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2024年7月

2024年7月28日 (日)

ヨハネによる福音書 6章41~59節 「イエスの肉と血」

 本田哲郎神父の翻訳解釈によれば、41節から47節には「天から来たパン=イエス=のもとに来る人は、神に導かれている」という小見出しがあり、48節から59節には「イエスの生身(肉)に食らいつき、その生きざまに徹底してならえ」という小見出しがつけられています。今日の聖書を読み解くにあたって、ここにヒントがあるように思います。

 日本語で「飯を食う」とか「食べる」という時には、生計を立てるとか生活することを意味します。そして、どうやって飯を食うのかという問いがあるとすれば、ただ単にどんな仕事をして生活していくのか、という狭い意味だけではなくて、そもそもどのような態度や姿勢で生きていくのか?生きるべき信条とは何なのか?何を指標にして生きていくのか?という、生き方全般のあり方に対する問いとなるのではないでしょうか?

 今日の聖書が問うのは、読み手であるわたしたちが、主イエスの肉と血に与って生きているのかどうかを省みてみなさい、ということなのではないか、ということです。福音書に描かれている主イエス・キリストの生き方に倣い、真似びつつ歩んでいるのか、という問いが投げかけられているのではないでしょうか。福音書を細かく読めば、主イエスが、当時の格差社会、宗教的・経済的な差別社会、これら抑圧的な社会の仕組みの中で悩み苦しみ、苦闘の日々を送り、食うや食わずの不安定な生活が強いられている人たちと一緒に生きる喜びを作り出す働きの道を、十字架に向かって歩まれたことが浮かび上がってきます。差別される側の人たち、律法を守らない人たち、守れない人たち、汚れと判断される病気や障害や職業、そのような人たちの命が無条件で、そして生贄をささげなくても、今あるがままの姿で全面的に肯定されていることの表明・宣言を、主イエスはその身をもって行ったのではないでしょうか。今、生かされてあるあなたの命はそのままで美しい、祝福されているのだと語り続けたのではないでしょうか。

 主イエスの肉と血に与るということは、キリストをもっと知るために信じる道を歩み続けることです。現代社会において飲み食いは非常に厳しいです。戦争や紛争、災害や経済的な理由などにより具体的な飢えの問題は切実です。この時代にあって、飢え渇きのない世界を求めて、主イエスの肉と血に共に与る世界に向けって祈りつつ歩みながら、まことの平和がこの地上になりますようにと祈るものです。

2024年7月21日 (日)

ヨハネによる福音書 6章22~27節 「いのちの糧」

 26節を田川建三は次のように解釈しています【著者の眼から見れば、「徴」を見てイエスのことを持ち上げるような人々よりも、奇跡がどうこうではなく、素朴に、イエスが与えてくれたパンを食べて満足した、という人々の方が安心して会話できる相手だ、ということになる】。つまり、主イエスと一緒にパンを食べること、そして満腹することを全面的に承認する方向です。いわば、主イエスの食卓における祝福を肯定し、観念化や精神化に陥らず、単純に食べて満足している中に平安があるという発想があるのだと、わたしは受け止めています。

 この意味で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」この言葉を理解したいと思うのです。そしてさらには「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いに対する答えとして「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」という世界観に向かっていきたいと願っています。

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」この言葉を、永遠の命に与るためと信仰的に閉ざされた理解をするのがおそらく多数派であろうことは承知しています。しかし、通常の食卓と聖餐という儀式の食卓を分離するのではなく、主イエスは共なる食卓にこそ「永遠の命に至る食べ物」は備えられていること、その食卓を「聖餐」から「日常」へと取り戻すことの必要性を感じています。

 人が生きていくこと、いのちを保持するためには様々なものが必要です。特に、単純に食べることが大切です。何かしらの食べ物を食べることによって消化・吸収し排泄します。吸収された食べ物は血となり肉となり、身体を維持するエネルギーとなります。今、ここで生かされてあるいのちは食べることによって支えられているのです。辺見庸が、世界各地の日常食を食べる体験を書いた『もの食う人びと』というルポがあります。そこには、腐ったもの、放射能に汚染された料理も含まれます。そして「食べられない」現実も。ここに描かれている食べるという営みが「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という言葉と共鳴しているように、わたしには思えてくるのです。「永遠の命に至る食べ物」は、「すべての人が満腹」という日常の食卓の先にある、と思えるのです。主イエスは誰と食卓を共にしたのか、このことを常に軸にして考えたいと思います。

2024年7月14日 (日)

ヨハネによる福音書 6章16~21節 「恐れることはない」

 「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」場にある弟子たちを乗せたこの舟。この背後にはヨハネ福音書において主イエスの不在というテーマがあります。ヨハネ福音書の教会が「強い風が吹いて、湖は荒れ始め」ている中にあって、主イエスがいないために滅びに向かっているのではないか、という危機感にあったということです。しかし、その場においてこそ「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を受けることができるのだともいうのです。そして、この舟を、その時々の教会は自分事として読んできました。現代日本の教会においては、教勢が低下し続けている現実のことかもしれません。

 その時々の教会に向かって、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を語りかけ、歩み寄る方です。湖という普通は歩くことの不可能な状況で描かれていますから、この語りかけと歩み寄りには、不可能を越える主イエス自身の自由さに基づいた、主体的な行動だと読み取れます。実際、ヨハネ福音書から現代日本の教会に至るまで、主イエスの不在が問題にならず、実感もされずということがあるでしょうか。それでも、不在の主イエスは、この不在において「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけているのです。この言葉を受けるのかどうか、この問いと迫りに対しての反応、応答が求められているのです。

 「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を受ける態度としての相応しさを考える時に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』の一節を思うのです。

 【「僕たちは、この世の中で生きねばならない―『たとえ神がいなくても』-ということを認識することなしに、誠実であることはできない。しかも、僕たちがこのことを認識するのはまさに、神の前においてである。神ご自身が僕たちをしいてそのことを認識させたもう。このように、僕たちが成人することによって、神の前における僕たちの状態を正しく認識するようになるのだ。神は、僕たちが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、僕たちに知らしめたもう。僕たちと共にいたもう神とは、僕たちを見捨てたもう神なのだ(マルコ1534)。神という作業仮説なしに僕たちにこの世の生を営ませる神は、僕たちが絶えずその方の前に立っている神なのである。神の前で、神と共に、僕たちは神なしに生きる」。】(ここで言う「作業仮説とは、これから行う研究や考えをまとめる時に「差し当たって」前提として有効であると設定することです。)

 つまり、主イエスの不在にあって、それでも「神が共におられる」ことを語るとすれば、「神が共におられる」ということがわかる状況に向かう自立が求められているということです。どういうことか。不在の中、「わたしだ。恐れることはない。」との言葉において共にいるところから支えられるのだということです。

2024年7月 7日 (日)

ヨハネによる福音書 5章19~36節 「御子の権威」

 24節では次のように語られます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」。つまり、キリスト者であるわたしたちは、主イエスにあって永遠の命に与っているのだというのです。主イエスによって知られていることを受け止めることで主イエスを知る道に招かれている。そこに「永遠の命」があるということなのではないでしょうか。理解のためのヒントになりそうなのは17章3節の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。神と主イエスを知ることが「永遠の命」なのだというのです。ここでの「知る」というのは、ただの知識のことではありません。腹の底から「分かった」という、いわば腑に落ちている状態のことです。この永遠の命とは、世の始まる前から今ここにおいてあるということです。主イエスからの呼びかけと歩み寄り、また共におられること、そしてこの世の命の終わりを迎えてもなお、決して無効にならないあり方です。今生かされてあることだけに留まらないのです。25節には次の言葉があります。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」。つまり、死んだ者も生きている者も同様に神の子である主イエスの声を聞くことにおいてつながっているのだというのです。

 生きている者も、死んでいる者も、主イエス・キリストの声に与っている今、その命に与っているのだというのです。十字架において殺害された主イエスがよみがえり、天にのぼり、神の右におられることにおいて、今生きている者も死んでいる者も守られていること、平安にあること、見守られていること、ここにこそ「永遠の命」があるのだというのです。

 十字架上の死を経てよみがえり、神の右という場からの呼びかけの力の及ばない場は存在しないとわたしは考えています。この主イエスの声の届かないところはないと信じているのです。いわば、「天国」とは主イエス・キリストの呼びかけと守り導きの約束や宣言の言葉の届く範囲のことです。広がり続けるイメージで受け止めると分かりやすいかもしれません。向こう側の岸辺である、神の右という場からの呼びかけの届かない場所などないのです。

 十字架の主イエスがぶつかって来るイメージとして語られている感覚です。この場の力において、生きている者にあっては「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」のであるし、死んだ者にあっては「今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」、このような現実が主イエス・キリストの今なのだ、とヨハネ福音書は主イエスの言葉として伝えているのではないでしょうか。

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