コロサイの信徒への手紙 4章2~18節 「祈りによって」
コロサイの信徒への手紙はパウロの名を借りた別の人物の手によるものですが、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。」(4:2-3)との言葉に集中したいと思います。
祈りとは、自分の内側から沸き起こってくる事柄を神に対して訴えかけるということが第一ではありません。まず受け身なのです。それはサムエル記上3:10の「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」というサムエルの言葉から導かれます。幼いサムエルは丁稚奉公のようにしてエリという祭司のところにいます。ある時サムエルが寝ているとサムエルを呼ぶ声が聞こえてきます。師匠のエリに呼ばれたと思って行くと呼んでいないと言われ戻ります。同様のことが何回か繰り返されてエリは気が付きます、神が呼んでいるのだと。そこでサムエルに、その言葉を聞いたなら「どうぞお話ください。僕は聞いております」と答えるように促します。そしてサムエルは神からの言葉を聞く、と召命物語は展開していきます。祈りとは神の語りかけに対して答えていくところから初めて始まっていくのです。
今日の箇書には、色々な人の名前が挙げられています。手紙の著者だけでなく、その人たちに向かっても、招きの言葉がイエス・キリストによって語られているので、応答は「わたしたち」なのです。この祈りによって教会の絆が確かなものにされ、教会形成が行われるようにとの促しが今日の言葉です。
パウロが牢につながれているという設定の手紙です。自由を奪われた著者の境遇が、その背後にはあろうかと思われます。人を自由でなくさせるような息苦しい状況のただ中にあっても祈りによって、それらの重たいものを跳ね返していく力があるのだと。
だから「どうぞお話ください。僕は聞いております」という祈りの姿勢を保持し、わたしたちが主イエスの御名によって執り成しにおいて祈っていくのであれば、自分たちの願い通りではないかもしれないけれども、お互いがお互いのいのちを喜び合っていけるような方向に、もうすでに共にあるのだということを信じることができるようにされていくのです。そのような祈りによって教会は育てられていくのだと確認しておきましょう。わたしたちの教会も祈り合い、そしてまた祈ってくださいと言い合えるような関係の中で、より喜ばしい場として整えられていくのだと信じることができる一つの幸いがここにはあるのです。
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