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2024年9月29日 (日)

ヨハネによる福音書 11章1~16節 「イエスは復活のいのちだから」

 読まれた聖書は11116ですが、17節以降のマルタの態度に焦点をおきます。

 ラザロが重たい病気にかかって死んで、その死を巡って彼をとりまく周りの人たちの反応などを折り混ぜながら物語は進められます。興味深いのは、今日読まれなかった17節以降のマルタの態度です。ラザロが葬られてから四日も経っていました。迎えに出たマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と語り、正直な気持ちを吐き出します。そして続けて「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と。これに対して主イエスは「あなたの兄弟は復活する」というのです。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。このマルタの答えには、死についての当時のユダヤ教の常識的な考えが描かれています。死んだ者たちは、この世の終わり、終末に復活するのだという考えです。しかし、主イエスは、次のように宣言し、マルタに問いかけます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」。これに対してマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」このように答えるのです。

 ヨハネ福音書は、主イエスのよみがえりを前提に、つまり、主イエスが十字架上の処刑からよみがえった勝利者であることを踏まえて物語る癖のようなものがあります。主イエスが十字架の死に打ち勝った復活者であるから、この世における死の向こう側の<いのち>の永遠においてわたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と語るのです。主イエスの復活の<いのち>に与ることにおいて、この世における死を向こう側の<いのち>への招きにおいて承認していく姿勢を与えるのです。

 このマルタの、いわば信仰告白と言っていいあり方とは、この世の<いのち>がこの世の<死>を受け入れつつもなお、向こう側の<いのち>への希望にあるという肯定的なものです。死の力を乗り越えているからこそ、向こう側の<いのち>を今のこととして祝福する光り輝く宣言の言葉のように思われます。ここには<いのち>への希望の信仰があるのです。

 もちろん、理不尽な<いのち>の奪われ方が世界中に蔓延していることに注意深くあることを忘れずに、です。

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