マタイによる福音書 28章16~20節 「孤独ではない」
導入部分の、主イエス・キリストの誕生にまつわる箇所(1:23‐25)と終盤の今日の聖書によって、イエスの活動はサンドイッチ状態になっています。神の思いによって遣わされる男の子は、「その名はインマヌエルと呼ばれる」。インマヌエルの意味するところは「神は我々と共におられる」ことである。人の名前には、それぞれ意味が与えられています。イエスという言葉の意味を辿っていくと、「神は救う」となります。 イエスの生涯は、神がわたしたちと共にいてくださるようにして救いを与える方としてこの世に来られ、政治犯として、また奴隷の死刑である十字架に磔られました。この両者にはさまれた主イエスの活動は、それゆえ「神は我々と共におられる」という宣言と共にガリラヤという被差別地域の人々と友となる歩み続けることでした。被差別地域で生きている人々の尊厳を取り戻し、生き直しへと促すべく、歩みよっていて下さり、共にいてくださる生涯を思い浮かべましょう。 人が、悩み苦しみ、あがき苦しむところ、病に襲われている場所、これらの人が生きていく上での困難を、簡潔に表わす言葉があるとすれば、孤独だろうと思います。他者とのつながりが不可能であると考えたり、自分の存在が不確かなものとして感じられ、ひとりぼっち感、無力感、生きていく価値がないなどと追い詰められていく場所。多かれ少なかれ、わたしたちは、この孤独感に苦しみます。孤独感に常につきまとわれ、辛い日々を送っている人もいるでしょう。しかし、ここにいるわたしたちに向かって、主イエスは歩み続けて下さり、その結果十字架によって処刑されなければなりませんでした。しかし、主イエスは十字架刑によって殺されてしまっても、その死にさえ打ち勝ってくださったのです。 主イエスが共にいてくださること、ここから、わたしたちは孤独から解かれていきます。そして、さらには他者に向かっていく道へと導かれていくのです。そして、この道の前方には、自己相対化していくあり方が備えられています。自分のあり方の間違いに気づかされていくことによって、生き方の修正の迫りを受けることです。同時に、復活の主イエスが共にいてくださることによって解かれた孤独からの自由は、他者とのつながりにおいて、自分のあり方を絶えず修正していく可能性に拓かれていくのです。 わたしたちは、主イエス・キリストの復活の力によって孤独から解かれています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との言葉は、真実の言葉です。この言葉によって、わたしたちはいつも守られています。この主イエスの守りに信頼しつつ、歩んでいく道は、すでにここにあるのです。
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