2025年11月 9日 (日)

マタイによる福音書 18章1~5節 「子どもになる」

~子ども祝福礼拝~

(絵本『かいじゅうたちのいるところ』の朗読のあとで)

 今日読んだ絵本『かいじゅうたちのいるところ』に登場するマックスは、いたずらや怒りの気持ちが抑えられず、お母さんに叱られて部屋に閉じ込められてしまいます。そこから、彼は想像の世界で「かいじゅうたち」の国へ旅に出ます。かいじゅうたちはマックスの激しい気持ちに共鳴し、彼を王さまとします。マックスは好きなように暴れ、命令し、自由にふるまいます。しかし、しばらくすると、彼の中に「さびしい」「だれかに愛されたい」という思いがふと湧き上がります。怒りの奥にあった本当の気持ちです。

 そしてマックスは「おうちに帰りたい」と願います。帰ってみると、お母さんはごはんを用意して待っていました。しかも、そのごはんは「まだあたたかかった」。このことばは、「あなたは見捨てられていなかった」という深いメッセージです。マックスは家で愛され、受け入れられていたのです。この行って帰ってくるモチーフをもって展開される物語は、主イエスが弟子たちに語られた言葉とよく響き合います。弟子たちは「天の国ではだれが一番えらいのか」と主イエスに尋ねました。すると主イエスは一人の子どもを呼んで言われます。「もしあなたがたが心を入れかえて子どものようにならなければ、天の国に入ることはできません。」さらに、「このような子どもを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」とも言われました。

 主イエスが言われる「子どものようになる」とは、ただ元気で明るい子どもの振る舞いを真似することではありません。子どもが持っている「素直で、やわらかい心」を取り戻すことです。人は大人になるにつれて、周りの目を気にし、失敗を恐れ、感情を抑え、心を固くしてしまうことがあります。でも、その奥にはかならず「わかってほしい」「愛されたい」「つながりたい」というやわらかな心が残っています。

 マックスはかいじゅうの国で暴れ、王さまになっても満たされませんでした。でも、自分のさびしさに気づき、家に帰ることを選んだとき、彼は本当の意味で成長しました。彼は「力」や「えらさ」ではなく、「愛されている自分」に帰ることができたのです。

 主イエスは、そんな「やさしい心」を見てくださる方です。怒ってしまうときも、すねてしまうときも、その奥にあるやわらかい心を知っていてくださいます。そしてその心を大切にして生きてほしいと願っておられます。

 だから、今日のテーマは「子どものようになる」ではなく、「イエスさまにあって神の子どもになる」のです。子どももおとなも、神に愛されている者として、素直な心、やわらかい心で、共に歩んでいきましょう。そうしていく中で、わたしたちは、神の子どもとして本当に喜びに満ちて生きることができるのです。

2025年11月 2日 (日)

ルカによる福音書 16章19~31節 「金持ちとラザロ」

~永眠者記念礼拝~

 故人への思いは悲しみ、感謝、整理しきれない感情など人それぞれですが、わたしたちはそれを神の御手にゆだねます。キリスト教の信仰によれば、死は終わりではなく神のもとに帰る扉であり、断絶ではなく完成への通路です。死を通して人は神のいのちの物語の中に織り込まれていくのです。

 今日読まれた「ルカによる福音書16章・金持ちとラザロ」は、この世の価値観の逆転を語ります。富める者は他者の苦しみに無関心であった罪により、死後に苦しみを受けます。一方、地上で貧しく忘れられたラザロは、神の懐に抱かれ慰められます。ここに示されるのは、神の目に見える真実です。神の国では、顧みられなかった者が迎え入れられ、忘れられた者が尊ばれるのです。ラザロは神の愛の中にあり、地上の苦しみから解き放たれました。わたしたちが愛する故人たちも同じく、神の平安の中にあります。だからこそ、彼らを思う時、悲しみの中にも感謝と希望を見いだせるのです。

 先に召された人々は断絶した存在ではなく、神の国にあってわたしたちと共に神を賛美する仲間、「聖徒の交わり」の中に生きています。彼らの信仰と愛は今もわたしたちを励まし、慰め、導いています。この礼拝は死者を記念する場であると同時に、生きるわたしたちが新たな力を得る場でもあります。

 悲しみの過程には段階があります。キューブラー・ロスが示した「否認・怒り・取引・抑うつ・受容」の五段階のように、人はそれぞれのペースで悲しみに向き合います。神はその歩みをすべてご存じで、どの段階にあっても寄り添い続けてくださいます。主イエスも悲しみの道を歩まれたゆえに、わたしたちの痛みを共に担ってくださるのです。

 金持ちは兄弟たちがこんな苦しみを受けないようラザロを遣わしてほしいと願いますが、神は「モーセと預言者の言葉に耳を傾けよ」と語ります。そもそも、この金持ちがモーセと預言者の言葉に従っていれば、こんな苦しみを受けることはなかった、ということです。疲れた人に声をかけ、孤独な人に寄り添い、亡き人の愛を受け継ぐ――その一つひとつが神の目に尊い行いです。わたしたちはこの日に、隣人に心を向け、愛のうちに生きるよう招かれています。

 キリストの復活は、死が終わりではなく神のいのちへの入り口であることを示しました。死は「いのちの乗り換えの時」であり、再会への希望の始まりです。この世における死を通しても神の愛は貫かれます。死者は神の御手の中にあり、わたしたちは、その人々と結ばれている関係による慰めのうちに生きるのです。このようにして、わたしたちもその物語の中を生かされています。

 主イエス・キリストご自身が、ラザロのように捨てられ、十字架にかかり、死を経て復活されました。その方こそ、生と死を結ぶ唯一の仲介者です。この主に希望をつなぐこと――それがわたしたちの今ここにある信仰の姿であり、死を越えて生かされる真の慰めと希望なのです。

2025年10月26日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章15節 「ともに悲しみ、ともに喜び、ともに祈ろう」

~キリスト教教育週間~

 本日はキリスト教教育週間を覚えての礼拝です。今年はカンボジアの子ども支援施設「ホープ・オブ・チルドレン(HOC)」を覚えて祈ります。カンボジアは1970年代のポルポト政権下で国民の4分の1が犠牲となり、教育制度も壊滅しました。戦争が終わってもその傷跡は深く、貧困や教育の断絶が今も子どもたちを苦しめています。親と離れてお寺に預けられる子どもたち、家族を失った子どもたちが多く、まさに「泣く者と共に泣く」ことが求められる現実です。

 その中でHOCは、子どもたちに衣食住と学びの場を与え、「自分は愛されている」と感じられる家庭のような共同体を築いています。僧侶のムニさん、日本人の岩田亮子さんのもとで、子どもたちは「共に学び、共に遊び、共に祈る」日常を取り戻しています。日本から訪れる学生たちと歌い、笑い、祈る姿は、「共に喜ぶ」教育の原点を映しています。それはまた、学生にとっても学びの時です。教育とは、一方が教え、他方が教えられる関係ではなく、共に学び合い、共に成長していく営みなのです。

 今年の教育週間のテーマ「ともに悲しみ、ともに喜び、ともに祈ろう」は、ローマ1215節の御言葉に基づいています。パウロは、教会が「一つの体」として生きるよう勧めました。体の一部が苦しめば全体が痛み、一部が喜べば全体が喜ぶように、信仰者は互いに支え合う存在です。教育もまた、人と人が結び合わされ、神の子として共に育つ道です。

 イエス・キリストご自身も「共に生きる教師」でした。カナの婚礼では喜びを共にし、ラザロの墓の前では涙を流されました。十字架と復活を通して、悲しみと喜びを共にする神の愛を示されました。イエスは知識を教える先生ではなく、人々と共に生きることで神の国を示されたのです。

 わたしたちは直接カンボジアに行けなくとも、祈りによってつながることができます。祈りは国境を越え、教育の一部でもあります。子どもたちのために祈るとき、私たちは共に生き、共に信じる姿勢を伝えているのです。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」この御言葉に導かれながら、わたしたちの教会が「共に喜び、共に泣き、共に祈る」教育共同体として歩み、世界の隣人と祈りを分かち合う群れであり続けたいと願います。

2025年10月19日 (日)

マルコによる福音書 4章35~41節 「突風を静める」農村伝道神学校  西窪 幸子 神学生

~神学校日礼拝~

 私たちは時に普段の航海術が通用しない嵐の海に投げ込まれます。その時、私たちは自分の努力ではどうにもならない状況に直面します。

 聖書では、弟子たちも自分たちの力で乗り越えられない局面に立たされ、必死になって、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエスに訴えています。自分たちの力ではどうにもならなくなった時になって初めて舟の艫(とも)にいるイエスに目を止めたのです。

 それまで、荒れ狂う波と格闘していた弟子たちの目には、波と揺れる舟と水しか目に入っていなかったのではないでしょうか。しかし、弟子たちはそこからイエスの方へ目を転じました。向きを変えたのです。このイエスに向きを変えるということがとても重要ではないでしょうか。

 しかし、そこで弟子たちが見たのは-—-眠っているイエスでした。

 少し話がそれますが、先日、坐禅の授業で「じねん」という言葉を学びました。「じねん」とは、「自分で無理にコントロールせず、何ものかに完全に身を委ねること」で、キリスト教の「御心がなりますように」に近い概念だと先生は説明しました。興味深い点は「じねん」が理解できるようになるのは、人が自分の力で必死に頑張って、それでもどうにもならなくなった時だという点です。先生は「実は、人が必死にもがいているそのこと自体が、深いところから見れば“じねん”のなせる業(わざ)なのだ」と教えてくださいました。

 このような視点で聖書を読み直すと、必死にもがく弟子たちと眠っているイエス、両者の背後に神の力が確かに働いていることを知ることができるのではないでしょうか。

 眠っているとはいえ、確かにイエスは舟に一緒に乗ってくださっているのです。イエスが風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言うと、風はやみ、すっかり凪になりました。この静けさの中で弟子たちは本当に恐るべきものを知りました。それは、嵐でなく、嵐を静める主でした。弟子たちは嵐を恐れるものから神を畏れるものへ変えられたのです。

 イエスは言います。「なぜ、怖がるのか」「まだ信じないのか」。弟子たちは今までイエスが病気を治し、悪霊を追い出すのをたくさん見てきました。ですから、弟子たちはこう言われても仕方がないのです。しかし、この弟子たちはイエスの十字架とペンテコステの聖霊によって、イエスの宣教を引き継いでいくものに変えられました。この希望を持って生きるものとなりたいものです。

2025年10月12日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「地の塩としてのバザー」

 今日は礼拝後に「教会であそぼう!」が行われます。地域の方々も訪れるオープンチャーチの日に、主イエスの言葉「あなたがたは地の塩である」を味わいたいと思います。教会の営みが、地域に喜びと交わりをもたらす「塩の働き」となることを願います。バザーやカフェコーナー、遊びの楽しさも、人と人が顔を合わせ、笑顔を交わすことで、「この街に教会があるんだ」と知っていただくきっかけです。また、CSの保護者の方々の献品や応援や地域の方々が協力してくださることで、教会の「内」と「外」の境界があいまいになり、その柔らかさも大きな魅力となります。

 塩は料理の主役ではありませんが、全体を整える力があります。わたしも趣味のカレー作りの最後に塩をひとつまみ加えるだけで味が引き締まるのを感じす。わずかな量でも全体を生かす――主イエスが「地の塩」と言われたのは、この力を指しているのではないでしょうか。

 塩には三つの働きがあります。第一に、味を整えること。塩がなければ、どんなに豪華な材料でも味は定まりません。信仰者も同じで、小さな祈りや励ましが家庭や地域に思いがけない調和をもたらします。第二に、腐敗を防ぐこと。冷蔵庫のなかった時代、塩漬けが食物を守りました。信仰もまた、世の流れに身を任せず、誠実を保つことで周囲を守る力となります。第三に、清めの働きです。旧約のレビ記213にはささげものには塩を振るという規定があり、塩が神との契約のしるしでした。わたしたちはこの街で、神とのつながりを思い起こさせる存在です。

 主イエスはさらに、「もし塩が塩気を失ったら」と言われました。当時の塩は不純物が多く、見た目は塩でも中身が役に立たないことがありました。教会も同じです。建物が立派で人が集まっても、信仰の中身を失えば意味を失います。形だけでなく、本質を保つことこそ大切です。

 塩は地味ですが、なくてはならないものです。わたしたちも社会では小さな存在かもしれませんが、神の御手に置かれるとき、小さな祈りや行いが全体を整える力になります。「あなたがたは地の塩」「である」という命令ではなく、すでに「である」という神の宣言です。無理に頑張るよりも、自分の「ひとつまみ」としての役割を喜んで果たせばよいのです。純粋さにこだわらず、不完全さも神の恵みの味わいに変えられます。ここに教会があることを共に喜び、証ししましょう。

2025年10月 5日 (日)

マタイによる福音書 8章18~22節 「現代の弟子として」

 今日の日本社会では多くの人が「安心できる生活の場」を求めています。経済不安や戦争、災害などの影響もあり、政治でも「安心・安定」を掲げる運動が広がっています。しかし、その願いが過剰になると社会は分断と排除に傾きます。極右政党の台頭や外国人排斥の言説がその表れであり、ヘイトスピーチやヘイトクライムが繰り返されているのです。人は安心を求めるあまり、偽りや幻想にすがる弱さを持っています。

 今日の聖書では、弟子を志す人にイエスが「人の子には枕するところもない」と語られました。さらに父の葬儀を願う者に「死人たちに死人を葬らせなさい」とも。厳しく冷たく響く言葉ですが、これは安住に縛られず神に従うよう招く言葉です。「枕」とは安心や安定の象徴です。イエスご自身が安住を持たず歩まれたことは、神の国が人間の基準と異なることを示しています。そして弟子も同じ不安定さを担うよう招かれているのです。

 この姿を想起させるのがフォーク歌手ウッディ・ガスリーです。ダストボウル(19311939年アメリカを襲った砂塵による大災害です)で家を失った人々と共に歩み、彼らの声を歌に託しました。「住む家とて無い」と歌いながらも、嘆きではなく連帯と希望を表しました。イエスの「枕はない」との言葉も同じく、悲惨の強調ではなく「それでも従え」という希望の招きです。

 使徒パウロもまた安住のない生活を送りました。迫害や牢獄を経験しながらも「わたしたちの本国は天にある」と告白しました。地上に安定を持たなくても、悲観せず、逃げださず、天に居場所があるとの確信が、彼を自由と誇りある働きへと導きました。テント職人として働きながら伝道した彼にとって、安住のなさは力でした。

 イエスの言葉は孤独な決断を迫るのではなく、教会の交わりにおいて励まし合う道を示しています。「枕がない」現実は厳しいが、祈りや交わりによって希望へと変えられます。現代の日本でも安心を求めることは自然ですが、それが偶像となるなら手放すように促されています。安定を守るために他者を犠牲にするのではなく、少数者と共に歩むことこそが「狭い門から入る」道です。それは悲壮ではなく、希望に満ちた道です。

 ガスリーが歌い、パウロが歩んだように、安住がなくてもキリストと教会があり、天に本国がある確かな希望があります。安住を越えて従うこと、それが「現代の弟子」としての新しい創造的な生き方です。困難な道であっても、主イエスが共にいてくださるからこそ、安心して歩むことができるのです。共にその道を歩む決意を新たにしましょう。

2025年9月28日 (日)

マタイによる福音書 8章14~17節 「病を知ること」

ペトロのしゅうとめが熱病から癒されて起き上がり、主イエスに仕えた出来事が記されています。その後、多くの病人や悪霊に苦しむ人々も癒やされました。マタイはこの出来事をイザヤ534節「彼はわたしたちの病を負い、担った」と重ね合わせ、旧約の成就として示しています。マタイの特徴は、イエスを物語の中心に据え、預言の成就を強調する点にあります。

 奇跡物語をどう受け止めるかという問いに対し、歴史的事実かどうかよりも、その背後にある「人を生かす出来事」としての意味が大切です。ペトロのしゅうとめが癒され、共同体に戻り仕える者となったこと自体が奇跡でした。奇跡は単なる不思議な現象ではなく、病人に神の愛と力が届き、人が新たに生きるようにされた出来事です。

 イエスが病人に触れられたことは、病を汚れや罪の結果として拒むのではなく、共に担う現実として受け止められたことを示します。マタイがイザヤ書を引用したのは、主イエスが病と苦しみを共に背負う救い主であることを明らかにするためです。その極みは十字架における苦しみでした。わたしたちは「病を知り、担う主が共におられる」信仰に立つことができます。

 病と健康の区別は実線ではなく「あわい」、すなわち曖昧な境界にあります。診断や数値のいかんにかかわらず、多くの人は弱さや生きづらさを抱えて生きています。その「あわい」に寄り添うのが主イエスであり、また互いの弱さを担い合う共同体が教会です。病は本人だけでなく家族や周囲を揺さぶりますが、「共に担う主」の確信は大きな支えとなります。

 ホーリネスの伝統にある「神癒」は、単なる奇跡的治癒を指すだけでなく、「病のただ中に主が共におられる」というインマヌエル信仰を示します。医学と矛盾するものではなく、神はあらゆる手段を用いて働かれます。たとえ病が治らなくても、主の共在によって人は病と共に生きる力を得ます。それもまた奇跡です。

 癒しの目的は病の消失にとどまらず、共同体に戻り仕える者とされることにあります。ペトロのしゅうとめが立ち上がり仕えたように、わたしたちも主に出会うとき、新しい力を与えられます。教会もまた「病を担う共同体」として、完全さを求めるのではなく、互いの弱さを受け入れ支え合う場であるべきです。

 「彼はわたしたちの病を負い、担った」という言葉は、病を抱える人にも、支える人にも、そして病と健康の「あわい」を生きるわたしたちすべてに向けられています。主イエスはその「あわい」を共に歩まれ、希望と新しい力を与えてくださるのです。

2025年9月21日 (日)

マタイによる福音書 8章5~13節 「言葉の力」

日常生活で、言葉の力をどれほど意識しているでしょうか?言葉は人を励まし、癒すこともあれば、傷つけ、惑わすこともあります。だからこそ、わたしたちは真実の言葉に耳を傾け、偽りに惑わされないことが大切です。

 この聖書箇書には、百人隊長というローマ軍の指揮官が登場します。彼の僕が重い病にかかり、主イエスに癒しを求めてやって来ました。百人隊長は自分の家に主イエスを招く代わりに、「ただひと言おっしゃってください。そうすれば、僕は癒されます」と言います。彼は、主イエスの言葉に病を癒す力があると信じていたのです。さらに、百人隊長は印象的な言葉で謙虚な態度を示しています。「主よ、あなたはわたしを自分の屋根の下にお迎えになるほどの者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒やされます」と。彼は自分がどれほど力をもっていても、神の前ではただの一人の弱い人間であることを理解していたのです。この信仰の深さにイエスは感動し、「イスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがない」と讃えました。

 また、イエスは「東や西から多くの人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく」と語りました。これは、神の救いがユダヤ人だけでなく、すべての信じる人々に開かれていることを示しています。百人隊長のような異邦人も、信仰によって神の国に迎え入れられるのです。現代においても、排除や差別がある社会の中で、この言葉は大切なメッセージとなります。

 現代社会では、ネットやメディアを通じて偽りの言葉や情報が広がりやすくなっています。「嘘も百回言えば真実になる」という言葉が示すように、虚偽は繰り返されることで人々を惑わせます。先の参院選でも選挙演説で堂々と偽情報を拡散する人が当選してしまうという現実があります。そんな中で、主イエスの真実の言葉に立ち続けることはとても大切です。主イエスの言葉には、わたしたちを真理へ導き、いのちを豊かにする力があります。

 ですから、この聖書の物語は過去の出来事にとどまりません。イエスの言葉は今も生きて私たちに語りかけています。わたしたちは信仰をもって、その言葉の力を信じ、偽りの言葉に惑わされることなく歩んでいきましょう。そうすることで、わたしたちは神の愛と救いの中で、自由と真理に生きることができるのです。

 

2025年9月14日 (日)

イザヤ書 46章3~4節 「神に背負われて」

~高齢者の日礼拝~

 わたしたちは人生の中で、お金はもちろんのこと、人間関係における優位性といったものに頼りたくなるときがあります。しかし、それらは決してわたしたち自身を背負ってはくれません。むしろ、わたしたちがそれらを背負うことで、かえって悩み苦しむことが少なくありません。疲れて、弱り切っている時にこそ、いのちがけでわたしたちを背負ってくださる方、それがまことの神です。聖書の神は偶像ではありません。驕り高ぶる者には審きを、弱っている者には慰めを与えるのです。具体的な言葉と導きによってです。この神の行動を第2イザヤの今日の箇書では「背負う」イメージに寄せて、捉え直しているのです。「白髪になるまで」、つまり年老いていく現実の中で、神はわたしたちを背負ってくださるのです。この「背負う」という言葉には、単なる支え以上の深い意味があります。それは、重荷を引き受け、責任を持ち、目的地まで運んでくれる、深い愛の行為です。神はわたしたちの人生の重み、体力の衰えや病気、そして孤独といった不安をすべて知っておられ、それを共に担ってくださる方なのです。

 歳を重ねることは、「終わり」に向かう絶望や諦めの季節ではありません。むしろ、人生の集大成であり、神の恵みを証しする時です。教会においても、高齢者の存在はかけがえのないものです。その信仰の歩みは若い世代の希望となり、神の真実さを語る生きた証人となることができます。

 イザヤ書は「救い出す」と語っています。これは、単なる慰めではなく、永遠の命への約束です。人生の終わりに向かう旅路において、神は私たちを最終的に死から救い出し、神の国へと導いてくださいます。どんなに弱くなっても、神の救いは確かであり、わたしたちは神の腕の中で安らぐことができるのです。「神に背負われて」とあるのですから。

 しかし、だからこそ逆説的に、わたしたちはそれぞれに負うべきものを負うことができるのです。わたしたちは、自分の力ですべてを背負う必要はありません。主イエス・キリストの神がわたしたちと共にいてくださり、担い、背負い、救い出してくださる約束があるからこそ、わたしたちは安心して歩み続けることができるのです。見棄てることなど決してなく、私たちの生涯をご自身のものとして受け止め、担ってくださる。そのように、神に信頼していいのです。神に委ね、頼っていいのです。負いきれない重荷もまとめて、神がわたしたちを背負ってくださっていることを信じる幸いに包まれているのです。

2025年9月 7日 (日)

マタイによる福音書 8章1~4節 「清くなれ」

 「既定の病」のその人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」との悲痛な魂の叫びをもって主イエスのもとにやってきます。家や街から隔離され、排除され、自分の生きる場が奪われています。そこから、やってきたのです。「汚れ」として断罪されていることで、生きる価値なしとされている、そのままの姿をさらけ出しているのです。主イエスにのみ、切実にすがろうとする痛みがここにはあります。主イエスはその人に触れます。その人の「汚れ」ているとされているすべてのいのちまるごとを主イエス自らが全面的に引き受けたのです。同じいのちの祝福を分かち合ったといってもいいかもしれません。自分の聖さを担保しておいた上で治したのではありません。その人と同じ「汚れ」を自分の身に負ったのです。そういう行為が「手を差し伸べてその人に触れ」ということです。主イエスは、その病に悩まされ、苦しめられ続けてきた人を癒します。このことを主イエスご自身が望んでいるのです。

 「規定の病」の人の皮膚を超えて、その人自身に主イエスが触れた、皮膚という境界線をあいまいにしたこの物語は、わたしたち自身のありかたをも良しとしてくれます。わたしたちは、鋼鉄のような皮膚感覚を持っているのではありません。きっちりとした「わたし」という皮膚によって守られているのではありません。「わたし」という存在には、いつもどこかあいまいな破れや傷んだ皮膚感覚のようなものと共にある危うさと隣り合わせだからです。

 現代日本では、非常にわかりやすい響きをもった言葉たちが撒き散らされています。特権階級に対する嫌悪感、「国民」とか「伝統」と文化を重んじるべきこと、そのような価値観への強いこだわり、安直なナショナリズム、移民への怖れと反対などという傾向をもつ、白黒をはっきりさせる、ゼロか100しかないないみたいなイデオロギーです。あいまいさとか多義性、多様性、柔軟さなどを認めないのです。これらの根底にあるのは自己肯定感の欠如だという説にわたしも同感です。他者との関係性で言えば、ありのままの自分自身を良しとできないから、わかりやすい基準で他者をさばき、自分より「下層」を作ることで安心するしかない。

 しかし、主イエスが、「規定の病」の人を全面的に受け止めたのは、不明瞭な皮膚感覚をもった生身の人間のあるがままの姿の肯定です。白黒でも、ゼロ100でもないグラデーションを受け入れる主イエスの心意気ではないかと思うのです。「よろしい。清くなれ」と主イエスが良しとされた「わたし」を安心して生きていくところに、この社会の息苦しさから脱していく道があるのではないでしょうか。

«マタイによる福音書 7章24~29節 「御言葉に立つ」

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