エフェソの信徒への手紙

2023年4月30日 (日)

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節 「十字架のもとで」

 この手紙は、「敵意という隔ての壁」の廃棄を語りかけています。「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」とは、自分たちこそが優位にあり、他の民族を差別しても構わないという考えをやめさせたのが十字架であったと展開しているのです。「二つのものを一つにし」と「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて」という言葉の方向性は、「強制的同一化」「強制的均一化」という、あるイデオロギーや宗教やものの考え方や価値観を統一していくことではありません。その人たちの違いを違いとして受け入れ合っていくあり方のことです。相手の丸ごとのいのちのあり方をそのままで全面的に認めていくことです。違っていて当たり前というおおらかさを身に着けていくことです。

 お互いに平等で水平の関係を築き上げていくかなめ石は、イエス・キリストにあるのだというのです。この十字架に磔られているのが、「敵意という隔ての壁」を作り出してしまう暗い情熱なのです。今自分たちが生かされてあり、暮らしているのは、この十字架のゆえであることを思い出すように促しているのです。十字架とは、人間の能力では言い尽くしえない神の恵みの出来事です。今あるがままのいのちが一切無条件で赦されてしまったのだという現実です。この十字架のもとにいることが告げ知らされることで気づきが与えられることを手紙の著者は知っていたのでしょう。主イエス・キリストの生前の姿、そして十字架。そこにおいてなされたのは、人間の力や能力では知り尽くすことのできない根源的な「罪」の現実を神が一度限りで一切背負うことによって与えられる赦しです。赦されているがゆえに与えられる気づきによって、「敵意という隔ての壁」がすでに取り壊されているのだというのです。十字架を根拠とした気づきから自らを省みながら自己相対化できるのだとの約束を読むことができるのではないでしょうか。暗い情熱によって突き動かされてしまう自らの姿が十字架の光の下で明らかにされていくのではないでしょうか。その時に、他者に対する嫌悪や恐れなどの暗い情熱が消滅の方に導かれていくに違いなのです。

 教会には、十字架のもとでの赦しのゆえに、いつでも気づきが備えられているのだとも信じています。「敵意という隔ての壁」は、教会の内側外側を問わずに存在します。しかし、十字架のもとに立ち続けることによって、歩むべき、生きるべき道は用意されているはずなのです。

 他者を嫌悪し排除し、死にさえ追いやるほどの暗い情熱である「肉の邪悪な欲望」の支配から、十字架の主イエスによって、自由へと招かれているのです。このことへの感謝と賛美と祈りとをもって歩みたいと願います。身近なところから、またこの街から世界希望に至るまで、違いを越えて共存していく道を歩んでいくことに、です。

2023年4月23日 (日)

エフェソの信徒への手紙 4章1~14節 「平和のきずなで結ばれて」

 「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と言われるところの中心は形ではありません。あくまで「霊による一致」なのです。様々な教派的な伝統や教会の習慣の中にあっても、他者を仲間と受け入れ合うことによって、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し」という、信仰における一致、霊の一致が実現されるのだと信じています。霊による一致というのは人間の側からのものではありません。まことの神であるイエス・キリストによってのみ「一致」が与えられるのです。それぞれが与えられている恵みとしての賜物に応答しながら、それぞれの役割が担われていけばいいのです。教会という具体的なこの世における体の部分を一人ひとりが担いながら成長していくという促しがあるのです。そうは言っても、霊による一致は人間の側から作り出せると誤解して、教会を一つの色に塗りつぶしてしまうという誘惑から自由になることは実際難しいです。人間の側からの「一致」は、「排除」を生み出す危険がることを肝に銘じておきたいものです。

 「一致」しているのは、同じ主イエス・キリストに呼ばれ、招かれ、集められているという事実であることを忘れてはなりません。信仰理解においてもズレやすれ違いは当然起こり得るものと思える心の余裕を持ちたいものです。そのためには、自分の信仰を冷静に見極め、相対化する姿勢を忘れてはならないと思います。教会によっては、社会層やものの考え方や支持政党、あるいは服装や食べ物の好みさえも似たり寄ったりになってしまうこともあるかもしれません。しかし、「一つ」であること「一致」ということは、主イエス・キリストが一人であって、その名のもとにあるわたしたちなのだという認識が重要です。また、教会での「一致」というときに、水平関係を失いたくないとも考えます。言葉や組織に上下や優劣を取り入れてはならないということです。主イエスにある平等感覚から外れるのであれば、支持政党を含むものの考え方は修正していく必要が生じるはずです。

 バラバラなわたしたちが集まってこそ、「一つ」の体を作り上げられるのです。わたしたちは体のあらゆる節々として、互いに補い合うことによって組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛によって人格が作り上げられていくのです。「バラバラをもって一致とする」教会のあり方を良しとしたいと思います。

2022年3月13日 (日)

エフェソの信徒への手紙 6章10~20節 「悪に抗う信仰」

 この手紙の訴えている「神の武具を身に着けなさい」とは、祈り祈り合うところから、自らの人間の正義が正されて神の正義に近づいていく道を示します。そしてさらには、「鎖につながれてい」るような不自由な状況の中にあって「語るべきことは大胆に話せるように」なる道の途上にあることを信じることができるのです。悪に抗う「神の武具」とは、人を傷つけ殺傷していくものではなく、人を喜びに向かって生かしていくものです。囚われの身にある手紙の著者と共鳴するような苦難の中にある人たちが、イエス・キリストによって結ばれていると信じることから始めるのです。わたしとあなた、わたしたちとあなたたち、このような関係の間に主イエスが仲保者として支えていてくださるのです。支配―被支配の関係を生み出す「武具」ではなく、「神の武具」を身に着けるならば、対等なあり方が神からの賜物として与えられるのです。このような関係を育てていくあり方をもって、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」の武装を解除するような平和的な「神の武具を身に着け」ると理解します。イエス・キリストから来る「真理」「正義」「平和の福音を告げる準備」「救い」「霊」という「神の言葉」によって、214節の「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」ていく道が備えられるのだと信じたいのです。

 強さに驕り高ぶる権力者が思うままに勝手な振舞い、弱さに喘ぐものがさらに貶められ痛めつけられていく時代をわたしたちは生きています。「神の武具」から導かれる共鳴、響き合う心が開かれていけば、やがて主イエスの願う世界へと向かう希望が与えられるに違いないと信じ、為すべきことを為していきたいと願います。

 聖書の神は、具体的な人間を道具として用いて、歴史の只中に働きかけてくださる。祈りをもって、このように信じ続けるところにキリスト者の希望は絶えることがなく続き、やがて来るべき日に向かう途上に向かうのでしょう。必要な知恵や語るべき言葉は、その都度に私たち人間の知恵を越えたところからやって来るはずだと信じながら、暗い闇に覆われた苦難の時代を生き延びつつ、前進したいと願います。そのように生きること、それは神の助けとしての「武具」に応じて祈り続けることです。破局の時代であることが切実にでるからこそ、主イエスにおける希望の道をあえて選び取る勇気が与えられることを願います。

2020年10月25日 (日)

エフェソの信徒への手紙 4章3節 「遠く離れていても…」

 キリスト教教育週間 

~子どもとおとなの合同礼拝~

 パレスチナのガザにあるアハリー・アラブ病院を覚えて今日は礼拝しています。この病院は、紙芝居で見たように、イスラエルからの攻撃で傷ついた人々でいっぱいです。パレスチナの領土をイスラエルが軍隊の力で奪い続け、パレスチナ人の生きていくための自由を失くし続けているのです。高さ8mの壁や検問所で移動の自由を奪い、他にも沢山の意地悪をイスラエルはパレスチナに行っています。世界中の心ある人たちが抗議していますが、イスラエルは聞こうとしません。「国際連合」が「やめなさい」と言っても、大国アメリカがイスラエルの味方し、イスラエルは、エジプト、ヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーンとも仲良くしています。これは、世界がパレスチナを仲間はずれにしていく方向だと思います。わたしたちが友だちを大切にしたり、増やしたりすることは素敵なことです。でも、その時に誰かを仲間はずれにしてしまうのだとしたら、「よいこと」とは言えません。国の場合も同じです。パレスチナをひとりぼっちにしてしまうことは間違っているのです。

 パレスチナの自由を求めて祈っていきましょう。これは無理なことではありません。実は、1948年にイスラエルという国ができる前には、ここではユダヤ教やイスラム教やキリスト教など宗教が違っていても、文化や習慣や生活のスタイルが違っていても、皆が一緒に生きていたのです。もう一度そのような暮らしに戻ることはできるはずです。違いがあることから、時には意見の違いなどから争い事も起こることでしょう。けれども、爆弾や銃などの武器で解決してはならないのです。まず一番に大切なのは、たとえ時間がかかり、面倒で煩わしいと思えても、話し合うことです。違いを違いとして認めながらお互いがきちんと納得するまで話し合いをやめるべきではないのです。

 今日の聖書はエフェソの信徒への手紙4章3節です。このようにあります。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」。この働きをアハリー・アラブ病院は続けています。特に、子どもたちが笑顔を取り戻すために力を注いでいます。聖書のイエスさまの願いがここにあるからです。

2020年8月 2日 (日)

エフェソの信徒への手紙 6章10~20節 「平和を求める姿勢」(平和聖日)

 今日のテキストでは、一見軍隊の装備のような姿が描かれています。しかし読み取るべきは、それが丸腰なのだということです。武器によらない方法によって平和を実現することを考え、行動していくことを求めているのです。そこで、様々な平和を作り出す志に生きたキリスト者たちを思い起こしました。

 その中の一人が、医師の中村哲さんです。2019124日、長年活動されていたアフガニスタンの東部において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、搬送される途中で亡くなりました。

 中村哲さんの活動は、医師ですから当初は医療が中心でしたが、平和のないただ中にあって、診療所をつくることよりも井戸や用水路を作る方向へとシフトしていきました。共に生きることの具体を水の確保に求めていったのです。圧倒的な水不足や水を巡る諍いが起こっていることからです。アフガニスタンでの活動について言葉を残しています。【アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです。】

 中村哲さんは日本国憲法9条に記された中身を具体化するために働かれました。丸腰で平和を作り出すことを志しておられたのです。しかし、日本国の実際は彼の主張や活動に対して耳を傾け協力することはありませんでした。共感することもありませんでした。それでも中村哲さんの平和へと歩む道にブレが生じることはありませんでした。そして、彼は殺されてしまった。おそらく、近年の日本の実情により、「9条」というメッキがはがれてしまったがゆえに。日本国は、彼の殺害をテロとして非難をしました。

 エフェソの信徒への手紙の告げる「神の武具」を身に着けることは、彼のように丸腰で知恵を出し、働き、汗をかくことなのでしょう。正直、誰にでもできることではないなあ、と思います。しかし、そこで諦めていいのか。中村哲さんを「偉人」に仕立て上げてしまって「終わり」でいいのか。

 さだまさしが、凶弾に倒れた中村哲さんにささげた歌に「ひと粒の麦~Moment~」があります。サビの部分で歌われている内容は次のようなことです【薬で貧しさは治せない/武器で平和を買うことは出来ない/けれど決して諦めてはならない/いつか必ず来るその時まで/私に出来ることを為せば良い/私に出来るだけのことを】。わたしは、このさだまさしの歌詞への共鳴の歩むことが「平和聖日」に込められた方向を示すものだと確信しています。「私に出来ることを為せば良い」とある、その中身をそれぞれがたとえ小さなことに思えても諦めず、丸腰で歩む決意を新たにすることが、「平和聖日」の意味なのではないでしょうか。 

2018年5月27日 (日)

エフェソの信徒への手紙 1章3~14節「神の恵み」 山田 康博(大泉教会牧師)

 「教会」のことをギリシア語で「エクレシア」と言う。これは「エク」(外へ)、「カレオー」(呼ぶ)という言葉から来ている。つまり「エクレシア」とは「呼び出された」人々によって形成されるコミュニティのことである。今日ここに今いるのは「神によって呼び出された」のだと言える。
 詩人・作家の阪田寛夫さんに『バルトと蕎麦の花』というエッセイがある。阪田さんは、仕事をするとき長野県野尻湖畔の山小屋に来ていた。ある夏、思い立って町の教会の日曜礼拝に出席した。あから顔の小柄な牧師のふしぎな訛りのある説教を聞き、なぜかその日一日元気にすごせた。それ以来、時たま炎天下を1時間歩いて説教を聞きに行くようになった。バスに乗っていく方が少し早いが、乗り場まで歩くのに30分はかかる。月に一度、二度が三度とふえ、ここ二年ほどは、夏や秋に山小屋に来ている限り休むことが珍しくなった。東京ではそんなことはしない。
 阪田さんの通う「大草原の小さな家」風の教会(信濃村伝道所)の牧師は当時「ユズル牧師」だった。ユズル牧師の両親は利根川べりに住む小作農で、筋金入りの篤農家だった。父は17歳の時から短歌を書き始めて終生精進したという。5人兄弟の次男、ユズル牧師は農作業がだめで学校では図書室で本を読むのが好きだったという。高校の聖書研究会でキリスト教に出会い、教会へ通い始めて、洗礼を受けて、わずか2年で、高校卒業後、農村伝道神学校に進む。
 神学校への推薦書を書く牧師がユズルの両親に「牧師にならないかと勧めて、一度で『はい』と言ってくれた」という。イエスが宣教を始めた時、湖で網を打っていた漁師ペテロとその弟には、「我に従え」と声かけられると、直ちに網を捨ててイエスについて行ったことを思い起こす。
 祟りだの運勢だのと言い立てることを極度に嫌った父がなぜ賛成したのか?ユズルは他の兄弟とは正反対で、手でやる仕事はまるで駄目。これじゃとても普通の職業はつとまらない。あの子が人ないに食べていくには、本当に、牧師になるほかないと思い直し、許したのではないかという。ユズル牧師は一つだけ父親に似ていた。彼も短歌を終生つくっていた。それまで神に対して「遠く離れていた」(2:13)生活から「呼び出された」のです。福音書を読むと、最初の弟子たち、ペテロたちも、自分たちの暮らしのことしか考えていなかったそれまでの生活から、イエスによって新しい使命へと呼び出されている。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)。
  教会とは、イエスにより、神によって呼び出された人々の共同体(コミュニティー)なのであり、キリストによって解放され、地上を旅する民である。

2017年8月 6日 (日)

エフェソの信徒への手紙 2章14~22節 「隔ての壁を取り壊し」

 エフェソの手紙で問題になっているのは、民族間の問題です。とりわけ、ユダヤ人とユダヤ人以外の異邦人と呼ばれる人たちとの間に平和でない状況があったとされます。そのような不幸な状況に対して、イエス・キリストの出来事によって不幸な民族間の関係はすでに破棄されているのだとして「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と語りかけるのです。「敵意」という「憎しみ」を乗り越える根拠がイエス・キリストであると主張するのです。これは、いわば教会の内側に向かっての言葉です。しかし、イエス・キリストの事態は教会の外側に向かっても無効になることはありません。イエス・キリストの出来事は、この世に対する働きかけであるからです。イエス・キリストの和解の出来事は決して教会という枠に閉じられることはないのです。
 現代日本においては、外国人排斥運動を担っている団体があり、急成長を遂げています。いわゆる「ネトウヨ」が街に繰り出していく状況は続いています。これは今に始まったことではなく、日本の近代が朝鮮半島などに対して行ってきた差別的なあり方の延長線上にあることは否定できません。 
 「敵意」「憎しみ」を煽ることによって、自らが「日本人」であるというアイデンティティを確立したい人々の偏狭さには驚くばかりですが、彼らがあれほど自信をもって差別的・排外的言動を行うことができるのは、自分たちの運動がより多くの人々によって支持されているという確信があるからなのでしょう。ということは、彼らの言動をわたしたちが支えてしまっている事実がないか検証する必要があるようです。
 今、世界中で難民・移民の受け入れが大きな課題となっています。そして日本社会においても、すでに様々な文化を背景とする人びとが地域に暮らしいています。昨年成立した「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(ヘイトスピーチ解消法)を手がかりとして、地方自治体に対して人種差別撤廃基本条例の制定、多民族・多文化共生のための働きかけが必要です。1980年代の指紋押捺拒否に始まりまった「外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)の活動も試みの一つです。国籍、民族、宗教、文化、言語など異なる背景をもった人たちが、その違いを認め合うことで一緒に街でいのちが大切であり尊いということが保証される社会、それは「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)のパンフレットの次の言葉が象徴的に表わしています「外国人が暮らしやすい社会は日本人にとっても住みやすい」。多くの難民を拒絶する日本という国、すでに隣人である他民族を冷たくあしらうこの日本という国、ここに暮らす者として、わたしたちは自覚的にならねばなりません。そして、「平和を実現する人」として歩んで行くことへと招かれていることを確認しましょう。

2013年5月12日 (日)

エフェソの信徒への手紙 4章1~16節 「成長」

 この手紙の背景にあるのは、おそらく教会内における分裂です。とりわけ人種の問題です。「隔ての中垣」が問題になっています。おそらくユダヤ人と異邦人との間の諍いが教会内で起こっているということでしょう。そこで、パウロは勧めます。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
 霊による一致というのは人間の側からのものではありません。まことの神は唯一であって、その神に治められているメンバーは、それぞれ与えられている恵みとしての賜物により応答していくのです。それぞれの役割が担われることによって教会という具体的なこの世における体が成長していくのだという、という促しが語られています。しかし、霊による一致は人間の側から作り出せると誤解して、教会を一つの色に塗りつぶしてしまうという方向性を持ちやすい誘惑があります。
 この世にあって教会は聖霊の力による「よそ者の共同体」です。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)。この立場からすると国家の諸権力を相対化しうる視座が与えられるのです。このメンバーがキリスト者です。この世の価値観に埋没していくのではなくて、本国である天の価値観に従うのです。当然、「国家」の枠組みから自由であります。教会内において民族を超えていくことへの促しは、国家間の価値観を超えて具体的な人々が真心から結ばれていく可能性を示しています。
 やがて来られる主イエスの到来に至るまでという、いわゆる「教会の時」という限られた時間の中を教会は旅をする。そこにおいてイエス・キリストの与える一致という約束の力によって教会は維持され成長していくのだということです。

2012年3月14日 (水)

エフェソの信徒への手紙 5章6~14節 「光の子として」

光の子として歩みなさい、との聖書の語りかけを聞きました。キリスト者という存在は、この世にあって光の子として歩むただ中にこそ使命があるというのです。わたしたちは、どのようなイメージを光の子という言葉から抱くのでしょうか。人間の側から光というプラスイメージを突き詰めていって理想像に近付いていくというあり方なのでしょうか。こういうキリスト者像が正しいのだと予め自分たちで決めておいて、そこに向かって精進していくというあり方は間違っています。聖書に証言されているイエス・キリストご自身から示されて、「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(5:10 )ということなしに、光の子として歩む内容が予め解るわけがありません。「主に喜ばれる」ということは自分たちの理想像とか願いとか、こうあるべきだという光の子のイメージが一回解体され、相対化されるところからでないと始まりません。その根拠とは、あくまでもイエス・キリストご自身なのです。14節には次のようにあります「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」。イエス・キリストの復活の力のゆえに眠りから覚めよ、つまり目覚めよ、覚醒していけ、という促しです。イエス・キリストなしには、わたしたちが光の子として歩むことは不可能です。わたしたちが光の子になれるのは、あくまでもイエス・キリストの復活の力による光によって照らされて以外にあり得ません。わたしたちは主イエスからの光をせいぜい、わずかに反射させるような仕方でしか光の子どもではないのです。この自らの限界を踏まえる必要があるのです。パウロがコリントの信徒への手紙で述べているように、わたしたちは土の器であるという限界をもつ脆く儚い存在にしか過ぎないと弁える必要があります。にもかかわらずではなくて、だからこそ、そこにこそ光が宝として注がれることによってキリスト者にされるのです。イエス・キリストの光とは神の全能において示されているところの神の無力さです。主イエスご自身が神に向かって何故見捨てるのか、と叫んでおられるそのところにこそ父なる神の全能が現わされているという理解です。自らの無力さを自覚し打ちのめされ、なお足掻くときにこそまことの光が注がれるのです。光の子であれということは、教会は、そのイエス・キリストの負った十字架を、この時代にあって苦難を共に背負う共同体たれ、ということです。より小さくされている人たちのところに寄り添うようにして十字架へと歩まれたイエス・キリストの死の姿と復活の力に与るように<いのち>を共に担いつつ、この弱いわたしたちが生かされていくような生き方に至る信仰理解へと変容されていきたいと願っています。

2012年1月15日 (日)

エフェソの信徒への手紙2章1~10節 「神の賜物」

わたしたちは旅の物語によって生きています。天から地へと神の独り子、イエス・キリストが人となった、そして布にくるまれた幼な子が十字架に向かってやがては復活に至るという旅の出来事です。わたしたちは聖書の証言に従って読むならば、主イエス・キリストの旅の物語を神の賜物として受けとめることが赦されている、ということです。クリスマスの物語、そして主イエス・キリストの生涯がわたしたちにとって、まったくの神からの賜物であるということを聖書自体がわたしたちに向かって証言しているということがまず第一に踏まえておかなければならない点です。わたしたちの力によるものではなくて、向こう側から一方的にまた神の恵みが、この物語が一人ひとりに、教会に向かって贈られているのだということを受け入れることが肝要です。その上で、わたしたちはその賜物に相応しいあり方を模索していく、反省しながら考え直していくということへと導かれていくのです。イエス・キリストの旅の物語がわたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。イエス・キリストの迫りを受けた者は、それに相応しい生活をするようにと求められています。10節に「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(8-9節)と語られているように自らを根拠にしてではなくて、イエス・キリストの側から提示された神の賜物によってのみ導かれていく生き方が「良い業を行なって歩む」ということです。その時代のそれぞれの事情においてどのような道が相応しいのかどうか、ということを神の賜物から照らされる光によって再確認する、自己確認するのです。そのことで内省しながら判断していくということです。それをしないと以前あった「過ちと罪のために死んでいる」状態に戻ってしまうということです。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、」とは、その世界を支配している具体的な力です。わたしたちの心が動かされ、考えが決められ、体が動かされる、ということを強いる力全体のことを言います。たとえば、政治、マスメディア、常識、倫理という形で襲ってきますわたしたちが注意深くなければ、それらの力に負けて、わたしたちの力を奮う無意識のようなもの、荒ぶる力に飲み込まれてしまう、ということです。それに対して神の賜物に堅く立つということがキリスト者の生き方なのです。

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