フィリピの信徒への手紙 3章12節 「この世を旅する教会として」
キリスト教の業界では、単純素朴に、何の疑いもなく信じることこそが純粋で曇りのない信仰だと考えられがちです。しかし、信仰に対して、心の中あるいは頭の中にクエスチョンマークをどこかにもっていないと冷静な判断力を失って、激しく信じ込むことへと堕落してしまいます。ただ残念なことに宗教に限らず、このような状態が慢性化しているのが現代の特徴のようにも思われます。ですから、このような傾向の宗教が幅を利かせていても不思議はないのかもしれません。
さて、パウロは自分がキリストに対する信仰を完全に得ていると考えてはいないことを確認しておきたいのです。確かに、主イエス・キリストの十字架についての信仰理解についてパウロには、彼なりの確信はあったはずです。でなければ、あれだけの伝道旅行をし、諸教会へと手紙を書き送り、教会形成に励む力など湧き上がるはずもありません。しかし、パウロには確信という事柄において節度が保たれていたことをも確認しておきたいのです。この節度をもっているかどうかが信仰において重要な試金石となっているのです。
パウロは、自らの信仰において決して救われ切ってしまってはいなかったのです。完全な救いを手に入れる手前のところで踏ん張らざるを得なかったのです。フィリピの信徒への手紙3章10節と11節では次のように述べています。すなわち、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」。自らがもうすでに復活してしまった状態を獲得して完成されているとは考えていないのです。11節にあるとおり「何とかして死者の中からの復活に達したい」という、「道の途中にある信仰理解」なのです。だからこそ3章12節に立たざるを得ないのです「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。
主イエスに捕らえられてしまっていることを根拠にしているからこそ、「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」とあり、続けて「何とかして捕らえようと努めている」と言うのです。この信仰における「努め」の内容を神学と呼んでいいのだと思います。この「何とかして捕らえようと努めているのです」には、すべてを手にした確信とは別の価値判断があります。確信を疑う態度であり、能力であり、謙虚さです。このパウロの信仰における謙虚さに学びたいと願っています。そして、これを踏まえて礼拝後の定期総会に臨みたいのです。


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