創世記

2023年5月 7日 (日)

創世記 1章31節 「未来の子どもの家のために」

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」ここから神の思いは、混乱や混沌から秩序に向かって呼びかける創造の言葉だと知らされるのです。「良い」という言葉には「美しい」という意味があると言われます。神の言葉による創造の業の結果は美しいのだというのです。

 しかし、「この世界の一体どこが美しいというのだ?」そう考えるのが現実に暮らしいている人の正直な実感であろうと思います。身近なところから世界規模に至るまで、「美しくない」現実を突きつけられる毎日です。この国の社会の細かなところから、紛争や搾取の絶えない広い世界も腐りきって、破滅寸前だと感じることも少なくないでしょう。

 しかし、だからこそ「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」との言葉を、今のこととして受け止めたいと願うのです。この言葉に込められている「本当」に触れたいとも願うのです。自由のない窮屈な社会の中で、人間らしさが失われつつある今だからこそです。わたしたち自身をも含めた世界は「良い」ものであり、「美しい」という神の言葉に絶えず立ち返って神の言葉に与りたいと切に願います。混乱や混沌の力、あるいは虚無という勢力や様々な悪に取り囲まれているのが、実際のこの世界です。この世の流れは、より混沌と混乱と虚無へと誘うことをやめないかもしれません。だからこそ、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」との言葉の「本当」に与かり、そこに固く立ち、そこから歩み出す者とされたいのです。

 世界の一人ひとりすべてが、神の慈しむ作品なのだとの信仰に立ち返ることから、新しく生き直す道へと招かれていることに感謝をもって祈るものとされたい、そう願います。「良い」「美しい」と全面的に神の言葉によって肯定されているのですから、知恵や希望が引き起こされて行くに違いないと信じることはできるはずです。混沌と破壊、絶望という暴風の満ちているところに向かって、今も神は働き続けており、創造の業は続いているに違いないのですから。世界の一人ひとりすべてが、神の愛する慈しむ神の作品なのだとの信仰によって、新しく生き直す道へと招かれているのです。

2023年3月 5日 (日)

創世記 2章18~25節 「助け手」

 2章21節以下によれば「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」とあります。ここでは「パートナー」「助け手」との関係を基本に据えることの重要性を語っているのです。そして、お互いは、このあり方において祝福されており、響き合う存在へと招かれているということです。「あなた」と呼ぶべき存在が神から与えられたのです。

 しかし、この対の関係を、神から備えられたものとして基本に据えながらも、人間はこの祝福を拒み、裏切ってしまう存在でもあることが、続く誘惑物語などからうかがい知ることができます。この対である祝福の「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という関係は永遠不滅ではなく、破れてしまうこともある。「パートナー」「助け手」をありのままに尊重する態度から外れてしまうことがあるのです。根源的には祝福されている対が、実際の生活レベルでは呪いとなり得るのです。

 この呪いの状況を祝福へと取り戻すのはイエス・キリストであると教会は信じています。イエス・キリストのゆえに、罪にまみれた呪いの現実が祝福の今へと転じていく途上にあるのだとの宣言として、今日の聖書に聴きたいと思います。「人が独りでいるのは良くない」からこそ、神は「パートナー」である「助け手」を相応しく用意してくださっているのではないでしょうか。死別や悩ましい決別の経験にあっても、祝福の現実は閉ざされてはいかず、希望へと開かれていることを確認することができるのではないでしょうか。「パートナー」である「助け手」のあり方は、「夫婦」という関係だけではなくて、もっと広がりゆくものとして捉えて良いと思います。仕事上のパートナー、あるいは親友。親子関係も保護し保護されるという枠組みだけでなく、対等な「助け手」として相手を受け入れることが求められていると思います。

 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」との言葉をシンプルに受け止めたいと思います。「あなたとわたし」という対の関係を喜び合う存在へと造られたものであることに中心的なメッセージがあります。わたしたちは人間としての破れに満ちているために、「完全」であるとか「無垢」であるというところからはかけ離れた存在です。しかし、それでも対の人間の創造において神の祝福の確かさは揺らぐことはないのです。そのために主イエス・キリストの導きのもとで、この対の関係をこれからも育み続けていくことのできる希望が与えられていることを信じることができるのです。

 

2023年2月19日 (日)

創世記 1章26~31節 「人の役割」

 この大地も自然も人間を含むあらゆるいのちある生き物は神によって造られたのだと聖書は語りかけています。必ずしも創世記の創造物語は歴史的に証明される仕方で読む必要はありません。重要なのは、石ころも含めいのちあるものはすべて、神によって造られたのだということです。人間の力によってではなく、です。この造られたものであるという現実に対して謙虚さをもって受け止め直すことが現代社会にとって必要なのだと語りかけているのです。

 「支配せよ」の意味を思いのままにできると勘違いしているかのような思い上がりから、人間は自由になれないでいます。この現実は近代から現代に至る中で急速に加速し、地球の温暖化により気象のバランスが崩れ、砂漠化や山火事あるいは大洪水などがのしかかって来ています。そこで、地球の環境の保護が叫ばれるようになってきています。でも、まだまだ人間の意識は地球全体に対して上から目線のように思われます。たとえば、「保護」という言葉と、その感覚です。人間が「保護」できると考え、その能力や技術や知恵があると思い上がっているのではないでしょうか。「保護」という言葉には優位に立場から、より弱い場に対しての優越感から自由でない感覚が付きまといます。ここでは「保護」というよりも「仕える」という感覚の方がよいと思うのです。「仕える」の方が相手に対しての尊敬と、自らを低くし謙虚になる意味合いがあるからです。この意味で「すべて支配せよ」という言葉を理解していくべきです。人間は神によって造られているがゆえの謙虚さに立ち返るということが大切なのです。

 「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」は「熟慮の複数形」と言われます。これは、神と差し向かい、対話的存在であることによってのみ、人間は人間であり得るということかもしれません。神に聴き従う中で、自らの判断が謙虚さにおいて整えられているときに「似姿」として立ち現われるような存在なのだということでしょう。人間は「似姿」ではあるけれども、神と人間との間には決定的に大きな違いと限界が置かれているということです。人間には、神との関係の中で犯してはならない領域があることをわきまえて謙虚さに生き、地上に対する責任性にあるという自覚に留まることが求められているということです。一人ひとりの人間が神と差し向かい、ひとりの人間として謙虚さに基づく責任性において自立していくことから、信仰的な決断と行動において破壊的な「支配」ではなく「仕える」道へと招かれる、このような意味での創造信仰を今日の課題としてご一緒に確認しておきたいのです。

2023年2月12日 (日)

創世記 11章1~9節 「人間の欲望を神は‥」

 バベルの塔の物語は、「一つの民」「一つの言葉」としての価値観を神が退け、言葉の通じない混乱(バラル)へと導かれるという物語です。ここには審きしかないのでしょうか。

 わたしたちは、安易に「一つの民」「一つの言葉」に依り頼んでいれば安心だとか意思が通じ合うとか思いがちですが、それはただ単に合言葉や符牒などの幻想を共有しているにすぎないのです。どこかで本音を隠して相手に合わせるような言葉を選んでしまうことも多いでしょう。「強制的同一化」という側面も忘れてはなりません。自由に生きるためには、自分の言葉を自分の心に正直な仕方で紡ぎ出していくことが必要なのではないでしょうか。かの「聖霊降臨」にあずかった先輩たちが堂々とガリラヤ訛りで語った言葉が聖霊の助けにより通じていった出来事と、バベルの塔の物語は対をなしています。

 この時代も一つのバビロンであるという実感は、技術革新などの急激な発展や発達の中で感じてらっしゃると思います。神のようになりたい、有名になりたい、というバベルの塔の現実は世界中にあふれています。だからこそ、散らされる混乱というバラルを、恵みとしてもう一度与る道が備えられていることを信じることができるのではないでしょうか。

 神によって挫折させられたバベルの塔の物語が神からの恵みの物語として受け止め直されていくならば、より豊かな関係性に基づく世界が、僅かでも、わたしたちに近づいてくることが知らされつつあるのではないでしょうか。確かに、バラルの民であるがゆえに、同じ日本語を使う場合でさえ、わたしたちは言葉の通じなさを感じます。どうしてわかってくれないのか、言葉の使い方が下手なのだろうか、などなど悩みます。悩んでいいのです。通じない言葉、混乱させられているバラルな言葉の世界にあって、それでも聖霊の助けによって支えられていることに信頼していけばいいのです。バベルという「一つの民」「一つの言葉」から、バラルという混乱ではあっても自分が自分になっていく言葉の獲得を選び取っていくことを求めつつ歩んでいきたいのです。この混乱というバラルの方向性にこそ、主イエスにおいて実現した自由への道は用意されているはずだからです。

2023年2月 5日 (日)

創世記 4章1~12節 「きょうだい」

 カインとアベルの物語において投げかけられているのは、社会的・経済的・文化的により豊かとされる側から、より貧しい側に向かって、より強い側からより弱い側に向かって、自然に配慮する姿勢が必要だということです。傲慢にならず、卑屈にならず、守る側も守られる側もお互いを大切にしあうことが求められているということです。

「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」という神からの問いかけは、「弟の番人」「弟の守り手」という自らの立場を自覚していくことへの促しがあるのではないでしょうか。現代においても人類は「地上をさまよい、さすらう者」としての限界の中に置かれており、相も変わらず、様々な仕方での「きょうだい殺し」から自由になることができず、殺戮はやむことがありません。「血が土の中から叫んでいる」現実において呪われているとしか思えないような事態です。カインによるアベル殺害の出来事は決して原初史のエピソードのひとつに留まるものではありえません。人類がアダムとエバの末裔ならば、すべての民は「きょうだい」です。「きょうだい殺し」は現代に至るまで、様々な形を変え、規模の大小はあるけれど、人間の歴史の中で絶えることなく起こり続けているのです。

 解決への道筋はあるのだろうかと恐れや不安などに陥り、希望が見いだせなくなっています。より強力な軍事的な力を増し加えていく道しか世界には残されていないのでしょうか。確かに、即効性のある解決方法は見つからないでしょう。かといって手をこまねいていることも誠実ではないように思われます。カインの末裔であることをわきまえ、その呪いを自ら引き受け、「地上をさまよい、さすらう者」である現実の中で神の意志を受けて歩むことしかないのではないでしょうか。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」という思いの中で、「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」という脅えに囚われてしまっているのでしょう。それでも、神の守りのゆえに祈りによって神から自らのあり方の正しさへと導かれ、「今この時」になすべきこと、すべきでないことを見極める知恵、絶望に陥らない希望、平和を実現する勇気、これら主イエス・キリストからやってくる聖霊の助けから始めていくことしかないのでしょうか。人間という限界のゆえに、絶対的な正しさを得ることは不可能ではあるでしょう。しかし、限界ある人間に対して託された道があると信じることはできるのではないでしょうか。

2023年1月29日 (日)

創世記 3章20~24節「皮の衣といちじくの葉」

 蛇の誘惑によって最初の二人の人間は「善悪を知る」ことを覚えました。しかし人間の得た「知」は、神との対話の中から導き出される、より豊かなものではなくて、人間の自由意志という限界の中での極々限られた理解に過ぎません。人間の知恵の浅さとか狭さという限界を示すものです。「恥ずかしい」という感情を得た彼らが用意したのは、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」でした。これは下着の類ではなくて腰帯、正装として身に着ける誇りあるものだとされます。しかし、人間の側からの誇りある衣装であったとしても、限界のある「善悪を知る」知識や経験に縛られているものですから、滑稽さや浅はかさ、見せかけの威勢のよさを読み取ることができるのではないでしょうか。

 エデンの園での暮らしは「善悪の知識の木から」食べてしまったことによって破られて、その東にあるこの世へと追い払われました。様々な労苦を担いつつ暮らさなくてはならなくなったのです。しかし、この神による追放は、ただ単に切り捨てや見捨てとは決定的に違います。321節には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあるからです。ここで注意しておきたいのが、人間の作り出した「いちじくの葉」と神が用意した「皮の衣」の対比です。人間の薄くて浅い限界のある「善悪を知る」知識を越えて、追い出しにあたって、股間だけを覆う腰帯より優れた、身体全体を覆い守る「皮の衣」が用意されたのです。

 古代から現代に至るまで、自らを頼りとする「いちじくの葉」の腰帯に象徴される歪んだ人間の万能感は、様々な「発展」を遂げています。パソコンやドローン、遺伝子操作、そして原子力、どれもみな生活向上という表面と同時に兵器という裏面をも忘れがちです。現代社会の中にある、身近なところから国際関係に至る地球規模でのあり方が、自らを頼りとする「いちじくの葉」の腰帯に縛り付けられ、そこから身動きが取れなくなっている混迷が今なのではないでしょうか。

 わたしたちがアダムとエバの末裔であることを思い出せと創世記は語りかけています。人間の存在を規定しているのは「皮の衣を作って着せられた」という神の思いに支えられた守りである、という事実を思い起こせと。創世記は、人間の現実を神に照らされる仕方で見極めることを求めています。「いちじくの葉」の腰帯としての自らにより頼み、自らの判断を正しいとする万能感と神の守り導きである配慮としての「皮の衣」。このどちらを選び、歩むのかを今日の聖書はわたしたちに向かって問いかけているのではないでしょうか。

2022年9月18日 (日)

創世記 12章1~9節 「人生という旅」(高齢者の日)

 今日はアブラハムの旅立ちについての記事です。出発の場所はカルデアのウルであったとあります。ここから結果的にはカナンに向かう旅が始まるのですが、この時点で目的地は神によって示されていませんでした。12章1節で「「わたしが示す地」とあるだけで、どこに行けとは言われていないのです。しかし、アブラハムは旅立ちます。中継地点のハランにおいてアブラハムは75歳であったとあります。175歳で生涯を終えるまで、それこそドラマティックな旅が続くのです。100年間にわたる旅の始まりです。もちろん実年齢であったとは考えられませんが、おそらく長寿だったのでしょう。

 今日のアブラハムの旅立ちに示される課題は、75歳と相当な年齢になってから、まだ見知らぬ場所へと新しい旅が神に示されるかぎりにおいて始まるのだという可能性です。どんなに歳を重ねていたとしても、いつだって新しい世界に向かって開かれている現実があるのだとの宣言としても読めるのです。歳をとることを前向きに捉える日野原重明戦線のように、あるいは「老人力」の価値観でもいい。歳を重ねていくことに対しては神からの恵みがともなうという信仰理解に立つことが赦されていると信じることができるのです。

 わたしは人のいのちは人間の持ち物ではないという立場をとります。ですから、いのちを生かすことも殺すことも人間がわがままを貫く仕方で自由にしてはならないものだと考えています。十戒の中の「殺してはならない」という教えの積極性は、神の貸し与えたいのちである以上最大限に尊べという命令であり、「生きよ」という促しであると思うのです。この地上でのわたしたち一人ひとりのいのちは、あくまで神に所属します。主イエスが福音書において、様々な弱りのある人たちに向かって寄り添い、生き直しを促し導いたことは神の願う世界観だったのです。あなたはあなたの道を、わたしはわたしの道を、主イエスにあって相応しく歩んでいけばいい、この寿命が尽きるまで。その道はすでに祝福されてしまっているのだから安心していて大丈夫。この信頼のもとで今のいのちに感謝しながら、ともに祈り合い支え合いながら歩む途上に主イエスの祝福がないはずがない、そう信じているのです。日ごとに「今日はよい一日だった」「生きていてよかった」ということに感謝をもって過ごしていけばいい、と思います。同時に大切なのは他者の旅路を邪魔しないこと。

 最終的な行先・目的地さえも告げられないまま押し出された、年老いたアブラハムの旅立ちには、神によって備えられている道、人生という旅に対する祝福の原型のようなものがあります。神の約束と守りのうちに神の名を呼び求めながら歩むところには、平安があるのです。

2022年7月31日 (日)

創世記 1章31節 「いのち」

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とは、神によって創り出されたとしか言いようのない事態を示します。この、いのちの事態そのものが奇跡としか言いようのない現実として日ごとにあるということです。このいのちにおいて一人ひとりの人間は全く平等なのです。どんなに「極悪人」とされていても、そのいのちにおいては誰彼が制限を与えたり、奪ったりすることは赦されてはいないのです。「極めて良」い事態を創り出したのは人間ではなく、あくまで神なのです。この神の側からの創造と、その結果に対する、あらゆるいのちの全面的無条件の肯定を事実として受け止めることから始めるべきなのではないでしょうか。

 わたしたちは、わたしたちのいのち、寿命をどうすることもできません。わたしたちにできることは、この貸し与えられているいのちを感謝のもとで受け止める生き方を前進させていくことです。このことはただ単に、わたしという一人の人間の心の中という内面性に閉じこもることではありません。いのちにおいては、貧富の差や能力の差、善人であるとか悪人であるとかが問われないということです。このいのちは、神が貸し与えてから取り去られるまでの間という、いわば「寿命」が尽きるまで精一杯生き抜くところに意義があります。時として、生きている意味が分からなくなることもあるでしょうし、迷いが生じることも少なくないかもしれません。しかし、神の意志によってわたしたちの命が今、ここにあることには神の側から意義や意味が与えられていると信じることはできるのです。

 ただ神だけが知る時に至るまで、わたしたちはこの世において貸し与えられたいのちに与っています。このことは、わたしに貸し与えられたいのちに生きることとは、誰かと共に生き、お互いのいのちを認め合い、喜び合うことと別のことではありません。ですから、この世における愛する者、親しい者のいのちが神のもとへ帰る時には、残された一人ひとりは言いようのない悲嘆や悲しみに襲われるのです。わたしたちのいのちは、創造者である神によってそれぞれ貸し与えられているだけではなくて、結ばれていくことも願われているのです。やがてわたしもこの世から神のもとに帰る日が来ることは確かなのですが、その時に至るまでの主イエス・キリストの神の支えにあって、お互いのいのちを喜び合う歩みを続けたいと願っています。

2021年11月 7日 (日)

創世記 2章4後半~7節 「人のいのちは神から」~永眠者記念

 わたしたちは、それぞれ愛する人・親しい人をイエス・キリストの神のもとにお届けしました。お一人おひとりを覚えつつ、この世の死後のいのちを慈しみ守り抜く神に対する信頼をご一緒に新たにしたいと願っています。 今日は、わたしたち今生かされていることから故人を思い出しながら、いのちについて考えたいと思っています。そのために、旧約聖書の最初にある創世記の人が神によって造られたという神話を読みました。これは神話であり、現代人からすれば荒唐無稽な物語と受け止められえても無理はないと、わたしも思います。しかし、神話という表現でなければ描けない<本当>があるはずだとの前提でお話しします。

 簡単にテキストをおさらいしてみます。創世記1章から2章の初めの部分で神が天地を六日で創造され七日目に休まれたとあります。創られた世界は「見よ、極めて良かった」とされます。神が良きものと判断されたのです。人の創造も良きことの文脈として理解することができます。7節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。新共同訳によれば括弧書きで土と人とが、それぞれアダマとアダムと書かれています。要するに土も人も本質において大して変わらないものであることの表明となっています。人が人であるのは、その土の塊に神の息が吹き入れられてはじめて<いのち>あるものとされるのであって、神によらなければ、人は土の塊のままであるような存在なのだというのです。

 神の息によってのみ人は生きるものとされたという信仰は、現代人が<いのち>を思いのままに扱ってもいいという思い上がりに対して警告を与えるものです。人は、<いのち>を自らの知恵や知識、また技術によって創り出すことはできないのだし、してはならない神の領域に属するのだと考えるべきです。

 人の<いのち>とは自分の持ち物では決してあり得ないと、わたしは思います。この世の<いのち>も、やがてわたしたちが向かう神の国での<いのち>にしても、神のものだと信じているからです。わたしたちの<いのち>は神から預かった借りものとしての尊さのあるものだと考えるのです。旧約聖書の中での非常に重要な教えに十戒というものがあります。この中に「あなたは殺してはならない」という言葉があります。人が人を殺してはいけないのは、どのような理由があったとしても、そもそも<いのち>は神のものだということです。

 わたしたちは今この世の<いのち>に与っており、永眠者を記念することで、神の国に招かれ守られている故人の<いのち>とのつながりを神のもとで確認しています。神の国での故人お一人おひとりの具体的な今については知ることができません。ただ、神のもとで安らかであると信じることができるだけです。神は、この世の<いのち>も、死後の<いのち>も良きこととして尊ばれる方であると教会は信じてきました。プロテスタント教会は宗教改革の歴史の中で、自分たちはこのように信じているのだとの文章を数多く残しています。その一つにハイデルベルク信仰問答というものがあります。1563年にドイツの町ハイデルベルクにおいて作成された、問とその模範解答です。この中から問Ⅰとその答を読んでみます。次のようにあります。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 このような信仰のあり方はバルメン宣言にも継承されています。バルメン宣言とは、1934年5月29-30日の会議で制定されたもので、正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」です。これはナチス・ドイツに対して抵抗するものとして成立していますが、今日のわたしたちにとっても意義ある言葉だと思うのです。第1項から引用します。

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 この世における生も死もイエス・キリストの神のものであると信じ認めることは、<いのち>に対する謙虚さと尊敬へと導くものです。さらには、信じる者が、この世における責任的な生き方を選び取ることをも感謝と共に要求します。わたしたちは、あくまで神の前においては被造物・創られた存在にすぎないのです。この点に関して思い上がるときに道を逸れ、的を外ししてしまうのです。「罪」という言葉があります。罪とは、何か悪いことをしてしまうことという枠には収まりません。まずは神との関係において的を外してしまうことです。人が、この世において死を迎える理由を創世記2317節から19節で説明しています。

神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。

 食べてはならないと禁じられた実を蛇の誘惑のゆえに食べてしまったことから、エデンの園を追い出されていく。ここから人の死が決定されたというのです。これを決定的な罪の一つとして聖書は理解しています。神によって良きものとして息を吹き入れられたものでありながら、神からの忠告を聞かず、自分たちの思い上がりに敗北した結果とされます。人が土の塵などではなくて、もっと優れた何者かであること、そうなりたいという願望が罪だと断罪されているのです。この、神が息を吹き入れて生きるものにしなければ人は<いのち>あるものではない、という事実に対する謙虚さを忘れたのが現代ではなくて、人の創造物語の続きとして描かれていることに注意しておきたいものです。人は、自由意志が与えられているがゆえに、思い上がりや傲慢さを抱くことができてしまうのです。

 このように、生から死へ向かう<いのち>というところに留まり続けているのであれば、わたしたちは故人のことを思い出し、追悼し、悲しみの場に立ちつくすことに終わりはありません。しかし、思い出し、追悼、悲しみの質は、今やイエス・キリストによって方向が転換されている。ここにキリスト教の理解による慰めがあります。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙5章19節で次のように述べています。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 このパウロの言葉の文脈は、最初の人によってもたらされた罪の事態が、一人のイエス・キリストによって正されて<いのち>に至る道が開かれたことを示しています。

 通常、わたしたちの常識的な<いのち>の理解は、生から死という方向です。ところが、イエス・キリストを信じる信仰からすれば、死から<いのち>への方向性も開かれているというのです。この世における死の出来事は、わたしたちを恐れさせ、不安にさせます。しかし、この世における死の出来事は、終わりではなくて、この世に残された人たちとの<いのち>を結ぶ力でもあります。ですから、わたしたちは今、この世から去ったお一人おひとりを思い起こすときに、悲しみや嘆きを素直に語り合うことができるし、このことは守られているのです。イエス・キリストが死人の中からよみがえった事実は、死から<いのち>の方向を力強く支えるのです。

 ですから、わたしたちは主イエス・キリストの慰めのゆえに、神の国で守られているお一人おひとりを思い起こすことが許されているのだし、関係は生き続けるのです。よみがえりの主イエス・キリストは、この世にあるお一人おひとりと神の国にあるお一人おひとりとのすべての関係を執成し続けてくださるのです。このことを信じさえすればいいのです。主イエス・キリストは、わたしたちの誰よりも悲しみ嘆きを知り抜かれている方です。神の国の側のお一人おひとりとの関係を放り出すことは決してなさらないのです。神の<いのち>の息は、この世においても神の国においても爽やかであり力強く吹きかけられていることを信じたいと思います。吹き入れた<いのち>の息に神の思いが満たされていることをご一緒に確認するひと時であったことを感謝します。

 神のもとに招かれたお一人おひとりは、誰彼と交換することが不可能な大切なかけがえのない<いのち>です。そのお一人おひとりに対する、わたしたちの慈しみと愛は、この世にある責任において安心のもとで赦されているものです。もしかしたら、忘れてしまいたいと思うような、負の関係性にあった人の死、という経験もあるかもしれません。しかし、その思いも含め、神は丸ごと受け止めて赦してくださるのです。思い出すこと、そして思い出さないこと、懐かしむこと、追悼すること、どれもみな、わたしたちに与えられた故人とのつながりです。かつて一緒に生きていた<いのち>とわたしたちの間を、主イエス・キリストが取り結んでくださっているがゆえに、故人お一人おひとりに対する正直さと謙虚さを持ち続けることができるのです。先ほどのハイデルベルク信仰問答の1にあるように慰めは主イエス・キリストにのみあるのです。生と死をも司る、この主イエス・キリストに委ねて歩んでいきましょう。

 ご一緒に祈りましょう。

【祈り】

すべての<いのち>の源であり、司り続けているところの主なる神!

この永眠者記念礼拝が主イエス・キリストの守りのうちにあることを信じ、感謝します。

この世の<いのち>も神のもとでの<いのち>も神のものです。

ご遺族お一人おひとりに主イエス・キリストの慰めが豊かでありますように。

関係性を育て続けてくださいますようにお願いします。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

2020年5月 3日 (日)

創世記1章3節 「根源としての光」

 創世記1:1-2:4aは、いわゆる「天地創造神話」となっています。この記事が史実であると信じなければならないという立場を、少なくともわたしは取りません。しかし、神による「天地創造」自体を否定するわけではありません。「天」と呼ばれる人間の理解を超えた世界も「地」と呼ばれるわたしたちの暮らす世界のいずれも、神による被造物であることは信じています。というか、むしろ「天地創造」の物語それ自体を信じるよりも、創造者である神を信じることの方が大切なのだという立場です。すなわち、「天」であれ「地」であれ被造物なのであり、その限界が置かれているのだということです。とりわけ、「地」にあるわたしたちはとことん被造物であることに対して謙虚であるべきだと考えます。この謙虚さを維持することは、傲慢な人間にとってなかなか難しいことだと言えます。続く物語では、アダムとエバが禁断の実を食べてしまう動機が、蛇の言葉に表されています。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(1:3b‐5)とあり、「神のように」なりたいという願望から自由ではないのです。また、11章の初めの「バベルの塔」建設の動機も「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(11:4)とあるように「天まで届く」力の誇示としての傲慢さがあるのです。

 この「天地創造神話」は、常識的な人からすれば荒唐無稽で笑い飛ばすほどの物語であるかもしれません。また、古代人もどこまで本気で信じていたのかも分かりません。しかし、「神話」という形式でなければ伝えられない「本当の本当」があるのではないかと思うのです。人間は、確かに知的でありますが、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)と命じられたことにおいて他の被造物に対して何をしてもいいのだという「支配」の権威が与えられているのでしょうか。否、あくまで人間もまた被造物であるのですから、他の被造物を侵さずに、保護し、共存する仕方で「仕える」謙虚さが求められているのではないでしょうか。

 さて、神は六日間で世界を創造し、七日目に休まれた、とあります。神は、神として自己完結することも可能であり、「天地創造」をしない自由ももちろんあったわけです。しかし、神は創造された。ただ、恵みの業として行われたのです。そしてすべてをご覧になって「良し」とされました。この究極の肯定、大いなる恵みから、世界は始まっているのです。

 神の第一声は、「光あれ」という言葉でした。この天地創造の光とは何だったのでしょうか。第4日目には次のようにあります。【神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。】(1:1419)。ここでは、太陽や月や星が創造されています。そうすると、3節で「光あれ」との言葉で呼びかけることによってたらされた「光」とは何を指しているのでしょうか。岩波版の創世記を月本昭男が訳していますが、註で「光は生命と秩序と救いの根源の象徴」とあります。すなわち、神の意志の表れとしての生命の基本、秩序の基本だというのでしょう。いわば、最初に創造されたのは不可視的な「根源としての光」だというのです。

 何故、創世記は「根源としての光」を「天地創造物語」で最初に描かなくてはならなかったのでしょうか。この背景には、「バビロン捕囚」というイスラエルの歴史における困難な事態があります。そこでまず、大雑把にイスラエル王国について説明しておきます。紀元前1000年ごろにイスラエル統一王国がダビデ・ソロモンによって繁栄します。しかしソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国に分裂します。その後、北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民族混交政策が取られます。残った南王国ユダは新バビロニア帝国により紀元前587年に滅ぼされ、上流階級の人や祭司、また腕の立つ職人などはバビロンに連行されました。国の再建をさせないためにです。古代における戦争は国と国との戦いだけではなく、それぞれ背後にいる神の闘いでもあるわけです。すなわち、国の滅亡とは、自分たちの神の敗北なのです。したがって、バビロン捕囚は自分たちの神が負けたゆえの出来事であるとさえ言えるのです。その嘆きは次のようでした。【バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。】(詩37:14)。

 当初は祖国復帰を願っていたのでしょうが、この事態が60年続く中で世代交代されつつ、バビロニアに同化していく向きもあったようです。しかし、この困難な状況の中でイスラエルの民族性・宗教性を保持し、整え、純化していく運動もありました。その人々が、この「天地」は神による創造だとの信仰、つまりあらゆる事象は被造物であるという認識に至るようになりました。バビロン捕囚のただ中、その闇の時代の中にあって、神の敗北は自分たちの罪のゆえであると自覚したのです。そして「根源としての光」を再認識し、歌い上げたのが「天地創造物語」の「光あれ」という言葉の出来事だったのです。

 キリスト教会は、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、先在のキリストとして再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:15a)。

 この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」である世界は混沌として絶望に満ち、希望のかけらさえ完全に失われているように見えるかもしれない。しかし、それでもこの世界は神の言葉の呼び出しによって創られたのだから神の想いに立ち返れ、との促しがあるのです。その立ち返りを促す言葉が、「光あれ」なのだと。この世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。

「光あれ」という言葉のもたらす現実をパウロは語ります。【こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。…‥】(Ⅱコリント4:1以下)。

 このパウロの指摘する現実を、わたしたちの時代においても十字架のイエス・キリストの力として受けとめることができるのではないでしょうか。

 現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。なぜなら、今日もイエス・キリストは揺らぐことなく働き続けておられるからです。「光あれ」という言葉の成就であるイエス・キリストによって包まれており、「土の器」としての限界と責任性をもって歩むことが赦されているのです。根源としての光の前で、わたしたちは被造物である事実に対する謙虚さを学び直すときなのではないでしょうか。人が万能感に酔いしれて来た近代から現代に至る歴史を冷静に省みることはできないものでしょうか。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)、この言葉における「支配」を人間は誤解してきたのではないでしょうか。人間は、他の被造物に対して全能でも万能でもないのです。これは核や遺伝子をいじることへの警告に留まりません。アダムとエバが誘惑に陥った事態、またバベルの塔の建設への欲望は、終わってしまった過去などではないのです。今というこの時の課題です。被造物としての自覚をもちつつ、「光あれ」という大いなる神の恵みを生きていくこと、それがわたしたちに示された道ではないでしょうか。人間は、あくまで被造物であることを直視することから絶えず謙虚さに引戻されなければ、道を踏み外してしまうのです。

 主イエス・キリストは「光あれ」が人となった姿そのものです。その方から示される、まことに立ち返ることを願い、また祈ります。そして、主イエス・キリストが先在であり光であるという理解から、わたしたちは被造物であるという限界における責任性において歩んでいけばいいのです。「根源的な光」の祝福と守りのもとで…‥。

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