ヨハネの手紙一

2019年11月17日 (日)

ヨハネの手紙一 1章1~4節 「永遠の生命-使徒信条講解24」

 「身体のよみがえり」という具体に続いて、永続的な意味合いをもつ「永遠の生命」についてハイデルベルク信仰問答58は次のように考えています。
 【問58 「永遠の命」という箇条は、 あなたにどのような慰めを与えますか。    わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。 】
 将来の「永遠の生命」という目標があるからこそ、「わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように」と生きられるのだということです。「天国」「神の国」「神の支配」いずれにせよ、彼岸の約束において現在が規定され、生き方が整えられていくとによって、今の生き方が決断され決定されていく、このような信仰理解がここにはあるのです。
 「良いサマリア人のたとえ」の箇所は、律法の専門家からの「隣人とは誰か」という問いに対し、当時のユダヤ社会にあって被差別者であったサマリア人が隣人として振る舞い生きたというたとえです(ルカによる福音書10章25節から)。【すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」】
 ここで、律法の専門家は彼岸でこの世での生き方に対する報酬としての永遠の命に至るためには何をしたらいいのかと問います。主イエスは、国境とか民族とかを超えた普遍的な人間関係が神への愛に支えられた隣人愛に生きること、隔てのない隣人になっていくことだと示しました。
 彼岸の力は、この世においてどのように生きていくのか、何を目指していくのか、どのような志に生きるのかを激しく問うものです。身近な人間関係から広い意味での政治的判断や行動にまで及ぶのです。「永遠の生命」の約束は、善行を積めば死んだら「天国」に行けますよ、などという了見の狭い事柄ではないからです。
 永遠の生命の約束における彼岸からの力は、交わりを作り出し育てていくのです。その根拠がここには示されているのです。ここから的を外さずに歩んでいくことへの導きの中で喜んで生きられるようにと願いつつ、隣人になる道を模索しながら歩み、目標に希望を抱きながら、旅人としてこの世において責任的に歩んでいけばいいのです。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)から。

2018年9月23日 (日)

ヨハネの手紙一 5章13~21節 「偶像を避けなさい」

 ヨハネによる福音書では、永遠のいのちとは「唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)とあります。神がわたしたちに向かって抜き差しならない関係で「神は愛です」として絶えず寄り添う方なので、その時々のあなたがたの判断をより相応しく歩むことへの促しがあります。問題になってくるのが、いわゆる「罪」の問題です。ヨハネの手紙一では、パウロ的な単数形、すなわち根源的な意味ではなくて、数えることの出来る罪を問題にしています。
 カトリック教会の中で伝統的に伝えられてきた、神に許され難い「七つの大罪」は、「高慢」「貪欲」「ねたみ」「憤怒」「肉欲」「貪食」「怠惰」とされています。20083月、ローマ教皇庁は新たな七つの大罪を発表しました。「遺伝子改造」「人体実験」「環境汚染」「社会的不公正」「貧困」「過度な裕福さ」「麻薬中毒」です。より具体的・社会的な罪を見いだしています。罪のイメージは、時代により具体的に再解釈されます。これらの罪は、神が判断すべき事柄を人間が判断し実行できるのだという思い上がりに由来します。
 モーセを通して与えられた「十戒」の第一戒と第二戒では、神が神であるという自己証示と偶像礼拝の禁止が語られます。ただ単に人間が造ったものを信仰の対象として拝んではならないのではなく、もっと深いところに偶像の問題はあります。人間の側の意思によって扱えるようなもの一切は、すべて偶像と化するものです。たとえば国家や制度、学問といったものも、偶像化する危険性の大きなものでしょう。偶像というのは、ただ単に形ある信仰対象であるよりも、もっと、人間関係をどのように捉えていくかという象徴であるのです。
 「子たちよ、偶像を避けなさい。」と語るヨハネの手紙一のまとめの言葉は取って付けたように読めるかもしれません。しかし、文脈からすると人間の側からの我儘勝手な罪へと誘うものが偶像であることが分かります。人間が作り出してしまうところの数えられる罪が人間関係の歪みを委ねていくのです。このように、人間のあり方自体を歪めてしまうような関係性、時代の中に蔓延する空気みたいなものが偶像になってはいないかを検証する必要があります。神の望まれる人間関係が破壊されてしまうからです。神の御心に適うあり方、すなわちお互いを喜び合っていく<いのち>の在り方、お互いの存在を無条件に喜びあう道に歩むことが求められているのです。すでにイエス・キリストは「神は愛です」ということにおいて自らを示してくださっているのです。偶像とそれによって導かれる数えることの出来る諸々の罪から逃れつつ、御心に適った道が用意されていることに信頼することへの促しが、ここでは語られているのです。

2018年9月 9日 (日)

ヨハネの手紙一 5章1~12節 「イエスから流れ来る<いのち>」

 より困難な状況に自らが置かれてしまっている、そのようなこの世において生かされているところにこそ、キリスト者の本領というものは発揮されるのです。それはキリスト者に最初から備わった力なのではなくて、まずはイエス・キリストは勝利者であるというところから軸足をずらさないことが重要です。キリスト者が自分の力で世に勝つのではありません。イエス・キリストご自身が、その流された血において勝利者である表明です。
 イエス・キリストに信じ従う者たちがこの世に勝利する根拠が6>節以下で述べられています。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」(5:6)と。
 この「水と血によって」をどのように解釈するのでしょうか。これは、ヨハネ福音書19:31-35から読むことができます。イエスが息を引き取った後、兵士にわき腹を槍で刺されたところです。「すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(19:34後半)。これはヨハネによる福音書にしかない記事です。
 イエスが死をもって流された「血」は、生贄として十字架上で流された血によって罪が赦され、新たないのちへと召されていくことです。
 一方「水」は、エゼキエル書47章1-12節と共鳴するのではないでしょうか。簡単に説明すると、エゼキエルが見た幻というのは、エルサレム神殿の東西南北から「水」が湧き出るというイメージです。実際にはありえないような水量が流れ、流れていったところが非常に豊かなイメージになっていきます。このイメージをさらに進めていくと、エデンの園のイメージになっていきます。つまり、旧約聖書の考えている理想的な世界であるエデンの園、神がこの世界を創造されて、アダムとエバが罪を犯して追い出される前の楽園です。ここにある「水」によってもたらされる豊かなイメージで描かれる世界観です。
 この流れる「水」のイメージをイエスのわき腹から流れた「水」から想起させるようなあり方を霊の注ぎにおいて受けている存在がキリスト者なのであるという発想があるのです。
 贖いの死の象徴であるイエスを根拠にした「血」と<いのち>の「水」、そして両者を統合するようなイメージとしての「霊」の力が、あなたがたに対して抜き差しならない関係で流れ込むようにしてイエスの<いのち>が届けられているということです。ここに立ち返れば5:1-5にあるように、イエス・キリストを信じる者が神によって由来し、そして神を愛しながら神の掟に生きていくことは決して難しいものではないのです。すでにイエスから流れてくる大いなるいのちが注がれてしまっていることに信頼していけば、どのような苦難や不安や悩みや絶望や艱難が襲って来ようとも、平安によって支えられている、すなわち「世に打ち勝つ」者となるのです。このイエスの生涯と十字架に由来する「霊と水と血」の力によって歩んでいく時に、わたしたちはイエス・キリストによって守られ導かれ祝福され、どのような課題に対しても立ち向かう勇気が与えられていくに違いないことを確認することができるのです。

2018年9月 2日 (日)

ヨハネの手紙一 4章7~21節 「神は愛」

 「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(4:7)とあります。人間の側に根拠をおいている愛ではないからです。つまり、人間の側には愛する能力や才能がそもそもないのです。愛とは「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4:9)ということです。「神の愛」が肉を伴った、すなわちイエス・キリストがわたしたちと同じ人間としてこの世に来られ、その生涯を歩まれたことが「神の愛」の現れであり具体なのです。
 すべてのものを生かすために神ご自身が、神ご自身であることをやめることなく、人間の真の友となり仲間となるように受肉されたのです。その愛には一切の条件がなく、一切の人間のあらゆる根源的な罪をも含めた存在がただ一度限り全面的に肯定されるのです。ささげものとしてイエス・キリストが十字架に磔られたという出来事によってです。
 わたしたちが心に留めておかなければならない愛の性質というのは「神は愛です」ということです。わたしたちの命も存在も一切の条件なしに神が与えてくださったものであるから、わたしたちにできるのはただ、この借りものである命をこの世において許された年月を神の祝福と守りのもとで過ごすということです。そしてまた、底が抜けた(=限りのない)「愛」に集中することが第一に語られているのだというところから、自分たちの態度決定を整えていくということが求められています。これが愛し合いましょうという促しの示すところです。イエス・キリストの愛を受け、その有り難さに触れた者だけが、何とか応答していこうと整えられていくのだと言えます。
 他者との関係において、相手に対して自分が赦されていることを踏まえて接し、関係を作り直していこうとの招きなのです。このように他者を大切にしていこうとの促しが、互いに愛し合いましょう、ということなのです。こういう仕方で、もう一度イエス・キリストの愛に立ち返ることによって、わたしたちがもっている罪深さを自覚しながら他者との関係を何度でも新しく作り直しえていく道が備えられている根拠は、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(4:10)。この愛に立ち返ることによって、わたしたちは日毎に新たな<いのち>に与って歩むことができるのです。わたしたちは、すでにこの道につらなっているのです。

2018年8月26日 (日)

ヨハネの手紙一 4章1~6節 「本物を見分ける」

 ヨハネの手紙一は、栄光一本やりのキリストのイメージから生身のイエスを守り、ここから離れてしまっては教会ではあり得ないことを前提にしながら論を立てています。
 イエスの肉体性を否定する勢力を偽預言者、反キリストと呼びながら、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(2節)と語り、受肉の事実に立ち返ることへと招こうとしているのでしょう。
 キリスト教は、ただ単に精神的・内面的な救いに関わることで本領を発揮するものではありません。福音書に描かれているのは、実際に弱り、苦しみ、悩み、試練といった具体的な日々の課題と格闘している中に、一緒にいてくださるイエスの姿です。この生身のイエスのリアリティーによって支えられ、慰めが与えられるところにこそ、教会の本当の働きがあります。神に属していることは、生身のイエスによって、しかも十字架上の傷だらけのイエスによって支えられ、守られて、導かれていることに他なりません。この生き方を、その当時の時代の中で影響力の強かった勢力を偽預言者・反キリストと呼んでいるのでしょう。彼らの主張は一般受けするような心地よい教えだったに違いありません。彼らに抗して、あるべき方向に向かって、本物を探し出す途上にあるものとして教会が立ち続け、歩んでいくための問題意識をヨハネの手紙一は描き出しています。
 ヨハネの手紙一の時代と現代日本では、覆われている空気は同じだとは言えませんが、息苦しくさせている偽預言者・反キリスト、すなわち人間のいのちを無条件に肯定し祝福し喜ばしい存在であることを抑圧する勢力が蔓延している実情においては、共鳴していると言えます。たとえばヘイトスピーチ・格差社会・同調圧力など、この世の論理としての偽預言者・反キリストと呼ばざるを得ない勢力に抗いつつ、生身のイエスを取り戻しながら、本物を見分ける知恵が与えられたいと願っています。6節では次のようにあります。「わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」と。イエスは常にいと小さき者たちの仲間になり、友になるためにこそ、具体的な肉を取られました、この受肉の出来事において本物を見分けつつ歩んで行きたいと願っています。

2018年8月12日 (日)

ヨハネの手紙一 3章19~24節 「神への信頼」

 愛し合うと言っても、どういうイメージを持つべきかについては難しいところです。本田哲郎神父は通常「愛する」と訳すべきところを「大切にする」としています。今日の聖書には次のようにあります。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」
 ここにある「神に願うことは何でもかなえられます」というのは、神を自分の思い通りに動かしてしまうようなことではなくて、神が憎しみから大切にしていく心に変えてくださる方であるという意味合いでしょう。神が願うことは前進していくのであり、そこに巻き込まれていくところに聖書の読み手のあり方があるのだということです。そこに「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」へと導かれるのです。ここにおられる神が働いているので、力を与える霊があるのです。神の見えざる働きの聖霊の業です。
 わたしたちの実際の姿を顧みれば、自分の能力では、隣人愛から愛敵へと至る、他者を大切にする思いというのは作り出していくことはできません。この、できないというところに向かって神の働きかけが聖霊としてあるのだから、あなたがたは愛すること・大切にする生き方に招かれているのですよ、ということです。
 「心に責められることがあろうとも」(3:20)とあります。わたしたちのあり方を冷静に顧みて、心に責められることのない人がどれだけいるでしょうか。自信をもって100パーセントわたしは神に対して純粋に仕え、神の愛を自らが他者に向かって開いているのだと言い切れる人がどれだけいるでしょうか。今日の聖書はわたしたちが皆責めを負うことを前提にしているのです。人間の側からは愛を作り出すことはできないし、他者を大切にすることができない。しかし、大切にしてくださった方が語りかけてくださっていることによって愛する力も大切にする力も能力もない人が生かされていくのだということです。それは3:20後半にあります。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」わたしたちは他者に向かって、愛することも大切にすることもできない心を持っているけれども、あのイエス・キリストは、すべてご存知だと。
 十字架においてあらゆる一切の人間の弱さ、罪の極みというものをただ一人で担ってくださったことによって、すべての人間の<いのち>は呪いと憎しみから買い戻された、贖いだされたという出来事が起こったのです。その出来事によって、わたしたち一人ひとりを知ってくださっていることに与っていくならば、愛がなく大切にする心のないわたしたちがイエス・キリストの導きのもとで、他者を愛していくこと大切にしていくことへとすでに招かれてしまっているのです。その招きから誰一人として逃れることはできない、そのような掟を審きとしてではなくて恵みとして受け止めていく神への信頼の中で歩んで行くことによってわたしたちは平和を実現する生き方へと招かれているのです。

2018年8月 5日 (日)

ヨハネの手紙一 3章11~18節 「言葉や口先だけではなく」

 ここのところ10年以上にわたって、いわゆるヘイトスピーチ、排外主義的な運動が盛り上がっています。中国大陸や朝鮮半島の国籍の人々に対して日本から出ていけと、暴力的に罵倒し続けています。公に街角で。ヘイトスピーチを行う人々には決定的な欠落があります。<いのち>に対する誠実さや想像力です。それはしかし、わたしたち自身にも問うべき事柄です。
 わたしたちは、人が天地創造物語で神が土くれを人の形にして鼻に息を吹き込んで生きる者とされたという原事実をもう一度捉えかえさなくてはなりません。人間の側には、他の人間に対して、その<いのち>に対しての冒涜、殺意、憎しみの権利は一切ないということです。あらゆる<いのち>は神に与っていることを認めることです。そして、その<いのち>がつながりの中にあることを。
 枠を設定することで日本人とか○○人との違いを必要以上に強調することをやめるべきです。民族とか宗教とか文化が異なっていても、無条件に尊いことを認めていく仕方が求められているのです。どこか人間のいのちに対して優劣をつける、極端に言えば優生思想に親和性のある発想をもって自分が自分を成り立たせるようなものの考え方とか仕組みとかを体に刻み込んでしまっているのではないか、常に点検が必要です。
 イエス・キリストに立ち返ることによって、いのちのつながりというものを回復していく方向性があるに違いないと信じることから始めるのです。相手のことを好きとか嫌いとかをも超えて、その相手に神から与えられている、ないしは神から貸し出されている<いのち>であるとうことをまず知るべきです。具体的に今存在しているその人に対して憎しみを抱かないということです。
 憎しみの言論(ただ単に言葉ということではなくて生き方全体を示します)と決別するには、憎しみという事柄を溶かして解体していくような働きをイエス・キリストの十字架の出来事が示しているところに絶えず立ち返ること。ここにこそ愛という力が既に働いていると信じることができる、ここから始めていこうじゃないかという呼びかけとして今日の聖書を読み取ることができるのではないでしょうか。
 イエス・キリストがこの世を愛してくださる仕方で自らをささげたという事実に絶えず立ち返ることによって、わたしたちが持っている憎しみに囚われてしまう心が溶かされ、解体される道に連なることができるのです。ここに平和を求め実現していく道を歩みがあるのです。

2018年7月22日 (日)

ヨハネの手紙一 2章18~27節 「立脚点」

 今日のテキストは、同じ教会にいた人がかつての仲間に対して最初からそもそも仲間でなかったというのです。おそらく洗礼も同じ教会で受け、その当時の教会の習慣がどうであったのかは正確には分かりませんが、洗礼の後に油を塗った可能性もあるのです。それらに与ったかつての仲間に対して反キリストとして惑わすものだと断じるのです。これをどのよう受け止めたらいいのか、悩ましいところです。
 テキストを文字通りの意図からすると切り捨てられた人はそれでお終いになります。しかし、イエスの生涯からは判断すると相容れないものを感じます。イエスはそのようにある共同体から弾かれた人の友となり仲間となった人です。ヨハネの手紙一が言うように、去っていった人がそもそも自分たちの仲間でなかったという発想をしてしまうのは、イエスの生涯から考えると少し違うと思います。ただ反キリストの発想というのは、図らずもヨハネの手紙一は反キリストを攻撃するようにして自らが反キリストであることの可能性を示してしまっている。つまり、自分たちが正しいとし、さらに言えば栄光のキリストにより近いところに自分たちがいるのだという思い上がりによって、反キリストに近づいているヨハネの手紙一のあり方が浮き彫りにされるのです。このテキストを反面教師として読んでいくならば、「偽り者というのはイエスがメシアであることを否定するものでなくて誰でありましょう」とは、生前のイエス・キリストの生涯に立ち返るところから今一度ヨハネの手紙一を読み返していくときに浮かび上がってくる世界観があると考えます。イエスを認めていく仕方で、御子のうちにとどまることを模索していくことが反キリスト呼ばわりされて、切り捨てられた側に御子のうちにとどまるという真理契機があるのではないでしょうか。
 御子のうちにとどまるところに重点があります。生前のイエスがキリストであることをしっかりと認めるところに固着していくことです。イエスの守りの内にあって固着していくことに祈りをもって歩んで行くということです。切り捨てられても、それでもなおとどまり続ける勇気があることを教えようとしているのでしょう。
 神の心が具体化として人間となったという事実。これを今のこととして担い続けていくということが御子のうちに留まることの意味です。 いったいわたしたちがキリストにあってどのようにして立ち居振る舞いをしていくのか。自らの内にあるかもしれない反キリストをいかにして、主イエスの守りの内にあって退けながら御子の内にとどまっていく道があるということを今一度確認することが求められているのではないでしょうか。

2018年7月15日 (日)

ヨハネの手紙一 2章7~17節 「生き方を考えるひと時」

 イエス・キリストの十字架の出来事によってもたらされた世界観は、変わることのない古い掟であると同時に常に新しい掟でもあるのです。まず、キリスト者はここにこそ自分たちの軸足を据え、この世に対峙していく姿勢を整えていくことが求められています。神の創造の業における「光あれ」という最初の言葉は、(太陽や月などではなく)根源的な光なるものの創造です。神が人となるという具体の中で表わされたのです。
 今日の聖書を読んで、違和感を覚えた方もあるかもしれません。15節の「世も世にあるものも、愛してはいけません。」が、ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と矛盾するように感じるからです。さらに「世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」と続きます。この言葉の方向性は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」がゆえに、この世に対する責任性をキリスト者に求めているのだと読むことができないでしょうか。
 17節に「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」とあります。神の思いに適ったあり方を求めていくキリスト者は、来るべき終わりの日に永遠を生きることができるからこそ、過ぎ去っていく、この世の様々な事柄に対して冷静に、そしてこの世の価値観に溺れてしまわないでいることができるはずだというのです。イエス・キリストの光に与ってこの世の悪を丁寧に暴き出し、キリストの正義と平和をこの世にもたらす道筋を示すことが、その中心にあるのです。
 わたしたちキリスト者は、十字架の出来事によって与えられた価値観をもってイエス・キリストによって愛されている愛に応える仕方で、「世も世にあるものも、愛してはいけません」という言葉を再解釈することが求められているのです。わたしたちにできるのは、イエス・キリストに与って相対化していく視点、その軸足をズラしていかないことです(改訂版子どもさんびか123「わたしは主のこどもです」参照)。
 わたしたちは、人のいのちの尊厳を軽んじ、痛めつけ、殺してさえいくような勢力がある悪に満ちた世とそこにあるものに立ち向かいながら生きていかなくてはならないのです。イエス・キリストが愛してくださっている愛に基づいて証しし、行動していく道が備えられていることをあえて生きていくことこそが、今日の聖書の求めているところです。

2018年7月 8日 (日)

ヨハネの手紙一 2章1~6 節 「赦されて」

 ヨハネ3:16によれば「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と語りかけています。神の愛の具体として主イエスとして人間となった(=受肉)のです。わたしたちと変わらない、一人の人としてこの世に来られた事実、神が神であることを捨てずに神であることを貫くためにこその受肉であったのです。
 かつて起こった主イエスの受肉は、は聖霊である弁護者として義を貫くキリストが今おられることを知らせます。わたしたちが罪を犯していても、そうでなくても。ここでいう「罪」とは、単に倫理的な、あるいは法的な悪に手を染めることではなく、もっと、本質的なことを指しています。神との関係において相応しくない、的を外している、というときに罪と呼びます。今のわたしたちの姿が主なる神に喜ばれているのか、そうでないのか。聖書から、というより真の光である神から照らされることによって浮かび上がってくる姿の相応しさが問われています。「罪」という枠を乗り越えて呼びかける方への注目が語られます。天からの知らせは直接聞くことを見ることも触れることもできなくても、リアルとして今働き続けている、そのことへの信頼を聖書は求めているのです。
 2章2節では、「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」とあります。「いけにえ」とは、贖罪のためのものです。この世の一切の罪を一人十字架上で負われることによって赦しを実現してくださったということです。このイエス・キリストの受肉と贖罪はヨハネによる福音書と手紙においては非常に重要なポイントです。
 イエス・キリストの受肉と贖罪を知る者は、神を知ってしまっているのだし、真理が与えているから神の内にいることによって神の掟を生きることへと導かれていることになるのです。神の内にいる、つまり、過去の主イエスが今のこととして聖霊である弁護者として義の前進として、神の愛の実現なのです。ここでの神の愛とは、わたしたちが神を愛するという方向よりも、ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という神の側からの愛の働きとしての「神の愛」と読まれるべきです。それが受肉と十字架・復活・昇天という図式において実現しているのだというのです。
 そして、この神の愛に包まれている者は、自ずと「イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」という招きの内にいるのです。かつての主イエスの道行きに伴っていくようにして、自らの持ち場の中で歩んで行くことができるし、その力がすでに備えられているから導かれるままに委ねていけ、という促しがここにはあるのです。

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