マタイによる福音書 2章13~23節 「権力者の野望を超えて」
マタイ福音書は、神がどこにおられるのかを、「場所」を通して語ります。ヘロデがいたのは宮殿でした。厚い壁と武力に守られ、命令と支配が行き渡る場所です。しかし、その中心にあったのは安心ではなく、恐れでした。失うことへの不安が、他者を排除し、命を奪う暴力へと変わっていったのです。
それに対して、幼な子イエスがおられた場所は、飼い葉桶であり、逃亡の道であり、異国の地でした。決して安全な場所ではありません。しかし、そこには神の導きがありました。マタイは、神が「安全な中心」にではなく、恐れと不安にさらされた周縁の場所に共におられることを示しています。
この流れの中で、マタイが繰り返し用いる場所が「山」です。主イエスは教えの始まりにおいて山に登られ、復活の後も弟子たちを山に招かれました。山は偶然に選ばれた舞台ではありません。宮殿とは正反対の意味をもつ場所として、意図的に選ばれています。
山は、権力の中心ではありません。王の命令が即座に届く場所でもなく、武力によって管理される場所でもありません。恐れによって人を従わせる支配の論理が、完全には及ばない場所です。だからこそ、神の言葉は山で語られます。恐れによる支配の只中では、神の言葉は希望としてではなく、脅威として受け取られてしまうからです。
また、山は、人が「連れて来られる」場所ではありません。宮殿には選ばれた者しか入れませんが、山には誰でも登ることができます。ただし、誰も運んではもらえません。一人ひとりが自分の足で応答して登っていく場所です。ここでは、強制ではなく呼びかけが人を集めます。主イエスが山で語られる言葉は、人を恐れで縛る命令ではなく、新しい生き方への招きでした。
さらに、山に立つと、世界の見え方が変わります。平地では絶対に見えた権力や制度が、相対化されます。宮殿は小さく見え、境界線は曖昧になります。マタイは、主イエスを山に立たせることで、世界を別の角度から見直す視点を与えようとしています。恐れと暴力を当然のものとして受け入れるのではなく、神の国の光の中で、この世界を見直すためです。
この「山」から、教会の姿が浮かび上がります。教会が山であるとは、権力の中心に立つことでも、社会を支配することでもありません。恐れの論理から一歩距離を取り、強制ではなく応答を待ち、神の言葉によって世界を見直す場所として立つことです。教会は恐れを広げる場所ではなく、涙を受け止め、希望を静かに灯す場所として、今日も山に立ち続けるのです。


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