コロサイの信徒への手紙

2017年10月 1日 (日)

コロサイの信徒への手紙 4章2~18節 「祈りによって」

 コロサイの信徒への手紙はパウロの名を借りた別の人物の手によるものですが、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。」(4:2-3)との言葉に集中したいと思います。
 祈りとは、自分の内側から沸き起こってくる事柄を神に対して訴えかけるということが第一ではありません。まず受け身なのです。それはサムエル記上3:10の「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」というサムエルの言葉から導かれます。幼いサムエルは丁稚奉公のようにしてエリという祭司のところにいます。ある時サムエルが寝ているとサムエルを呼ぶ声が聞こえてきます。師匠のエリに呼ばれたと思って行くと呼んでいないと言われ戻ります。同様のことが何回か繰り返されてエリは気が付きます、神が呼んでいるのだと。そこでサムエルに、その言葉を聞いたなら「どうぞお話ください。僕は聞いております」と答えるように促します。そしてサムエルは神からの言葉を聞く、と召命物語は展開していきます。祈りとは神の語りかけに対して答えていくところから初めて始まっていくのです。
 今日の箇書には、色々な人の名前が挙げられています。手紙の著者だけでなく、その人たちに向かっても、招きの言葉がイエス・キリストによって語られているので、応答は「わたしたち」なのです。この祈りによって教会の絆が確かなものにされ、教会形成が行われるようにとの促しが今日の言葉です。
 パウロが牢につながれているという設定の手紙です。自由を奪われた著者の境遇が、その背後にはあろうかと思われます。人を自由でなくさせるような息苦しい状況のただ中にあっても祈りによって、それらの重たいものを跳ね返していく力があるのだと。
 だから「どうぞお話ください。僕は聞いております」という祈りの姿勢を保持し、わたしたちが主イエスの御名によって執り成しにおいて祈っていくのであれば、自分たちの願い通りではないかもしれないけれども、お互いがお互いのいのちを喜び合っていけるような方向に、もうすでに共にあるのだということを信じることができるようにされていくのです。そのような祈りによって教会は育てられていくのだと確認しておきましょう。わたしたちの教会も祈り合い、そしてまた祈ってくださいと言い合えるような関係の中で、より喜ばしい場として整えられていくのだと信じることができる一つの幸いがここにはあるのです。

2017年9月24日 (日)

コロサイの信徒への手紙 3章12節~4章1節 「神をほめたたえ」

 キリスト者が、この世における証しの生涯の中で優先すべきは、第一に神をほめたたえることです。イエス・キリストの神のみが唯一であり、まことであることを認め、その方に倣って信じ従っていくことです。しかし、イエス・キリストの神をほめたたえるということは、しばしばこの世の市民倫理とか強いられる「期待される人間像」から外れることがあります。
 主イエス・キリストがいのちを認めてくださっている赦しの中で証ししていくことは、この世の中で迎合していくということではありません。
 「わたしはイエス・キリストによってもう一度生き直すという自由が与えられた」喜びに生きることです。何らかのトラブルを含む仕方であっても、です。この生き方とは自分の力によってではなくて、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」ことによって導かれた主体的なあり方です。そして「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」というのは、その人の存在を前提としながら然りを然り、否を否とすることです。
 しばしば「批判」は「非難」や「否定」と混同されますが、この違いについてはしっかり捉えていた方が良いと思います。わたしは「聖書を批判的に読む」ことを肯定していますが、これが「聖書を非難する」と受け取られることがあります。違うのです。聖書を信頼しているからこそ批判はあるのです。他者に向かっての批判も、その人のいのちを認めておいてであれば大丈夫なはずです。そうして、お互いの関係が育てられていくのです。この可能性が神によって守られていることを、感謝とほめたたえによって表わしていこうという提案が今日のコロサイの信徒への手紙の主張だと思われます。
 なかなか難しいです。親しければ親しいほどマイナスの点が苦痛を伴って見えてくるということもあります。親しさゆえに赦せない関係になることもあります。対人関係の中では、いつでも起こりうること。教会という輪においても同様です。他者に対しても社会に対してもあいまいな仕方での赦しは相応しくありません。
 神をほめたたえ感謝する方向とは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」を枠の中で行っていくことによって教会という輪が成長していく可能性に開かれているということです。そのようなあり方というものが、目標としての神をほめたたえというガイドラインです。コロサイの信徒への手紙は基本的には教会論しか書いてありませんが、この世における市民倫理を超えていくキリスト教倫理を提示しています。神をほめたたえることによって、キリスト者のあり方の今日的意味合いを自己吟味しながら考え直していくことによって、言葉と振る舞いを整えつつ、共に歩んでいきましょう。

2017年9月10日 (日)

コロサイの信徒への手紙 2章20節~3章11節 「上にあるものを求めなさい」

 イエス・キリストの十字架によってなされた和解の業、贖いという事柄、そしてキリストの復活によって与えられているところの、今のキリスト者の生き方は、上にあるものを求めていくところにあるのだと今日の聖書は語っています。逆に、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい」として、これらは「貪欲は偶像礼拝にほかならない」に掛かっていると読むことができます。そして8節では「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(3:8)とも語られています。
 人の価値の分け隔てをせず、「ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者」というように、人のいのちを公平に見ていくことが尊い生き方であり、それが「上にあるものを求めなさい」ということです。上にあるものとは言うまでもなく、神の国であり、神の国とはイエス・キリストです(古代において「天」「天国」は空の上にあると思われていたので)。つまりはイエス・キリストご自身のあり方を求めていきなさいということです。条件なしに一切のいのちが良きものとして神から祝福されて、今あるあなたのいのちは何ものにも替えがたい尊さがあると言うイエス・キリストの思いにそぐわないものに対して抗っていくあり方が、「上にあるものを求めなさい」という言葉の示す方向なのです。イエス・キリストがどうであったかを心に留めながら歩み、絶えず自己吟味しながら、どのように生きていくのかを模索していくことだろうと思います。
 イエス・キリストを求めていく少数者の生き方としてと、どのようなイメージを描いたらいいのでしょうか。哲学者の鵜飼哲さんの言葉「波風を立てていこうじゃないか」にヒントがあるように思われます。権威あるとされているゆえにタブー視されているもの(こと)について茶々を入れたり、おかしいんじゃないのと言ってみる、ということをほんの少しでも行ってはどうか、と。
 「上にあるものを求めなさい」という言葉によって示される生き方とは、イエス・キリストのあり方に倣うことであり、それは「慣習」や「常識」に固まっている日常に小さな波風を立てていく、その中で少しずつ何かしらの関係が動いていく、変わっていく、そういう可能性に賭けていくことではないでしょうか。何かが変わっていくに違いないと信じることができるということではないでしょうか。

2017年9月 3日 (日)

コロサイの信徒への手紙 2章1~19節 「自由」

 キリスト者として、わたしたちは「自由」であると言えるでしょうか。どこか「べきである」という観念に縛られて、今のままでは不十分であるからもっとこんなことをしなければいけないと考えてはいないでしょうか。
 コロサイの信徒への手紙で「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」(2:8)とあるのは、贖罪信仰では不十分だという考えに教会がはまり込んで、おそらく神秘主義的な密儀宗教的なものを教会の中に持ち込んできている勢力があったことを示しているようです。
 儀式がエスカレートしていく傾向を宗教は持っています。本筋を深めていくよりも、枝葉のところがエスカレーションを起こしていくということがあるわけです。コロサイの信徒への手紙の場合は、イエス・キリストの血による贖いがキリスト教徒の判断基準の中心の一つです。ここにおける和解の業にのみ立っていくことが重要なのです。枝葉のところに信仰の内容が分散し、自分たちがキリスト教徒であるためには○○をしなければいけない、ということが増えていくという状況に教会が陥っていたのでしょう。そういうところで、立つべきところである軸足というのはイエス・キリストの十字架であるとしてこの世に対して対峙していく、そのようなあり方を求めていけということを説いているのです。
 そのような、キリストの十字架上の出来事によって一人ひとりのいのちが祝福されてしまっている事実以外のものを拠り所にしようとする「言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事」が現代日本の社会においても力を奮っているように思われます。イエス・キリストの十字架の出来事によって、今わたしたちのいのちが規定されているということでは不十分で、むしろこの世にある、「無言の常識」とか「無言の知」と言ってきたのですが、誰もが当たり前だと思っていることは、わざわざ言葉にして言わなくてもそれが常識として根付いてしまって、知らず知らずのうちにわたしたちの血となり肉となっているような観念とか概念、思想というものが確実にあるからです。イエス・キリストの十字架は、それら一切を相対化する力です。それらを注意深く取り除いていく自由に生きることがキリスト者になっていくことなのではないでしょうか。
 それは、自分の言葉で語るという主体性を取り戻していくあり方をイエスの贖いの業によって、その道筋において与えられていると信じることから始まります。そのような意味での自由な「わたし」が周りで起こっている事柄に関して共感していく、響き合っていくという能力を身につけていくことが求められているのではないでしょうか。

2017年8月13日 (日)

コロサイの信徒への手紙 1章9~20節 「ただ御子によって」

 わたしたちは教会をとおしてイエス・キリストに従う道が備えられています。キリストへの信仰は前進していくものなのです。この手紙の著者によれば、喜びをもって耐え忍ぶ道は闇から光へと至るのだとされます。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(1:13-14)とあるとおりです。
 この事実を支えているのは15-20節の「讃歌」です。ヨハネ福音書の冒頭の「ロゴス讃歌」とも共鳴するような先在のキリストによる想像が語られています。さらに救済へと至る「第一の者」であることも描かれています。
 創造から救済に至る道筋と根拠は20節の和解にこそ重点があることに注意しておきましょう。すなわち、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と。
 イエス・キリストの出来事の中心であり、キリスト教信仰の重点は「贖罪」にあります。14節の「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」とあるとおりです。
 しかし、コロサイの手紙の著者はパウロ後の時代にあって、彼の生々しく激しい言葉によって伝わりにくくなったキリスト観が、普遍的な、つまり、より多くの人々に伝わることこそを優先しているのだとも言えます。
 イエス・キリストの十字架上の死において流された血、これこそがすべての民の罪を赦すものであること。誰一人として逃れることのできないすべての人の罪が買い取られてしまっていること、この言葉をキリストの十字架の死における血に適用しているのでしょうか。それは、神がわたしたちを買い戻すことによって、旧約聖書の律法などあらゆる権力・勢力・権威から人を自由にしてしまったのだという宣言でもあります。
 わたしたちの生きる現代社会において、人の生き方から自由を奪い取る仕組みや権力がわたしたちの前に立ちはだかっていることは否定できません。しかし、だからこそ14節の「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」との言葉によって導かれる自由に、固く立ち続ける勇気が与えられていること、これを忘れてはいけないのです。

2017年7月30日 (日)

コロサイの信徒への手紙 1章1~8節 「実を結んで成長し」

 コロサイの信徒への手紙はパウロの名を借りた著者が80年ごろ、コロサイ(ラオディキアとヒエラポリスでも回覧されることが前提されている)に宛てて書かれた体裁をもっています。60年か61年の大地震で都市機能が働くほどには復興されてはいなかったと思われます。田川建三は「すでに存在しない町だから、偽作文書の架空の送り先として選びやすかった、ということだろう」と指摘しています。前半が理論編、後半が実践編である、という構成はローマの信徒への手紙と似ています。
 この手紙はパウロ後の教会論と信仰論の発展の途上が表わされています。著者の問題意識は「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」(2:8)にあるように、いわゆる「異端」(彼らもキリスト教徒であるのですが)に対する論駁を行っているのです。
 1:1-8は祝祷と挨拶にあたる部分です。ガラテアの信徒への手紙の冒頭のように「人々からでもなく、人を通してでもなく」と否定形・喧嘩腰で手紙を始めることはしていません。まず相手の教会の人たちと自分たちが同じ土俵に既に立たされていることが前提であることを強調しているのです。ただ、相手の主張を認めるような前振りから批判へとつなげていく慇懃無礼な方法論ではなく、違いを直截に批判するときに、相手の存在を全面的に認めるところから始めるという著者の「作法」の様なものがあるのです。
 この態度が次の言葉にあります。すなわち、「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」(1:4-6)。と。キリストからの信仰と、それゆえの愛によって貫かれる「実を結んで成長してい」る現実に共に与っていることへの感謝からこそ、批判が相手の心に届く言葉として働くことを知っているからです。
 この姿勢は現代教会も見習う必要があるはずです。日本基督教団について考えると、各個教会・教区・教団には様々な神学的・信仰的な違いは確実に存在します。その違いとどのように向かい合っていくのが相応しいのかを今日のテキストは告げています。相手も同じキリストにあることを感謝しつつ、正面から非難し合う自由に招かれていると。その前提として、極端な仕方で相手を切り捨てて終わりとしないこと。対話によって乗り越えることができるのだというキリストの信仰においてお互いが導かれていることを認めることから始めていけば、「否!」という非難の言葉も、貫かれる愛によって「実を結んで成長し」つつ、この歴史において教会として証しの道を歩むことができるのだと、わたしたちは知らされているのです。

2012年1月 8日 (日)

コロサイの信徒への手紙1章1~14節 「赦されて生きる」

飼い葉桶に寝かされ布にくるまれた主イエス・キリスト、その方にはすでに十字架の影が差しているのだ、ということです。飼い葉桶の主イエス・キリストは十字架の主イエス・キリストと全く同じ方なのであって、十字架から逆に飼い葉桶が再解釈されるという意味合いがあるわけなのです。キリスト教の教えの最も基本的な教えは贖罪論です。今日の14節「贖い」のことです。その内容は「罪の赦し」のことです。「贖罪」の意味するところは罪の買い取りですが、キリスト教会に定着している専門用語です。この贖罪論を生きる、その時々の教会は、その時々の世の中に対して、どういう位置を取るのかということを、絶えず問われています。贖罪論は、その時々の状況において教会が教会としてよって立つ一番基本的なところです。これを外しては教会ではなくなるというところであり、キリストの贖罪の出来事に相応しく立っているかどうかが決定されるのです。イエス・キリストの十字架の出来事は、人間の根源的な、人間の力ではどうしようもない闇の部分、神に対して真正面から向かい合えず、さらには神を裏切ろうとする、逃れられない心根の総体である罪を赦すのです。その罪はイエス・キリストご自身が担ってくださったのです。生贄の小羊として、そこで血を流されたということによって一回限り、無料で罪の赦しという事柄がなされたということです。本当は人間一人ひとりが負わねばならない罪であるのに、イエス・キリストが身代わりの生贄、神に対する宥めの供え物としてささげられたという出来事です。ここに与って初めてキリスト者の生き方というものが定められるし方向付けられるのです。これが3節から述べられている、イエス・キリストを信じる人たちの生き方なのです。コロサイの信徒への手紙が書かれた状況というものは、どのようなものであったかと考えますと2章8節「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」とあります。これは、その時々の無言の常識、多数派の人々にとって人気があり魅了する力を持った思想や風潮と別のことではありません。わたしたちの暮らすこの社会に満ちた風潮に対して、贖罪論は「否」を声高らかに宣言します(バルメン宣言を参照)。キリストの贖罪に与って、赦されて生きる教会の使命は、ここにこそあり、その真価が絶えず問われていることを厳粛に受け止めたいと願っています。
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