エフェソの信徒への手紙 2章14~22節 「十字架のもとで」
この手紙は、「敵意という隔ての壁」の廃棄を語りかけています。「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とは、自分たちこそが優位にあり、他の民族を差別しても構わないという考えをやめさせたのが十字架であったと展開しているのです。「二つのものを一つにし」と「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて」という言葉の方向性は、「強制的同一化」「強制的均一化」という、あるイデオロギーや宗教やものの考え方や価値観を統一していくことではありません。その人たちの違いを違いとして受け入れ合っていくあり方のことです。相手の丸ごとのいのちのあり方をそのままで全面的に認めていくことです。違っていて当たり前というおおらかさを身に着けていくことです。
お互いに平等で水平の関係を築き上げていくかなめ石は、イエス・キリストにあるのだというのです。この十字架に磔られているのが、「敵意という隔ての壁」を作り出してしまう暗い情熱なのです。今自分たちが生かされてあり、暮らしているのは、この十字架のゆえであることを思い出すように促しているのです。十字架とは、人間の能力では言い尽くしえない神の恵みの出来事です。今あるがままのいのちが一切無条件で赦されてしまったのだという現実です。この十字架のもとにいることが告げ知らされることで気づきが与えられることを手紙の著者は知っていたのでしょう。主イエス・キリストの生前の姿、そして十字架。そこにおいてなされたのは、人間の力や能力では知り尽くすことのできない根源的な「罪」の現実を神が一度限りで一切背負うことによって与えられる赦しです。赦されているがゆえに与えられる気づきによって、「敵意という隔ての壁」がすでに取り壊されているのだというのです。十字架を根拠とした気づきから自らを省みながら自己相対化できるのだとの約束を読むことができるのではないでしょうか。暗い情熱によって突き動かされてしまう自らの姿が十字架の光の下で明らかにされていくのではないでしょうか。その時に、他者に対する嫌悪や恐れなどの暗い情熱が消滅の方に導かれていくに違いなのです。
教会には、十字架のもとでの赦しのゆえに、いつでも気づきが備えられているのだとも信じています。「敵意という隔ての壁」は、教会の内側外側を問わずに存在します。しかし、十字架のもとに立ち続けることによって、歩むべき、生きるべき道は用意されているはずなのです。
他者を嫌悪し排除し、死にさえ追いやるほどの暗い情熱である「肉の邪悪な欲望」の支配から、十字架の主イエスによって、自由へと招かれているのです。このことへの感謝と賛美と祈りとをもって歩みたいと願います。身近なところから、またこの街から世界希望に至るまで、違いを越えて共存していく道を歩んでいくことに、です。
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