マタイによる福音書

2026年1月 4日 (日)

マタイによる福音書 2章13~23節 「権力者の野望を超えて」

 マタイ福音書は、神がどこにおられるのかを、「場所」を通して語ります。ヘロデがいたのは宮殿でした。厚い壁と武力に守られ、命令と支配が行き渡る場所です。しかし、その中心にあったのは安心ではなく、恐れでした。失うことへの不安が、他者を排除し、命を奪う暴力へと変わっていったのです。

 それに対して、幼な子イエスがおられた場所は、飼い葉桶であり、逃亡の道であり、異国の地でした。決して安全な場所ではありません。しかし、そこには神の導きがありました。マタイは、神が「安全な中心」にではなく、恐れと不安にさらされた周縁の場所に共におられることを示しています。

 この流れの中で、マタイが繰り返し用いる場所が「山」です。主イエスは教えの始まりにおいて山に登られ、復活の後も弟子たちを山に招かれました。山は偶然に選ばれた舞台ではありません。宮殿とは正反対の意味をもつ場所として、意図的に選ばれています。

 山は、権力の中心ではありません。王の命令が即座に届く場所でもなく、武力によって管理される場所でもありません。恐れによって人を従わせる支配の論理が、完全には及ばない場所です。だからこそ、神の言葉は山で語られます。恐れによる支配の只中では、神の言葉は希望としてではなく、脅威として受け取られてしまうからです。

 また、山は、人が「連れて来られる」場所ではありません。宮殿には選ばれた者しか入れませんが、山には誰でも登ることができます。ただし、誰も運んではもらえません。一人ひとりが自分の足で応答して登っていく場所です。ここでは、強制ではなく呼びかけが人を集めます。主イエスが山で語られる言葉は、人を恐れで縛る命令ではなく、新しい生き方への招きでした。

 さらに、山に立つと、世界の見え方が変わります。平地では絶対に見えた権力や制度が、相対化されます。宮殿は小さく見え、境界線は曖昧になります。マタイは、主イエスを山に立たせることで、世界を別の角度から見直す視点を与えようとしています。恐れと暴力を当然のものとして受け入れるのではなく、神の国の光の中で、この世界を見直すためです。

 この「山」から、教会の姿が浮かび上がります。教会が山であるとは、権力の中心に立つことでも、社会を支配することでもありません。恐れの論理から一歩距離を取り、強制ではなく応答を待ち、神の言葉によって世界を見直す場所として立つことです。教会は恐れを広げる場所ではなく、涙を受け止め、希望を静かに灯す場所として、今日も山に立ち続けるのです。

2025年12月28日 (日)

マタイによる福音書 2章1~12節 「東方から」

 マタイによる福音書2章とイザヤ書11章を重ね合わせながら、「平和とは何か」をあらためて考えてみました。わたしたちは日常的に「平和」という言葉を使いますが、それは本当に争いがない状態のことなのか、あるいは力の均衡によってかろうじて保たれている静けさのことなのか、問い直されます。聖書が語る平和は、遠い理想論ではなく、わたしたちがどんな世界観で生きているのかを鋭く問う言葉なのです。

 イザヤ書11章は、「エッサイの株から芽が出る」という言葉から始まります。ここで語られているのは、栄光に満ちた王座ではなく、切り株です。力に頼る政治や武力に支えられた支配が、すでに行き詰まり、大国に切り倒されたのです。しかし神は、その切り株から、静かに小さな芽を生えさせられます。ベツレヘムに生まれた幼子イエスこそ、この弱々しい芽でした。神は「もっと強い王」を与えて世界を立て直すのではなく、歴史の方向そのものを変えようとされたのです。

 その王の上にとどまるのは、敵を打ち倒す力ではなく、知恵と識別、正義と真実の霊です。目に見えるものや耳に入る情報だけで裁くのではなく、弱い者の声に耳を傾け、貧しい人を公平に守る王の姿が描かれます。ここで問われるのは、私たちが「現実的」だと思い込んでいる強い指導者像や軍事力への信頼です。イザヤは、まったく別の王の物語を語っているのです。

 続いて示される「狼と小羊が共に住む」幻は、単なる美しい詩ではありません。強者と弱者、捕食する者とされる者によって成り立ってきた世界の構造そのものが、神によって変えられるという宣言です。狼が排除されるのではなく、小羊が武装するのでもありません。存在そのものが変えられる。暴力による均衡ではなく、根本的な変容によって平和が実現するという信仰がここにあります。その理由は、大地が「主を知る知識」で満たされるからです。命の源が神にあると知るところから、恐れに支配されない生き方が始まるのです。

 この幻は、教会にとっても厳しい問いです。狼がまだいる現実の中で、教会は何を信じ、どう生きるのか。国家の現実的判断すべてを否定することはできませんが、国家の論理をそのまま受け入れることはできません。教会の平和主義とは政治的スローガンではなく、神が世界を完成されるという希望に、生き方を委ねる姿勢なのです。

 マタイ福音書の東方の学者たちは、王宮ではなく、幼子イエスのもとで真の王を見いだしました。そして彼らは「別の道を通って」帰っていきます。それは、世界の見方そのものを変えられたということでした。教会もまた、未完成の平和のただ中で、恐れではなく信頼によって歩むよう招かれています。幼子として来られたキリストによって、神の新しい支配はすでに始まっているのです。

2025年11月 9日 (日)

マタイによる福音書 18章1~5節 「子どもになる」

~子ども祝福礼拝~

(絵本『かいじゅうたちのいるところ』の朗読のあとで)

 今日読んだ絵本『かいじゅうたちのいるところ』に登場するマックスは、いたずらや怒りの気持ちが抑えられず、お母さんに叱られて部屋に閉じ込められてしまいます。そこから、彼は想像の世界で「かいじゅうたち」の国へ旅に出ます。かいじゅうたちはマックスの激しい気持ちに共鳴し、彼を王さまとします。マックスは好きなように暴れ、命令し、自由にふるまいます。しかし、しばらくすると、彼の中に「さびしい」「だれかに愛されたい」という思いがふと湧き上がります。怒りの奥にあった本当の気持ちです。

 そしてマックスは「おうちに帰りたい」と願います。帰ってみると、お母さんはごはんを用意して待っていました。しかも、そのごはんは「まだあたたかかった」。このことばは、「あなたは見捨てられていなかった」という深いメッセージです。マックスは家で愛され、受け入れられていたのです。この行って帰ってくるモチーフをもって展開される物語は、主イエスが弟子たちに語られた言葉とよく響き合います。弟子たちは「天の国ではだれが一番えらいのか」と主イエスに尋ねました。すると主イエスは一人の子どもを呼んで言われます。「もしあなたがたが心を入れかえて子どものようにならなければ、天の国に入ることはできません。」さらに、「このような子どもを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とも言われました。

 主イエスが言われる「子どものようになる」とは、ただ元気で明るい子どもの振る舞いを真似することではありません。子どもが持っている「素直で、やわらかい心」を取り戻すことです。人は大人になるにつれて、周りの目を気にし、失敗を恐れ、感情を抑え、心を固くしてしまうことがあります。でも、その奥にはかならず「わかってほしい」「愛されたい」「つながりたい」というやわらかな心が残っています。

 マックスはかいじゅうの国で暴れ、王さまになっても満たされませんでした。でも、自分のさびしさに気づき、家に帰ることを選んだとき、彼は本当の意味で成長しました。彼は「力」や「えらさ」ではなく、「愛されている自分」に帰ることができたのです。

 主イエスは、そんな「やさしい心」を見てくださる方です。怒ってしまうときも、すねてしまうときも、その奥にあるやわらかい心を知っていてくださいます。そしてその心を大切にして生きてほしいと願っておられます。

 だから、今日のテーマは「子どものようになる」ではなく、「イエスさまにあって神の子どもになる」のです。子どももおとなも、神に愛されている者として、素直な心、やわらかい心で、共に歩んでいきましょう。そうしていく中で、わたしたちは、神の子どもとして本当に喜びに満ちて生きることができるのです。

2025年10月12日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「地の塩としてのバザー」

 今日は礼拝後に「教会であそぼう!」が行われます。地域の方々も訪れるオープンチャーチの日に、主イエスの言葉「あなたがたは地の塩である」を味わいたいと思います。教会の営みが、地域に喜びと交わりをもたらす「塩の働き」となることを願います。バザーやカフェコーナー、遊びの楽しさも、人と人が顔を合わせ、笑顔を交わすことで、「この街に教会があるんだ」と知っていただくきっかけです。また、CSの保護者の方々の献品や応援や地域の方々が協力してくださることで、教会の「内」と「外」の境界があいまいになり、その柔らかさも大きな魅力となります。

 塩は料理の主役ではありませんが、全体を整える力があります。わたしも趣味のカレー作りの最後に塩をひとつまみ加えるだけで味が引き締まるのを感じす。わずかな量でも全体を生かす――主イエスが「地の塩」と言われたのは、この力を指しているのではないでしょうか。

 塩には三つの働きがあります。第一に、味を整えること。塩がなければ、どんなに豪華な材料でも味は定まりません。信仰者も同じで、小さな祈りや励ましが家庭や地域に思いがけない調和をもたらします。第二に、腐敗を防ぐこと。冷蔵庫のなかった時代、塩漬けが食物を守りました。信仰もまた、世の流れに身を任せず、誠実を保つことで周囲を守る力となります。第三に、清めの働きです。旧約のレビ記213にはささげものには塩を振るという規定があり、塩が神との契約のしるしでした。わたしたちはこの街で、神とのつながりを思い起こさせる存在です。

 主イエスはさらに、「もし塩が塩気を失ったら」と言われました。当時の塩は不純物が多く、見た目は塩でも中身が役に立たないことがありました。教会も同じです。建物が立派で人が集まっても、信仰の中身を失えば意味を失います。形だけでなく、本質を保つことこそ大切です。

 塩は地味ですが、なくてはならないものです。わたしたちも社会では小さな存在かもしれませんが、神の御手に置かれるとき、小さな祈りや行いが全体を整える力になります。「あなたがたは地の塩」「である」という命令ではなく、すでに「である」という神の宣言です。無理に頑張るよりも、自分の「ひとつまみ」としての役割を喜んで果たせばよいのです。純粋さにこだわらず、不完全さも神の恵みの味わいに変えられます。ここに教会があることを共に喜び、証ししましょう。

2025年10月 5日 (日)

マタイによる福音書 8章18~22節 「現代の弟子として」

 今日の日本社会では多くの人が「安心できる生活の場」を求めています。経済不安や戦争、災害などの影響もあり、政治でも「安心・安定」を掲げる運動が広がっています。しかし、その願いが過剰になると社会は分断と排除に傾きます。極右政党の台頭や外国人排斥の言説がその表れであり、ヘイトスピーチやヘイトクライムが繰り返されているのです。人は安心を求めるあまり、偽りや幻想にすがる弱さを持っています。

 今日の聖書では、弟子を志す人にイエスが「人の子には枕するところもない」と語られました。さらに父の葬儀を願う者に「死人たちに死人を葬らせなさい」とも。厳しく冷たく響く言葉ですが、これは安住に縛られず神に従うよう招く言葉です。「枕」とは安心や安定の象徴です。イエスご自身が安住を持たず歩まれたことは、神の国が人間の基準と異なることを示しています。そして弟子も同じ不安定さを担うよう招かれているのです。

 この姿を想起させるのがフォーク歌手ウッディ・ガスリーです。ダストボウル(19311939年アメリカを襲った砂塵による大災害です)で家を失った人々と共に歩み、彼らの声を歌に託しました。「住む家とて無い」と歌いながらも、嘆きではなく連帯と希望を表しました。イエスの「枕はない」との言葉も同じく、悲惨の強調ではなく「それでも従え」という希望の招きです。

 使徒パウロもまた安住のない生活を送りました。迫害や牢獄を経験しながらも「わたしたちの本国は天にある」と告白しました。地上に安定を持たなくても、悲観せず、逃げださず、天に居場所があるとの確信が、彼を自由と誇りある働きへと導きました。テント職人として働きながら伝道した彼にとって、安住のなさは力でした。

 イエスの言葉は孤独な決断を迫るのではなく、教会の交わりにおいて励まし合う道を示しています。「枕がない」現実は厳しいが、祈りや交わりによって希望へと変えられます。現代の日本でも安心を求めることは自然ですが、それが偶像となるなら手放すように促されています。安定を守るために他者を犠牲にするのではなく、少数者と共に歩むことこそが「狭い門から入る」道です。それは悲壮ではなく、希望に満ちた道です。

 ガスリーが歌い、パウロが歩んだように、安住がなくてもキリストと教会があり、天に本国がある確かな希望があります。安住を越えて従うこと、それが「現代の弟子」としての新しい創造的な生き方です。困難な道であっても、主イエスが共にいてくださるからこそ、安心して歩むことができるのです。共にその道を歩む決意を新たにしましょう。

2025年9月28日 (日)

マタイによる福音書 8章14~17節 「病を知ること」

ペトロのしゅうとめが熱病から癒されて起き上がり、主イエスに仕えた出来事が記されています。その後、多くの病人や悪霊に苦しむ人々も癒やされました。マタイはこの出来事をイザヤ534節「彼はわたしたちの病を負い、担った」と重ね合わせ、旧約の成就として示しています。マタイの特徴は、イエスを物語の中心に据え、預言の成就を強調する点にあります。

 奇跡物語をどう受け止めるかという問いに対し、歴史的事実かどうかよりも、その背後にある「人を生かす出来事」としての意味が大切です。ペトロのしゅうとめが癒され、共同体に戻り仕える者となったこと自体が奇跡でした。奇跡は単なる不思議な現象ではなく、病人に神の愛と力が届き、人が新たに生きるようにされた出来事です。

 イエスが病人に触れられたことは、病を汚れや罪の結果として拒むのではなく、共に担う現実として受け止められたことを示します。マタイがイザヤ書を引用したのは、主イエスが病と苦しみを共に背負う救い主であることを明らかにするためです。その極みは十字架における苦しみでした。わたしたちは「病を知り、担う主が共におられる」信仰に立つことができます。

 病と健康の区別は実線ではなく「あわい」、すなわち曖昧な境界にあります。診断や数値のいかんにかかわらず、多くの人は弱さや生きづらさを抱えて生きています。その「あわい」に寄り添うのが主イエスであり、また互いの弱さを担い合う共同体が教会です。病は本人だけでなく家族や周囲を揺さぶりますが、「共に担う主」の確信は大きな支えとなります。

 ホーリネスの伝統にある「神癒」は、単なる奇跡的治癒を指すだけでなく、「病のただ中に主が共におられる」というインマヌエル信仰を示します。医学と矛盾するものではなく、神はあらゆる手段を用いて働かれます。たとえ病が治らなくても、主の共在によって人は病と共に生きる力を得ます。それもまた奇跡です。

 癒しの目的は病の消失にとどまらず、共同体に戻り仕える者とされることにあります。ペトロのしゅうとめが立ち上がり仕えたように、わたしたちも主に出会うとき、新しい力を与えられます。教会もまた「病を担う共同体」として、完全さを求めるのではなく、互いの弱さを受け入れ支え合う場であるべきです。

 「彼はわたしたちの病を負い、担った」という言葉は、病を抱える人にも、支える人にも、そして病と健康の「あわい」を生きるわたしたちすべてに向けられています。主イエスはその「あわい」を共に歩まれ、希望と新しい力を与えてくださるのです。

2025年9月21日 (日)

マタイによる福音書 8章5~13節 「言葉の力」

日常生活で、言葉の力をどれほど意識しているでしょうか?言葉は人を励まし、癒すこともあれば、傷つけ、惑わすこともあります。だからこそ、わたしたちは真実の言葉に耳を傾け、偽りに惑わされないことが大切です。

 この聖書箇書には、百人隊長というローマ軍の指揮官が登場します。彼の僕が重い病にかかり、主イエスに癒しを求めてやって来ました。百人隊長は自分の家に主イエスを招く代わりに、「ただひと言おっしゃってください。そうすれば、僕は癒されます」と言います。彼は、主イエスの言葉に病を癒す力があると信じていたのです。さらに、百人隊長は印象的な言葉で謙虚な態度を示しています。「主よ、あなたはわたしを自分の屋根の下にお迎えになるほどの者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒やされます」と。彼は自分がどれほど力をもっていても、神の前ではただの一人の弱い人間であることを理解していたのです。この信仰の深さにイエスは感動し、「イスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがない」と讃えました。

 また、イエスは「東や西から多くの人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」と語りました。これは、神の救いがユダヤ人だけでなく、すべての信じる人々に開かれていることを示しています。百人隊長のような異邦人も、信仰によって神の国に迎え入れられるのです。現代においても、排除や差別がある社会の中で、この言葉は大切なメッセージとなります。

 現代社会では、ネットやメディアを通じて偽りの言葉や情報が広がりやすくなっています。「嘘も百回言えば真実になる」という言葉が示すように、虚偽は繰り返されることで人々を惑わせます。先の参院選でも選挙演説で堂々と偽情報を拡散する人が当選してしまうという現実があります。そんな中で、主イエスの真実の言葉に立ち続けることはとても大切です。主イエスの言葉には、わたしたちを真理へ導き、いのちを豊かにする力があります。

 ですから、この聖書の物語は過去の出来事にとどまりません。イエスの言葉は今も生きて私たちに語りかけています。わたしたちは信仰をもって、その言葉の力を信じ、偽りの言葉に惑わされることなく歩んでいきましょう。そうすることで、わたしたちは神の愛と救いの中で、自由と真理に生きることができるのです。

 

2025年9月 7日 (日)

マタイによる福音書 8章1~4節 「清くなれ」

 「既定の病」のその人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」との悲痛な魂の叫びをもって主イエスのもとにやってきます。家や街から隔離され、排除され、自分の生きる場が奪われています。そこから、やってきたのです。「汚れ」として断罪されていることで、生きる価値なしとされている、そのままの姿をさらけ出しているのです。主イエスにのみ、切実にすがろうとする痛みがここにはあります。主イエスはその人に触れます。その人の「汚れ」ているとされているすべてのいのちまるごとを主イエス自らが全面的に引き受けたのです。同じいのちの祝福を分かち合ったといってもいいかもしれません。自分の聖さを担保しておいた上で治したのではありません。その人と同じ「汚れ」を自分の身に負ったのです。そういう行為が「手を差し伸べてその人に触れ」ということです。主イエスは、その病に悩まされ、苦しめられ続けてきた人を癒します。このことを主イエスご自身が望んでいるのです。

 「規定の病」の人の皮膚を超えて、その人自身に主イエスが触れた、皮膚という境界線をあいまいにしたこの物語は、わたしたち自身のありかたをも良しとしてくれます。わたしたちは、鋼鉄のような皮膚感覚を持っているのではありません。きっちりとした「わたし」という皮膚によって守られているのではありません。「わたし」という存在には、いつもどこかあいまいな破れや傷んだ皮膚感覚のようなものと共にある危うさと隣り合わせだからです。

 現代日本では、非常にわかりやすい響きをもった言葉たちが撒き散らされています。特権階級に対する嫌悪感、「国民」とか「伝統」と文化を重んじるべきこと、そのような価値観への強いこだわり、安直なナショナリズム、移民への怖れと反対などという傾向をもつ、白黒をはっきりさせる、ゼロか100しかないないみたいなイデオロギーです。あいまいさとか多義性、多様性、柔軟さなどを認めないのです。これらの根底にあるのは自己肯定感の欠如だという説にわたしも同感です。他者との関係性で言えば、ありのままの自分自身を良しとできないから、わかりやすい基準で他者をさばき、自分より「下層」を作ることで安心するしかない。

 しかし、主イエスが、「規定の病」の人を全面的に受け止めたのは、不明瞭な皮膚感覚をもった生身の人間のあるがままの姿の肯定です。白黒でも、ゼロ100でもないグラデーションを受け入れる主イエスの心意気ではないかと思うのです。「よろしい。清くなれ」と主イエスが良しとされた「わたし」を安心して生きていくところに、この社会の息苦しさから脱していく道があるのではないでしょうか。

2025年8月31日 (日)

マタイによる福音書 7章24~29節 「御言葉に立つ」

 今日の聖書は、「聞いて行う者」と「聞くだけで行わない者」とを比べています。「聞いて行う者」は「賢い人」であり、「聞くだけで行わない者」は「愚かな人」に、それぞれ「似ている」といいます。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」という状態での「家」の姿として比べられます。ここでの「家」とは「教会」と解釈するだけでなく、個人という意味で読んでもいいと思います。その「賢い人」の「家」は岩を土台としていたので倒れず、「愚かな人」の「家」は「倒れて、その倒れ方がひどかった」というのです。

 読み手であるわたしたちは、「賢い人」の側に立つようにして聞き従いたいと願います。これが主イエスの求めであるからです。しかし、「愚かな人」としての側面を完全に否定できるほどの自信はない、というのが本音ではないでしょうか。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」とは、わたしたちの感覚では激しい台風のようなイメージだと思います。

 「山上の説教」を今日の問題として捉えようとするなら、「狭い道」を選び取る必要もあるでしょう。しかし、「山上の説教」が「空の鳥」「野の花」のいのちを育む愛や「思い悩むな」という楽観性に支えられていたことも忘れてはなりません。いのちを限定したり条件づけたりするのではなく、あるがままの今を祝福し続けたことをこそ思い起こすべきなのです。これは「幸い」の宣言にも通じるものです。「狭い道」を悲愴に選び取っていくのではなく、支えられている安心の中で「狭い道」を進んでいくことができるよう導かれているのです。「山上の説教」を語り終えると、群衆は「その教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。マタイ福音書の「驚き」とは、その時々の常識からすれば並外れた、心が揺さぶられ、思いもしない言葉の世界に巻き込まれたということです。主イエスの教えは、当時のユダヤ教の律法学者たちが「これこそが正しく、正義である」とするものに対し真正面から対決したり、あるいは徹底させたりするものであったのです。この世の常識をぶち壊すことによって真理をもたらすものだったのです。このような主イエスの働きは、それゆえに十字架刑へと至ることになります。

 主イエスの本当が「山上の説教」に示されていたのだと確認できます。マタイ福音書の結びである28章20節には次のようにあります。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ここで言われている「命じておいたこと」と「教え」は同じです。世の終わりまで、わたしたちの生涯をかけて信じ従うべき真理の御言葉があります。「山上の説教」は、わたしたちがこれまで守られてきたこと、支えられている今、導かれていくこれからを包み込む御言葉です。この教えに信じ従う中で「愚かな人」へと流される危険に対して抗いつつ、「賢い人」の方向へと導かれていきたいと願っています。

2025年8月24日 (日)

マタイによる福音書 7:21章23節 「ちょっと厳しい教え」

 今日の聖書をこのまま読むと大変厳しい内容です。21節では、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とあります。ここで「主よ主よ」と呼びかけている人たちとは言うまでもなくキリスト者のことです。この人たちが「主よ主よ」と呼びかけているのは、礼拝と言えるし、信仰の告白でもあると言えます。自分が主を信じていることを言い表しているのです。さらに、その内容は、22節によれば、「御名によって預言し」「御名によって悪霊を追い出し」「御名によって奇跡をいろいろ行った」とありますから、教会における礼拝を始めとした様々な活動全般のことを指しているのです。しかし、23節によれば主は冷酷にも「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」と切り捨てるのです。ただ信じて教会生活を送るだけでは不十分であるどころか、「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」という言葉の強さから言うと、異端としての排除、もしくは破門の宣言として受け取ることができます。

 ここでのマタイ福音書の問題意識は、主イエス・キリストを信じるということは、信仰に見合った「行い」「行動」が求められるということです。では、「行い」「行動」なしの信仰とは何なのか。信仰の内容を表に出さないあり方を想定することができるかもしれません。つまり、信仰というものを、あくまで精神性であるとか内面性であるとかに限定していくあり方のことです。信仰を心の持ちようの問題にしてしまうことへの警告をマタイ福音書は今日の聖書で考えているのではないでしょうか。心とは、もっと豊かな広がりをもつものであるはずなのに、矮小化させてしまっている傾向を見抜き、「行い」「行動」を警告していたのだと思います。

 わたしたちは、この世に暮らしている以上政治的であることから自由ではありえません。自分は中立だと思っていても、今ある政治的事態に対して、それが差別的であり抑圧的である場合に反対の意思を示さない場合には、賛成し支持することになってしまうからです。この点について自覚的である必要があります。この世の悪に沈黙することは、社会的犯罪の共犯者になってしまうことを意味します。

 今日のテーマは、内容的には、この世に対する責任的なあり方、「世のために存在する教会」の質が問われているということです。そして、そのただ中にあって「山上の説教」の主イエスに対して倣っていくことが問題なのだということです。そこで、信仰において決断が求められるということです。この、主イエスの道を歩む決意が今一度起こされ、新たにされる中で、相応しさに連なる信仰の道を、ご一緒に歩みたいと願います。

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