サムエル記上

2018年11月11日 (日)

サムエル記上 3章15~18節 「神さまに聴こう」

 祭司エリのもとで修業中のサムエルが寝ていると、ある晩呼びかける声が聞こえてきました。エリだろうと思い駆けつけますが、違っていたのです。三度目にエリは、サムエルを呼んでいるのは神であることに気が付きます。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」と言われ、サムエルが戻って寝ていると声がしました。「サムエルよ。」今度は答えます。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。ここで神がお話になったのは、エリの子どもたちがあまりにも悪いことを続けているのでエリの一族を滅ぼすという恐ろしいお告げでした。神が教えてくださったことであっても、サムエルにとって自分が仕えているエリに、あなたの一族が滅びると伝えなくてはならないことはどんなに辛かったことでしょう。迷いがあったことは想像できます。しかし、神からのお告げは、たとえ都合が悪いことや嫌なこと辛いことや悲しいことでも話さなければならないことがあるのです。神の言葉を聴くとは、このように厳しい一面があるのです。エリは信仰深い人であったので受け止めることができました。
 祈りと言うと普通は、神に助けてほしいことなどの自分の方から神に向かっての言葉なのだと考えがちです。これらは祈りにとって大切なことですが、第一のこととは少し違います。祈りにとって第一のことは、神に聴くことです。サムエルがエリに教えられた「主よ、お話しください。僕は聞いております」ということから祈りは始まるのです。
 神は、わたしたちに向かっても話してくださっています。けれども、わたしたちは自分勝手なところがあるので自分のことだけを考えてしまうことが多いのです。祈りとは、まず神に向かって「聴いています」と心を静め、落ち着き、それから導かれて、語りかける神にお応えするようにして言葉が導き出されていくことです。
 祈りに導かれていく中で明らかにされた神の思いを伝えていくことが大切なのです。サムエルの祈りを現代に当てはめると、神の正義は実現していくのだから、この世の悪に向かって話さなければならないことがある、都合が悪いことや嫌なこと辛いことや悲しいことでも話さなければならないことはあるということです。具体的に何を思い浮かべるでしょうか。語るべきことに口をつぐんでしまうのであれば、それは祈りとして不完全なものとなってしまいます。
 サムエルのように神の導きのもとで「主よ、お話しください。僕は聞いております」と姿勢を正していく中で、一緒に「神さまに聴こう」という願いを心で合わせていきましょう。

2012年10月14日 (日)

サムエル記上20章35~42節 「友情とは」

 イスラエルの初代の王サウルはダビデの人気が高まるにつれ、殺意を抱き始めます。サウルの息子ヨナタンは心を痛めますが、サウルのダビデを殺す決意は非常に堅いと判断すると隠れ潜んでいたダビデにその旨を告げます。二人で対面して抱き合って、何て理不尽な事態なんだと泣きます。ヨナタンは自分たちの友情はサウルの殺意にも負けないのだと、確かなものなのだということを確認して無事を祈りながらダビデが逃げていくことを促すという記事となっています。「ヨナタンは言った。『安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。』」(20:42)と。
 たとえ場所が離れていたとしてもヨナタンとダビデの間の友情は神の前にあって確かなものなのだ、だからお互いのいのちが、神によって結ばれている友情は尊いという確認をして、お互いがお互いの命を慈しみあったという友情物語とされます。
 しかし、サムエル記上下を通してみると、この友情には破れがあるのです。友情の契約を何度もしていますが、お互いに友情に対する疑心暗鬼があるのです。いくら神の名を語りながら熱い友情を美しく語っても、その友情にどこか破れ生じてしまうのです。そういう弱さをもったのが人間の友情の限界であるということを、サムエル記上下におけるダビデとヨナタンの関係を通して読み取ることができるのです。
 わたしたちは、この人間の側の破れがイエス・キリストによって包まれているところに立ちたいと願います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」という仕方でイエス・キリストは友となってくださったこと。しかも、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という生き方をイエス・キリストは身をもって示してくださいました。しかし、逮捕の場面で弟子たちは一人残らず逃げ去ってしまいます。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と呼びかけられた、にもかかわらずです。イエス・キリストが、自らを捨て去るようにして、あえて逃げ去る者たちの友となることを貫きつつ、よみがえってくださった出来事において、わたしたち人間が持っている友情の破れとか弱さというものが、イエス・キリストの業の中にすでに包み込まれてしまっているがゆえに、新しい友情を育むことが赦されているのです。

2012年10月 7日 (日)

サムエル記上3章1~10節 「祈りとは」

 サムエルは、この歴史において、神に仕える預言者であり祭司として働きました。サムエル記上では、サムエルの活動の根源には祈りがあるのだと表明されています。本来祈りというのは、サムエルの態度にあるように、神の呼びかけをまず聴くことです。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」とあるように。祈りとは、まず神からの呼びかけがあることに気づかされて、聴いていくことから始まります。ここに祈りの本質があるのです。聴くことなしに応答としての祈りはあり得ません。
 祈りというのは内的な、あるいは精神的な事柄に留まりません。かつてチェコのフロマートカという神学者は「フィールドはこの世界である」と語りました。つまり、教会の活動は世界なのだ、そこにこそ働きの場があるのだ、と。祈る生き方というのは、「地の塩、世の光」として「フィールドはこの世界である」ということを心に刻むことです。この世に対する責任的な関わりへと招かれていることを知ることであり、さらにはそこに積極的に関わらずを得ないことに気づいていくことです。
 どんなに小さな働きであったとしても、その人に与えられた使命があるということなのです。キリスト者が「地の塩、世の光」ないしは「平和を実現する者」であると言われる時に、その根底になければならないのは、神がすでに語っておられることへの応答として聴くこととしての祈りです。この信頼においてこそ、その使命が与えられ、招かれているということなのです。
 サムエルは「サムエルよ」と呼びかけられて真っ直ぐに「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と応答する立場を貫きました。それ故にサムエルはその祈りとしての生涯を「フィールドはこの世界である」という生き方で貫くことを選ばざるを得なかったのです。
 しかも、その祈りに生きる生き方というのは必ずしも安易な道を取ることとは限りません。なぜならば、今日の3章11節以降では必ずしも心地よい言葉が語られているわけではないからです。「サムエルよ」と呼びかけられ「どうぞお話しください」との応答の中で語られた内容は、エリの家が没落していくという物語だったからです。サムエルは、その厳しい宣告を師であるエリに伝える役目を与えられ、預言者人生への道が始まるのです。
 聴くことから始まる祈りに生きることは、できることなら避けたいことかもしれません。主イエス・キリストが「できることならこの杯を取りのけてください」と祈った祈りにも相通じるのです。主イエス・キリストが「自分の十字架を負え」と語ったことは重たい言葉であり、わたしたちは本気で受け止めなければならないのです。しかし、それをあえて引き受けていく生き方、あえてより困難な道を選ばざるを得ない道にこそ神の御旨が備えられていることに委ねていく信仰が、サムエルの物語の祈りの本質に他ならないのです。

2012年1月22日 (日)

サムエル記上 3章1~10節 「どうぞお話しください」

祈りに対する基本的な態度とは「どうぞお話しください、僕(しもべ)は聞いております」と神に対して心を開くことです。そうして初めてわたしたちは祈ることができるのです。つまり、すでに神ご自身が一人ひとりに向かって語りかけてくださっているので、それに対してする応答として祈ることができるのです。わたしたちは、いつどんなときでも祈ることができます。祈りの基本というのは、まず神がイエス・キリストにおいて語りかけてくださっているがゆえに、わたしたちはイエス・キリストの名前によって祈る道が与えられている、そういう幸いがあるということです。その祈りを聞いてくださる方があり、わたしたちは何の遠慮もせずに祈ることができるということです。神がすでに語りかけてくださっているのだから、わたしたちはどんな苦境にあろうとも祈り続けていくことができるということです。ただ、それが自分の願いどおりになるとは限りません。今日のサムエル記の記事では、サムエルに向かって語られた内容は非常に厳しいものでした。エリの家をとこしえに裁くという内容で、のちに、この言葉通り、エリの息子たちは二人とも同じ日に死んでいくし、エリもそのショックで死んでしまうのです。一人残ったエリの子孫も幸せな死に方をしていません。そういう事情を、幼い少年サムエルは、主に示されてエリに「あなたの家が滅ぼされていく」と語るのです。そしてエリはその言葉を受け入れます「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。祈りにおいて困難、また裁きをも引き受けていく、そのような道がわたしたちには備えられていると信じることができるのです。わたしたちは色々な祈りをします。自分が祈った通りの、自分が願った通りの結果になるとは限らず、全く予期しないような出来事が待ち受けているかもしれません。にもかかわらず、わたしたちは祈ることをやめることができません。祈り続けるのです。わたしたちはイエス・キリストの思いに対して、すでに語られたイエス・キリストの言葉に対して、「どうぞお話しください、僕は聞いております」と応答して歩んでいく中で、一つひとつ大きな課題から小さな課題まで担っていく力が既に与えられ備えられています。さらに祈っていくことが赦されているのです。そのようにしてわたしたちは神との交わりの中で安心と平安のうちに生きていくことへと促されていると、その促しに従って身を委ねていきたいと願っています。

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