士師記

2012年9月23日 (日)

士師記16章23~28節 「弱さを認めること」

 サムソンは、神から怪力を与えられ、ペリシテの支配の中で反逆し、ペリシテ人の領主たちから恐れられ力の均衡が保たれていたようです。ペリシテ人の領主たちは何とかサムソンの力を封じたいと考え、デリラという女性を利用して怪力の元を探らせます。サムソンはデリラへの愛ゆえに神との約束を破り、怪力の秘密が髪の毛にあることを教えてしまいます。髪の毛を全部剃られて力を失い、ペリシテ人に捕らえられたサムソンは、両目をえぐられ牢屋に入れられ、足枷をはめて臼で粉を引く奴隷の扱いを受けることになります。
 自分が無力になってしまったことの意味などについて、牢屋の中でサムソンは色々考え続けただろうと思います。あれだけの怪力が神との約束の中で与えられたものであることを忘れて、元々自分の中にあった才能、実力なのだと勘違いしていたことなどをです。しかし、髪の毛は牢屋の中での生活の中で少しずつ伸びていきます。
 ペリシテ人の領主たちの宴会で見世物としてサムソンは牢屋から呼び出されます。「柱の間に立たされたとき、サムソンは彼の手をつかんでいた若者に、『わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい』と頼んだ。建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。」ここで、サムソンは神の前での謙虚さを取り戻します。「サムソンは主に祈って言った。『わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え』」て欲しいとの祈りによって神は応え、サムソンは荒々しい最期を遂げます。(16:25b-28)
 最後の最後でサムソンは自分の弱さを認めたところにこそ、神の働きのあることが腑に落ちたということでしょう。神に対する切なる信頼が確かなものとされたことです。自らを頼みとする生き方ではなくて、神の前で自らが無力なものであることを認めるところにこそ、神の強さが現れるという、パウロの信仰に通じる生き方が彼の生涯の最後の最後に与えられたのです。
 サムソンは自分の弱さを認める中で、壮絶な最期を遂げました。このサムソンの物語は死をもって終わりましたが、その死の延長線上にある神の示す道の可能性はイエスの生涯において現わされているということです。マタイによる福音書19章の富める青年が悲しみながら立ち去った物語を思い出します。捨てることによって、無力さを獲得することによって神の想いに応えることができるという道です。ここにこそ、<いのち>のつながりがあるのです。

2012年9月16日 (日)

士師記 7章1~7節 「たとえ、少なくても」

 今日のテキストから現代日本におけるメッセージを読み取ることができるとしたら、創造的少数者が神によって立てられ、歴史が変わっていくことへの希望とでも言うべきでしょうか。少ない可能性を選択する、より困難な道をあえて選ぶなど、現代の価値基準と真向に対決するような生き方へと導かれているのを感じます。
 多くの人が動き始めるためには創造的少数者が先駆者として、それぞれの課題を地道に担い続けた現実によって支えられていることを今日は覚えておきたいと願います。
 朝日新聞夕刊の一面に「ニッポン人脈記」という欄があります。 8月末頃からのテーマは「石をうがつ」です。「石をうがつ」とは、ご承知のとおり「雨垂れ石を穿つ」という諺を踏まえています。今回は原子力発電所に対する反対運動を担ってきた創造的少数者たちが取材されています。たとえば、9/6(木)の記事では、大阪の熊取という街にある京都大学の原子炉実験所で「熊取6人組」と呼ばれる小出裕章さんたちを取り上げています。記者の大久保真紀さんは、この回を次のようにまとめています。
  [小出は「原子力政策は戦争のようなもの」と感じる。両方とも国家がやることを決め、社会が一体になって進める。「その時代の中で自分がどう生きたのか、一人ひとりがちゃんと説明できるように生きていきことが大切だ」。小出は、そう思っている。]
 今日の聖書から伺うことができるのは、この歴史において「雨垂れ石を穿つ」創造的少数者が起こされるのだという信が問われているということです。たとえ、どんなに小さな事柄でも参画することで、すでに世界の「いのち」に触れ、結ばれていることを信じることが大切です。
 教会とは、そのようなイエス・キリストの名のもとにある「いのちのつながり」のベースだと考えることもできます。寿地区センターなど様々な活動を担っている団体を覚え献金をする、あるいは権力の暴走に異を唱える署名をする、などギデオンに率いられた少数精鋭部隊の働きの、現代的課題を担っていくことは決して不可能ではないのです。
 主の祈りにある「み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」という言葉のまことを信じ祈るとき、わたしたちはすでに神の国の建設のための少数精鋭の働き人として招かれてしまっているのです。
 この国においてキリスト者は一%にも満たない存在ですが、だからこそ、わたしたちはみこころに委ねつつ、創造的少数者として招かれている事実から目を背けることなく、歩みたいと願います。

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