出エジプト記

2024年2月11日 (日)

出エジプト記 20章2~6節 「神は神であるから」

「偶像」とは、木や石などを刻んだものとか金属を高温で溶かして型に嵌めて造られたものに限られません。それを基準として自分自身のあり方の根本を支えるものを「偶像」と呼ぶのです。山や海といった豊かな自然であったり、星や月の巡り、あるいは、権威であるとか権力であるとかお金であることもあるでしょう。

 わたしたちは確かに主イエス・キリストの神だけを唯一だとして信じて教会で礼拝を守っています。しかし、本当に聖書に証言されている、主イエス・キリストの神だけを信じ、依り頼み、導かれていると自信をもって断言できるのかと問われれば、口ごもってしまうのです。

 わたしたちは、神にすり替えられたり並べられたりする価値観や判断の基準や考えの基礎になるものの考え方に汚染されていないと言えるのでしょうか。社会のルールとされるものや風潮、たとえば「自衛のための戦争」「死刑制度」「天皇制の存在」宇宙開発、「便利さ」の追求、経済発展、遺伝子操作を伴う医療の発展原発……、それら一つひとつについて自分の頭と心で考え、相対化できているか問い、そこに縛られていないか確認する必要があるかもしれません。

 神でないものを神としてしまうという誘惑は、キリスト者個人にも教会にも付き纏い続けています。この誘惑との闘いなしにキリスト者であり続けることは困難です。

 わたしたちはどこにいるのでしょうか。マタイによる福音書4章のサタンによる主イエスの誘惑物語の1節を思い起こします。【更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

 主イエスの受けられた誘惑は、わたしたちに対するものとしても今の課題となっているように思われます。主イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』」と答えました。この姿勢は、わたしたちが主イエスにおいて「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」を告白していくことと別のことではありません。

 わたしたちは、主イエス・キリストにあって「神は神である」ところから、新しく何度でも始めなくてはなりません。主イエス・キリストにおける三位一体の神のみが唯一のまことの神である、つまり神が神であるという立ち位置に改めて立ち続けなければならないという、今更ながら当たり前のキリスト教会がここにあるのだとの確認のもとで祈り続ける群れでありたいと願います。

2014年10月26日 (日)

出エジプト記 34章8~9節 「支えあって生きるため」

 今日はNCC教育部のキリスト教教育週間の「平和のきずな」のプログラムを参考にし、「アライカパ友の会」の紹介がありました。フィリピンにおける経済的な貧困という大きな苦しみの中での活動についてです。大きな問題とは豊かさの平等な分かち合いがないということです。貧しさは人を不幸にします。貧しさを乗り越えていくこと。これは、フィリピンだけでなく、世界中の大切な課題です。この貧しさを乗り越えて、喜んで安心して生きていく国の仕組みが変えられなくてはなりませんが、簡単なことではありません。大勢の人たちの努力や祈り、願いが大切です。それだけではなくて、イエス・キリストの神さまがどのように願っているのか、という思いを受け止めたいと思います。
 出エジプト記に描かれているのは、エジプトにおける奴隷の民イスラエルが自由を求める脱出の旅のテーマです。モーセは、何度もファラオと交渉を重ね、ようやくイスラエルの民を脱出させることができましたが、目的地に到着するまでさらに40年の旅を続けなくてはなりませんでした。この旅も楽ではありません。水や食べ物などのことで不平や不満が起こったり、神を裏切ることもしてしまいます。
 それでも、神は決して見捨てることはしないのです。今日の聖書の言葉は、モーセが今までのことを振り返りながら、これからのことを神に願っている言葉です。もう一度読んでみましょう「主よ、私たちの中にあって進んでください」。この言葉は、モーセの時代だけの祈りではありません。世界中の辛く苦しい人たちの祈りでもあります。
 今日はフィリピンの片隅での出来事から学びました。シスター4人の活動から始まった支援は今、大きな輪となり、また地域に住む人々も、自立への道を歩み始めています。これらのことの前にまず、神の思いが前進するのです。その神の思いを信じるからこそ祈ることができるのです。「主よ、私たちの中にあって進んでください。」と。
 喜んで安心して暮らせる社会。毎日きちんと食べられる社会。心豊かに暮らせる社会。神の守りがあれば、きっと大丈夫。そんな祈りが主の祈りにもあります。最初の「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。」は、神が神として神であってください、ということです。神の思いが成ることを信じていますという意味です。その続きは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」です。この地上が神様の思いに溢れ、すべての人が喜んで安心して生きられる国、世界になりますように、生きるため必要なものをください、との祈りです。「主よ、私たちの中にあって進んでください。」との御言葉を心に刻みましょう。

2013年3月31日 (日)

出エジプト記 32章1~14節 「先立つ神」

 神ないし神々は共同体が依って立つところの生き方の基本です。アロンは自分の頭の中の理想像としての神を「金の子牛」として鋳造します。この立場には、一般大衆の権利や利益、願望を代弁することで支持を得て、その時々の風潮に対して対決しようとする政治的な思想、姿勢があります。一言でいえば、ポピュリズムです。人々が何となく不満に思っている事柄をあたかも代弁するように仮装の敵を作り攻撃を加えることで一致団結できるような手法でもあります。 
 しかし、教会はアロンの立場を取ってはいけないのです。あくまでもモーセの立場に立たなくてはなりません。次の言葉のようにです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(20:2-5a)と。
 わたしたちがポピュリズムに流されやすいのは、モーセが見えなくなることから引き起こされたイスラエルの民の不安と無縁ではありません。ポピュリズムに確からしさを感じてしまうのは、いつの時代も人は手で触れ、目で見て確認できるような安心を信じてしまう癖があるということです。
 本来、神というものは客観的に見て確認できるものではありません。ただ啓示によって認識できるものであるにもかかわらず、自分たちが身につけているものの象徴として造り出した金のアクセサリーを、あたかも神であるかのように「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(32:4)と錯覚させ、信じさせてしまうのです。圧倒的多数の人たちが喜んで受け入れるような「金の子牛」に惑わされてはならないのです。
 「金の子牛」において象徴されるのは富とか権力という欲望への意志です。イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と語ることによって示された態度決定を神の側からの働きかけにより頼むところにしか教会の信仰はあり得ないのです。イエス・キリストの神ご自身が語りかけ、先立ってくださることによってしか信仰はあり得ないのです。人々の願いによるのではありません。
 復活の主が自らを示されるところ、ガリラヤでの再会の約束に信じて従うところにしか、わたしたちの信仰の根拠はありえないことを共々確認したいと願っています。

2013年3月24日 (日)

出エジプト記16章1~18節 「日毎の糧は」

 出エジプト記の大きなテーマはエジプトでの奴隷としてのイスラエルの民の苦しみや呻きの現実から神が救い出すという物語です。しかし、民は神に対しての全幅の信頼をおいてはいませんでした。どこかいつも帰ってはならないエジプトに心魅かれてしまうことから自由ではありませんでした。その一つが食べ物や水をめぐって、しばしば口から出てしまう不平や不満、つぶやきでした。奴隷生活さえ懐かしく思えてくるのです。エジプトにいた時の方が満足に食べられたのだと過去の記憶が肥大化してしまうのです。さらには、いっそのことエジプトで死んでしまった方が良かったとさえ語り始めるのです。
 脱出の出来事が無意味にさえ思われてくるのです。ここにあるのは、ただ単に奴隷生活に戻りたいということだけではありません。人は生活の基盤には神ないしは神々をもっています。人がものを考える、乃至は行動を起こす時に何に依り頼んでいるかが基準となっているのです。背後には、その場において自分がどのような神に対して帰依しているかが問われているからです。民の不平や不満、つぶやきの背後にはエジプトを脱出させた神への反逆、すなわちかつてのエジプトの支配の背後にある神々を拝む事でもあるのです。
 にもかかわらず、神は民の裏切り行為を受けとめて、ウズラとマナを日毎の糧として与えることによって応えるのです。
 神ご自身が神ご自身として自らを顕してくださっているという神の働きに委ね、祈っていくところにこそ旧新約聖書において証言されている唯一の御言葉であるイエス・キリストの神がおられるのです。
 今日の聖書は、イスラエルの民の不信仰にもかかわらず、ウズラとマナによってエジプトから救い出してくださった神が、わたしたちの教会においては、十字架において差し出し、救い出してくださるのだという証言として読むことが可能です。
かつてイスラエルに与えられた契約が、今やイエス・キリストとして差し出されていることの象徴として、パンとぶどう酒によって守られる聖餐式は理解されています。神の上からの一方的な迫りが、自らをすべての人に向かって差し出すようにして日毎の糧を与え、人々の生命を支え、守り、育んでくださるのです。わたしたちが十字架上に磔られたイエスの姿を思い起こすことによって、出エジプト記の語るところの日毎の糧をもって、神はわたしたちの生命を今日も新しくしてくださるのです。

2013年3月10日 (日)

出エジプト記12:29-42「切迫の中に守りがある」

 イスラエルと、その周縁にいる人々がエジプトから脱出するところに救いがあるというのが出エジプト記のテーマの一つです。小羊の血を塗りつけたイスラエルの民の家の鴨居と柱を神は過ぎ越し、それ以外の初子が滅ぼす。このあと、イスラエルは旅立ちます。この時の食事が後の過越しの食事として伝承されていきます。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(12:5-11)。神の救いを記念して行われるものです。脱出の切迫の中に確かな神の導きがあるのです。この過越しを前提としてキリスト教会の聖餐は祝われています。かつてのイスラエルの過越しにおいてはイスラエルと周縁部分という括りであった出来事が、その括りから解放され、あらゆる人々に向かって開かれていくのです。共観福音書での最後の晩餐は過越しの食事として描かれています。ヨハネによる福音書では一日前の子羊を屠る日とされています(これは主イエスが贖いの子羊と同定される理解に依ります)。いずれにしても、あらゆる人々に対して開かれた贖いの業が主イエスの最後の晩餐において収斂されたのだと理解すべきです。例えば、マルコによる福音書の制定語には次のようにあります「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』」(マルコ14:22-25)。マルコによる福音書にある「多くの人のため」とは、物語の中で行われた、あらゆる主の食卓のまとめとして理解すべきです。この意味で、わたしたちの聖餐には、切迫の中での守りが示されています。また、この世を旅する教会が最終的な救いの約束の招き、また主イエスがその場に臨んでいることを信じることが赦されてもいるのです。

2013年3月 3日 (日)

出エジプト記3章1~12節 「招き」

 召命とは決断ではありません。神の呼ばわりは、その人の状況がどのようであっても有無を言わせないようにして招くことで人間の意志さえも超越して働きかける力の働きです。人間は、この世にしがみ付こうとし召命を拒もうとし自らの弱さをさらけ出します。自分が何者でもないことを思い知らされ限界の中で応答せざるを得ないところへと追い込まれていくのです。
 そこにあるのは、神が呼ばわっており、それに応答していこうとする心が備えられていくことです。その根拠はあくまで神の招きであり、「わたしは必ずあなたと共にいる」という力強い言葉によって初めて信仰として備えられていくものです。人間の側からは決して起こらないということです。
 神が名前を呼んで、その一人ひとりに相応しい仕事を命じます。命じられた人間は、すべての存在、実存をかけて責任的に応答する義務があります。ここに召命の本質があります。拒む自由がありますが、その道は神への反逆であり、破滅が待っています。
 召命が与えられた人は与えられた課題、そこにおいて示される神の言葉に無条件に従うことが求められます。モーセが名前を呼ばれて「はい」と答えたようにです。その時、モーセが履物を脱いだのは、自ら身に着けてきたものを削ぎ落とす象徴です。同じようにわたしたちも神に向かって僕として、自らの存在根拠を自己放棄していくことが求められています。召命が与えられた者は、この世において与えられた生涯を旅人として歩まなければなりません。来たるべき日に至る神の国に向かって歩むのです。神の思いがいかなるものであるかということを証しする生涯へと招かれるのです。絶えず神の呼ばわりから再解釈しながらです。ここに召命の課題があるのです。
 モーセが率いたイスラエルの40年間が旅であったところに注目したいと思います。色々なことが起こります。イスラエルの民の不信仰やつぶやきや不平、不満などが。神と人間には決定的な質的差異があるからです。人間には限界があるからです。
 しかし、神の呼ばわりに対して忠実に立ち続けていくならば、この世を旅人として共に歩んでいく可能性に開かれているということを今日はモーセの召命の記事から共に確認しておきたいと思います。
 わたしたちが、ここにこうして教会に呼び集められているのは、そもそもわたしたちの決断や敬虔や自らの信仰に根拠があるからではありません。絶えず根気よく招き続けるところの神の言葉の呼びかけとしての招きが何にも先んじて存在し働き続けておられるからなのです。

2013年2月10日 (日)

出エジプト記 2章11~25節 「道は備えられている」

 王女の養子となったモーセはエジプト人として40年間育てられます。しかし、出自はヘブライ人です。自分はいったいエジプト人なのかヘブライ人なのか、そしてこの世に神がいのちを与えた意味とか使命とは何か。その後、エジプトを逃れミディアンの地で暮らすことになりますが、この問いを抱えたまま、静かな平凡な、だけども厳しい羊飼いとしての暮らしを40年間黙々と続けます。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。」時まで。このミディアンでの日々は、隠遁の生活ないしは「引きこもり」の状態であったと読めます。全く歴史的な参与と言うものがない。しかし、この引きこもっているような平凡な暮らしの中にこそ、実は後の出エジプトに至る激しい生き方へと招かれる、そのエネルギーが蓄積されていくということではなかったかと思います。歴史において一見無駄に見える時間、そこに実は意味があるということを出エジプト記の著者は読ませようとしています。出エジプトの出来事はただ単に急に始まったわけではなくて、神が呼ばわるまでは引きこもるようにしている、その期間が大切なのだということです。
 本当に呼ばわれた時に働くためにも、この「引きこもり」の期間が、実はわたしたちの信仰のあり方にとっても重要ではないかと思います。リトリート(退却、後退)と一見思われるところにこそ積極的な意義がある。わたしは、その中心が礼拝だと思っています。今こうして集まっていますが、この時間は何をも積極的な生産物を出しません。けれども、この無駄な時間こそが必要だということです。自分が生活している現場、その働きから一旦退却するわけです。家庭や職場での役割を放棄する、学生であるならば学びの時を一回放棄して、ただただ神の前で無為であるということを受け止めながら、共に神の前に集まるという時間が必要だということです。その時があるからこそ新たな歩みに呼ばわれていく、そういう道筋があるということです。
 神ご自身は、歴史を見ておられ、またイスラエルの選びにおいて顧みておられる。出エジプトのためにはミディアンでの40年が必要であった。そのような性質をもった礼拝という出来事において、わたしたちはこの世から、一人ひとりの生活から一旦退却し後退する。この時間によってわたしたちは、もう一度自らの与えられた使命、呼ばわれている現場に帰っていくことができるのです。

2013年2月 3日 (日)

出エジプト記 1章22節~2章10節 「神を呼び求める」

 今日の聖書は、イスラエルの民はエジプトにおいて苦難が強いられるようになった頃、後の指導者となるモーセが誕生しエジプトの王女の養子となる物語です。この物語には、イスラエルの民の苦しみの姿が、泣いている赤ん坊としてのモーセの姿を通して先取られています。2:6には「赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた」とあります。これはやがてイスラエルの民がエジプトを脱出しなければならない状況である苦しみや辛さを象徴しています。これを神がイスラエルを見聞きして(3:7-10)、やがてカナンに導き上るのです。キリスト教詩人の八木重吉に次のような詩があります。

さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな

 赤ん坊モーセの泣いている姿を、神を求める祈りだったのではないでしょうか。イスラエルの苦しみの中での祈りを、それに先立ち神は聴こうと待っていてくださるのだ、なおかつそれを決して放っておかれないのだと聖書は語りたいのです。
 このような赤ん坊の泣く姿に象徴される祈りが、わたしたちにとって決して他人事ではなくて、我が事として読むことが赦されていると、聖書は語りかけているのです。そして神は呼び求められることを待っていてくださるのです。
 ここには、今涙を流さざるを得ない、どんなに辛い状況にあっても、決して絶望することなく安心と平安へと導いてくださる神の意志を読み取ることができるのです。これを信じることができるかどうかに、わたしたちの信仰はかかっていると言っても大袈裟ではないでしょう。ですから、泣いている赤ん坊モーセのように、しつこくしつこくわたしたちは率直に神を呼び求めることが赦されているところにこそ幸いへの招きが確かであることを共々感謝したいと願っています。

2012年8月26日 (日)

出エジプト記 20章12~17節 「<いのち>がつながる」

 キリスト教会は十戒を、あくまで新約におけるキリストから解釈します。つまり、イエス・キリストの福音という出来事から照らされて初めて律法を福音として受けとめることができるのだという立場に立っているということです(イエスを律法の完成として捉えている箇所はマタイ5:17-20)。まず神との関係が正されることによってのみ、人々との関係としての共同性を整えていくところに神の戒めに生きることだという理解があるのです。
 イエスの場合は「隣人」理解がユダヤ人同胞に閉じられてはいないのです。民族性という閉じられた人間関係のありようを乗り越えて「隣人」になっていくことで、<いのち>が繋がっていく道があるのだと示しています。さらに言えば、このユダヤ人同胞という枠を超えて働く「隣人愛」の実践へと展開します(ルカ6:27,35参照)。
 このようなイエスの言葉の持つ社会性から十戒の後半部分の人間関係の形成の方向性を見ていくと、父母に代表される基本的な人間関係から、民族を超えていく「隣人」の関係へと広がり、盗みや偽証することや隣人を貪るということへの禁止がイエスを介して、より広く解釈されることになります。わたしたちの求める世界観や望ましい社会というものは、イエスを介する十戒理解からすれば、お互いの<いのち>を貪るような関係を避けながら、<幸い>というイエスの祝福の言葉によって整えられていくつながりが求められているということになります。
 世界の富を先進国と呼ばれる国々がより弱い国々の分まで奪い尽くすような世界観のただ中にあって、十戒を福音として受けとめ、その戒めに生きようとするキリスト者は、この世の価値観に埋没してはならないと戒めているのではないでしょうか。キリストの眼差しが向かうところに祝福される人々の<いのち>のつながりを示しているのです(ルカ6:2Ⅰ-23参照)。
  東日本大震災以降、言葉は無力になり、崩れていくような感覚に陥る時、今一度イエスから十戒の示す世界観を祈り求めていくところに、キリスト者が神の戒めに生きる道が備えられているのではないでしょうか。まだ実現されてはいないけれど、歩むべき戒めに生きる道はアシジのフランチェスコの「平和を求める祈り」とも共鳴してくるのを感じます。
 イエス自らが律法の完成者、その成就として、わたしたちの前に立ち、イエスご自身が戒めとして立ち振る舞った姿を心に刻みつつ歩むとき、すでにわたしたちは十戒に示されている事柄によって開かれている<いのち>のつながりとしての福音へと招かれてしまっているのです。

2012年8月19日 (日)

出エジプト記20章8~11節 「もっと楽に生きられたら」

 律法とは、神がモーセを介してイスラエルの民に与えられたものですから、もともとは良きものなのです。しかし、やがてイスラエルの歴史の中で形骸化し、イエスの時代には人に喜びを与えるものではなく、却って人を圧迫し苦しめるもとになってしまっていたようです。(マルコ2:23‐28等)
 「安息日は、人のために定められた」という原点に立ち返ることを出エジプト記から共に学びたいと思います。安息日とは、やめるとか離れる、中断するなどの感覚を示します。何かを行なうことではなくて、ただそこにいるだけで、祝福された命がわたしたちのもとにあるという神からの招きとしての自由に触れ、自らを生き返らせる神の働きに委ねることが本来の安息日です。「楽に生きること」の原点です。イスラエルの民がエジプトから脱出したのは、ただ苦しみから逃れるためだけではありません。まことの唯一の神に信じ従う道への招きに応じることでした。それは、中心に礼拝を据えた安息日の復活でした。
 その安息の根拠を出エジプト記では神の天地創造物語においています。創世記の最初にある、言葉による無からの創造が6日間でなされ、7日目に休まれた、安息なさったという点です。この安息こそが大切なのであり、天地創造のピーク、完成があるのです。
 この無為の為を神に倣い、喜ばしい出来事として受けとめ、将来に向かう自由を自己吟味することによって、新たな可能性に開かれていることを感謝と賛美で応えて過ごすのが本来の安息日なのです。ですから、喜ばしい時なのです。日々の暮らしの中に埋もれてしまい、自分たちを見失ってしまう生活を整えるために、安息は神の要求として、わたしたちの前に立ち現れているのです。このためにわたしたちは、日曜礼拝を守るのです。
 ミヒャエル・エンデの著書に「モモ」という作品があります。より良き未来のために人々に時間を貯蓄させ、その時間を盗む「時間どろぼう」から、モモという少女が人々の時間を取り戻す物語です。人々が自分らしさを失っていく仕組みと人間のあるべき姿の回復を提示するこの作品は、主イエスの語った「安息日は、人のために定められた。」という言葉をファンタジーとして、わたしたちに分かりやすく語っているのではないでしょうか。そして、時間を貯蓄することによって、どんどん人々が不機嫌になり、人間関係が壊れていくという描写に注目したいと思います。「時間を節約したら生活は楽になる」ということが幻想だということです。「もっと楽に生きられたら」という願いは誰でも持っています。けれども、そこでとる方向性を間違ってはいけないということです。

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