士師記16章23~28節 「弱さを認めること」
サムソンは、神から怪力を与えられ、ペリシテの支配の中で反逆し、ペリシテ人の領主たちから恐れられ力の均衡が保たれていたようです。ペリシテ人の領主たちは何とかサムソンの力を封じたいと考え、デリラという女性を利用して怪力の元を探らせます。サムソンはデリラへの愛ゆえに神との約束を破り、怪力の秘密が髪の毛にあることを教えてしまいます。髪の毛を全部剃られて力を失い、ペリシテ人に捕らえられたサムソンは、両目をえぐられ牢屋に入れられ、足枷をはめて臼で粉を引く奴隷の扱いを受けることになります。
自分が無力になってしまったことの意味などについて、牢屋の中でサムソンは色々考え続けただろうと思います。あれだけの怪力が神との約束の中で与えられたものであることを忘れて、元々自分の中にあった才能、実力なのだと勘違いしていたことなどをです。しかし、髪の毛は牢屋の中での生活の中で少しずつ伸びていきます。
ペリシテ人の領主たちの宴会で見世物としてサムソンは牢屋から呼び出されます。「柱の間に立たされたとき、サムソンは彼の手をつかんでいた若者に、『わたしを引いて、この建物を支えている柱に触らせてくれ。寄りかかりたい』と頼んだ。建物の中は男女でいっぱいであり、ペリシテの領主たちも皆、これに加わっていた。屋上にも三千人もの男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。」ここで、サムソンは神の前での謙虚さを取り戻します。「サムソンは主に祈って言った。『わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え』」て欲しいとの祈りによって神は応え、サムソンは荒々しい最期を遂げます。(16:25b-28)
最後の最後でサムソンは自分の弱さを認めたところにこそ、神の働きのあることが腑に落ちたということでしょう。神に対する切なる信頼が確かなものとされたことです。自らを頼みとする生き方ではなくて、神の前で自らが無力なものであることを認めるところにこそ、神の強さが現れるという、パウロの信仰に通じる生き方が彼の生涯の最後の最後に与えられたのです。
サムソンは自分の弱さを認める中で、壮絶な最期を遂げました。このサムソンの物語は死をもって終わりましたが、その死の延長線上にある神の示す道の可能性はイエスの生涯において現わされているということです。マタイによる福音書19章の富める青年が悲しみながら立ち去った物語を思い出します。捨てることによって、無力さを獲得することによって神の想いに応えることができるという道です。ここにこそ、<いのち>のつながりがあるのです。
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