コリントの信徒への手紙一

2022年7月 3日 (日)

コリントの信徒への手紙一 1章18~31節 「十字架の言葉」

 十字架刑は、ユダヤ人にとっても異邦人であるローマ人にとっても受け入れがたい、おぞましいものでした。十字架は決して美しいものではありません。日曜の朝から不快な言葉を並べ、申し訳ありませんが、血の匂いや糞尿などにまみれ、悪臭漂い、無残なものです。人をこれまでかと言うほど、そのいのちを侮辱しつつ殺していく死刑の方法であったのです。ローマの考え方からすれば反逆者、政治犯、奴隷の処刑であり、ユダヤ教では木に架けられた死体は神に呪われたものです。

 この、主イエス・キリストの十字架の出来事はキリスト教信仰にとっての試金石です。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。

 主イエスを信じ、従う者とは、この十字架の事実・出来事に打たれたものを指します。十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による主イエスの死によって、わたしたちはいのちへと呼び覚まされ、生きるべき道が備えられていることを知らされるのです。

 弱いけれども強いと述べるパウロは、順風満帆に地中海沿岸を旅しながらキリスト教を宣教したのではありません。持病を抱え様々な艱難の連続だったのです。弱いけれども強いという支えと導きを、あの十字架によって知らされていたのです。わたしたちもパウロと同様に確かに弱いのです。具体的な体の病や痛みをもち、人間関係や生活のことで頭を悩ませ苦しんでいる日常です。しかし、十字架の主イエスに信じ従うことは、わたしたちの日毎に圧し掛かる苦しみの中にあって、主イエスの十字架の苦しみのゆえに、自らの重荷を負いつつも生き抜く祝福を信じているのです。あえて勇気と希望のもとに、です。その力が、十字架の主イエスによって、わたしたち一人ひとりに、すでに備えられているのです。このことを信じることができるようにと赦され、招かれているのです。

 十字架における主イエス・キリストは、「世の無学な者」「世の無力な者」を選ぶことによって、わたしたちのまことの友となるようにして寄り添い続けているのです。知恵もなく、力や財力もないからこそ、わたしたちは選ばれたのです。仮に資産や能力に恵まれた人であるなら、それを誇りにしない、そこに依り頼まず、それを手放すことも恐れないでいられる身軽さ、たとえ大きなものをもっているように思えても、それは神から見れば無きに等しいものだと気づくことが与えられています。わたしたちに向かって、様々な仕方であらゆる悪しき「知恵」を相対化する視座を与えるようにして、主イエスは傍らに父続けてくださっています。この主イエスにある道へと立ち返りつつ歩んでいく決意を新たにしたいと願うものです。

2022年4月17日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章1~11節 「福音によって生かされて」

 主イエスをキリストとして信じることができるようになるには、人間の側の努力でどうにかできるものではありません。主イエスの側からの呼びかけ・語りかけによってのみなされるのです。使徒言行録に記されているパウロの場合ほどドラマティックではないにせよ。

 キリストが「死んだこと」、「葬られたこと」は、わたしたちの罪のためであったと言われます。買取を意味する贖い、代理、身代わりとしての死であったとされるのです。しかし、復活において、その死が乗り越えられることにより、主イエスの呼びかけ・招きを受けた者は、新しく立ち上がり、歩み始める力の勇気と希望に与る道が示されるのです。この、主イエスの十字架の死から復活という出来事によって招かれ・呼びかけを恵みとして受け止め、聞くことによって、信じ従う決断する者をキリスト者と呼びます。

 パウロは9節で「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と告白しています。わたしたちにとってパウロは偉大な伝道者であり、使徒であることは知られています。しかし、熱心に教会を迫害するものであったという過去を消し去ることはできないのです。このパウロが復活の主イエスと出会うことにより生き方を決定的に変えたこともまた事実です。このことは、わたしたちにとって、非常に大きな希望です。わたしたちは「神の教会を迫害する」という点において、イエスと出会う以前のパウロと同質です。差別や抑圧、病や貧しさと闘い抜かれた主イエスに従うと告白しながら、それらの悪しき社会をそのまま受け入れてしまっているからです。今、ウクライナの惨状に心痛め、ウクライナからの避難民を受け入れようとしている日本という国に住むわたしたちは、1年前に入管施設の中で亡くなったウィシュマさんの理不尽に死と無関係ではありません。難民を受け入れないという国のシステムをそのままにしておいたからです。このような「神の教会を迫害する」わたしたちもまた、復活の主イエスに出会うことができるのです。

 復活の主イエスとの出会い直しができるのだと願い、罪を引き受けてくださった主イエスがこの世の理不尽さに立ち向かう力を与えてくださる、闇の中にいるわたしたちを光の世界に引きずり出してくださる、そのことを感謝するのがイースター・復活祭だと思うのです。「福音によって生かされる」とは、すべてのいのちが大切にされる世界を作り出すという使命を生きている、ということです。その力を大なり小なり、わたしたちは与えられているのです。

2021年10月 3日 (日)

コリントの信徒への手紙一 11章23~26節 「イエスの食卓の方向性」 (世界聖餐日礼拝)

 本日は聖餐式を行うことはできませんが、聖餐について共に考える時としたいと願っています。聖餐の恵みは、キリスト教の多数派によれば洗礼を受けた者にのみ許されているとされます。しかしわたしたちの教会では、洗礼を受けていない人も聖餐に与ると理解しています。さらに言えば、聖餐と日常の食卓とは全くの別物なのではなくて、もっと世界大に広がりゆく方向性があると考えます。最終的には大規模な飢餓の現実をなくしていくことであり、少なくともその方向を目指すことでしょう。とりわけコロナ禍において現在進行形で問題になり明らかになりつつあるのは、飢えに直面している家庭や人々が激増しているということも、心に留めたいと思います。

 この現代的課題抜きにして、教会の神々しい儀式として自分がキリスト者であるという自己確認のためだけに聖餐を祝っているとしたら、主イエスの身体と血潮を無駄にすることになるのではないでしょうか。主イエスの体と血潮に与るということは、主イエスの道を歩むようにとの招きと促しに与ることでもあります。主イエスのなさったことの中でも、5千人、4千人に食物を与えた記事は、炊き出しを思い起こさせます。わたしたちが他者の飢えに関して無関心でいられるのならば、聖餐を受ける喜びが足りない、とも言えるのではないでしょうか。わたし自身は常に満腹でいられるという状況の中で、飢えを語ることの偽善性を自覚しつつ、言うのではありますが…。

 互いに分かち食べることのできていない現実は世界規模であり、かつ複雑です。わたしたちのできることなど限られていますし、わずかなことしかできないでしょう。できるところからしていくしかなく、食の生活スタイルを変えていくことも考えなくてはならないと思います。

 主イエス・キリストに示される世界観に立ち返ることから、現代的な意味において聖餐を再解釈していくことが必要です。聖餐が示すのは、洗礼の更新という意味合いに閉じられていくのではなく、今生きるために食べるという行為、しかも共にという態度から理解されるのは、開かれゆく食卓理解なのです。

 わたしたちは、主イエス・キリストによって呼ばれ、招かれています。それゆえ、主の道へと歩まなければならないのです。決定的に正しい答えなど見つからないまま模索しつつ、現代社会の歪みに対峙し、別の物語の可能性に向かっていくのです。主のからだと血潮に与ることによって、わたしたちは主にある広がりに生きることが赦されているのです。

2021年5月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章1~11節 「霊的な賜物」

 わたしたちは、信仰を精神的・内面的に捉えがちです。確かに「イエスは主である」と告白することは、聖霊の働きとしか呼びようのない導きに支えられ、自らの決断でなされるものですが、本質は個人的な事柄に留まるものではありません。教会という共同体の中での「わたし」と「わたしたち」の結びつきを承認していくこと、お互いの言葉も含めた全存在を認め合っていくことです。パウロは、教会の中の「務め」や「働き」に違いはあっても、全体では一つであると語り、さらにはこの点について身体の部分のたとえで説明しています。それぞれかけがえのない大切なものであり、違いを違いとして認め合うことで「わたしたち」の「たち」という教会の共同性における、より豊かないのちのありようを主張していると思われます。

 このようにパウロが主張しなければならなかった背景には、1章10節以降に展開されている派閥意識や分派の問題があります。「 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」とあるようにです。

 このような争いは、信仰の違いにりお互いに排除しようとするところから起こっていますが、それだけではないと思われます。今日のテーマに即して分かりやすい点から考えれば、同じ言語を使っていても言葉が通じない・聴かれない、理解されにくい状況はあるということです。現代のわたしたちにも言えることです。しかし、立場や神学や意見などの違いを乗り越えるために聖書に「聴く」ことから始めたいという願いがあることはご理解いただきたいです。

 3節後半の「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とあるところの「イエスは主である」という信仰告白に鍵があると感じています。この告白は、立場や神学や信仰理解が違っていても、同じ主イエスを課題としているのだから、お互いに「聴く」ことに向かって能力を磨いていけば改善できるのだという理屈になります。しかし、キリスト教界の現実において、これは相当困難なのです。

 パウロの考え方に従うならば、教会の中での相手に対するあり方は、「イエスは主である」との信仰告白が聖霊の働きによると認めていくのであれば、様々な違いを違いとして認め合うことで、新しくて創造的な関係を作りだしていく希望を持つことができるように思えてきます。聖霊の働きは教会の枠をも超え、理解し合うための「聴く」力を与えるものとして、備えられていくという希望であると知らされていくのではないでしょうか。

2020年11月 1日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章19~20節 「<喪>を支えるために」

~永眠者記念~

 <喪>とは、愛する人を喪った「死別」の嘆き悲しみを正直さの中で体験し、心の一番良い場所に至るまで整えていく一連の作業を指します。身を引き裂かれるような痛みが伴われることも当然あります。

 この<喪>の作業において、遺族は心底嘆き悲しむことが保証されなければならないことを何度もお話してきました。ここで嘆き悲しみに不自然な仕方で蓋をしてしまうと心の底にタールのようなものがこびりついてしまうようです。人の死、とりわけ愛する者の死は、この<喪>の作業を続ける正直さの中で受け止めていくしかないことなのです。

 わたしたちの通常の人生の時間の流れの理解からすれば、生まれて育ち、やがて死を迎えるということになります。この世の死をもっていのちが終わるというのです。しかし、キリスト教の教会はそのようには信じていません。確かに人間の力では、いのちを作り出すことも操作することも許されてはいないからです。死に対してもそうです。いのちも死も人間のものではありませんし、自由気ままに扱うことが許されていない厳粛なことだからです。わたしたちの考えの及ばないところに死はあるのです。

 今日の聖書の続く箇所には次のようにあります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(1521-22)」と。キリスト教会にとって、決して手放してはいけない中心の中心はイエス・キリストの復活にあるというのです。

 主イエス・キリストはこの世において公の活動をしました。貧しさや病、社会の不条理などの諸々の悪と対峙し、人間の尊厳を取り戻すために権力との闘いの道を歩まれました。しかし、当時のローマやユダヤの権力は、死をもって、しかも当時もっとも愚かであり軽蔑され卑しいとされた十字架によって処刑にしたのです。しかし、その主イエス・キリストのいのちは、そこで終わりとはなりませんでした。復活されたのです。これは、この世における死に対する勝利であったのです。いのちから死へという方向から、死からいのちへの方向への転換点です。主イエスこそが、その初穂として実現してくださったのです。この主イエスという初穂、続いて実る穂を希望において約束するという宣言をパウロは信じたのです。主イエス・キリストにおいてのみ、わたしたちはこの世の死からいのちへと至る道を希望することができるようにされたのです。この希望の約束において、死からいのちへの道が整えられたのです。

 わたしたちはこの世の死をもって終わりだと信じないのです。初穂である主イエス・キリストにあって死なないものへと転じていくことへの招きに与っているのです。このようにして<喪>は支えられているのです。

 

2020年5月31日 (日)

コリントの信徒への手紙一 9章19~27節 「依然として十字架に在るイエス」井谷 淳  伝道師

 本日の聖書箇所はパウロ伝道の中での「信仰の多様性」について言及しています。当概箇所の9章の冒頭部分に「使徒の権利」という「小見出し」が付加されていますが、「キリスト・イエスに繋がれた人間」が信仰生活の中で「キリストの存在」をどのように信仰者各々の「精神世界の表出」として反映させてゆくかが、様々の具体的事例を基に含め1節から18節まで切々と叙述されています。この第一コリント書簡はパウロがエフェソ滞在の頃執筆されています。マケドニア経由でコリントを来訪しようと計画していた最中コリント教会で様々な教会員同士の様々な内紛と確執が存在すると聞き、内紛の「解決」と「和解」を目的として執筆したと伝えられています。故にパウロが理想とする「教会論」が描かれていますが、同時にパウロ自身の「信仰観」も鮮明に描写されています。

 「信仰者」である私達は毎週教会に通い、礼拝をしています。スタンダードなプロテスタント教理的には教会は「キリストの体」とされています。当概箇所と同様の第一コリント12章27節において「あなた方はキリストの体であり、また一人、一人はその部分です。」と語られています。「教会」のギリシア語原典での言葉は「エクレシア」であります。これは「神によって召しだされた者達」或いは「神の召しによって呼び集められた会衆」という意味であります。換言すれば神によってある目的をもって集められた人間、「使命」或いは「召命」という形で集められた「人間の集合体」という意でもあります。

 各々教会にいらっしゃる方々はそれぞれ「個性」があり、それぞれの方が異なる「生活背景」、「生活歴」をお持ちであります。また同じ「イエスの福音」を信ずる方々の間でも「どのようにイエスを信じているのか」、また「受洗に至った経緯」も「千差万別」であると存じます。このような「多様な人間像」の集まりを「キリスト・イエス」の「福音」を「礎」とし世に「平和」を現出させてゆくのが「教会~エクレシア」に与えられた使命であります。またエフェソ信徒への手紙4章25節において「だから、偽りを捨て、それぞれの隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは互いに体の一部なのです。」と語られています。

 何かの議題、議案についてまた「説教者」の語る「使信の内容」ついても賛成であれ反対であれお互いが「本音で話し合う事の出来る空間」が教会の在るべき姿であり、「本音で語ろう」とする「姿勢」の中にこの箇所で述べられている「真実を語る」姿があるのではないでしょうか。

 本日のテキストの中でパウロは様々な信奉者の人達の特性を叙述しています。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のように」(20節)「律法を持たない人には律法を持たないように」(21節)「弱い人に対しては弱い人のようになりました」(22節)等、パウロは人間の多様性について語っています。「強権的な意識」の基で作られた「平和」は人間の「理念」に基づいた「ファシズム」であり「神の義」の体現である「平和」とは程遠いものであります。多種多様な意見があり中々「合意」或いは「総意」に至らなかったとしても辛抱強く「対話」を重ね、自分と「異なる隣人」の方の意見に耳を傾けてゆき、例え「理想的な合意」に至る事が出来なくとも「本音を語る~各々の真実を語る」という作業を経なければ「神の望まれる平和」の姿は実現し得ず、「エクレシア~神に召しだされた者達」である「教会の姿」は実現しえないとパウロは語っています。

 「相互理解に基づいた対話」をしてゆく「場所」と「異なる隣人同士が裁き合う」「場所」は全く意味が異なります。「相互理解」とは無論の事、容易ではありません。自分と異なる隣人の方の抱えている「痛み」や「重荷」を察する事も困難を極める状況もありましょう。その結果として「対話」が頓挫し「自己不全」に陥る場合も現出するでしょう。しかしそのような「不完全である私達」の「ありのままの姿」を神とイエスは御覧になり「霊的臨在」として常に傍らに居るのが「エクレシア~教会」という場所であるのです。「不完全なまま」でもお互いが「必要不可欠な存在」であるという「気付き」を「神及びキリスト・イエス」は「エクレシア」の空間の中で私達に与え続けるのであります。

 パウロ書簡には「霊~プネウマ」、「肉~サルクス」、「身体~ソーマ」という人間存在にまつわる3つの概念用語が登場いたします。この「肉~サルクス」は動物の肉体をも現し「理性的で霊性に満ちた人間」の「身体」の理想的な姿とは程遠い「獣性」をも表してしまうのです。創世記3章のアダムとエバの「エデンでの堕罪」により「神の怒り」から崇高なる「霊~プネウマ」(性善説)の「存在」から他の「動物」と変わらない己の欲望のままに行動する「獣性」を帯びた「肉~サルクス」(性悪説)に落とされた「人間存在」を救済するために、イエスが十字架に上がり「自ら」の「肉体の犠牲」をもってして神の怒りを鎮め、神と人間存在との「和解」を計ったのが「イエスの十字架の贖い」の論理であります。この「イエスの十字架の贖い」によって「救済された」と自覚する人間、最早「肉~サルクス」ではなくギリシャ語で「ソーマ」と訳される「身体」へと転換します。私達キリスト者の「キリストを義」と認め「救済された肉体」は「霊性」に満ちた「身体」に転換されてきたわけです。故に私達の教会内の「内紛や確執」は、私達がこの「獣性」を帯びた「肉の領域」から抜け出ておらず、本来あるべきキリストによって「義化」「聖化」された「身体」から離れてしまっている「獣的行為」に「陥ってしまっている状況」を表しています。

 信仰的には不完全な私達であったとしてもそこには必ず「神の嘆き」があり「神の(嘆き)の象徴としての」「十字架のイエス」が存在するのです。そしてこの「嘆きの象徴」としての「十字架のイエス」を顧みる時、私達は己の「愚かさ」と「罪」に立ち帰させられるのであります。そして「肉~サルクス」に立ち戻ってしまった「私達自身の信仰態度」を「相対的に検証」してゆく機会を与えていくのが「エクレシア」という「キリストの身体」としての「私達の集合体」の空間であります。そしてその空間には「十字架に登ったまま」の私達の「肉」の「犠牲」になった「ナザレのイエスの姿」が「依然として存在する」のであります。使徒信条にあるように「身体の蘇り」は三日後の復活の中で起こっても「私達の罪の象徴」である「肉」の「在り様」は依然として十字架の上に晒されたままであるのです。私達に「己の罪の在り方」を検証させ信仰態度を返り見「霊性に満ちた身体」すなわち「キリストの身体」に立ち返らせる為であります。

 本日の説教箇所に「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(19節)と在ります。 「人間存在の在り方」は多種多様であります。同時に人間の「肉の罪の在り方」も多種多様であります。つまり人間の数だけ「多様な罪」の形があり、その「多様な罪」の「在り方」の数だけ「多様な救われ方」があるのであります。「自分自身の肉」のもたらす「罪からの解放」の形も「人間の数だけ」存在するのであります。「キリスト・イエス」は人間の「多様な罪の数」に伴い「犠牲となった姿」のままで十字架の上に「依然として存在している」のです。その意においてこの箇所においてパウロの述べるような「全ての人の奴隷」となった「イエス」の姿は、人間の数だけ存在するそれぞれの「弱さ」と[罪]という十字架を背負い「私達の眼前」に存在しています。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(24節)と語られていますが、その人自身が「蘇りの身体」である「その人だけのゴール」は「人の数」と同じく存在するのであります。「賞」である「身体」の在り方はその人でしか分かりませんし、その人にしか「辿り着けないゴール」であります。

 

 最終節の27節においてパウロは「むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」と語っています。文字通りパウロ自身の「罪責」の「清算の決意表明」であります。それはパウロ自身がかつて熾烈なキリスト者の迫害者であり、の当時自分自身の根底にあった「罪」は、「ファリサイ主義筆頭学者」としての「自己承認欲求に基づく虚栄心」であった事実をダマスコの「回心後の自己検証」の末に良く熟知していたと言えましょう。「多くのキリスト者の命」を「自分の自己実現」の為に「犠牲」にしてきたパウロ自身の「肉の罪」の「本質」に向き直ざるをえなかったのであります。そして「犠牲」にしてきた人達の一人一人の姿に「キリスト・イエスの嘆き」を感じたのであります。パウロは「ダマスコの回心」の後数年間の歴史上、「謎の信仰的空白期間」が存在しています。恐らくこの期間パウロは「自己の罪」の「相対的検証」という「内省的期間」をすごしていたのでしょう。その結果としてパウロは「自分の向かうべきゴール」を明確に定めていました。それは多くの人を「犠牲」にしてきたという己の「肉の罪」と「愚かさ」に対する「義噴の念」と「悲しみ」を「己の十字架」として背負い続け、「キリストにより再生された自分の身体」が「罪の償い」として多くの人間に仕えてきたという「喜び」という「ゴール」に転換させる為の「長い旅」の始まりであったのです。そしてパウロの目指した「賞~ゴール」の「片鱗」が「教会に集う私達そのもの」~「福音に満ちたエクレシア」という形で現在の「危機的状況の社会」に届けられていると切に願わざるをえません。

2019年10月20日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章20~28節 「身体のよみがえり-使徒信条講解23」

 キリスト教会では死のことを「眠り」と理解することがあります。「眠りについた人たち」と20節にはあります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)と。この世における死というのは眠りなのだ、来るべき最終的な死というものはあるけれども、いのちへと招かれる約束があるのだというのです。そこで、旧約の言葉を踏まえながら54節後半から述べていくのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と。
 ハイデルベルク信仰問答45の答の3項「わたしたちにとって、 キリストのよみがえりは わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの 確かな保証である、ということ。 」という保証が「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)にあるのです。このゆえに、わたしたちも来るべき日には、この身体がキリストと同じようにと変えられていくという約束があり、完全にされていく。全く新しいわたしというものが、この身体ごと復活していくのだ、ということです。そのようにして、わたしたちは変えられていく約束に生きていくようにとの促しなのです。
 わたしたちはこの世において様々な苦難があり、また試みがあり、悩みがあり、先行き不安なところもあるでしょう。しかし、パウロ的な信仰理解によれば大いに悩んでいいのです。復活の約束があるからこそ、悩むことも悲しむことも喜ぶことも、共に泣くことも笑うこともできる、そういう人と人とのつながりの中で歩んでいくことができるのです。このような方向を求め続けていくことができるという約束の中で歩んでいけばいいのです。
 かつてのキリストの復活とやがて来るべき来臨のイエス、この「間」を生きているわたしたちは、どんな厳しい状況であったとしても守られている、という約束があるのです。この約束をもってわたしたちは、その担保されたいのちにあって救われているのです。「キリスト者が救われている」というのは、イエス・キリストを信じているから天国に入るキップをいただいてしまっている、ということではありません。イエス・キリストの招きの約束に、わたしたちの救いの現在があるのです。このことをパウロは証言しています。やがて来るべき身体のよみがえりに与る約束に生かされている教会が、ここににあるのです。

2019年7月14日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章20~22節 「死人のうちより‐使徒信条講解15」

 死の出来事の破壊力、その暴力性、無常さなどに対して、わたしたちは無力です。主イエスも例外ではありません。
【 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとしたしかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。】(マルコ15:33-37)
 主イエスが絶叫しつつ死を迎えるとき、関係性の破壊への悲しみや悔いなど心の中に溢れる様々な思いがあったと考えられます。わたしたちと同様に、主イエスにあっても無情にも死は訪れたのです。
 よみがえりの主イエスが、この絶望のうちに死んでいった主と同じ方であるということを忘れてはなりません。しかし「死人のうちより」よみがえってくださることにおいて勝利したのです。21節の「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」が示すのは、「初穂」である主イエスに招かれ、連れられていく道において、わたしたちは「死」の現実を平安のうちに受け入れていくことへと導かれていくに違いないということです。わたしたちは自らの死を前にしたとき、病気のゆえであればなおさら。死を恐れ、「なぜですか」と神に問うでしょう。しかし、よみがえりのキリストの力は、死に対して勝利しているがゆえに「死の意味を問わずに済む」、ただ受け容れることへと整えられているのでしょう。ここには死の恐怖や不安などから自由にされていく道が、この歴史において示されています。この態度はパウロのあり方からも支えることができます。今日の15章を読み進んで行くとぶつかる箇所です。すなわち、「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15:55)と。
 わたしたちは誰一人の例外なく、この世における死を迎えます。しかし、主イエスが初穂として死人のうちからよみがえってくださっている事実を前提にすれば、死に対する恐怖や不安を抱えたままでさえ受け入れられているので大丈夫なのです。十字架上での主イエスの絶叫によって、わたしたちは支えられているのです。ですから来るべき日に至るまで、わたしたちは、主イエス・キリストの導きのもと応答可能性というこの世における責任の道を歩んでいけばいいのです。

2019年4月 7日 (日)

コリントの信徒への手紙一 8章1~6節 「我らの主-使徒信条講解6」

 他の神々がいるとの主張が世の中に満ち溢れてはいるけれども、それら一切を認めない、自分には唯一の神しかいないというパウロの信仰的決断というか信念が根っこにあります。この信仰的判断はパウロの素養とも関係がありますが、十戒の初めにある部分を前提としています。出エジプト記2章の2節と3節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
 わたしたちは聖書の証言する神を信じているので、「他のいかなる神々」とは全く関わりのないことだと考える方もあるかもしれません。しかし、「神々」とはただ単に他の神とか宗教とかの意味ではないのです。現実生活の中で「わたし」に支えや励みや価値基準などを与えるもの一切が神になりうるのです。王や皇帝などの直接的な権力に留まらず、お金であったり、知識や経験であったり、権力であったり、自分が物事を普通に考えてしまう根拠それ自体であったりするのが「神々」なのです。つまり、その人の心を動かし、考えを決めさせ、何かしらの判断をくだす基準それ自体のことです。「神々」の存在は、キリスト者であっても避けることの困難な誘惑の一つなのです。
 バルメン宣言『第1テーゼ』には以下の文言があります。【教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。】ここで言う「誤った教え」とは「神々」と別のことではありません。茶色に染まっていくドイツにあって「唯一の御言葉」であるイエス・キリストに堅く立つという信仰告白の事態なのです。この「唯一のみ言葉」であるイエス・キリストのみが「我らの主」なのです。
 これからこの日本という国がどのような色に染められていくのかは分かりません。しかし、教会は主イエス・キリストのみを「我らの主」と告白し続けていくことが求められているのです。イエスが「我らの主」であることは、広い意味での教会の交わりの共同性によって育てられていくのです。最低限、「二人または三人」必ず誰かと一緒にでなければなりません(マタイ18:20)。教会的な交わりは、目標を持っています。全世界が神の思いに満たされることを願う道です。パウロのフィリピの信徒への手紙では、その方向付けがなされています(フィリピ2:1-11)。 「唯一の神」こそが「我らの主」であることに、わたしたちは支えられており、存在が赦されているのです。この赦された存在への、この広がりゆく「我らの主」の開かれた可能性を信じることが赦されているのです。

2018年10月 7日 (日)

コリントの信徒への手紙一 11章17~22節 「聖餐の示す世界観」

 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Ⅰコリント11:27-29)。この言葉は伝統的には洗礼と結びつけて聖餐に与る資格として理解されてきましたが、この手紙の文脈では違うことが分かるはずです。金持ちや裕福な人たちが教会の食卓を食い散らかすので、あとから遅れて来た貧しい人が与れない状況を「ふさわしくない」というのです。
 聖餐は、主イエスの体と血潮に与ることで、十字架上の死によって贖われ、復活の力によって新しく生かされていくという「霊的な」食卓であるという意味は、もちろん前提です。しかし、十字架と復活という教えに収斂させてしまうのではなく、広がりにおいて捉えかえすべきだろうと思われます。理解のためには、何故主イエスは十字架へと歩まねばならなかったのかという問いが重要なのです。
 主イエスはあえて「ふさわしくない」食卓を囲んだからこそ、ファリサイ派律法学者から非難されたのです(マルコ2:13-17参照)。ユダヤ教の正しい人たちからすれば、「罪人」と呼ばれる人、徴税人などは神によって招かれた食卓から排除されて当然という理解があったのです。それに対して主イエスは神の招きに枠とか資格は関係ないと示した、その枠と資格を神の招きにおいて無化していったということです。「ふさわしさ」のなさ、無資格であることに対して、あえて主イエスの神は招いておられるのです。招きにおいては、排除があってはならないのだとしているのです。
 聖餐によって示されている世界観は、すべての人が神の恵みに与り、神によって招かれているのだから、誰もが飢え渇くことなく飲み食いする主イエスの願いです。主イエスがどのような願いをもって人間に差し向かい、招き恵みを与え、そしてそこで人々の交わりとしてのいのちのつながりが広がったか。この世界観へ向かう一つの象徴としてパンと杯に与ることが聖餐なのではないでしょうか。
 今ここで、わたしたちが受けることによってその人たちといのちにおいてつながっていくことへの招きの象徴として、主の食卓はあるのです。そのような意味でわたしたちが与るこの食卓は、教会という枠に閉じられたものではなくて、主イエスが目指したところの神の国につながっていく矢印として示している世界観なのです。

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