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2025年6月

2025年6月29日 (日)

マタイによる福音書 6章19~24節 「心の向かう先」

 マタイ福音書の誘惑物語の三つ目には次のようにあります。48節からです。【 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。】。このように主イエスご自身は富、そして富にまつわる権力への誘惑に晒され、しかし打ち勝ちました。この主イエスが、神か富かを問うのです。「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」とは、主イエスがそうであったように、富の誘惑から自由とされ、神の意志に生きることです。富に敗北することとは「地上に富を積」むことです。そうではなく、「富は、天に積みなさい」との言葉に生きることが重要です。主イエスの思い、とりわけ「幸い」の祝福の内に、祈りをもって主イエスの道に従うことの途上にある今を生きること、言葉を作り出すこと、行動することです。富に権力を与えたり、その奴隷となることではありません。富をモノとして相対化する視点によって歩むことです。山上の説教の聴衆が、富に溺れたソロモンなどとは違う、下積みを強いられた庶民であったことを思い出す必要があります。

 わたしたちの生活は注意を怠ればすぐに富の奴隷となってしまう危険に晒されています。この中にあって、自分の富、家庭の富、地域の富、国家の富などに対して、相対化する視点をもちながら、富に使われる、支配されるのではなくて、使う側、支配する側に立つ方向へと心を定めていくことを今日の聖書は求めているように思われます。お金を全く否定するわけではない。しかし、お金に支配されないための自由さへの招きと、どのようにしたらいいのかを考えるきっかけを与えてもいるのではないでしょうか。

 富は人や国などを支配し、生き生きとしたいのちを不自由へと縛り付ける力があります。富を正しく用いるためには、その富が人を自由にし、生かすものなのか、それとも人を縛りつけ不自由にするものなのかを見極める必要があります。その知恵をわたしたちの心はどのように受け止めるのでしょうか。これを検証するところから始めていこうではないかというのが、主イエスからの提案なのではないかと思うのです。

 母の胎に宿り、生まれ、成長し、この世の生を終えるまで、結局お金じゃないか、そう実感せざるを得ないのが、わたしたちであることは重々承知しています。しかし、主イエスの言葉を受けることによって、それでもわたしたちの心の向かう先には別の物語があると信じるのが、主イエスの道であることを確認することが大切なのではないでしょうか。結局お金じゃないかという風潮の中で、お金がすべてじゃないとの立ち位置を確認し、別の物語を模索する途上にあり続ける決断を忘れないことが必要とされるのではないでしょうか。

2025年6月22日 (日)

マタイによる福音書 6章5~18節 「祈りについて」

 今日の聖書では、「偽善者」である「律法学者たちやファリサイ派の人々」が悪で、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と密室の祈りを勧めているように読めるかもしれません。祈りとは本来、誰かの目を気にして、しかもよく見てもらおうとの心根に支えられた行いであってはならないのだと。マタイ福音書の「人に見てもらおう」とせず、密かに祈れという指摘自体は正しいと思います。しかし、それだけで事は済むのかというのが、今日の問題意識です。この「人に」というのが必ずしも誰か他の人に限定されないのではないかと考えるからです。「人に見てもらおうと」することが、「自分に見てもらおうと」する態度につながる危険性があると思うのです。つまり、自分の信仰に酔ってしまうような祈りがあると感じます。

 人間の祈りには、どうしても言葉や振る舞いや態度などとの整合性において破れがあります。完全で正しい祈りは不可能なのです。だから主イエスは、ユダヤ教の祈りを踏まえて単純に、そして率直に祈るべき態度を教えたのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」、だから、祈る必要などない、のではありません。祈ることは主イエスの教えです。「主の祈り」を提示することによって、人間の祈りの不可能性から可能性への転換の道があることを主イエスが示されたとも言えます。祈りとは通常、人間の側からの能動的な行いであると考えがちです。しかし、そうではありません。基本的に祈りとは神に対しての応答的な行いです(幼い日のサムエルの祈りを思い出していただきたい)。すでに神ご自身が一人ひとりに向かって語りかけてくださっているので、それに対する応答として祈ることができるのです。

 わたしたちは、いつどんなときでも祈ることができます。祈りの基本というのは、まず神がイエス・キリストにおいて語りかけてくださっているがゆえに、わたしたちはイエス・キリストの名前によって祈る道が与えられている、そういう幸いがあるということです。その祈りを聞いてくださる方があり、わたしたちは何の遠慮もせずに祈ることができるということです。ただ、それは必ずしも自分の願いどおりになるとは限らないことは忘れないでおきたい。しかし、いつになるのかは分からなくとも、神の言葉はすでに用意されている、と信じることはできます。主イエス・キリストの呼びかけと語りかけに対して応答していく、わたしたちの祈りは人格的な交わりです。絆の確かさの確認でもあります。ここには恵みがあります。

2025年6月15日 (日)

ヨハネによる福音書 4章7~15節 「生かす水」

~子どもとおとなの合同礼拝~

 ある日の昼下がり、井戸端で主イエスが一人の女性と出会いました。そして「水を飲ませてください」と話しかけました。主イエスはユダヤ人で、その女性はサマリア人でした。その当時はユダヤ人とサマリア人はとても仲が悪くて、話をすることすら嫌がるほどだったのです。なので、その女性はとても驚きました。それから、水についての言葉のやり取りをするのですが、どうもスッキリしません。主イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とお話になったのです。その女性は井戸から汲んで飲むことのできる水のことを話していたのですが、主イエスが話していたのは、心に与える水です。いのちを守り育てるところの水です。心を安らかにしたり、潤したり、落ち着いた気持になったり、という人間の中心を支え導く力の働きをもった水の話です。「生きた水」とは、神によって生きることが赦されている今を支えるもとになるものです。水がなければ花が枯れてしまうように、これがなければ心が渇いてしまう、生きていて良かったとか嬉しいとかありがとうという気持ちのもとになることを「生きた水」なのだと主イエスはお話したのです。

 主イエスは「与える水はその人の内で泉となり」と言いました。泉とは、地面から自然に水が沸き上がってくるところです。どんどん湧いてくる感じです。主イエスから力をいただくと、その人の心の中には、生きるための希望や勇気や力が沸き上がってくるのだと教えているのです。このことを、この女性は最初は分かりませんでしたが、だんだんと分かってきました。この主イエスの言葉には人の心の一番奥底にある悲しみや辛さなど、人の元気とか生きる力を弱くしてしまうものを、「生きた水」によって生き生きとなることができるようにしてくれるのだと分かったのです。この主イエスからの水に養われて、渇いた心が潤され、心の中にそれぞれが花を咲かせるような生き生きとしたあり方へと招かれていることを信じます。

 わたしたちも、毎日の生活の中で渇いた心の状態になることもあるかもしれません。でも、「生きた水」の力があるから、何度でも生き生きとなることができるのだと聖書は教え続けているのです。そしてさらには、このことを知らされた人は誰か他の人にも教えてあげたくなるのです。このようにして、「生きる水」としての主イエスの働きが広がっていけば、幸せがと広がっていくと信じることができるのです。

2025年6月 8日 (日)

使徒言行録 2章1~11節 「言葉は通じる~平行線は交わる」

同じ言語を使っていても、別に特別な専門用語のようなものではなく、日常の感覚の言葉を使いながら、言葉が通じないゆえ心が、その思いが通じていかないということが非常に多いことは誰しもが実感していることでしょう。違いを認め合うことができるのか、自分とは異なる考えの人々がなぜそのように考えるのか、想像力が欠如しているゆえと思われます。

 今日の説教題は「言葉は通じる~平行線は交わる」です。普通「平行線は交わらない」と考えます。わたしたちは、お互いの主張や意見が決定的に対立し、どれだけ対話を重ねつつ議論してもお互い歩み寄れないとき、「話が平行線だ」と言います。解決策などないだろうと諦めに似た気持ちを抱くことも少なくありません。しかし、本当にそれはキリスト教的なものの考え方なのか、可能性はないのかなどについての方向性くらいは最低限確認しておきたいのです。

 「平行線」とは、もともと数学から来ています。同じ平面上にあり一本の直線に直角に交わる二本以上の線のことです。ここから、意見や立場や主張が異なる時には何の解決策すらなく、ただ終わりのない対立があるだけだという意味となります。しかし、非ユークリッド幾何学では「平行線は交わる」ことがあるという考え方があるそうです。ざっくりした例えですが、地球を思い浮かべてください。赤道に直角に交わる線を経度と言いますが、「一本の直線」に直角に交わる二本以上の線です。つまり、平行線です。しかし、これらは皆北極点と南極点で交わります。平面上で交わらない平行線も、曲面上では交わることもあるということです。この「平面上」ではなく、「曲面上」という発想の転換が重要なのではないでしょうか。

 今日の聖書の奇跡物語は、ガリラヤ訛りで話しているはずの言葉なのに、様々な母語を持つ人々が「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」のです。ペンテコステ(聖霊降臨日)は、弟子たちの上に聖霊が降るという事件によって教会が誕生した記念日とされています。それだけではなく、聖霊に満たされてガリラヤ訛りのアラム語が、聞く人の母語として聞かれたという奇跡物語でもあります。わたしは、この物語を読むたびに通じない言葉が通じていくことを聖霊なる主イエスが備えてくださるのだという希望を抱くことができます。聖霊によって平面上から曲面上へと位相が移されたのです。

 一致とは、一色に強制的同一化することではありません。均質化されてもならないのです。信仰的なものの考え方や発想や振る舞いなど様々な側面において均質化が見られますが、これらは「一致」ではありません。多様性が尊重されながら、一人の主イエス・キリストの聖霊の注ぎによって一つとされていく現実を信じるところにペンテコステ(聖霊降臨)の信仰があるのです。この意味において「言葉は通じる~平行線は交わる」という信仰理解に立つことができるのではないでしょうか。

2025年6月 1日 (日)

マタイによる福音書 6章1~4節 「自己顕示欲を捨てること」

 わたしたちは、イエス・キリストのみをまことの唯一の神と信じて、ここにこうして集められています。この神を信じている以上、神の前に正しく良い人間になりたいと思うこと自体は決して悪ではありません。しかし、この正しさだとか良いことを求めて、何かしらの振る舞い・行動を為す時には誘惑のようなものがあります。それは、神(の像)を気にしすぎるあまり、頑張りすぎ、肩だとかいろいろなところに力が入ってしまい、必要以上に不自然な良い人間を演じてしまうところにあります。行き過ぎれば、偽善に陥り、自己顕示欲の虜となってしまうこともあります。今日の聖書が、このような信仰に対する熱心さや一生懸命さのあまりに陥ってしまう危険に対しての警告の言葉として、自らのあり方を顧みるきっかけとなればと思います。自己の振る舞いが「見てもらおうとして」という動機に基づいてはいないかと問いかけているのです。

 キリスト者の倫理としての「施し」とは、どこまで水平になれるのか、上から下に向かう眼差しを相対化できるのか、思い上がってはいないか、など本来は自らが問われる働きです。これができなくても、少なくとも助け合いという庶民の生活感覚が必要なのです。「施し」は上から下という方向ではない。水平を目指すべきとあまたで理解していても自己顕示欲に支えられた信仰的な陶酔から自由になれていないことが多々あります。しかし、主イエスが行った様々な働きに倣うならば、もっと自然に誰かが困っていたら何の衒いもなく助けてあげればいい、自分が困っていたら助けてって言えばいいじゃないかという地点に近づくことを目指すべきなのではないでしょうか。それは「世間の目」や、その背後にある幻想としての「神の目」を気にすることじゃないのだ。本物の神は、すべてお見通しなんだから気にするなよ、と主イエスは語ろうとしていると思うのです。

 確かに、わたしたちは「世間の目」やその背後にある幻想としての「神の目」から自由ではありません。気にしてしまう性をもっています。しかし、この抑圧から自由になっていく本当のきっかけへの招きの言葉として今日の聖書を解釈することができるのではないでしょうか。本物の神がイエス・キリストであるなら心配は必要ないということです。「世間」に見栄を張ったり、自己顕示欲を満足させる必要がないことが知らされたら少しは気が晴れるのではないでしょうか。神から喜ばれる、神の側からの本物の「報い」が恵みとしてここに備えられていることを信じればいいのです。そういう庶民の暮らしの復権が語られているのではないでしょうか。ここでこうして生きているわたしたちの存在を無条件に全面的に肯定する神の思いが届けられているのではないでしょうか。

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