レビ記

2015年11月22日 (日)

レビ記 19章9~10節 「『落穂ひろい』の復権」

~収穫感謝礼拝~
 旧約の理解に従えば、収穫に際しての「落穂ひろい」の伝統は神の前にあって分かちあうことなのだと知らされます(申命記26章などを参照)。
 現代の状況は、今日のテキストでもある旧約聖書の記述が全くの昔話にはなっていないことが分かります。
 この地球の大地には全世界の人々を十分食べさせるだけの食物を養う力が与えられています。しかし、分配や資本の力の無常によって飢餓が切実な問題として確実にあり、明確な解決策があるとは言えない状況なのです。世界的な規模における飢餓は、大地が貧困だということを意味しません。大国の資本からの搾取や利害関係などから戦争や紛争が絶えることなく耕される大地があらされているからに他なりません。
 さらに言えば、飢餓につながる貧困の現実はアフリカなどの紛争地域だけではありません。日本でも安倍政権の目指す方向性の皺寄せはより弱いところに及び、飢餓と隣り合わせに生きる人々が加速的に増えています。たとえば、子どもの貧困です。国内で貧困状態にある17歳以下の子どもの割合は16.3%。実に6人に1人に上り、過去最悪を更新し続けています。給食で何とか飢えずに済んでいる子どもたちは増えています。こうした中、今『子ども食堂』と呼ばれる運動が注目を集めています。無料または格安で食事を提供しているのです。利用しているのは、共働きで食事の支度をする余裕のない家庭や、経済的に苦しいシングルマザーの子どもなど、さまざまです。旧約のあの律法のように。
 収穫を感謝していく生き方とは、世界的に考えれば大資本による収奪搾取を辞めさせていくことだと思いますが、ローカルから考えると公平な交易を図るとか、分配の方法を模索していくことだろうと思います。神奈川教区の寿地区センターの関わる炊き出しもその一つでしょう。
 JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)がしばらく前まで使っていたコピーは「分ければ増える」でした。イエスがなさったパンを分けることで飢えている人たちが満腹したという奇跡物語を念頭においたものです。イエスが飢えている人々が幸いだと宣言したのは現状肯定ではないでしょう。飢えの現状を打破していくという決意表明ないしは宣言として受け止めるべきなのではないでしょうか?でなければ、主の祈りで「日用の糧を今日も与えたまえ」の意味が不明確になります。今日食べるべきパンを今ください、そう祈らざるをえない、いと小さくされたところに主イエスは共にいようとする仕方でこそ、全能の神として立場を明らかにしているのですから。ここに「落穂ひろい」の復権を願い、共に祈りましょう。

2014年11月23日 (日)

レビ記 23章33~43節 「収穫感謝に思いを寄せる」

 仮庵の祭りは、カナンでの定住と農耕生活が前提とされていますから、牧畜民から農耕民への移行の中で、いわゆる土着の収穫を祝う祭りをユダヤ教に取り入れたものだろうと推察できます。
 定住し農耕民になったユダヤの民にとっても、たわわに実るブドウなどの果物やオリーブの収穫は興奮さえも覚えるような時だったでしょう。酒船に収穫したブドウを入れ、足で踏みつぶし発酵させ葡萄酒を作ったり、オリーブの実を絞って油にしたり、漬物にしたり、それはハレの場であったでしょう。
 今日、わたしたちが心に留めておきたいことは、祭りの賑やかさや喜ばしさなどの雰囲気とか感情の面についてではありません。収穫を感謝し、思いを寄せるところの根拠についてです。レビ記では、次のように考えています。収穫感謝である仮庵の祭りの根拠は、出エジプトおよび土地取得をもたらした神の働きにあるということです。出エジプトあってこその定住と収穫であることをわきまえるようにとのレビ記の主張が、ここにはあります(23:41-43)。つまり、一見、収穫を感謝するお祭りも、エジプトでの奴隷の民イスラエルが解放されたという出来事を導く神への感謝が先立つし、根拠であるということです。収穫感謝は解放へ向かう祭りとして祝われるべきだという判断がレビ記にはあるのです。
 一言で解放といっても漠然として理解しがたいですが、解放の出来事としてのイエスの振る舞いや言葉から再解釈されるべきことです。自由への解放の中で感謝をもって収穫を祝うように、飲み食いする自由さや、楽天性に立ち返ることです。確かに、収穫に至るまで農民は禁欲的に毎日朝から晩まで働きます。しかし、神こそがすべてであるから働くようにして仕えるのだという謙虚さへの立ち返りが求められているのです。
 ルカによる福音書ではイエスが烏と野原の花を示して思い煩うなとの楽観性について語っています(ルカ12:22-34)。神に任せつつ、解放への道を歩む楽観性がここにあります(この点については『改訂版こどもさんびか』102、または金芝河の『飯が天です』参照)。さて、本日、わたしたちの教会でささげられた米は桜本教会の働きにささげられます。桜本教会についていは、カトリック新聞の去年の一月末の記事から引用します。

 鈴木牧師が、神奈川県川崎市の日本基督教団桜本教会で取り組んでいる「共生」へのチャレンジについて話を聞いた。桜本教会の日曜日は、朝から大忙しだ。100人近くが集う礼拝には、さまざまな民族の信者や、障がい者、路上生活者など、生活状況や文化が違う老若男女が数多くやってくる。この教会では、障がい者や路上生活者は大切な役割を担っている。重度の知的障がいがある人も、礼拝の献身(献金)の担当者として祈る。自分の思いを言葉にできない自閉症やダウン症の信者を祈りに導く人もいる。野宿者の多くは、物品の配布等を行う。礼拝後の楽しみは、礼拝堂で行われる昼食会。婦人会のメンバーがそれぞれ1品(100人分)ずつ持ち寄るため、テーブルには、毎回7品以上のおかずが並べられる。教会に集う〝大家族〟として食卓を囲むのだ。この昼食会は、毎週木曜日にも行われる。鈴木牧師がこうした取り組みを始めたのは、桜本教会の主任である妻の藤原繁子牧師と、「誰もが排除されない教会」を理想に掲げたからだ。

 桜本教会の働きは非常に珍しいチャレンジかもしれません。どこの教会でもできることではありません。しかし、桜本教会が理想に掲げた「誰もが排除されない教会」は、そのまま「誰もが排除されない社会」につながるものであり、そしてそれは、イエスの目指した解放に他なりません。仮庵の祭りとしての収穫感謝を解放へと位置付けるものであることは理解できます。
 この桜本教会の働きにつながる仕方で米をささげ、来るべき日の神の国に向かう教会の働きとしての収穫感謝をご一緒に祝えることを感謝しつつ、祈りましょう。

<祈り>

すべてものに命をもたらし、大地を恵み、慈しみにおける全能の神
あなたの主権が固くされますように
わたしたちは今日、あなたの恵みの前に感謝をもって向かっています
わたしたちの気づかないところにまで至る心の闇としての罪の赦しを願います
収穫感謝に心を寄せるひとときによって、あなたの主イエス・キリストの信仰において、わたしたち一人ひとりを整えてください
感謝することを忘れがちになるときにこそ、感謝する心を備えてください
ここの米が桜本教会の働きを通して神の栄光をあらわすことができますように
この地上から飢えによる苦しみがなくなりますように
神の国での食卓をわたしたち一人ひとりの心に刻んでください
あなたの思いがなりますように主イエス・キリストの御名によって祈ります                                         アーメン

無料ブログはココログ