ローマの信徒への手紙

2021年8月29日 (日)

ローマの信徒への手紙 10章5~13節 「主の名を呼び求める者」 井谷 淳

 私達は普段教会に来て聖書の福音を学んでいます。キリスト教会の「主題」の一つとして各人の方の救済という事が挙げられます。私も救われたいという想いの中で決意し、洗礼を受け現在まで至るのですが、受洗式の前日「果たして私のような者が救われていくのであろうか?」という疑問と不安感で心が満ちていました。皆様は如何でしょうか。果たして私が救われてゆくのであろうか?という不安をお持ちになった事はないでしょうか。救われてゆく為に何か資格や条件が必要になってくるのでしょうか?先に答えを申し上げると社会的に特化された資格や条件は何も必要ありません。ただ一つ必要な条件がもしあるとすればキリスト・イエスを「主」であると心から認める事であります。  

 そしてもう一つ付け加えるならば言葉或いは、「他の手段」(事情をお持ちで言葉での信仰告白が困難な方を含みます。)主イエスが「主」であるという事の「意志表明」を公の場所で行う事であります。この公の場所というのは教会だけには限定されません。礼拝司式の最後の項目に「派遣」という言葉がございますが、この「派遣」は日常的な社会生活の様々な場面で信仰者の方々が教会内と同様に信仰告白をしてゆく事を言い表しています。家庭、職場、学校、趣味の集まり、地域共同体等の人間が寄り集う場所でキリスト・イエスの存在が「主」であるという確信を様々な立場の方々に言い表してゆく行為を表している言葉であります。本日の箇所の最後の文節である13節に「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」とあります。教会外の状況においても主であるキリスト・イエスに絶対的な信を置く御自身の信仰を公にしてゆく行為は、「証」として大きな意味があるのです。本日の「主題」はこの必要な条件である信仰告白の持つ意味について考えてゆきましょう

 私達の集うプロテスタント教会には3つの柱になる主義があり、その一つが「万人祭司制度」という在り方であります。洗礼を受けた信仰者各々の方が、生活状況の中において主体的に伝道行為を行ってゆく責務がある事を表しているのです。私達が非キリスト者の方々へ自分の信仰を告白してゆく場合、その方々が主イエスに対して思いを寄せる事もありましょう、御自身の在り方を、非キリスト者の方に「自己開示」してゆく事に大きな意味が在り、時には非キリスト者の方にとっても大きな救いへの扉になるのかも知れません。本日の聖書箇所の冒頭の小見出しには「万人の救い」と記載されています。 

 万人の救いは、世における救済の共有であります。このように教会の外の日常において信仰告白をしてゆく行為は私達キリスト者のみではなく、非キリスト者の方々とも、救いを共有してゆく行為に連なるのであります。しかし「信仰」とは求められる宗教的行為を強制的にしなければならないという事ではありません。信仰は「持たされるものではなく」、教会も無論、強制的に来なければいけない場所ではありません。御自身の中で何故イエスが主であるかと主体的に認められるか否かが問われるのみであります。 

 この事を踏まえた上で再び、本日の聖書箇所に目を通しましょう。本日の箇所に二つ、「義」という言葉に対して「律法による義」(5節)と「信仰による義」(6節)という言葉が出てまいります。「律法」「信仰」それぞれの特質を検証してまいりましょう。

 「律法」の存在は私達に、表面的には罪を犯させない様な私達を作り挙げる為の「機能」を果たしますが、その結果として罪を犯した人間を、裁きの量りに掛け断罪し、社会共同体の中から排除してゆきます。しかしこの排除という裁きのみでは罪を犯した人間の救いはなりたちません。人間は断罪されてゆくだけでは、罪の本質に対する認識が困難なのであります。そして罪の本質に対する認識がなければ救いも成立しません。そもそも[罪]という概念自体が時代において変容してしまうものであり、罪とされている事柄が何故に罪であるのかという本質的な問い掛けを私達に促してゆく機能は律法の中には存在しないのです。 

 人間は創世記にありますように罪を犯してゆく生物であります。神のいいつけに反して禁断の果実を食べてしまい、その罪深さの故にエデンを追放されたのであります。その意において、律法の存在は神が人間の罪深さを予め御存知で、時の預言者の口を介し、罰則規定を、律法の中に織り込んだものであります。しかしこの律法の運用のみでは人間存在の根源的な救済が成し得ないと主なる神は御判断されたのであります。時代を重ねるに連れて人間の社会の有様や、人間の営みを御覧になり、心を痛められ、御子イエスを世に遣わされたのであります。律法の性質と社会的機能についてここまで御一緒に考えて参りましたが、次は「信仰」について伴にお考え頂きたいと存じます。

 旧約聖書中に「逃れの街」(民数記9節~34節)という箇所が存在するように、過失であれ故意な出来事であれ、人間は必ず罪を犯してゆく事を神は良くご存知なのです。罪に対して無自覚であるのも問題でありますが、別の問題は人間が自分自身の罪深さに開き直り、罪を確信的に重ねてゆく事であります。確信的に罪を重ねてゆく人間は、罪意識への感覚が鈍磨し、罪を罪として認識してゆかなくなります。

 主イエスの時代は正にこの自覚している罪を確信的に繰り返してしまう人間が多数存在していました。自覚的に罪を繰り返す者、また無自覚に罪を犯してゆく者をも含め、主なる神は心を痛め、またお怒りになられました。それ故に独り子であられる私達の主イエスを世に遣わされ、また十字架にお上りに成らせたのであります。「主の名を呼び求める者は、すべて救われる。」(13節)とあるように、救済の在り方はこの各々の罪の在り方を認識し、主イエスが十字架にお上りにならねばならなかった「原因」が私達一人一人の責任に帰せられる事であると、覚えてゆく事から始まってゆくのです。   

「信仰告白」は私達、告白者の「罪責告白」と同義であるとも言えましょう。私達の罪深さの故に「主」が十字架にお上りになられ、罪の認識を促され、それまでの人間の営みの在り方に嘆きと怒りを覚えられていた神のお気持ちを静められたのであります。その意味において信仰とは罪の本質に対して「気付き」を促すのと同時に「赦し」をも促すものであります。

 12節に「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と述べられています。自分自身の罪責を認識し、改めてゆく行為から本当の豊かな人生は始まってゆくのです。自分自身の罪を検証してゆく行為は、隣人の罪を理解し許してゆく行為にも連なってゆきます。巷に「自己肯定感」という言葉が流布していますが、本当の自己肯定は自分自身のそれまでの罪を認識し、新しい人生の扉を開けてゆく行為の中にあります。自分自身の罪深さを認め、主イエスに罪の認識と回心の決意を伝えて行くことにより、新しい人生への導きが日々与えられてゆくのです。また自分自身の罪から解放されてゆく事は隣人を裁き、断罪してゆく行為からの解放をも意味します。本当の自己肯定は「互いに裁き合うという檻」から自分自身を解放し、他者の方の罪を許してゆく事をも含まれているのであります。 

 12節の冒頭部分には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と述べられています。他者の在り方を理解し、自分と異なる文化の違いを安易に裁いてしまうような精神構造から離れよ、という意であります。また、「すべての人が豊かに恵まれる」社会の在り方は、他者理解と多様性を重んじた社会であり、容易に自分の量りの中で隣人の在り方を裁かず、容認し、共生してゆける人間同士の営みの在り方を主イエスは望んでおられるのです。そしてお互いに「許しあい支えあえる自分自身」のありかたは自己の罪認識からはじまってゆくのです。

 13節の「主の名を呼び求める」行為は私達の罪の為に十字架に御昇りになられた主イエスを覚え罪の赦しを乞い、回心の決意を日々新たにして行く行為であり、この行為により私達は様々な気付きを与えられてゆくのです。私達が受洗してから時間が経っていたとしても、日々心新たにして主イエスへの信仰告白を致しましょう。宣べ伝えていく行為が、私達自身の罪を再検証してゆく力、そして問題を乗り越える気付きを私達自身に与えてゆくのです。私達が日々祈りの中で、主イエスが必ず私達が、今現在必要としている何かに対して答えをくださり私達の心を満たし、困難に立ち向かう力を与えてくださる事を覚えつつ、この一週間が守られてゆくように共にお祈りいたしましょう。            お祈りをいたします。       

祈り  

御在天の父なる神様、本日は貴方が世に遣わされた御子、主イエスへの信仰について改めて考える時を頂きました。私達が置かれている生活の座の中で予期せぬ形で様々な問題に直面する事があっても、主イエスが伴におられ、私達の嘆き、苦しみ、喜びを共に担って頂き、共に歩んでいただいている事を覚え、常に謙虚な心でいられる様な私達へとお導き下さい。病で苦しんでおられる方、様々な労苦により孤独な時を過ごしておられる方々 理不尽な現実と闘ってゆかねばならない方々の上に貴方の導きと、守りがありますようにお導きください。この後の礼拝もどうか最後までお守り下さい。尊き主イエスの御名を通し、この祈り 御前にお献げいたします。 アーメン。

2019年3月24日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章15~17節 「父なる神-使徒信条講解4」

 まず、ゲツセマネの園での祈りを今一度思い起こしてみましょう(マルコ14:32-36)。ここには、主イエスの呻きの祈りの場のすぐ近くに存在し、共に呻きに共鳴する神がいます。主イエスの今を見守り支える神の臨在、ここにこそイエスと共なる神のイメージがあるのです。
 この主イエスによってパウロは祈ることができるようにされたのです(ローマ8:14-17)。「神の霊」「この霊」である主イエスご自身からの働きかけによって初めて、わたしたちは「神の子」とされるのです。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあるように、自由への道を歩むようにと促されているのです。そして、さらに「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とパウロが語るように、主の苦しみと栄光を根拠にして、今をキリストと共に生きることができるようにされているのです。それが、神に対して「父」と呼ぶことが赦されているということです。さらに言えば、主イエスにあって呼びかけることができるのは、わたしたちに呼びかける権利や能力や知識があるからではありません。この意味では、わたしたちは無資格ですわたしたちの存在の根拠であり、わたしたちのいのちの源である方の側からの呼びかけに基づいてのみなのです。
 ローマの信徒への手紙8:26には「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。呻くことによって執り成してくださっているのは、ゲツセマネの園での主イエスに他なりません。この「神の子」であるイエス・キリストにおいて、わたしたちが「子」として受け入れられているのです。神が「父」であるのは、主イエスがそのように呼んだ限りにおいてです。
 キリスト者とは祈る人であると言われます。祈るためには相手が誰であるのかが分からなければなりません。教会の信仰においては、祈りをささげるべき方が、聖霊の働きによって、イエス・キリストにおいて明らかにされ、自ら語りかけてくださっていることが知らされているのです。だから、祈ることすらできない状況にあっても、神がわたしたちを待ち続けてくださっていることに信頼しましょう。何故なら、ゲツセマネの園での主イエスの傍らに、沈黙する熱意の神が共にいてくださったように、今わたしたちはその主イエスの祈りにおける執り成しのゆえに、人間の手の届かない天にいる神が、同時にこの場においても共にいてくださることを信じることが赦されているからです。

2017年11月 5日 (日)

ローマの信徒への手紙 14章7~9節 「自分のために生きる人はなく」

(永眠者記念礼拝)

 7節は新共同訳では「自分のために」とありますが、田川建三訳では「自分自身に対して」となっています。田川は翻訳の根拠を註で以下のように述べています。
【これは口語訳等のように「自分のために」と訳すと誤解を生む。日本語で「自分のために生きる」なんぞと言われると、自分勝手な利己主義者で、他人のことを考慮しない、といったような意味に受け取られてしまう。ここはそうではなく、人間の生はそれ自体として存在しているわけではなく、神と向かいあうものとしてあり、という意味。神との関わりにおいてしか人間は存在しない、というのである。だから次節で「死のうと生きようと、我々は主のものだ」と言っている。】
 わたしたちが生きているものであれ、死んでいるものであれ共々主のものである、というところに一つの慰めがあります。鏡に映った自分だけを見つめて生きることはできません。人は他者と向き合って、他者に対して生きるのであり、その他者の先にも神はいるのです。神と向き合い神に対して生きるとは、必然的に他者に対して生きることです。その他者とは誰か。
 使徒信条」に「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人うちよりよみがえり、」とあります。「死にて葬られ、陰府にくだり」というのは、イエス・キリストご自身が一度確実に死を迎えたということです。田川が解説するようにパウロの主張は「神との関わりにおいてしか人間は存在しない」のです。つまりは、イエス・キリストの十字架によって非常に確実な、誰もがどのような力によっても断ち切ることのできない絆があるので、故人を思い起こすときに、それはただ単なる思い出とか懐かしさだけではなくて、生の世界と死の世界が結ばれ、育まれていることに希望を抱くことが赦されているのです。もしも故人に対して負の思いがあったとしても、その関係は固定化されず、神のもとで整えられていく、ということです。
 生きている者も死んでいる者も共々主のものなのです。イエス・キリストの力の及ばない領域はないのです。生きている者も死んでいる者も、両方ともイエス・キリストの十字架のゆえに、愛されているかけがえのないいのちなのです。生きている者の国にあるいのちも天に召されている向こう側のいのちもイエス・キリストの神から見れば等しく尊く慈しまれている具体的な存在なのです。このことのゆえに、わたしたちは生きている者の責任として神のもとに召されている者を覚え、今生かされている者も神のもとにいるお一人おひとりもイエス・キリストの愛のゆえに、その関係はより豊かにされ、より確かなものとされ、育まれているのです。

2014年8月31日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章3~8節 「キリストの<からだ>」

 パウロの言葉は必然です。わざわざ言わなくてもいいことは言わないのです。そうせざるを得ないパウロの現実があるのです。教会が「キリストの<からだ>」として機能していない、という現実認識です。キリスト者というものが、一体どのように生きていくのか。二つの方向性である自尊感情を持つということと自己相対化の視点を持つとにおいて、それぞれが与えられている賜物を活かし務めに専心する、全うするということができているか、という問いです。
 傲慢さというものが、いつも教会には紛れ込んできます。自分と他の誰かを比較することによって自らが優位に立つとか、あるいは教会を支配しようとする力への意思、欲望などが渦巻いている中で、自尊感情と自己相対化、これによって「キリストの<からだ>」としての共同体を相応しく整えていきなさい、という促しがパウロによって語られているのです。キリストにあるところの水平社会の関係である神の国の反射、反映がなされるようにとの願いが込められています。
 教会の現実は、この世の現実を反映した鏡となっています。この世の価値観とか構造を、そのまま教会に持ち込んできているからです。
しかし、パウロは、この点に関して否定的です。まず、教会というものにおいてキリストの意思が働くのであれば、それがこの世に対して逆に転じていって新しいキリストにおける関係性が造られていくに違いないという考え方をしているわけです。
 <いのち>によって祝福された結ばれを示すためには、その場に与えられている課題を大切にしていけばお互いの<いのち>がきっと輝ける、そして喜ばしい生き方へと導かれていくのだとパウロは言いたいのでしょう。神に祝福された生き方とは、人と人との関係が赦されて同じ平面に立つことができて、そこで自尊感情と自己相対化によって<いのち>が結ばれていくのだという実感へと導かれていくのだという生き方があるのです。ここにこそ、神の祝福があるのです。
 思い上がってしまう人たちに対する警告と、それぞれ与えられている人たちが分に応じた働きによって生きていくこと。このことによって、新しい人間の可能性が生まれてくるということ。ここにキリストにあって生きる道筋のヒントがパウロのテキストから示されているのです。
 このことをただひたすらに実践しておられた小田原紀雄牧師が8月23日、永眠されました。遺されたわたしたちは、水平社会への道筋を、彼から託されたのだと肝に銘じたいと思います。

2014年8月24日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章26~30節 「祈り合う力」

 パウロは、困難な状況をあえて希望する、あえて忍耐する道を選んでいます。困難を受け止めることができる、耐えることができると信じています。そこで何によって支えられているかというと「霊」と呼ばれる事柄によってです。「霊」ご自身が弱い私たちを助けてくださる、という。どのように助けるか?「わたしたちは祈るべきことを知りませんが、霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあります。
 どのような方向を自分で判断しうるか、ということを失っている、それこそ、わたしがわたしでなくなるような、我を失ってしまうような現実において、「霊」という方がうめきをもって執り成してくださっているのだと。言葉化できない状況とは、自らの状況が混乱している、非常に危機的な状況にあるということです。もちろんパウロも何度も経験してきています。しかし、それでも大丈夫だという信仰があるのです。
 何故ならば、そのような危機的な状況の中にあって共にいてくださる方があるということ。その方は確かに目に見えるものではない。けれども、リアルとして8章26節の言葉があります。すなわち、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と。
 祈りさえも自らの言葉を紡ぐことが不可能な状態です。その中で「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」という時に、その危機的状況に寄り添ってくださってくださる方が確実にある。パウロは確信しているのです。その方のことを知っているからです。むしろ、パウロ自身が知っているということよりも、パウロ自身がその方から呼びかけられた経験を持っているからです。
 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)。このようにして出会ってくださった復活のキリストとの出来事、さらには主イエス・キリストご自身が実は言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。これは十字架上での死に際して、うめきの極みとしての絶叫された姿において現されています。この主イエスの十字架の姿によってこそ、弱いわたしたちは助けられているのです。ここに幸いがあるのです。
だから、わたしたちもまた、言葉化できない状況の中でも、祈り合うことができるのです。今度は、寄り添ってくださる方の存在を知るわたしたち一人ひとりが、「小さなキリスト」として誰かのために執り成しをすべく召されているのです。ここにキリスト者の祈り合う生き方が備えられているのです。

2014年8月17日 (日)

ローマの信徒への手紙 4章13~25節 「信頼に生きる」

 キリストの赦しに出会うことなく、何故自分で自分に罪があることが分かるのか?キリストなしに自分の力で罪が分かるということがあるのか?どうなのでしょうか?
 罪の赦しがまず先行することによって、今のあなたのままで、もう赦されて義の側に移されてしまっているという計算になっているのです。根本的な罪が、赦しによって明らかにされるのです。イエス・キリストによる贖罪。イエス・キリストの十字架の出来事の光において照らされる、その光の激しさによって映し出されるところの影が罪なのです。光が強ければ影が濃くなる、光が弱ければ影が薄くなる。光によって照らされるので影ができるのです。つまり、罪の赦しがあるからこそ罪の認識に至ることができるのです。そのような認識に立つ必要があります。
 イエス・キリストの十字架の出来事によって罪が赦されたので、わたしたちはキリストを信じることができるし、だからこそ、罪の告白ができるのです。このように発想しないと人間中心の信仰理解になってしまいます。つまり、人間の信じる立場の方に優位が与えられてしまうからです。
 パウロの場合、アブラハム理解においては、まず神の側からの働きかけが絶えず先行するということにおいて、どのように応答していくか、に信仰が現れると考えます。同様に、「わたしが信じる」信仰ではなくて、まず神の側から発想するということです。
 信仰義認という事柄はまず、神の赦しが先行するのです。それに対する応答として罪の告白が引き起こされることです。罪と言っても、わたしたちには罪を認識する能力がそもそもないのだ、ということです。ある神学者が言うように、認識できるのは氷山の一角にしか過ぎないのです。水面上の氷の下には何倍もの氷があるように、イエス・キリストの贖罪という出来事によって罪の認識に至ったとしても、せいぜい水面上の部分、ほんの一部の罪認識に過ぎないということです。それほどまでに人間は賢くないのです。
 この謙虚さをもう一度求めていくならば、信仰によって義とされるという出来事が、イエス・キリスト「の」信仰、イエス・キリストご自身の信仰のゆえであるという図式が腑に落ちるでしょう。主イエスが死者の中から復活されたゆえに、わたしたちは義と算入されるのです。わたしたちには罪がある、だけれども、イエスの側からすれば罪として計算されない、いわゆる「赦された罪人」である、という生き方において、復活の<いのち>に与っていく生き方、そこにおいてのみイエス・キリストに信頼して生きる生き方が用意されているのです。

2011年11月27日 (日)

ローマの信徒への手紙11章13~24節 「歴史への参与」

この世の祝うクリスマスと教会の祝うクリスマスは、厳粛さや敬虔さという物差しからすれば、教会の方が素晴らしくて正しくてより優れていると考えがちですが、違いはほとんどありません。紙一重の差です。クリスマスの出来事に対して天に目を注ぎつつ、すでに来てくださった主イエスにおいて、やがて来てくださるであろう主イエスに対して畏れをもって待つことが赦されているという憐れみを知っているかどうかです。わたしたちは洗礼を受けることによって主イエスの死に与り、復活の出来事によって、天における希望を抱く、この世における寄留の民です。これが教会です。神の憐れみは旧約を読んでいくと、取りに足らない弱小の民が神よって救われていくという出エジプトなどの物語によって表わされています。同時に、神の憐れみを受けつつも裏切り、偽りの道、神を神としない偶像礼拝の誘惑、さらには、律法は本来良きものであるにもかかわらず「律法主義」へと脱落してしまうことによってしまった民でもあります。このキリスト者の現実をパウロは「土の器」と呼んだのです。教会は謙虚さを保ち、神への畏れを感謝として受けとめながらでないと、いつでも神からの脱落の危険を持っています。アドベントは、主イエスが今年も飼い葉桶に寝かされる仕方でこの世に来られたことを今一度新たに心に刻むことです。飼い葉桶の主イエスを思い浮かべるとき、教会は謙虚さを保ち、神への畏れを感謝として受けとめるのです。そしてこの謙虚さと神への恐れは飼い葉桶の主イエスにおいて実現された神の働きであるが故であることに気づかされていきます。この気付きに生きる者がキリスト者と呼ばれます。この人たちは、神と人とに愛されて成長し、十字架に向かう主イエスの道へと誘われています。生前の主イエスの生き方、生きる方向性を思い起こせば、飼い葉桶から十字架に至る道筋には、ブレがありません。神の謙遜、遜りそのものが主イエスにおいて実現されているからです。主イエスに信じ従う道とは、この世にありながら、全面的に同化してしまわない紙一重のところで、主イエスを見上げて生きていくことです。その道は平坦なものではありません。主イエスは十字架への道ゆきにおいて、その当時の世界観全体を相手にするようにして歴史を、神の歴史を貫かれました。主イエスを信じ従う者たちは、この世との紙一重の差に意義を見出すからこそ、主イエスのなさったこと、話されたことを、今度はわたしたちが倣うようにして、この世における責任的な歴史への参与に関わるように促すと当時に警告を与えているのではないでしょうか。

2011年1月 2日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章1節~12節「神の御心を求めつつ」

わたしたちは、それぞれが違う顔をもち、個性があり、別々の人格が与えられています。今日のテキストの後半の4節以降で展開されているのは、教会というわたしたちが、まず第一にひとつなのだということです。この一つ性を前提として、それぞれの役割分担、責任分担が教会の具体的な働きと交わりを成しているのだと述べられています。この同じテーマはコリントの信徒への手紙一 12章12節以降でも展開されています。それぞれ与えられた役割には上下や優劣の関係がないことが述べられています。ひとつのキリスト、ここへと集中していくことからのみ教会の今は問われなくてはならないと言うのです。  教会は、完成した人々の群れではありません。絶えず、キリストに相応しいのかどうかを、自己検証し続けていかないと道を踏み外してしまう危険性をもったものです。  その一つのキリストにのみ固着していきつつ自己検証し、教会としての相応しさを、神の御心を求めていくことこそが前提であることが、1節~3節で述べられています。 しく、自らをささげていくことなのだということです。このささげていく行為は、狭い理解では神奉仕としての礼拝ということになるのでしょうが、広い意味からすれば、キリスト者の生き方全体、あり方全体を示すものです。この世にあってどの様に振る舞っていくのかという教えとしてのキリスト教倫理の基本が述べられているのが、今日の聖書であり、その前提をまず点検し、自己検証することの必要性に集中しているのです。この態度は、わたしたち自身に根拠を置くのではなく、あくまでもキリストご自身にこそ、その根拠が既に与えられているということから、日ごとに新しく初めから行なっていくことです。  田川建三は「なすべき礼拝」のところを「神に仕える理性的な仕方」と訳しています。この理性とは、人間の知性や考えの冷静さのことではありません。理性とは神の事柄であるとの指摘に依っています。どれだけ、人間の知恵や理性を使ったとしても、到底神に及ぶはずがないという人間の限界を踏まえさせる発言であることに注意したいと思います。神の意志を人間が自分の持ち物のように勝手に振る舞うことは赦されてはいないのです。ここへの謙虚さを求めて歩むことが、神の御心を求めていくことです。  この自己検証を求める立場の下で、わたしたちはクリスマスの祝福のもと、新しい年を迎えています。クリスマスという出来事は、神が人となるという、全く新しい出来事です。この人となった主イエス・キリストの新しさは、神が共にいてくださる決意を表すクリスマスの祝福です。この祝福のもと新しい年を歩んでいきましょう。

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