« ルカによる福音書7章11~17節 「新しく生きる」 | トップページ | マタイによる福音書5章13~16節 「地の塩、世の光」 »

2011年7月31日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節 「重荷を負い合う」

ガラテヤ教会では、関係性が揺らいで、信頼関係が破壊されていったようです。彼らは「自分」を絶対化し、自らを正しいとして堕落していたのです。そこでパウロは十字架に示される生前のイエスの活動に注意を払うよう促し(4:12-5:1参照)、教会の関係性を整えるために「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(6:2)と指摘するのです。しかし、この言葉は段階を踏まずには行なわれない事柄です。「互いに重荷を担いなさい。」という言葉に一見対立する言葉「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」が続きます。自分の重荷は自分でしか負うことができないという事柄がまず前提としてあり、この事柄を自己相対化した上でなければ「互いに重荷を担」う関係性には入れないのだという理解がパウロにはあります。教会が教会として整えられていくのは、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」から「互いに重荷を担いなさい。」に転じていくところから始まるのであり、そこにこそ「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(5:13-14)という事柄が起こっていくのだという約束を読み取ることができます。それは「だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」という言葉を導き出す方への集中においてだけです。主イエス・キリストは次のように語りました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)。この主イエス・キリストにおいて導かれ、自己相対化において「自分の重荷を担」うことから「隣人を自分のように愛しなさい」という指示に従って「互いに重荷を担」う道へと繋がっていく道が用意されていることを教会は知るべきです。なかなか困難な道です。しかし、わたしたちには不可能であっても十字架の主が共にいて下さる限り、主イエスの支えによって可能とされていくに違いないのです。「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」という言葉に真があることも思い知らされました。わたしたちの教会が「互いに重荷を担」う道へと方向を定めていこうとするならば、自己相対化しつつ「自分の重荷を担う」時、主イエスが共に重荷を担っていてくださり、その重荷が軽くされるので「互いに重荷を担」うという出来事が教会の働きとして立ち現れてくることを信じることが赦されている事実に堅く立つことができていくに違いありません。

« ルカによる福音書7章11~17節 「新しく生きる」 | トップページ | マタイによる福音書5章13~16節 「地の塩、世の光」 »

ガラテヤの信徒への手紙」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節 「重荷を負い合う」:

« ルカによる福音書7章11~17節 「新しく生きる」 | トップページ | マタイによる福音書5章13~16節 「地の塩、世の光」 »

無料ブログはココログ