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2011年7月

2011年7月31日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節 「重荷を負い合う」

ガラテヤ教会では、関係性が揺らいで、信頼関係が破壊されていったようです。彼らは「自分」を絶対化し、自らを正しいとして堕落していたのです。そこでパウロは十字架に示される生前のイエスの活動に注意を払うよう促し(4:12-5:1参照)、教会の関係性を整えるために「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(6:2)と指摘するのです。しかし、この言葉は段階を踏まずには行なわれない事柄です。「互いに重荷を担いなさい。」という言葉に一見対立する言葉「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」が続きます。自分の重荷は自分でしか負うことができないという事柄がまず前提としてあり、この事柄を自己相対化した上でなければ「互いに重荷を担」う関係性には入れないのだという理解がパウロにはあります。教会が教会として整えられていくのは、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」から「互いに重荷を担いなさい。」に転じていくところから始まるのであり、そこにこそ「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(5:13-14)という事柄が起こっていくのだという約束を読み取ることができます。それは「だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」という言葉を導き出す方への集中においてだけです。主イエス・キリストは次のように語りました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)。この主イエス・キリストにおいて導かれ、自己相対化において「自分の重荷を担」うことから「隣人を自分のように愛しなさい」という指示に従って「互いに重荷を担」う道へと繋がっていく道が用意されていることを教会は知るべきです。なかなか困難な道です。しかし、わたしたちには不可能であっても十字架の主が共にいて下さる限り、主イエスの支えによって可能とされていくに違いないのです。「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」という言葉に真があることも思い知らされました。わたしたちの教会が「互いに重荷を担」う道へと方向を定めていこうとするならば、自己相対化しつつ「自分の重荷を担う」時、主イエスが共に重荷を担っていてくださり、その重荷が軽くされるので「互いに重荷を担」うという出来事が教会の働きとして立ち現れてくることを信じることが赦されている事実に堅く立つことができていくに違いありません。

2011年7月24日 (日)

ルカによる福音書7章11~17節 「新しく生きる」

今回の箇所に「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった(7:17)とあるのは、主イエスは預言者を遥かに凌ぐ預言者なのだとの評判が広がった、ということです。そして、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(7:16)との言葉の前提には、預言者エリヤ(列王記上17章)とエリシャ(列王記下4章)の死人を生き返らせた奇跡物語があります。ルカによる福音書は、このようなエリヤやエリシャなどの預言者の活動、死人をもよみがえらせる神の現実の今が、イエスにおいて事実となっている、ここに注目するようにと促しているのです。神の国の勢力がここに、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」との文脈(17:20-21)は、人々の関係性のただ中に神の国、神の支配の現実があるのだということです。この出来事を可能にしているのは、すでに読み手の中では常識となっている主イエスの十字架と復活の物語です。主イエスは、十字架に架けられ死人となったけれども、神によってよみがえらされた方であるから、この方の力の及ぶところではどこでも、死人のよみがえりに相当する出来事が、読み手のただ中、教会のただ中において起こるのだという約束を読み取ることができます。ギリシャ語で、よみがえる、よみがえらされる、に当たる言葉には、起きる、起こされる、という意味もあります。今日のテキストにおける死人からのよみがえりを主イエスが引き起こした行為は、象徴的な意味合いとして読むことが求められているように思われます。よみがえる、よみがえらされる、とは、起きる、起こされる、ようにして立ちあがり歩み始めることへの促しを言い表わす表現だからです。今一度、起き上って立ちあがり、歩みをもって新たに生きることへと主イエスは備えていて下さり、待ち受けておられるのだということです。今日のテキストでのやもめは、唯一の希望である一人息子の死という出来事に直面して絶望のどん底に落とされています。そのやもめに対して主イエスは働きかけます。主イエスの語る「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という言葉には力があるのです。主イエスがひとたび口を開き、言葉を語り始めるとき、事が起こり、事態は動き始めるのです。「起きなさい」という主イエスの呼び掛けは、2000年前のエピソードの一つではありません。今日、ここに向かって語られており、わたしたちが耳を傾けなければならない言葉です。わたしたちの悲惨に向かって、主イエスの語る「若者よ、あなたに言う。起きなさい」という言葉には力がある、ということを揺るぎない事柄として受けとめたいものです。

2011年7月17日 (日)

ルカによる福音書17章11~19節 「イエスに応える」

今日の聖書は癒しの物語であるだけでなく、主イエスの語る「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉は、今の教会に向かって、主イエスの前にある相応しさを自己吟味するようにとの促しでもあるのです主イエスのところに戻らなかった人は、病気が癒されてしまえば「ユダヤ人」という多数派に戻れたのです。しかし、このサマリア人は、癒されてもなおマイノリティーです。ルカによる福音書9章には、サマリア人の村でイエスとその一行が拒否された話があります。弟子のヤコブとヨハネは、その村で天からの火で焼き払ってしまおうと言いますが、主イエスは彼らの言葉に対して怒りを表し、サマリア人に逆らうことをしませんでした。また、10章では、いわゆる「善きサマリア人のたとえ」が語られています。隣人とは誰か、という問題をめぐっての問答に導かれてのたとえです。強盗に襲われて血まみれで倒れていた人を祭司もレビ人も、その人を無視して穢れを恐れて通り過ぎたのに、サマリア人は憐れに思い、介抱して宿に連れていき、当面の宿代を支払い、追加分があれば、また支払う、という物語です。誰が隣人であるか、がテーマとなっています。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(10:36-37)となっています。隣人になっていく道が主イエスの道なのだというのです。この箇所を踏まえて今日のテキストに立ち返るなら、隣人になっていくような道、差別を乗り越えて、心の底から共に生きる生活への促しは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉によって開かれてくる世界観であり、主イエスの望んでおられる社会のあり方であることに気づかされていきます。主イエス・キリストその方がどのような旅を続けエルサレムに向かい、十字架上で処刑されていったのか。その復活の力に与ることとはどのようなことなのか。聖霊の注ぎを受けた者が、主イエスに応えていくとはどのようなことなのか。これらを批判的に自己吟味することなしに、わたしたちはキリスト者ではありえないことを心に深く刻みつけるときが来ています。主イエスの眼差しによって促される力は、決して無効になってしまうことはありません。今もここに聖霊の働きによって支えられているのです。隣人になっていくような道、差別を乗り越えて、心の底から共に生きる生活への促しは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉によって開かれてくる世界観であり、主イエスの望んでおられる社会のあり方なのです。

2011年7月10日 (日)

使徒言行録8章26~28節 「信仰の同伴者」

フィリポが主の使いによってガザの寂しいところに行くと、そこに馬車に乗った人がいました。この人はエチオピアの宦官であったとあります。女王カンダケの全財産を管理していた高官、官僚です。申命記の規定によると宦官は正式なユダヤ教徒にはなれません。しかし、聖書を読みユダヤ的な生活をするというユダヤ教の一周り外側に位置する人々を「神を畏れる者」と呼ばれる人たちです。ユダヤ人から見ると、ユダヤ人と異邦人の間にいる、しかもユダヤ人側に寄っている、そういうあいまいな存在であるのです。その「神を畏れる者」であった高官が帰りしな馬車に乗って聖書を読んでいたと言います。当時は音読が基本だったようですので、声を出してイザヤ書を読んでいると、フィリポが走り寄って「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねます。そうすると宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答える。馬車に乗って聖書を説明してくださいという頼みがあってフィリポが、その聖書を解き明かしたということです。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」(8:35)このフィリポがしたことというのは、聖書を読む人、その解説をしてイエス・キリストへと連れていく手助けをするという行いをしたということです。今日の聖書を読んでいくと、フィリポが口を開き、聖書のこの個所から説きおこして>」とありますが、これは主イエス・キリストがすでになさったことです。生前の主イエス・キリストの活動というものは聖書の成就でありましたし、とりわけ復活のキリストという点から考えますとエマオ途上の話を思い起こしていただきたいのです(24:25以下参照)。今日のフィリポの話のもとには、主イエス・キリストご自身が自らがメシヤ、キリストであるということを証言してくださるということがまず第一にあります。そのことをもって、イエスはキリストであると受け止めた人は、今度は次の人に向かって解き明かしていく義務と責任が与えられますよ、ということです。イエス・キリストが自らを証しする、そのことは止むことはない、ので、本来の手引きする者、同伴してくれる聖書解釈者はイエス・キリストのみです。そのことを根拠に同伴して聖書を読み、イエス・キリストの意味とか意義とかが我が事として心の中に染み渡るように導いてくれる人が与えられるのだ、そして今度は、それに自分が参画していく、その道があるのだ、ということを確認しましょうよ、というのが今日の聖書の箇所です。

2011年7月 3日 (日)

使徒言行録4章5~12節 「イエス・キリストの名」

「キリストの名」に包まれている状態、聖霊が注がれている状態、その時に人々はキリストに向かって変えられていくのです。今日の使徒言行録を読んでいくと、福音書で描かれているペトロの姿とは全く別人のような堂々と胸を張ってイエス・キリストを証言する、その姿が現れています。福音書では確かにペトロは弟子たち人の中の代表でしたが、どちらかというと、早とちりをし、おっちょこちょいで、しかも、イエス・キリストの逮捕の場面では、我先に逃げ去った、そういう人です。そのペトロが今や聖霊の働き、「キリストの名」に包まれていることによって、堂々と逮捕され、当時の権力者たち、知識人たちの前で、無学なものでありながら堂々と語り続けているのです。わたしたちは、色々な難しい問題が起こってくるときに自信をなくしたり意気消沈してどうしたらいいのか分からなくなってしまう、何を答えていいのかわからないということが、しばしば起こってきます。けれども今日の聖書を何度も読むときに、あのペトロが、かつての惨めなペトロではなくて、聖霊に満たされて語り堂々と立っている姿を通して、ペトロが変えられたようにわたしたち一人ひとりも胸を張って生きていく生き方が備えられている、ということが知らされます。つまり、主イエス・キリストが生きた生き方、十字架に磔られ、よみがえった、その力が聖霊の働きにおいて一人ひとりに備えられているということです。十字架に相当するどのようなことがあったとしても、そこから生き返っていくよみがえりの力が備えられていくし、何も心配することはないということです。今やわたしたちは、その権威について「イエス・キリストの名」によってと答えることができるのです。かつて、主イエスが語った姿(ルカ21:12-19参照)を追体験するかのように、ペトロは聖霊に満たされ、聖霊の促しを受けて語っていくことができるのです。「イエス・キリストの名」に包まれてある存在がキリスト者であり、キリストを信じ従うものであるのです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(4:12)主イエス・キリストにしか、そのような力は与えられていない、ということです。そのことを公に語っていき続けるのが教会というところです。その出来事がわたし(たち)と全く無縁ではなくて、わたしたちの日々の暮らしに、「キリストの名」のゆえに介入してしまっているのだと。わたしたちの日ごとの生活は「キリストの名」によって包まれてしまっているがゆえに、聖霊の注ぎは決して無効にならない、ということを信じることを教会は赦されているのです。

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