詩編 65:10~14 「収穫の風景に思いを寄せながら」
収穫をささげる態度は、神との関係によって整えられるものです。人間の背きにも関わらず、贖いによる赦しによって導かれていく「わたしたちへのふさわしい答え」としての方向性があるのです。神から「よし」とされるところの人間同士の関係性と言えるかもしれません。権力や支配によって規定される、人間同士の上下や優劣を、収穫から得られる食物の問題として捉え返してみましょう。「わたしたち」の「たち」のありようが問題化し、顕在化される、その場こそが問われているからです。そこから、わたしたちに求められている方向が示されるのではないでしょうか。
収穫感謝でよく読まれる箇所に申命記26章があります。最も古い信仰告白の一つとされています。実りを携え感謝をしているのですが、そこでは出エジプトの出来事を思い起こしながら、より広い「わたしたち」の「たち」への展開を読むことができます。申命記26章10 から11節では「『わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。』あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。」とあり、それが13節では「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」へと広がっていくのです。一方、現代の日本社会ではどうでしょうか。本来、国や各自治体が熱心に取り組まなければならない課題であるはずです。しかし、対象が広がっていく申命記とは反対に、日本の現実は逆の方向を向いているように思われます。生活保護費は削られ続けていますし、難民認定率は国際的に最低レベル、弱い立場に置かれた人たちに対して冷たく、生きることをより困難な方向へと強いているとしか思えません。
収穫感謝の心とは、広い意味での福祉と呼ばれる分野の活動のあり方をその時々に状況の中で捉えなおしていくことと別の事ではありません。人間は生きるために食べ、食べるために生きるという営みの中で、食を支える収穫について考えを整えつつ歩むことが求められているからです。
今日のテキストの収穫を思わせる風景を、ただ単にロマンティックで理想的なものとして受け止めるのではなく、今の現実の中で少しでも本当だと言えるような世界を求めていく心や気持ちを忘れてはならないと思います。人間の力や能力や努力も必要なのかもしれません。しかし、根本のところでは人間には作り出すことの出来ない世界観です。歴史を顧みれば、人間は何度もバベルの塔を建てようとしてきました。今もその過程にあります。最も大きくて分かりやすいのは原子爆弾でしょう。バベルの塔を作り上げてしまう心根によって、つまり、神に成りたいという欲望によって、大地に対する破壊的な行為を繰り返し、神に背いてきたことは否定できないのです(讃美歌21—424参照)。
収穫感謝を祝うことによって今ある生き方を修正し、神に向かいつつ歩みたいとの決意を新たにしたいと願います。
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