マルコによる福音書 12章28~34節 「受容の受容」
現代において特に自己肯定感の欠乏からくるであろう歪んだ自己承認欲求の表出が目立つようになってきています。条件付きの愛、取引の愛の中で作られてきた人間関係における暗さがその根底にあるのではないかと思います。
しかしこれは、現代日本の社会に限られたことではなく、新約聖書の時代にも、もちろんありました。当時の感覚で言えば、聖さと汚れという基準です。律法や掟を守っている人、守ることのできている人たちとそうでない人たちとの区別があったのです。病気や「障がい」など都合の悪いことの一切は悪霊の働きとされ、汚れている、罪人であると断罪されていました。そして、社会に復帰するためには清められなければならなかったのです。律法や掟という良きことに従っているならば、その人の人格や存在が社会によって受け入れられるという仕組みであったのです。「罪人」という括りの内側にいる人たちは、「聖さ」を獲得しなければ、その存在さえ認められない社会であったのです。
しかし、主イエスの受け入れは、律法や掟という基準に依りません。いわば、その人の「罪人」という括りを打ち破ったのです。律法や掟を守っているか、守れているのか、そんなことは一切関わりなく、今生かされてあるいのちを無条件で全面的に認め、受け入れたのです。この主イエスにおける神により受け入れられているところから、人間の側は、その応答として信じる気持ち、その心が起こされるのです。受け入れられていることを受け入れるのです。そのように導かれ整えられていくのです。今日の題を「受容の受容」としましたが、主イエスの神は、どこまでも受け入れる愛そのものです。一切の条件はありません。こういうことをしたらOK、ああいうことをしたらNG,ということはありません。今あるがままの姿で全面的にOKを差し出すのです。信仰とは、これを事実として感謝をもって受け止めるところにあります。神の愛が主イエスとして立ち現われており、その招きに巻き込まれていることを受け止めるところに、応答として神を愛する道が備えられるのです。この神を愛することは、主イエスに全面的に受け入れられていることによる自己肯定感に支えられて、同時に隣人を愛することへと導かれていくのです。
主イエスの愛を受けての信仰としての受容の受容をより深く理解し、自己肯定感が整えられていくときには、その小さな愛さえも育てられていくのではないかという希望へと導かれていくことを信じることができるのです。この信じる気持ちによって「神の国に近い」道へとつながる可能性に結ばれていくのではないでしょうか。


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