ヨハネの黙示録 22章12~13節 「神は神としか言いようがない」
黙示録は世の終わりを書いたものですが、著者のヨハネは、おそらくローマ帝国において、本格的なキリスト教徒への迫害ではないにしろ、人々が抑圧され、また戦争が起こり、そして差別、抑圧、人々の憎しみ合いという中にあって、もっと人は神によって祝福された生き方ができるはずだという願いを、預言者の霊感によって書いているのでしょう。絶望の時代のただなかにあって、あえて希望していく信仰的態度・決断があるということなのです。この積極志向、あえて希望をもって語るところにこそ、この世の構造悪に晒されようともわたしたちには希望があるのです。
黙示録を書いたヨハネと読み手のわたしたちの状況というのは、そんなに遠くない。そのなかで、どういう信仰的決断をしていくか、というところでヨハネの黙示録に共鳴する部分があるとすれば、世の終わりが来るというところに、脅しではなくて慰めを聞いていくことができるかどうかではないでしょうか。それは何か。それは主イエス・キリストが来られるという希望です。
黙示録を読んでいくと、なかなか世は終わらないのです、何年かの悪しき力との戦いがあったり、千年の王国があったりしてなかなか終わっていかない。しかし、22章では【 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。】(22:20)とあります。
どのような困難や艱難、悩みや痛みがあるにしても、そのただなかに向かって「然り、わたしはすぐに来る。」と主イエス・キリストが約束してくださっているので、黙示録では続いて「アーメン、主イエスよ、来てください。」と応えていく生き方となります。悲惨と重荷に向かってイエス・キリストの神が「然り、わたしはすぐに来る。」と言われた。この約束のもとで神の国を望み見ることによって、わたしたちはこの世に対するあらゆる恐れから自由になっていく、変革を恐れずに自由を求めていくことができる。終末があるからこそ、待つということを新たに捉えかえすことができるのではないでしょうか。時は前進しています。その中にあって、主イエスよ、来てください。」と応答していく、それがクリスマスを待つということです。迷っていても悩んでいても、きっと神によって招かれているところに到着することができるはずだという信仰によって、今一度何度でも新たにされていく可能性をアドベントの期間に確認できればと思います。
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