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2024年12月 2日 (月)

詩編65:10~11 「祝福された大地を」

 神が天地創造したことは「極めて良かった」とあります。しかし、アダムとエバに始まるとされている人間の歴史はどうなのでしょうか。現代のキリスト教会は、この「極めて良かった」とされている世界に対して本当に相応しく振舞ってきたのかが問われ続けていることを自覚することも少なくありません。大地を「支配」「従わせ」たいという人間の限度を超えた思い上がりは、自らに依り頼む傲慢さを表しています。7節と8節には「御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。」とあります。詩編65の作者は、少なくとも自然や環境に対して、あくまで全権をもっているのは神だとの理解があります。その神の現実存在があるからこそ、4節では「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。」と語ることができているのです。人間には自然を司ることはできないし、赦されてもいないのです。神からの祝福に対して謙虚さをもって応えていくしか道がないのだと悟らなければならないのです。この意味において大地に「仕える」道が求められているのではないでしょうか。

 聖書に証言されているイエス・キリストの神こそがまことであり、大地を祝福している方なのだという信仰に改めて立ちたいと願います。

 数年来わたしたちの収穫感謝礼拝では、「一握りの米」を集め、信愛塾にささげています。言葉や文化の壁、貧困など生きにくさを抱えた子どもとその家族を支え続けている信愛塾に米をささげることが、ささやかながらわたしたちの「収穫感謝」であり、今日の詩編の示す方向に導かれていくのだと考えています。天地創造する神が収穫をもたらしてくださるのなら、それに与る者はより相応しくありたいと願いつつ応えていくのです。

 小さな働きであることは確かですが、収穫感謝を神にささげることとは、誰かといのちにおいてつながる方向である必要があると思われます。祝福された大地で生きることは、「魔法使いの弟子」(魔法で箒に水汲みをさせた弟子が、やめさせ方がわからず、水浸しになる話)のような思い上がりの道によって溺れていくようなあり方ではなくて、わずかな力であっても支え合っていけるいのちを信じる道への歩みへと導かれていきたいのです。

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