ルカ3:4-6「荒れ野で叫ぶ声」中島幸人神学生(農村伝道神学校3年)
みなさん、おはようございます。本日の聖書箇所はルカによる福音書3章4節から6節になります。秋が近づき、季節の変わり目を自覚するこのごろ、皆さんはどうお過ごしでしょうか。私の現在住んでいる町田市野津田の農村伝道神学校では、そろそろ夜に虫の音が聞こえ始めました。そこは東京都でもいまだに緑が残る地帯であり、時には雉やハクビシンなども姿を見せます。私が長野から越してきたときはどのようなアスファルトの町に住むのかと不安でしたが、意外にも故郷と同じような緑の環境であり、ほっとしたものです。私の故郷は幼いころ、夜になると蛙の合唱が聞こえました。しかし最近ではその声も遠のきました。近くにあった田んぼが、いつに間にか畑に変わっていたのです。減反政策の影響だったのでしょう。野津田のあたりでも緑が押しつぶされて競技場が立ち、農村伝道神学校やその付近で反対運動がありました。いまもさらにスポーツ関係の施設を作るために自然をつぶしてゆこうと再開発の計画を練っていると聞きます。その確かに存在したはずの叫ぶ者たちの声を無視して。大きな流れと大きな声が支配する時、そこにあった小さな声はなかったことにされてしまうのでしょう。
本日の聖書箇所であるルカにおいて、荒れ野で呼ぶ声、とは何だったのでしょうか。誰の声だったのでしょうか。これはその時代にあって小さくされた誰か、いつの時代にも存在する言葉を発することのできない誰かを指すのではないでしょうか。それぞれの耳に届く「声」があり、声を発する「誰か」がいます。主イエスもまた、そうした声を聞いたのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは荒野で叫ぶ声の一つとなりました。しかしヨハネは7章14節以下で、主イエスの行動に疑問を投げかけてもいます。ヨハネには聞き取れない声を、主エスは聞き取っていました。教会は大勢の人が集まる場所であり、違う大きさ、違う速さの声で語る人たちがいることでしょう。マシンガンのように互いの言葉をぶつけ合う人もいれば、静かに互いの言葉を交換して耳を傾けている人もいることでしょう。それぞれの耳、それぞれのにしか聞こえない小さき声があるのではないでしょうか。この箇所は旧約聖書のイザヤ書からの引用であると言われています。原典を見てみると新約旧約のどちらでも二人称複数、つまり「あなたたちに」語られています。つまり聖書を読み、御言葉を聞こうとする「私たち」です。今を生きる私たちもまた、誰もが気付かない声を聞き、主の道へと導かれているのではないでしょうか。
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