マルコによる福音書 14章27~31節 「人間の破れから」
ペトロを代表とする弟子たちはイエスから権威が委託されている事実はあります(3:13-19)。しかし、受難予告の前後には弟子たちは無理解に陥っていることが顕著に描かれています(8:27-30、9:2-8、9:18-29、9:33-37、10:13-16、10:35-45など)。破れがあるのです。【イエスは弟子たちに言われた。あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。(14:27)】とのイメージは、【イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(6:34)】につながります。一皮むけば、そこにいる群衆と同じ「飼い主のいない羊のような有様」にしかすぎない存在であることが明らかにされてしまうということです。自分たちがイエスに招かれているという特権をもっていると勘違いし、自分たちには付加価値が与えられているかのような錯覚に陥っているけれど、実は、破れが露わにされてしまっているのです。イエスは弟子たちの剥き出しの<いのち>を晒すのです。
イエスは、どのように取り繕ったとしても、被っている仮面を外すことで生身の姿を剥き出しにする方であることをキチンと思い知れというのではないでしょうか。ところがペトロはイエスの指摘に納得できないのです。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:29)と。それに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(14: 30)と言うのです。そのように自らが剥き出しにされ、裸である者であることを拒否する、イエス・キリストを神として認めない生き方をしているのではないか、と自己検証することを今日の聖書から求められているのではないでしょうか。
しかし、ただ単にペトロを代表する弟子たちが断罪され、全く無力な生身の人間の破れのまま捨て置かれるのか、というと「そうではない」ことが、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」( 14:28)という言葉から分かります。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(16:7)が先取りされることによっての赦しの約束があるからです。
教会に連なる一人ひとりは、やはりペトロなのです。そのような破れをもった、剥き出しの生身の姿が強制的に相対化されるからこそ、もうすでにガリラヤにおけるイエスと再会していく赦しの道が用意されているのです。そのままの、あるがままの姿で自分の場所に帰っていけば、守られてしまっている場に押し出されているのだということを今一度確認いたしましょう。剥き出しにされ、破れが露わにされてしまっているその人のまるごとの<いのち>全体が肯定される。今生かされてあることが祝福されているのだから。
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