マルコによる福音書 15章6~15節 「十字架の苦しみ」
主イエスは、一切の苦しみや痛みをその身に負い、身代わりとして国家権力の暴力による仕打ちへと引き渡されています。主イエスの味わっているのは全世界のあらゆる苦しみや痛みではないでしょうか。この姿が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一言に表され、この姿に対して全面的に同意し「アーメン」と告白するところに、すでに教会は建て上げられています。そして、そこにつらなることによって主イエスの苦しみによって守られていることをお互いに確認することが赦されているのです。主イエスの苦しみの場から神の国への道筋は開けてくるのです。教会は主イエスの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という事実によって支えられている共同体です。実線として閉じられた枠や必ずしも組織として整えられているものとは限りません。
現代も、世界中のありとあらゆる場所に、形を変え名前を変え、偽りの神の国を語るところの様々なポンテオ・ピラトは存在します。世界中の国家権力の暴力性は神の国に押し入ろうとしています。この人間の野望はバベルの塔を想像させるものでもあります。人間の万能感が権力の暴力性によって満たされる途上において、この世の帝国を神の国と偽るのです。神の国とは本来、神ご自身の願いに満ちた場であり、時間です。そこではあらゆるいのちが神の祝福に包まれており、愛という現実が満ち溢れている場です。ここに向かって国家権力の暴力性が忍び寄ります。あちらこちらに存在するポンテオ・ピラトのもとで収奪や搾取、様々な国家権力という暴力にさらされている場に対して、主イエスが冷たい態度をとるはずはありません。その場に共にいたいと願うのが、わたしたちが主イエス・キリストと心を込めて告白するその方なのです。教会はあくまで、ポンテオ・ピラトの側に立つことを拒むところでなければなりません。現代のポンテオ・ピラトを注意深く拒むことは、同時に神の国・神の支配である主イエスの思いに寄り添う生き方を選び取ることでもあります。
この生き方は「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉によって招かれていくものです。また、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」がその苦しみを強いられているところに向かうのです。そしてその場で、その時々のポンテオ・ピラトによる構造悪としての国家権力の暴力に抗うことが求められているのではないでしょうか。その抵抗は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」た主イエスによって支えられていることを信じ、神の国を共に目指したいと願います。
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