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2024年12月

2024年12月29日 (日)

マタイによる福音書 1章1節 「マタイの信仰」

 何度かお話していますが、マタイによる福音書を通して読むと、主イエス・キリストの神は、誕生において「インマヌエル」「神は我々と共におられる」とあり、復活のキリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とあります。つまり、マタイによる福音書のエッセンスは、主イエス・キリストは「共にいる」方なのだということです。さらに言えば、マタイによる福音書が強調するのは「行い」です。主イエス・キリストを信じる信仰者は、ただ心の内に信じるだけでは不十分だと考えているのです。この点においてパウロとは対照的です。パウロは彼の手紙の中で「行い」を一段低く考えています。何ヶ所も引用できますが、、たとえばローマの信徒への手紙328節には「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」とあります。マルティン・ルターが再発見し、宗教改革の中でも大きなテーマになった、いわゆる「信仰義認論」としての「信仰のみ」という考えが強いのです。パウロはもともとファリサイ派から改宗したのですが、ファリサイ派の信仰理解は、神が人間に要求する事柄は律法として与えられていて、これを遵守することによってのみ神は義として認める、みたいな発想です。パウロは、このユダヤ教ファリサイ派の考え方ではなく、向こう側からやって来る「信仰の事態」に重きを置いたのです。しかし、マタイによる福音書は、律法の順守をファリサイ派では生温いので、もっと徹底的に「行い」を重視せよと命令しているのです(マタイ51720参照)。

 主イエス・キリストが律法と預言者である旧約聖書の完成・成就なのだというのです。「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とは、ファリサイ派以上の律法順守を「行い」において証しするのだということです。律法は600項目以上あるとされます。それらを実際に守る以上の「行い」が求められることになります。しかし、現実には不可能と思えます。あまりにも複雑で細かくなっているために、熱心なファリサイ派であったとしても完全に守ることは相当困難であるはずです。マタイによる福音書の「ファリサイ派に勝る義の追求」は不可能を追い求めることになります。それを「可能」と言うには、「主イエスの教えを行うことで乗り越えた」を合理化するしかなくなるのではないでしょうか。

 マタイによる福音書の証言する主イエス・キリストは、読む人の生き方や人生を決定させるものであり、「ことを起こす神」の力ある言葉なのです。神の正しさ・義は、主イエス・キリストにおいて実現され、絶えず聖書から導かれなくてはなりません。神の愛が共にいるという主イエス・キリストによって導かれる生き方こそが、キリスト者に求められることです。

2024年12月24日 (火)

ヨハネによる福音書 1章1~14節 「まことの光」

 旧約聖書の最初の部分は天地創造物語という神話です。神が言葉によって六日間で全世界とあらゆる命を作り出し、七日目に休まれたという記事です。ここで注目すべきは、神の最初の言葉は「光あれ」です。わたしたちは「光」と聞くと、太陽や月、星などを思い浮かべると思います。ところが、それらは4日目に作られたとなっています。114から19節です。【神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。】。ここでは、わたしたちが太陽や月や星と呼ぶところのものが創造されています。そうすると、「光あれ」との言葉で呼びかけることによってたらされた「光」とは、「太陽」や「月」や「星」に先立って神によって創られた何かであるはずです。目で見て確認できるところの「光」とは全く別物としての象徴的な意味であると言えます。神の意志の表れとしての生命の基本、秩序の基本だというのでしょう。いわば、最初に創造されたのは目で見て確認できるようなものではない、天地に関わる一切の「根源としての光」です。この世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、積極的によきものとされたということです。「光あれ」という神の言葉は、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらすのだというユダヤ教の理解があるのです。

 キリスト教会は、この理解を踏まえています。イエス・キリストとは、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台なのだ、としてです。キリスト教会はこの「光」を、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、「イエスの十字架の死と復活を中心とする救いの出来事」として再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:15a)。

 主イエス・キリストは、旧約に示された神「光あれ」との思いが人となった姿そのものです。ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるようにです。この方こそが「まことの光」「根源的な光」なのだと確認するのがクリスマスを祝うということです。

2024年12月22日 (日)

マタイによる福音書 1章18~25節 「私たちと共に」

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます。今日のクリスマス礼拝は、子どもとおとなが一緒です。子どももおとなも一緒にイエスさまの誕生を祝いたいと思います。

 キリスト教の教会は、イエスさまの誕生について旧約聖書に書かれていることが実現したのだと信じています。先ほど司会者に読んでいただいた聖書の23節をもう一度読んでみます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 人には誰でも名前が付けられています。生まれた時に付けられることが多いです。ただ、大きくなって自分で名前を付け直したり、様々な理由で変えたりすることもあります。いずれにしても、名前には付けた人の願いが込められた意味があります。そして、わたしの場合、「この人は名前の通りに生きているな」と思うことが多いです。

 わたしたちは、イエス・キリストと呼びます。これは、イエスはキリストであるということです。キリストは日本で言う苗字ではありません。ギリシャ語で「クリストス」と発音され、意味は「油を注がれた者」です。これは、イスラエルの王や神さまの仕事に就く人の頭に際に油を注ぐ儀式からきた言葉ですが、「救い主」という意味です。「イエス・キリスト」とは、「イエスはキリストである」ということ、つまりイエスさまが救い主だということです。イエスという名前はユダヤ人の決して珍しいものではありません。ギリシャ語の発音だと「イエス―ス」ですが、本来のヘブライ語では「イェホシュア」で、旧約聖書に出てくる「ヨシュア」と同じです。意味は「神は救う」です。神は救うと名付けられたイエスの実際は「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」という意味だというのです。

 クリスマスをお祝いすることは、イエスさまが「神は我々と共におられる」ことを新しいことだと認めることです。イエスさまが神さまとして、わたしたちと一緒にいてくださる、共にいてくださる、このように平安と平和な生活の中で真っ直ぐに思えるなら、それは素敵なことなのかもしれません。それはそれで、素直に喜べばいいのだと思います。しかし、わたしたちの日頃の生活や街や国、世界を思うと、本当にイエスさまがわたしたちと共にいるとは思えないことも多いのではないでしょうか。小さなことも大きなことでも、様々なトラブルや争いなどが絶えず引き起こされているからです。戦争や紛争、災害や親しい人の怪我や入院や難しい手術、あるいは死という出来事がいつもどこかにあります。生活の不安定で、お金も住むところも食べ物も仕事もない、もうどうしたらいいのかと途方に暮れてしまっている人もいるのが、この社会であり世界です。「神は我々と共におられる」なんて、とてもじゃないけど言えないよ、そう思えるのは当然のことです。

 けれども、イエスさまが生まれたことの意味は、そういうどうしたらいいのか分からない、途方に暮れてしまっているところにこそクリスマスは向かってくるということです。神さまが、そのあなたと「共にいたい」「一緒にいたい」そう願う願いがあるのです。その神さまの思いが、一人の人間の赤ちゃんとしてやって来ることを祝うのがクリスマスです。

 「インマヌエル」という言葉は、聖書には今日のところの他には旧約聖書のイザヤ書に1箇書あるだけです。しかし、この「インマヌエル」という言葉は重要です。旧約聖書のイザヤ書の預言が実現したとマタイによる福音書は信じているのです。(マタイによる福音書を最初から終わりまで通して読むと分かります。一貫して、イエスさまは私たちと共にいることを願い続けていることが書かれているからです。)わたしたちと共にいるために、人間の赤ちゃんとして生まれたイエスさまの誕生を今日はお祝いしています。この赤ちゃんは、やがて大きくなり活動を始めます。悲しい人、病気の人、寂しい人、食べるもののない人など様々な痛みや弱さの中にいる一人ひとりと出会い、まことの仲間・友となったのです。使徒パウロは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と諭していますが、この生き方をイエスさまは貫いたのです。マタイによる福音書の5章に山の上でのイエスさまの説教があります。ここで語られている「幸いである」とは、「貧しい人々」「悲しむ人々」「飢え渇く人々」など「幸い」から遠い人たちに向かって語りかけています。この人たちこそが「幸い」である社会・世界に向かって、一緒に歩んでいこうという気持ちに溢れた言葉なのだと思います。このイエスさまの働きは、ローマ帝国の偉い人たちやユダヤ教の偉い人たちの気に入らないものでしたから、策略によって十字架で殺されてしまうのです。しかし、イエスさまは三日目に復活します。そして、復活したイエスさまはみんなを山に集めて説教をします。それがマタイによる福音書の一番終わりの言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。復活して、今はもう人間の姿としては見えないけれど、言葉としてわたしたちと共にいてくださるのが、わたしたちの信じる、救い主であるイエスさまです。イエス・キリストです。

 この礼拝は、このいつも一緒にいてくださるイエスさまの誕生をお祝いするクリスマスです。ちょっとややこしいですが、イエスさまの誕生日をお祝いする日ではありません。わたしたちの、幸せではないこの世界にイエスさまが誕生した、そのことをお祝いする日です。だから、「イエスさま、誕生日おめでとう」ではなく、「あなたにもわたしにも、イエスさまが来てくださって良かったね、おめでとう」という意味の「クリスマスおめでとう」です。「神は我々と共におられる」インマヌエル、これは人間のあり方の基本の中の基本です。神さまがどういう方であり、その願いが赤ちゃんとして来られるイエスさまとして実現していることを見つめることが求められているのです。人間のあり方そのものを支える中心こそがインマヌエルなのだと心に刻みたいのです。

 このクリスマスの祝福の迫りをご一緒に感じたいと思い、改訂版こどもさんびか131の「かなしいことがあっても」を歌います。歌える人は一緒に歌いましょう。3回繰り返します。

悲しいことがあっても、なきたい時にも、いつもいつも きみのこと 守ってくれるだろう

イエスさまがきて イエスさまがきて イエスさまがきて 守ってくれるだろう×3

<祈り>

イエス・キリストの神さま!

クリスマス、ありがとうございます。

クリスマスがあるから、どんな辛さや悲しみなどに直面しても耐える道や逃げる道が用意されています。

わたしたちは、だからこそ決して独りぼっちになることはありません。

神の国に希望をつなぐことが赦されています。

赤ちゃんイエスさまの微笑みがあるから、わたしたちの心の奥には平安があると信じます。

クリスマスをお祝いする心で、喜びも悲しみも受け入れる力と勇気が与えられます。

もう一度言います。

クリスマス、ありがとうございます。

この祈りを、飼い葉桶の主、幼な子主イエスの御名によってささげます。

                          アーメン。

2024年12月 8日 (日)

マタイによる福音書 13章53~58節 「故郷を越えて」

 主イエスの活動の前半はガリラヤ湖周辺です。教えを説き、奇跡を行いました。様々な弱りにある一人ひとりを力づけ、助け、生きる希望を作り出す働きを行って。この人こそ救い主だと受け入れられていったのです。しかし、故郷では事情が違ったという記事です。58節では「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」とあります。その理由として、おそらく当時の諺として使われていたであろうセリフを語ります。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と。故郷や家族というフィルターを通した目からは、「幼い時から知っているさ」、「あのヨセフとマリアのところの長男だろ」「こんな小さい時から知っている」というように、あいつのことはよくよく知っているという思い込みによって、故郷ナザレの村では「イエスにつまずいた」という無理解が起こったというのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と一応驚いて見せるのですが、結局「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」として片付けられてしまうのです。故郷の力はここにはあります。家族自身も、そして家族を通して見るナザレの人々は、幼い日々からの親しさのゆえに、今の主イエス自体を理解できないし、受け入れられないのです。イエスのことは今更言われなくても分かっているという彼らの常識が、本質を見抜く力を台無しにしてしまったのです。分かっているからこそ、分からないという「つまづき」があるのだと今日の聖書は指摘しているのだと思います。

 この、分かっているからこそ分からないという「つまづき」について、待降節、アドベントにおいて自分事として捉え返してみたらどうか、という提案が今日の聖書記事を通してなされているのではないかと思います。わたしたちはアドベントからクリスマスを迎えることの意味は十分知っていると考えています。知っていること自体は決して間違いではないでしょう。しかし、その当然の知識のようにされていることの中に、習慣になってしまい、鈍い感性になってはいないか、「つまづき」のような状態になっていないかを自己検証してみないかと言われているように感じます。

 アドベントからクリスマスとは新しい何かが始まることを期待して良いのだという明るい信頼があります。それを、信仰と呼んでもいいのかもしれません。わたしたちはすでにクリスマスを理解している、と誤解しているのかもしれません。しかし、向こう側からクリスマスはやって来るのではないでしょうか。主イエスは、今年も新しく来られる。ここに、今年も期待し、希望をもつことが赦されていることをご一緒に確認しつつ、アドベントを過ごしたいのです。ナザレの人々の、すでに主イエスのことを知っているという「つまづき」は、わたしたちの「つまづき」でもあるのです。この「つまづき」から自由にされていく道への招きに与りたいのです。いや、すでにわたしたちが招かれてしまっていることに気づかせてください、このように祈りつつアドベントを過ごしたいと思います。

2024年12月 2日 (月)

詩編65:10~11 「祝福された大地を」

 神が天地創造したことは「極めて良かった」とあります。しかし、アダムとエバに始まるとされている人間の歴史はどうなのでしょうか。現代のキリスト教会は、この「極めて良かった」とされている世界に対して本当に相応しく振舞ってきたのかが問われ続けていることを自覚することも少なくありません。大地を「支配」「従わせ」たいという人間の限度を超えた思い上がりは、自らに依り頼む傲慢さを表しています。7節と8節には「御力をもって山々を固く据え/雄々しさを身に帯びておられる方。大海のどよめき、波のどよめき/諸国の民の騒ぎを鎮める方。」とあります。詩編65の作者は、少なくとも自然や環境に対して、あくまで全権をもっているのは神だとの理解があります。その神の現実存在があるからこそ、4節では「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。」と語ることができているのです。人間には自然を司ることはできないし、赦されてもいないのです。神からの祝福に対して謙虚さをもって応えていくしか道がないのだと悟らなければならないのです。この意味において大地に「仕える」道が求められているのではないでしょうか。

 聖書に証言されているイエス・キリストの神こそがまことであり、大地を祝福している方なのだという信仰に改めて立ちたいと願います。

 数年来わたしたちの収穫感謝礼拝では、「一握りの米」を集め、信愛塾にささげています。言葉や文化の壁、貧困など生きにくさを抱えた子どもとその家族を支え続けている信愛塾に米をささげることが、ささやかながらわたしたちの「収穫感謝」であり、今日の詩編の示す方向に導かれていくのだと考えています。天地創造する神が収穫をもたらしてくださるのなら、それに与る者はより相応しくありたいと願いつつ応えていくのです。

 小さな働きであることは確かですが、収穫感謝を神にささげることとは、誰かといのちにおいてつながる方向である必要があると思われます。祝福された大地で生きることは、「魔法使いの弟子」(魔法で箒に水汲みをさせた弟子が、やめさせ方がわからず、水浸しになる話)のような思い上がりの道によって溺れていくようなあり方ではなくて、わずかな力であっても支え合っていけるいのちを信じる道への歩みへと導かれていきたいのです。

2024年12月 1日 (日)

マタイによる福音書 24:36~44 「目を覚まして」

 今日の聖書の24章1節から語られているのは、神殿の建物の破壊についての話を切っ掛けにして、世の終わりの来ることと、その徴についての記事となっています。そこでとるべき態度とは「目を覚ましていなさい」です。主イエスがやがて来られる時には、冷静で、素面でいることが求められるというのです。主イエスの再臨、再び来られる時には、様々な恐ろしい出来事があるのだと証言されています。しかし、来られたならば、完全な神の支配、神の国の訪れによって平和が、つまり神の御心に適った世界が到来するのだと約束されています。しかし、人間の歴史は、絶えず様々な争いや天変地異に直面し続けてきたのではないでしょうか。

 この地上は、あらゆる悲惨に満ちており、残虐さ、暴力性など人間の罪に満ち溢れている世界だと言っても決して言い過ぎではないかのようです。にもかかわらず、というよりむしろ、この世界であるからこそ、主イエスを幼な子として迎えるクリスマスの近づきを「目を覚ましていなさい」という言葉のもとに立つことこそが、アドベント、即ち主イエスの近づきに対する態度なのではないでしょうか。

 ここでの「目を覚ましている」ということは、非陶酔的に、冷静でいて、素面でいることですが、それだけではありません。それらの態度を支えているのは祈りなのだと福音書は考えているからです。「目を覚ましていること」と祈っていることが同義語であることは、ゲッセマネでの祈りの場面を思いおこせば分かります(263644参照)。

 主イエスはゲッセマネにおいて「目を覚まして」の「祈り」をささげました。目覚めているのは、主イエスその方であり、その祈りによって自らの十字架を引き受ける決意として「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と神の御心に委ねられたのです。「目を覚ましていなさい」と語る方こそが「目を覚まして」いる現実がここにはあるのです。しかし、この一方で弟子たちは、目を覚ましていることができませんでした。つまり、祈ることができなかったのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と言われても「心は燃えても、肉体は弱い」現実から弟子たちは自由にはなれなかったのです。

 この弟子たちの現実は、わたしたちにも当てはまるかもしれません。しかし、だからこそ「目を覚まして祈っていなさい」という態度に向かって絶えず悔い改めるべく方向転換していくようにとの求めが、アドベント、主イエスの降誕の時期における近づきの中で再確認されなければならないのではないでしょうか。アドベントとは、主イエスの降誕の時に対する備えに留まりません。祈りをもって「目を覚まして」この今、現代の闇の中で、光としてのクリスマスを迎える決意を新たにする時でもあるのです。

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