られ、確保されている世界観であり場に向かって人生を導く神が、年齢を重ね高齢を迎えた一人ひとりに語りかけているのです。それは、さらに言えば『主われを愛す』の3番の歌詞と共鳴するものです。「みくにの門を ひらきてわれを招きたまえり、いさみて昇らん。」。この道が人生を導く主イエス・キリストによって歳を重ねて高齢者とされている、お一人おひとりに備えられていることを信じ、ご一緒に祈りつつ歩みましょう。

2022年11月27日 (日)

イザヤ書 9章1~6節 「闇の中の光」

 イザヤの時代に、彼が「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と語ったのは、戦争や紛争など危機的で何の希望も見いだせない絶望的な状況の中に輝く「大いなる光」を語らずにはおれなかったのです。武力を中心にした国と国との敵対も同盟も、その闇に満ちたものであるからです。これらを照らし出し、世界へと神にあって進んでいけると信じたためです。上っ面だけの信仰ではなくて、高ぶるものがなく、「悪を善と言い、善を悪と言う者」「闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする」このようなこととおさらばしていけるのだと信じたのです。

 このイザヤの預言が主イエス・キリストの登場によって決定的な転回点となるのです。闇の中で待ち続けた「光り」がとうとう出現したのです。しかし、わたしたちの時代にあっても、世界は、各地で戦争や紛争があり、飢餓や旱魃があり、平和に生き安心して暮らし、十分に食べられない状況が広がりつつあります。暴力的な死の現実が突き付けられつつ、今日のいのちを確保することさえままならない状況にある人たちが少なくありません。「平和」には、程遠い世界です。それでも、イザヤの時代と違うのは、すでに光は与えられた希望の中にわたしたちは生きているのです。主イエスによって、「平和」のあるべき姿が示されたからです。闇の中に輝く光が目指すべき道を照らしてくれるのです。

 歴史には始めがあれば終わりもあることを確認しておきたいと思います。天地創造神話によれば、この天地は神が創られたと証言されています。そして、いつになるのか分かりませんが、いつの日にか終わりを迎えることでしょう。キリスト教会では、この終わりの日に、主イエスが再び来られることを信じています。この時には、新しい天と新しい地がやって来るというのです。完全無欠の平和の到来です。いつなのかは分かりません。それでも、確実にやって来るのです。この来臨の主イエスを待つこととクリスマスを待つアドベントとは、どこか似ています。やがて来られる来臨主イエスとクリスマスの主イエスとは同じ方だからです。来臨の主イエスを待つ態度は、「目を覚ましていなさい」と。主イエスがしばしば語られたように、この世にあってどのような責任的な生き方、そのいのちを選ぶのかが問われます。同時にクリスマスの主イエスを待つこととは、今わたしたちがどのような世に生きており、どのような使命が与えられているのかもとわれているのです。

2021年11月14日 (日)

イザヤ書 11章6~10節 「神さまの願い」

 ~子ども祝福礼拝~

 イザヤ書は「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語ります。肉食動物が草食動物を襲って食べるようなことはしないで一緒にいられて平和な状況にあることが書かれています。ここで肉を食べる動物は、強くて威張っている人々の喩えになっています。誰か強い者がいて弱い者がいる、誰か弱い者がいて強い者がいる、という世界ではなく、神によって<いのち>与えられているもの全てが同じ地平に立っている、という世界です。そして、そういう世界を導くのは小さな子どもだ、というのです。おとなたちは、強い人はより強く、弱い人はより弱く、という世界に慣れてしまっています。でも、子どもは、小さければ小さいほど、強さも弱さも関係なく、自分を助けてくれる人を信頼して生きています。それが神の心に適った生き方です。おとなたちよ!子どもを見習いなさい、というわけです。

 「ぱぎやん」という人の「グーチョキパーのうた」という歌があります。「グーより強いのはパー、パーより強いのはチョキ、チョキより強いのはグー」と歌います。続けて今度は、「グーより弱いのはチョキ、チョキより弱いのはパー、パーより弱いのはグー」そして「みんな強くてみんな弱い…」と続きます。わたしたち一人ひとりみんなは、それぞれ「グーチョキパー」なのだというのです。みんな強くてみんな弱いというのは、強い人がずっと強いままだったり、弱い人が弱いままだったりするのはおかしい、その場その場で強くなったり弱くなったり違うのだし違っていいというのです。みんな一人一人が違う人なのだから、この違うという当たり前を受け入れるところから始めていこうという呼びかけを感じます。じゃんけんで勝つこともあれば負けることもあるけれど、全体から見ればOKだし大丈夫。一人ひとりがそれぞれ、イエスさまによって喜ばれ祝福されているのです。

 預言者イザヤの語る世界観と「グーチョキパーのうた」は同じ方向を向いています。わたしたちの心もみんながグーチョキパーだと分かってきたら、もうすでに「平和」を求める神の子どもになっているのかもしれません。そんな子どもになっていくことが神の願いなのだと思うのです。

 そしてさらには、おとなたちが子どもの言葉に耳を傾けつつ導かれ、子どもが神の願う平和への道をおとなに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができるのではないでしょうか。そのような思いへと子どももおとなも神の子どもとして招かれ、この生き方を主イエスが教えてくださっているのではないでしょうか。

2019年11月10日 (日)

イザヤ11:6「明日を生きる神の子どもたち」

~子ども祝福礼拝として~
 イザヤが活動したのは、主イエスの時代よりも700年以上前のことです。当時は、ユダヤ人の国は、北の王国のイスラエルと南の王国のユダという二つになっていました。イザヤは南王国のユダで活動していました。
 イザヤは、その時の王が神から見たら間違っていることをしていると告げました。そして、希望は、子どもに託されているというのでした。それが今日の聖書です。獰猛な狼と小羊、豹と子山羊が、そして子牛と子ライオンたちが仲良く暮らせる世界を夢見ていて、「小さい子供がそれらを導く」というのです。ここにあるのは「平和」のイメージです。「平和」のイメージは「神は我々と共におられる」(イザヤ書を11章まで読んでいく中で捉えられます)ことだと言えそうです。
 今日の聖書の言葉には、戦争に加わってはいけないというイザヤの心が現れています。イザヤが仕えていた南王国ユダの王のアハズは、ダマスクスの王と北の王国イスラエルの王からアッシリアに対して一緒に戦争しようと誘われたのですが断ります。そうしたら、それらの国から攻撃されてしまったのです。そこで、南王国ユダのアハズ王は、アッシリアに、これらの国が、あなたの国に対して戦争を仕掛けてきますよと教えて、アッシリアに助けてもらったのです。しかし、イザヤは、一緒に戦争に参加することも、戦争から助かるために大きな国に助けを求めることも間違っていて、いずれも大きな戦争になってたくさんの人が死んでしまうし、傷ついてしまうからやめなさいと言ったのです。このような事情の中で、イザヤは夢見る力によって子どもに「平和」への希望をつなごうとしたのです。
 おとなたちが子どもの言葉に耳を傾け、子どもたちが夢見る平和への道をおとなたちに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができます。そのような思いへと招かれていくことが大切だと思うのです。神が、主イエスとして一緒にいてくれる感じ・その心は、イザヤ書の語る「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。」ところにあります。この生き方を主イエスは、その生き方を通して教えてくださいました。
 マタイによる福音書5章9節には、次のような言葉があります。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と。イザヤが預言し、主イエスとして現れた神の思いは、ここにあります。少しでも「平和」への思いを寄せていくところにはすでに、子どももおとなも一緒に「明日を生きる神の子どもたち」として招かれてしまっているのです。この主イエスの願いを受け止めながら、子どもたちの祝福を願う教会として歩んでいきましょう。(加納眞士 作『もしも8歳のこどもが大統領に選ばれたら』を参考に)

2018年3月18日 (日)

イザヤ書 53章1~12節 「苦難を受ける者」

 最初の弟子たちにとって、イエスの死は、希望が失われて真っ暗闇のどん底に叩き落される経験だったことでしょう。あのイエスの死というのは全くの無駄死にだったのだろうか、と。イエスの十字架の死に対してなぜだという謎の中に陥ったはずです。
 しかし、イザヤ書53章を読むことにより、イエスの十字架は、ただ単に神に呪われ反逆者として殺されていった悲惨な処刑なのではなく、実は新しい<いのち>を照らし出し、新しい生き方への招きの喜ばしいおとずれであったとの気づきがやってきたのです。
 浅野順一は「主の僕」について以下のように規定しています。
【・主の僕とはイスラエルでありヤコブである。イスラエル国民全体を人格化したもの。・一人の人という象徴でもって同胞のために悩み苦しみ、自ら罪がないにもかかわらず他の苦難を負うところの一個の殉教者である。・代苦者。・理想的な少数者であって光の死者としての任務を苦難を通して果たす。・弱った民を励ますためにすべてを投げうってでも行う者である。】
 一人の人によって贖われる、その贖い主こそが十字架上の主イエス・キリストであった。あの苦難を受ける者、あの人によって我々は癒されたという経験をしたのです。イザヤ書53章の一つひとつの言葉がイエス・キリストを示していると読んだのです。それが頭で理解できるということではなくて、神の促しのもとで謎だったことが解き明かされて腑に落ちる、世界が一挙に別の明るさに包まれてしまう、そういう経験をしたのでしょう。
 「…彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」
 イザヤ書53章がアーメンとして理解されることで当初のキリスト者たちは復活のキリストに気づかされたのです。この遜りの苦難を受ける僕の姿の中に教会の道が示されている。この方によってのみ、わたしたちは新しい<いのち>に与ることが赦されているのです。この事実に向かって正されていくことに希望をつないでいくことができるのです。

2017年10月29日 (日)

イザヤ書 57章19節 「カンボジアの子どもたちを覚えて」

      ~子どもとおとなの合同礼拝~(キリスト教教育週間)
 40年程前、カンボジアの指導者だったポル・ポトは、自分に従わない人を大勢殺したり、迫害しました。20年続いた圧政の影響で、教育の行きわたらない地域がまだたくさんあります。
 ポル・ポト政権に批判的だったのは、自分でものを考えることができる人たちです。国のあり方が間違っていると考えることができた人たちです。
 勉強で大切なのは自分で問いを立てて考えて答えを見つけていくことです。良い問いを見つけることが大切なのです。身近なことから世界のことなどに対して問いを立てて考えていくこと。この大切さをなくしていくと政治家や金持ちや権力者に都合のよい国が作られてしまいます。本当にこれでいいのだろうかという問いを立てて考えることは、よりよく生きていくために必要なことです。それは次の世代を担う子どもたちに対するおとなたちの期待でもあります。そして、おとなの責任です。そのために教育が保証されなくてはならないのです。今日はとりわけカンボジアの子どもが、よりよく生きるために必要な教育が与えられるよう祈りたいと思います。
 今日の聖書「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」は、紀元前537年以後に書かれました。その頃、戦争によって滅ぼされた南王国ユダの王や指導者層や特別な技術を持った職人などがバビロニアに連れていかれていたのですが、ペルシャがバビロニアを滅ぼしたためユダに戻ることができました。そこで戻ったユダの人たちに向けられた言葉として語られています。指導者たちと指導者なしで残されていた人々がもう一度一緒になったのです。教育がない状態というのは、良い指導者のいない状態と似ているかもしれません。
 神の言葉を伝える今日の聖書は、希望のないところでも神の平和と癒しが届けられるのだという約束を語っているのです。カンボジアでも日本でも、子どもたちには教育によって平和を実現する神の子どもとして生きていくことができるとの約束に一緒に与ることができるはずだというのです。そのような関係が作られていくことによって、毎日をワクワクドキドキしながら生きていく神さまの子どもだ、だから喜んでいなさいと語りかけられているのです。

2016年11月13日 (日)

イザヤ書 11章6節 「導くのは子ども」

~子ども祝福礼拝~

 「おとなしい」という言葉は、元々は「おとな」から来ていて、「おとならしい」ということのようです。態度などが穏やかで、騒いだりしない静かな感じでしょうか?「おとなしい」の反対の言葉は、「こどもしい」となるのですが、ほとんど使われません。今日は、「こどもしい」について一緒に考えたいと思います。それは、イエスの望んでいる人間のあり方とも関係があるからです。「こどもしい」という言葉があるなら、その意味は、「荒い」とか「荒々しい」です。今日は、いい意味で使います。「こどもしい」をイメージしやすいように、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』という絵本を手掛かりにして、考えてみたいと思います。
 マックスという子どもが、狼の着ぐるみを着て大暴れして遊んでいると、お母さんに夕飯抜きで自室に追いやられてしまいます。さらに暴れていると、いつの間にか部屋は森になり海になり、舟で旅して「かいじゅうたちのいるところ」へ。
 マックスには「荒々しさ」が隠されています。その荒々しさは、狼の着ぐるみに表わされています。狼の恰好をしたら、中身も狼のようになってしまった、マックスの中の狼のような部分が出てきたと言ってもいいかもしれません。「かいじゅうたちのいるところ」に着いたマックスは、怖くて乱暴な怪獣たちを飼いならすようにして王様になり、一緒に踊って遊びます。怪獣の乱暴さを子どもの心で静かにさせるのです。そして、最後、温かい夕食のある自分の部屋に戻ってきます。
 この物語は、マックスの成長物語と読めます。狼の着ぐるみによって怪獣の世界に近づき、そこで子どもらしい「荒々しさ」を発散することによって、安らかな心へと向かう道を示している、と。「荒々しさ」とうまく向き合い、心の中で自由にすることによって、「荒々しさ」という簡単にはコントロールできない乱暴な力が、平和へと向かうたくましさに変えられるのです。心を開いて生きる道を示しているのです。
 平和ということは、難しいのですが、まずは自分の心との付き合い方から始めることが必要なのだということでしょう。
 今日の聖書では、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語られています。狼、豹、若獅子(子ライオン)という獰猛な動物と子羊、子山羊、子牛という弱い動物との共存できる世界を導くのが小さい子供だというイメージは、マックスが、怪獣たちと一緒に踊ることを通して、荒々しさから安らかさへと転じていく過程と重なります。
 そして、この聖書で語られている小さな子どもの姿は、子どもを祝福するイエスの姿と対になり、誕生物語の言葉をも思い出させるものです。【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(マタイ1:23)。このように「導くのは子ども」というテーマが展開されているのです。

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