おはようございます。クリスマスおめでとうございます。今日のクリスマス礼拝は、子どもとおとなが一緒です。子どももおとなも一緒にイエスさまの誕生を祝いたいと思います。
キリスト教の教会は、イエスさまの誕生について旧約聖書に書かれていることが実現したのだと信じています。先ほど司会者に読んでいただいた聖書の23節をもう一度読んでみます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
人には誰でも名前が付けられています。生まれた時に付けられることが多いです。ただ、大きくなって自分で名前を付け直したり、様々な理由で変えたりすることもあります。いずれにしても、名前には付けた人の願いが込められた意味があります。そして、わたしの場合、「この人は名前の通りに生きているな」と思うことが多いです。
わたしたちは、イエス・キリストと呼びます。これは、イエスはキリストであるということです。キリストは日本で言う苗字ではありません。ギリシャ語で「クリストス」と発音され、意味は「油を注がれた者」です。これは、イスラエルの王や神さまの仕事に就く人の頭に際に油を注ぐ儀式からきた言葉ですが、「救い主」という意味です。「イエス・キリスト」とは、「イエスはキリストである」ということ、つまりイエスさまが救い主だということです。イエスという名前はユダヤ人の決して珍しいものではありません。ギリシャ語の発音だと「イエス―ス」ですが、本来のヘブライ語では「イェホシュア」で、旧約聖書に出てくる「ヨシュア」と同じです。意味は「神は救う」です。神は救うと名付けられたイエスの実際は「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」という意味だというのです。
クリスマスをお祝いすることは、イエスさまが「神は我々と共におられる」ことを新しいことだと認めることです。イエスさまが神さまとして、わたしたちと一緒にいてくださる、共にいてくださる、このように平安と平和な生活の中で真っ直ぐに思えるなら、それは素敵なことなのかもしれません。それはそれで、素直に喜べばいいのだと思います。しかし、わたしたちの日頃の生活や街や国、世界を思うと、本当にイエスさまがわたしたちと共にいるとは思えないことも多いのではないでしょうか。小さなことも大きなことでも、様々なトラブルや争いなどが絶えず引き起こされているからです。戦争や紛争、災害や親しい人の怪我や入院や難しい手術、あるいは死という出来事がいつもどこかにあります。生活の不安定で、お金も住むところも食べ物も仕事もない、もうどうしたらいいのかと途方に暮れてしまっている人もいるのが、この社会であり世界です。「神は我々と共におられる」なんて、とてもじゃないけど言えないよ、そう思えるのは当然のことです。
けれども、イエスさまが生まれたことの意味は、そういうどうしたらいいのか分からない、途方に暮れてしまっているところにこそクリスマスは向かってくるということです。神さまが、そのあなたと「共にいたい」「一緒にいたい」そう願う願いがあるのです。その神さまの思いが、一人の人間の赤ちゃんとしてやって来ることを祝うのがクリスマスです。
「インマヌエル」という言葉は、聖書には今日のところの他には旧約聖書のイザヤ書に1箇書あるだけです。しかし、この「インマヌエル」という言葉は重要です。旧約聖書のイザヤ書の預言が実現したとマタイによる福音書は信じているのです。(マタイによる福音書を最初から終わりまで通して読むと分かります。一貫して、イエスさまは私たちと共にいることを願い続けていることが書かれているからです。)わたしたちと共にいるために、人間の赤ちゃんとして生まれたイエスさまの誕生を今日はお祝いしています。この赤ちゃんは、やがて大きくなり活動を始めます。悲しい人、病気の人、寂しい人、食べるもののない人など様々な痛みや弱さの中にいる一人ひとりと出会い、まことの仲間・友となったのです。使徒パウロは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と諭していますが、この生き方をイエスさまは貫いたのです。マタイによる福音書の5章に山の上でのイエスさまの説教があります。ここで語られている「幸いである」とは、「貧しい人々」「悲しむ人々」「飢え渇く人々」など「幸い」から遠い人たちに向かって語りかけています。この人たちこそが「幸い」である社会・世界に向かって、一緒に歩んでいこうという気持ちに溢れた言葉なのだと思います。このイエスさまの働きは、ローマ帝国の偉い人たちやユダヤ教の偉い人たちの気に入らないものでしたから、策略によって十字架で殺されてしまうのです。しかし、イエスさまは三日目に復活します。そして、復活したイエスさまはみんなを山に集めて説教をします。それがマタイによる福音書の一番終わりの言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。復活して、今はもう人間の姿としては見えないけれど、言葉としてわたしたちと共にいてくださるのが、わたしたちの信じる、救い主であるイエスさまです。イエス・キリストです。
この礼拝は、このいつも一緒にいてくださるイエスさまの誕生をお祝いするクリスマスです。ちょっとややこしいですが、イエスさまの誕生日をお祝いする日ではありません。わたしたちの、幸せではないこの世界にイエスさまが誕生した、そのことをお祝いする日です。だから、「イエスさま、誕生日おめでとう」ではなく、「あなたにもわたしにも、イエスさまが来てくださって良かったね、おめでとう」という意味の「クリスマスおめでとう」です。「神は我々と共におられる」インマヌエル、これは人間のあり方の基本の中の基本です。神さまがどういう方であり、その願いが赤ちゃんとして来られるイエスさまとして実現していることを見つめることが求められているのです。人間のあり方そのものを支える中心こそがインマヌエルなのだと心に刻みたいのです。
このクリスマスの祝福の迫りをご一緒に感じたいと思い、改訂版こどもさんびか131の「かなしいことがあっても」を歌います。歌える人は一緒に歌いましょう。3回繰り返します。
悲しいことがあっても、なきたい時にも、いつもいつも きみのこと 守ってくれるだろう
イエスさまがきて イエスさまがきて イエスさまがきて 守ってくれるだろう×3
<祈り>
イエス・キリストの神さま!
クリスマス、ありがとうございます。
クリスマスがあるから、どんな辛さや悲しみなどに直面しても耐える道や逃げる道が用意されています。
わたしたちは、だからこそ決して独りぼっちになることはありません。
神の国に希望をつなぐことが赦されています。
赤ちゃんイエスさまの微笑みがあるから、わたしたちの心の奥には平安があると信じます。
クリスマスをお祝いする心で、喜びも悲しみも受け入れる力と勇気が与えられます。
もう一度言います。
クリスマス、ありがとうございます。
この祈りを、飼い葉桶の主、幼な子主イエスの御名によってささげます。
アーメン。
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