ルカによる福音書 16章19~31節 「金持ちとラザロ」
~永眠者記念礼拝~
故人への思いは悲しみ、感謝、整理しきれない感情など人それぞれですが、わたしたちはそれを神の御手にゆだねます。キリスト教の信仰によれば、死は終わりではなく神のもとに帰る扉であり、断絶ではなく完成への通路です。死を通して人は神のいのちの物語の中に織り込まれていくのです。
今日読まれた「ルカによる福音書16章・金持ちとラザロ」は、この世の価値観の逆転を語ります。富める者は他者の苦しみに無関心であった罪により、死後に苦しみを受けます。一方、地上で貧しく忘れられたラザロは、神の懐に抱かれ慰められます。ここに示されるのは、神の目に見える真実です。神の国では、顧みられなかった者が迎え入れられ、忘れられた者が尊ばれるのです。ラザロは神の愛の中にあり、地上の苦しみから解き放たれました。わたしたちが愛する故人たちも同じく、神の平安の中にあります。だからこそ、彼らを思う時、悲しみの中にも感謝と希望を見いだせるのです。
先に召された人々は断絶した存在ではなく、神の国にあってわたしたちと共に神を賛美する仲間、「聖徒の交わり」の中に生きています。彼らの信仰と愛は今もわたしたちを励まし、慰め、導いています。この礼拝は死者を記念する場であると同時に、生きるわたしたちが新たな力を得る場でもあります。
悲しみの過程には段階があります。キューブラー・ロスが示した「否認・怒り・取引・抑うつ・受容」の五段階のように、人はそれぞれのペースで悲しみに向き合います。神はその歩みをすべてご存じで、どの段階にあっても寄り添い続けてくださいます。主イエスも悲しみの道を歩まれたゆえに、わたしたちの痛みを共に担ってくださるのです。
金持ちは兄弟たちがこんな苦しみを受けないようラザロを遣わしてほしいと願いますが、神は「モーセと預言者の言葉に耳を傾けよ」と語ります。そもそも、この金持ちがモーセと預言者の言葉に従っていれば、こんな苦しみを受けることはなかった、ということです。疲れた人に声をかけ、孤独な人に寄り添い、亡き人の愛を受け継ぐ――その一つひとつが神の目に尊い行いです。わたしたちはこの日に、隣人に心を向け、愛のうちに生きるよう招かれています。
キリストの復活は、死が終わりではなく神のいのちへの入り口であることを示しました。死は「いのちの乗り換えの時」であり、再会への希望の始まりです。この世における死を通しても神の愛は貫かれます。死者は神の御手の中にあり、わたしたちは、その人々と結ばれている関係による慰めのうちに生きるのです。このようにして、わたしたちもその物語の中を生かされています。
主イエス・キリストご自身が、ラザロのように捨てられ、十字架にかかり、死を経て復活されました。その方こそ、生と死を結ぶ唯一の仲介者です。この主に希望をつなぐこと――それがわたしたちの今ここにある信仰の姿であり、死を越えて生かされる真の慰めと希望なのです。


最近のコメント