マタイによる福音書 6章19~24節 「心の向かう先」
マタイ福音書の誘惑物語の三つ目には次のようにあります。4章8節からです。【 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。】。このように主イエスご自身は富、そして富にまつわる権力への誘惑に晒され、しかし打ち勝ちました。この主イエスが、神か富かを問うのです。「あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」とは、主イエスがそうであったように、富の誘惑から自由とされ、神の意志に生きることです。富に敗北することとは「地上に富を積」むことです。そうではなく、「富は、天に積みなさい」との言葉に生きることが重要です。主イエスの思い、とりわけ「幸い」の祝福の内に、祈りをもって主イエスの道に従うことの途上にある今を生きること、言葉を作り出すこと、行動することです。富に権力を与えたり、その奴隷となることではありません。富をモノとして相対化する視点によって歩むことです。山上の説教の聴衆が、富に溺れたソロモンなどとは違う、下積みを強いられた庶民であったことを思い出す必要があります。
わたしたちの生活は注意を怠ればすぐに富の奴隷となってしまう危険に晒されています。この中にあって、自分の富、家庭の富、地域の富、国家の富などに対して、相対化する視点をもちながら、富に使われる、支配されるのではなくて、使う側、支配する側に立つ方向へと心を定めていくことを今日の聖書は求めているように思われます。お金を全く否定するわけではない。しかし、お金に支配されないための自由さへの招きと、どのようにしたらいいのかを考えるきっかけを与えてもいるのではないでしょうか。
富は人や国などを支配し、生き生きとしたいのちを不自由へと縛り付ける力があります。富を正しく用いるためには、その富が人を自由にし、生かすものなのか、それとも人を縛りつけ不自由にするものなのかを見極める必要があります。その知恵をわたしたちの心はどのように受け止めるのでしょうか。これを検証するところから始めていこうではないかというのが、主イエスからの提案なのではないかと思うのです。
母の胎に宿り、生まれ、成長し、この世の生を終えるまで、結局お金じゃないか、そう実感せざるを得ないのが、わたしたちであることは重々承知しています。しかし、主イエスの言葉を受けることによって、それでもわたしたちの心の向かう先には別の物語があると信じるのが、主イエスの道であることを確認することが大切なのではないでしょうか。結局お金じゃないかという風潮の中で、お金がすべてじゃないとの立ち位置を確認し、別の物語を模索する途上にあり続ける決断を忘れないことが必要とされるのではないでしょうか。


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