本日の聖書箇所はパウロ伝道の中での「信仰の多様性」について言及しています。当概箇所の9章の冒頭部分に「使徒の権利」という「小見出し」が付加されていますが、「キリスト・イエスに繋がれた人間」が信仰生活の中で「キリストの存在」をどのように信仰者各々の「精神世界の表出」として反映させてゆくかが、様々の具体的事例を基に含め1節から18節まで切々と叙述されています。この第一コリント書簡はパウロがエフェソ滞在の頃執筆されています。マケドニア経由でコリントを来訪しようと計画していた最中コリント教会で様々な教会員同士の様々な内紛と確執が存在すると聞き、内紛の「解決」と「和解」を目的として執筆したと伝えられています。故にパウロが理想とする「教会論」が描かれていますが、同時にパウロ自身の「信仰観」も鮮明に描写されています。
「信仰者」である私達は毎週教会に通い、礼拝をしています。スタンダードなプロテスタント教理的には教会は「キリストの体」とされています。当概箇所と同様の第一コリント12章27節において「あなた方はキリストの体であり、また一人、一人はその部分です。」と語られています。「教会」のギリシア語原典での言葉は「エクレシア」であります。これは「神によって召しだされた者達」或いは「神の召しによって呼び集められた会衆」という意味であります。換言すれば神によってある目的をもって集められた人間、「使命」或いは「召命」という形で集められた「人間の集合体」という意でもあります。
各々教会にいらっしゃる方々はそれぞれ「個性」があり、それぞれの方が異なる「生活背景」、「生活歴」をお持ちであります。また同じ「イエスの福音」を信ずる方々の間でも「どのようにイエスを信じているのか」、また「受洗に至った経緯」も「千差万別」であると存じます。このような「多様な人間像」の集まりを「キリスト・イエス」の「福音」を「礎」とし世に「平和」を現出させてゆくのが「教会~エクレシア」に与えられた使命であります。またエフェソ信徒への手紙4章25節において「だから、偽りを捨て、それぞれの隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは互いに体の一部なのです。」と語られています。
何かの議題、議案についてまた「説教者」の語る「使信の内容」ついても賛成であれ反対であれお互いが「本音で話し合う事の出来る空間」が教会の在るべき姿であり、「本音で語ろう」とする「姿勢」の中にこの箇所で述べられている「真実を語る」姿があるのではないでしょうか。
本日のテキストの中でパウロは様々な信奉者の人達の特性を叙述しています。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように」(20節)「律法を持たない人には律法を持たないように」(21節)「弱い人に対しては弱い人のようになりました」(22節)等、パウロは人間の多様性について語っています。「強権的な意識」の基で作られた「平和」は人間の「理念」に基づいた「ファシズム」であり「神の義」の体現である「平和」とは程遠いものであります。多種多様な意見があり中々「合意」或いは「総意」に至らなかったとしても辛抱強く「対話」を重ね、自分と「異なる隣人」の方の意見に耳を傾けてゆき、例え「理想的な合意」に至る事が出来なくとも「本音を語る~各々の真実を語る」という作業を経なければ「神の望まれる平和」の姿は実現し得ず、「エクレシア~神に召しだされた者達」である「教会の姿」は実現しえないとパウロは語っています。
「相互理解に基づいた対話」をしてゆく「場所」と「異なる隣人同士が裁き合う」「場所」は全く意味が異なります。「相互理解」とは無論の事、容易ではありません。自分と異なる隣人の方の抱えている「痛み」や「重荷」を察する事も困難を極める状況もありましょう。その結果として「対話」が頓挫し「自己不全」に陥る場合も現出するでしょう。しかしそのような「不完全である私達」の「ありのままの姿」を神とイエスは御覧になり「霊的臨在」として常に傍らに居るのが「エクレシア~教会」という場所であるのです。「不完全なまま」でもお互いが「必要不可欠な存在」であるという「気付き」を「神及びキリスト・イエス」は「エクレシア」の空間の中で私達に与え続けるのであります。
パウロ書簡には「霊~プネウマ」、「肉~サルクス」、「身体~ソーマ」という人間存在にまつわる3つの概念用語が登場いたします。この「肉~サルクス」は動物の肉体をも現し「理性的で霊性に満ちた人間」の「身体」の理想的な姿とは程遠い「獣性」をも表してしまうのです。創世記3章のアダムとエバの「エデンでの堕罪」により「神の怒り」から崇高なる「霊~プネウマ」(性善説)の「存在」から他の「動物」と変わらない己の欲望のままに行動する「獣性」を帯びた「肉~サルクス」(性悪説)に落とされた「人間存在」を救済するために、イエスが十字架に上がり「自ら」の「肉体の犠牲」をもってして神の怒りを鎮め、神と人間存在との「和解」を計ったのが「イエスの十字架の贖い」の論理であります。この「イエスの十字架の贖い」によって「救済された」と自覚する人間、最早「肉~サルクス」ではなくギリシャ語で「ソーマ」と訳される「身体」へと転換します。私達キリスト者の「キリストを義」と認め「救済された肉体」は「霊性」に満ちた「身体」に転換されてきたわけです。故に私達の教会内の「内紛や確執」は、私達がこの「獣性」を帯びた「肉の領域」から抜け出ておらず、本来あるべきキリストによって「義化」「聖化」された「身体」から離れてしまっている「獣的行為」に「陥ってしまっている状況」を表しています。
信仰的には不完全な私達であったとしてもそこには必ず「神の嘆き」があり「神の(嘆き)の象徴としての」「十字架のイエス」が存在するのです。そしてこの「嘆きの象徴」としての「十字架のイエス」を顧みる時、私達は己の「愚かさ」と「罪」に立ち帰させられるのであります。そして「肉~サルクス」に立ち戻ってしまった「私達自身の信仰態度」を「相対的に検証」してゆく機会を与えていくのが「エクレシア」という「キリストの身体」としての「私達の集合体」の空間であります。そしてその空間には「十字架に登ったまま」の私達の「肉」の「犠牲」になった「ナザレのイエスの姿」が「依然として存在する」のであります。使徒信条にあるように「身体の蘇り」は三日後の復活の中で起こっても「私達の罪の象徴」である「肉」の「在り様」は依然として十字架の上に晒されたままであるのです。私達に「己の罪の在り方」を検証させ信仰態度を返り見「霊性に満ちた身体」すなわち「キリストの身体」に立ち返らせる為であります。
本日の説教箇所に「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(19節)と在ります。 「人間存在の在り方」は多種多様であります。同時に人間の「肉の罪の在り方」も多種多様であります。つまり人間の数だけ「多様な罪」の形があり、その「多様な罪」の「在り方」の数だけ「多様な救われ方」があるのであります。「自分自身の肉」のもたらす「罪からの解放」の形も「人間の数だけ」存在するのであります。「キリスト・イエス」は人間の「多様な罪の数」に伴い「犠牲となった姿」のままで十字架の上に「依然として存在している」のです。その意においてこの箇所においてパウロの述べるような「全ての人の奴隷」となった「イエス」の姿は、人間の数だけ存在するそれぞれの「弱さ」と[罪]という十字架を背負い「私達の眼前」に存在しています。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(24節)と語られていますが、その人自身が「蘇りの身体」である「その人だけのゴール」は「人の数」と同じく存在するのであります。「賞」である「身体」の在り方はその人でしか分かりませんし、その人にしか「辿り着けないゴール」であります。
最終節の27節においてパウロは「むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」と語っています。文字通りパウロ自身の「罪責」の「清算の決意表明」であります。それはパウロ自身がかつて熾烈なキリスト者の迫害者であり、の当時自分自身の根底にあった「罪」は、「ファリサイ主義筆頭学者」としての「自己承認欲求に基づく虚栄心」であった事実をダマスコの「回心後の自己検証」の末に良く熟知していたと言えましょう。「多くのキリスト者の命」を「自分の自己実現」の為に「犠牲」にしてきたパウロ自身の「肉の罪」の「本質」に向き直ざるをえなかったのであります。そして「犠牲」にしてきた人達の一人一人の姿に「キリスト・イエスの嘆き」を感じたのであります。パウロは「ダマスコの回心」の後数年間の歴史上、「謎の信仰的空白期間」が存在しています。恐らくこの期間パウロは「自己の罪」の「相対的検証」という「内省的期間」をすごしていたのでしょう。その結果としてパウロは「自分の向かうべきゴール」を明確に定めていました。それは多くの人を「犠牲」にしてきたという己の「肉の罪」と「愚かさ」に対する「義噴の念」と「悲しみ」を「己の十字架」として背負い続け、「キリストにより再生された自分の身体」が「罪の償い」として多くの人間に仕えてきたという「喜び」という「ゴール」に転換させる為の「長い旅」の始まりであったのです。そしてパウロの目指した「賞~ゴール」の「片鱗」が「教会に集う私達そのもの」~「福音に満ちたエクレシア」という形で現在の「危機的状況の社会」に届けられていると切に願わざるをえません。
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