ローマの信徒への手紙

2024年1月21日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章15節 「生きるために」

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉はパウロがローマの信徒に宛てて書いた手紙の中の一節です。パウロが自分で編み出したオリジナルの言葉であったとは限らない、当時の倫理的な教訓とか格言であったのかもしれません。この前もお話しましたが、言葉は「何を」ということ以上に「誰が」言うかということによって決定されます。これはパウロが語ったからこそ生きた言葉なのです。地中海沿岸を旅しながら、自ら働きつつ伝道し、教会形成し続けたパウロの言葉としてしっかり受け止めたいのです。

 このキリスト者の規範とも言うべき生き方はパウロの主張なのですが、その主張を導き出しているのは生前の主イエスの生き方です。パウロは元々キリスト者を迫害する熱心なファリサイ派の教師で、生前の主イエスにはおそらく会っておらず、しかし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との主イエスの言葉によって、自分が迫害しているキリスト者の振る舞いや言葉や生き方の中にキリストがあるということを知らされたのでしょう。パウロが迫害している人たちにキリストが生きていたということです。そして、パウロは回心して伝道者として起こされたのです。今度は主イエス・キリストに支えられ導かれたものとしての振る舞いと言葉へと展開したわけですから、伝道者としてのパウロの手紙に言い表されていることは、主イエスを映し出すものとならざるを得ないのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉が正しく語られ聞かれ、これが本当になっていくかどうかは、主イエス・キリストの御心に適っているかどうか、にかかってくるのです。テレビやインターネットなどによって創り出されるところの同情とか共感とかというレベルではなくて、主イエスが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」いた相手とは誰か、その関係性が、具体的な「あなたとわたし」という人間のつながりとして機能しているか、が問われるのです。

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というパウロの言葉は、具体的な誰かと共にいられるのかどうかとの問いへと招いているのです。あなたやわたしは誰とどのように共に生きていこうとしているのか、ということです。

 仲間になっていくことは人間の力では、なかなか叶わないことかもしれません。人間の努力や誠実さには限界があるからです。わたしたちは、主イエスの意志としての聖霊の働きを求め祈り続ける中で、それを必要としている人の隣に居続けることができるよう、わたしたちの生活を整えていきたいと思います。

2023年10月 1日 (日)

ローマの信徒への手紙 6章3~4節 「洗礼によって」

(世界聖餐日)

 洗礼式は、主イエス・キリストを信じ従うことを神と人の前で明らかにすることによって、具体的な教会の一員になるという入会の儀式です。来るべき日・終末に向かいつつ、この世を旅するなかで一緒に教会を作り上げていく教会の仲間となることです。教会における責任と義務とが与えられることでもあります。キリスト者になるということは、具体的などこかの教会に所属しなければならないのです。

 教会が洗礼を行う根拠は、まず主イエスご自身が洗礼者ヨハネから受けたという事実にあります。ヨハネの洗礼は「罪の赦しをえさせる」目的であったと福音書は証言しています。しかし、主イエスに赦されなければならない罪があったのでしょうか。確かに、ユダヤ教の権力やローマの権力の側からすれば、神を冒涜したことや反逆者であったとの判断から犯罪者として当時最も忌み嫌われていた恐るべき十字架によって処刑されました。しかしこの十字架は神の側からすれば、罪ではありません。マルコによる福音書の主イエスの洗礼の記事によれば「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞かれました。神の側からすれば、愛する御子であり、神の心に適う者として確信があったのです。その神の思いの通り、当時のユダヤにあって、より小さくより弱くより儚くより悲しくされていた人たちの、まことの友であり仲間として、主イエスは「共に喜び共に泣く」歩みを続けたのです。人の丸ごとのいのちは上下、優劣には一切関わりなく、差別なく神から喜ばれ祝福されているという事実に固く立ち、神の「心に適う者」として主イエスは生涯を全うしたのです。

洗礼式におけるいのちの方向はこの世の理解とは異なります。わたしたちの通常の理解では、この世に生まれ出たいのちは幼い状態から成長し、年齢を重ね死に向かうというものです。これは確かに客観的な事実です。しかし、教会の理解は「いのちから死」なのではなく「死からいのち」なのです。

 主イエス・キリストを信じ、従うことを少しでも願っているなら洗礼は受けるべきです。洗礼は人を救うのです。救うと言っても悩みのない人生や毎日が喜びに満ち溢れているという暮らしが待ち受けているわけでは必ずしもありません。信じ従うべき主イエス・キリストは十字架に磔られた方です。安易な生き方など似合いません。より困難な生き方が待ち受けているかもしれません。より悩み多い人生なのかもしれません。しかし、十字架の主イエス、復活の主イエスに守られた人生の始まりです。主イエスが他者と共に生きた、その生き方に倣いつらなる恵みへと招かれている本当が事実となるのです。主イエスの受けられた洗礼によって、わたしたちが新しいいのちへと生きることの恵みをご一緒に確認したいのです。洗礼があるからこそ、主イエスに倣い、信じ従う道を祈りつつ模索して生きたいのです。

2023年8月20日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章1~8節「キリストに結ばれた体として」

(信徒による説教)小山 崇

 私は、1976年、父廣重、母奉子のもとに生まれ、幼少期は東京都立川市で暮らしました。幼稚園はモンテッソーリ教育の幼稚園で、クリスマスは羊役や、博士役を演じたことを覚えています。

 父母がクリスチャンのため、日本キリスト教団立川教会に通っていました。ゲームや工作、また夏季学校で宿泊をしたことなど覚えていますが、小学3年からボーイスカウトを始めたこともあり、徐々に足が遠のいていきました。

 中学2年の夏休みに横浜市港南区上永谷に引っ越しました。上大岡教会には30年以上の関わり合いとなります。高校時代以降は年に数回程度の出席でしたが、キリスト教に対する帰属意識のようなものがありました。

 大学では、週一度昼休みに礼拝があり、足を運んでいました。

 また、ボーイスカウト活動でも信仰を持つことが奨励され、ちかいの一番目が「神(仏)と国とに誠を尽くし、おきてを守ります。」二番目は「いつも他の人々を助けます」です。創始者のベーデンパウエル卿が牧師でもあり、神様が造られた自然のものに畏敬の念を持つこと、隣人愛の教えがとりいれられています。この「信仰」を確立したいと思っていました。

 社会人となり、初めは信用金庫に勤めましたが、人間関係がうまくいかず退職し、税理士試験の勉強に専念しました。2006年の夏に勉強が一区切りし、再就職した時に、もう一度教会に通ってみようという気持ちになっていました。

 教会学校、聖書研究会にも参加し、原牧師の勧めもあり、200911月受洗しました。神様がはじめから導いてくれていたと思います。

 その後も、結婚、こどもが生まれるなどありましたが、教会に出席できています。

 神様から見守られる中で、何ができるか考えます。一つは、依頼をお引き受けすることで、今年度から税理士会の役員や研修会講師をします。今回の信徒説教も、神様の招きがあると思いました。もう一つは、キリスト教を地域に認識してもらうということです。CSでは、教会に来ることが楽しんでもらえるよう心がけています。

2022年11月20日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章14~17節「わたしたちは神さまの子ども」(子ども祝福礼拝)

(子ども祝福礼拝)

 イエスさまが神さまの大切な子どもとして人間になったことによって、イエスさまは神さまからの力を受けて、他の人たちみんながきょうだいとなる道を作り出してくださいました。誰もが神さまの子どもとして愛されていることを教えてくれたのです。みんなのいのちが何よりもとても大切だよ、と教えたり、困っている人を助けたり、ご飯が食べられない人と一緒に食べたり、悲しかったり寂しかったりする人たちを慰めたり、力づけたりしたのです。今生きていることは、本当はうれしいことなんだよって。

 そうすると、みんなもだんだんとイエスさまの心が分かるようになってきたのです。イエスさまが大切に思っているのは、強い人や正しい人、ユダヤ教の教えや約束事を守ることではなく、もっと別なことだと気が付くようにされたのです。今日の聖書のローマの信徒への手紙の別のところでは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」という言葉がありますが、この手紙を書いたパウロさんが、誰かと「共に」「一緒に」生きていくことがイエスさまの心であり神さまの願いだと分かったからこそです。

 霊という目に見えない神さまの力を信じたパウロさんは、イエスさまという神さまから与えられた、より弱く、つらい人たちと一緒に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」という言葉を語る人にされたのです。目に見ることはできなくても、すぐ傍にいて守ってくれるし支えてくれている、そういう神さまが自分たちを子どもとして大切にしてくれていることを伝えていこうと決意したのです。神さまの子どものイエスさまが一緒にいてくれるから、イエスさまの力が働くところの人たちはみんな神さまの子どもなのだというのです。

 神さまがすぐ傍にいてくれる。そこにはイエスさまを中心とした神さまの子どもたちのつながりが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」くという出来事として起こるのだということです。ここで一緒に喜んだり、泣いたりする、みんな神さまの子どもとして守られている安心感が与えられているのです。

 今日は、「子ども祝福礼拝」です。ここには子どもたちだけではなくて、おとなの人たちもいます。実は、今はおとなになっている人たちも子どもであった時代があります。今の子どもだけではなくて、昔子どもだったおとなたちも一緒に神さまの子どもなのです。一番上のお兄さんのイエスさまのきょうだいなのです。

 今日は、今の子どもたちに祝福を祈りますが、同時に昔子どもだったおとなたちも神さまの子どもとして守られているし、祝福されていることを忘れないようにしたいと思います。子どももおとなもイエスさまの神さまの子どもとして、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」というつながりの中で歩んでいこうよ、という呼びかけに包まれていることを忘れないように歩んでいきましょう。

2022年8月28日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」

 「現在の苦しみ」「虚無」の時代の只中にあって、「希望」することはできるのでしょうか。そもそも人間には「希望」する能力も実力もゼロなのではないかと思われます。では、その「希望」はどこからやってくるのでしょうか。ローマの信徒への手紙8章24節の「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」との言葉をどのように理解したらいいのでしょうか。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていること」「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。この「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望」む姿勢とは、今日の箇書の前にある8章15節以下で語られています。【あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。】と。「キリストと共に苦しむ」あり方として「アッバ、父よ」と呼びかけることが赦されていることから導かれるのではないでしょうか。24節に「現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」とあるように、「希望」はすぐ傍にいるけれども見ることはできない主イエスにのみにあります。「アッバ、父よ」という呼びかけは、主イエスご自身の祈りで呼びかけた時の言葉でもあります。詩編50:15の次の言葉を知っていたからなのでしょう「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」、主イエスは逮捕され十字架へと至る直前に、すなわち「苦難の日」にゲッセマネの園で次のように祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章36節)。直接触れることも見ることもできないけれども、すぐ傍に神が確実にいること。それゆえに、深く圧し掛かる「絶望」の中で、それでも「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りが赦さていることにおいて救われているのです。

2022年8月 7日 (日)

ローマの信徒への手紙 15章13節 「戦争のない世界を望む」

 わたしたちは、より弱くされ、苦しみが強いられ、屈辱的な場にいる人たちに対する共鳴や共感を持つことができているでしょうか。お金や権力や社会的地位などいわゆる「強さ」に象徴されるあり方を良しとする価値観がわたしたちの身体に染み込み、生育環境や教育によるいのちの上下、優劣を無自覚にうけいれてしまっているのではないでしょうか。今生かされている他者への理解のなさは、戦争を無条件に否定することを困難にします。

 このいのちへの共感と共鳴について、昨日の広島「原爆の日」の平和式典で小学生たちによって練り込まれた平和への誓いで語られていました。【……今この瞬間も、日常を奪われている人たちが世界にはいます。戦争は、昔のことではないのです。自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは、強さとは言えません。本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心をもち、相手を理解しようとすることです。本当の強さをもてば、戦争は起こらないはずです。過去に起こったことを変えることはできません。しかし、未来は創ることができます。悲しみを受け止め、立ち上がった被爆者は、私たちのために、平和な広島を創ってくれました。今度は私たちの番です。被爆者の声を聞き、思いを想像すること。その思いをたくさんの人に伝えること。そして、自分も周りの人も大切にし、互いに助け合うこと。世界中の人の目に、平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは、行動していくことを誓います。】ここで言われている「本当の強さ」を支えるのは、想像力、そして他者に対する共感と共鳴だと思います。わたしたちが生まれ育ち、教育されてきた(より正確には「飼育」されてきた)「強さ」という価値観とは相反する「強さ」です。

 そこで必要とされるのは、人間が平和へと歩む方向付けなのではないかと考えます。沖縄県糸満市の「沖縄県平和祈念資料館」の展示室の出口に掲げられている「むすびの言葉」には【戦争をおこすのは たしかに 人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも私たち 人間 ではないでしょうか 】とあります。同じ人間でありながら、戦争を行うことと行わないことの違いは、先ほどの小学生たちによって作成された言葉から言えば「本当の強さ」だろうと思うのです。

 今日、わたしたちは次のような聖書の言葉によって支えられています。すなわち、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」と。絶望の時代状況の中にあっても、あえて希望する信仰が、聖霊の働きによって支えられるのです。この聖霊は、偽りの「強さ」を退ける力です。「弱さ」ゆえにこそ、まことの「強さ」へと導く力そのもののことです。この根拠であるところの復活の主イエス・キリストの生前の立ち居振る舞いに真似びながら歩むところに、「戦争のない世界を望む」道は開けるのです。

 

2021年8月29日 (日)

ローマの信徒への手紙 10章5~13節 「主の名を呼び求める者」 井谷 淳

 私達は普段教会に来て聖書の福音を学んでいます。キリスト教会の「主題」の一つとして各人の方の救済という事が挙げられます。私も救われたいという想いの中で決意し、洗礼を受け現在まで至るのですが、受洗式の前日「果たして私のような者が救われていくのであろうか?」という疑問と不安感で心が満ちていました。皆様は如何でしょうか。果たして私が救われてゆくのであろうか?という不安をお持ちになった事はないでしょうか。救われてゆく為に何か資格や条件が必要になってくるのでしょうか?先に答えを申し上げると社会的に特化された資格や条件は何も必要ありません。ただ一つ必要な条件がもしあるとすればキリスト・イエスを「主」であると心から認める事であります。  

 そしてもう一つ付け加えるならば言葉或いは、「他の手段」(事情をお持ちで言葉での信仰告白が困難な方を含みます。)主イエスが「主」であるという事の「意志表明」を公の場所で行う事であります。この公の場所というのは教会だけには限定されません。礼拝司式の最後の項目に「派遣」という言葉がございますが、この「派遣」は日常的な社会生活の様々な場面で信仰者の方々が教会内と同様に信仰告白をしてゆく事を言い表しています。家庭、職場、学校、趣味の集まり、地域共同体等の人間が寄り集う場所でキリスト・イエスの存在が「主」であるという確信を様々な立場の方々に言い表してゆく行為を表している言葉であります。本日の箇所の最後の文節である13節に「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」とあります。教会外の状況においても主であるキリスト・イエスに絶対的な信を置く御自身の信仰を公にしてゆく行為は、「証」として大きな意味があるのです。本日の「主題」はこの必要な条件である信仰告白の持つ意味について考えてゆきましょう

 私達の集うプロテスタント教会には3つの柱になる主義があり、その一つが「万人祭司制度」という在り方であります。洗礼を受けた信仰者各々の方が、生活状況の中において主体的に伝道行為を行ってゆく責務がある事を表しているのです。私達が非キリスト者の方々へ自分の信仰を告白してゆく場合、その方々が主イエスに対して思いを寄せる事もありましょう、御自身の在り方を、非キリスト者の方に「自己開示」してゆく事に大きな意味が在り、時には非キリスト者の方にとっても大きな救いへの扉になるのかも知れません。本日の聖書箇所の冒頭の小見出しには「万人の救い」と記載されています。 

 万人の救いは、世における救済の共有であります。このように教会の外の日常において信仰告白をしてゆく行為は私達キリスト者のみではなく、非キリスト者の方々とも、救いを共有してゆく行為に連なるのであります。しかし「信仰」とは求められる宗教的行為を強制的にしなければならないという事ではありません。信仰は「持たされるものではなく」、教会も無論、強制的に来なければいけない場所ではありません。御自身の中で何故イエスが主であるかと主体的に認められるか否かが問われるのみであります。 

 この事を踏まえた上で再び、本日の聖書箇所に目を通しましょう。本日の箇所に二つ、「義」という言葉に対して「律法による義」(5節)と「信仰による義」(6節)という言葉が出てまいります。「律法」「信仰」それぞれの特質を検証してまいりましょう。

 「律法」の存在は私達に、表面的には罪を犯させない様な私達を作り挙げる為の「機能」を果たしますが、その結果として罪を犯した人間を、裁きの量りに掛け断罪し、社会共同体の中から排除してゆきます。しかしこの排除という裁きのみでは罪を犯した人間の救いはなりたちません。人間は断罪されてゆくだけでは、罪の本質に対する認識が困難なのであります。そして罪の本質に対する認識がなければ救いも成立しません。そもそも[罪]という概念自体が時代において変容してしまうものであり、罪とされている事柄が何故に罪であるのかという本質的な問い掛けを私達に促してゆく機能は律法の中には存在しないのです。 

 人間は創世記にありますように罪を犯してゆく生物であります。神のいいつけに反して禁断の果実を食べてしまい、その罪深さの故にエデンを追放されたのであります。その意において、律法の存在は神が人間の罪深さを予め御存知で、時の預言者の口を介し、罰則規定を、律法の中に織り込んだものであります。しかしこの律法の運用のみでは人間存在の根源的な救済が成し得ないと主なる神は御判断されたのであります。時代を重ねるに連れて人間の社会の有様や、人間の営みを御覧になり、心を痛められ、御子イエスを世に遣わされたのであります。律法の性質と社会的機能についてここまで御一緒に考えて参りましたが、次は「信仰」について伴にお考え頂きたいと存じます。

 旧約聖書中に「逃れの街」(民数記9節~34節)という箇所が存在するように、過失であれ故意な出来事であれ、人間は必ず罪を犯してゆく事を神は良くご存知なのです。罪に対して無自覚であるのも問題でありますが、別の問題は人間が自分自身の罪深さに開き直り、罪を確信的に重ねてゆく事であります。確信的に罪を重ねてゆく人間は、罪意識への感覚が鈍磨し、罪を罪として認識してゆかなくなります。

 主イエスの時代は正にこの自覚している罪を確信的に繰り返してしまう人間が多数存在していました。自覚的に罪を繰り返す者、また無自覚に罪を犯してゆく者をも含め、主なる神は心を痛め、またお怒りになられました。それ故に独り子であられる私達の主イエスを世に遣わされ、また十字架にお上りに成らせたのであります。「主の名を呼び求める者は、すべて救われる。」(13節)とあるように、救済の在り方はこの各々の罪の在り方を認識し、主イエスが十字架にお上りにならねばならなかった「原因」が私達一人一人の責任に帰せられる事であると、覚えてゆく事から始まってゆくのです。   

「信仰告白」は私達、告白者の「罪責告白」と同義であるとも言えましょう。私達の罪深さの故に「主」が十字架にお上りになられ、罪の認識を促され、それまでの人間の営みの在り方に嘆きと怒りを覚えられていた神のお気持ちを静められたのであります。その意味において信仰とは罪の本質に対して「気付き」を促すのと同時に「赦し」をも促すものであります。

 12節に「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と述べられています。自分自身の罪責を認識し、改めてゆく行為から本当の豊かな人生は始まってゆくのです。自分自身の罪を検証してゆく行為は、隣人の罪を理解し許してゆく行為にも連なってゆきます。巷に「自己肯定感」という言葉が流布していますが、本当の自己肯定は自分自身のそれまでの罪を認識し、新しい人生の扉を開けてゆく行為の中にあります。自分自身の罪深さを認め、主イエスに罪の認識と回心の決意を伝えて行くことにより、新しい人生への導きが日々与えられてゆくのです。また自分自身の罪から解放されてゆく事は隣人を裁き、断罪してゆく行為からの解放をも意味します。本当の自己肯定は「互いに裁き合うという檻」から自分自身を解放し、他者の方の罪を許してゆく事をも含まれているのであります。 

 12節の冒頭部分には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と述べられています。他者の在り方を理解し、自分と異なる文化の違いを安易に裁いてしまうような精神構造から離れよ、という意であります。また、「すべての人が豊かに恵まれる」社会の在り方は、他者理解と多様性を重んじた社会であり、容易に自分の量りの中で隣人の在り方を裁かず、容認し、共生してゆける人間同士の営みの在り方を主イエスは望んでおられるのです。そしてお互いに「許しあい支えあえる自分自身」のありかたは自己の罪認識からはじまってゆくのです。

 13節の「主の名を呼び求める」行為は私達の罪の為に十字架に御昇りになられた主イエスを覚え罪の赦しを乞い、回心の決意を日々新たにして行く行為であり、この行為により私達は様々な気付きを与えられてゆくのです。私達が受洗してから時間が経っていたとしても、日々心新たにして主イエスへの信仰告白を致しましょう。宣べ伝えていく行為が、私達自身の罪を再検証してゆく力、そして問題を乗り越える気付きを私達自身に与えてゆくのです。私達が日々祈りの中で、主イエスが必ず私達が、今現在必要としている何かに対して答えをくださり私達の心を満たし、困難に立ち向かう力を与えてくださる事を覚えつつ、この一週間が守られてゆくように共にお祈りいたしましょう。            お祈りをいたします。       

祈り  

御在天の父なる神様、本日は貴方が世に遣わされた御子、主イエスへの信仰について改めて考える時を頂きました。私達が置かれている生活の座の中で予期せぬ形で様々な問題に直面する事があっても、主イエスが伴におられ、私達の嘆き、苦しみ、喜びを共に担って頂き、共に歩んでいただいている事を覚え、常に謙虚な心でいられる様な私達へとお導き下さい。病で苦しんでおられる方、様々な労苦により孤独な時を過ごしておられる方々 理不尽な現実と闘ってゆかねばならない方々の上に貴方の導きと、守りがありますようにお導きください。この後の礼拝もどうか最後までお守り下さい。尊き主イエスの御名を通し、この祈り 御前にお献げいたします。 アーメン。

2019年3月24日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章15~17節 「父なる神-使徒信条講解4」

 まず、ゲツセマネの園での祈りを今一度思い起こしてみましょう(マルコ14:32-36)。ここには、主イエスの呻きの祈りの場のすぐ近くに存在し、共に呻きに共鳴する神がいます。主イエスの今を見守り支える神の臨在、ここにこそイエスと共なる神のイメージがあるのです。
 この主イエスによってパウロは祈ることができるようにされたのです(ローマ8:14-17)。「神の霊」「この霊」である主イエスご自身からの働きかけによって初めて、わたしたちは「神の子」とされるのです。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあるように、自由への道を歩むようにと促されているのです。そして、さらに「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とパウロが語るように、主の苦しみと栄光を根拠にして、今をキリストと共に生きることができるようにされているのです。それが、神に対して「父」と呼ぶことが赦されているということです。さらに言えば、主イエスにあって呼びかけることができるのは、わたしたちに呼びかける権利や能力や知識があるからではありません。この意味では、わたしたちは無資格ですわたしたちの存在の根拠であり、わたしたちのいのちの源である方の側からの呼びかけに基づいてのみなのです。
 ローマの信徒への手紙8:26には「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。呻くことによって執り成してくださっているのは、ゲツセマネの園での主イエスに他なりません。この「神の子」であるイエス・キリストにおいて、わたしたちが「子」として受け入れられているのです。神が「父」であるのは、主イエスがそのように呼んだ限りにおいてです。
 キリスト者とは祈る人であると言われます。祈るためには相手が誰であるのかが分からなければなりません。教会の信仰においては、祈りをささげるべき方が、聖霊の働きによって、イエス・キリストにおいて明らかにされ、自ら語りかけてくださっていることが知らされているのです。だから、祈ることすらできない状況にあっても、神がわたしたちを待ち続けてくださっていることに信頼しましょう。何故なら、ゲツセマネの園での主イエスの傍らに、沈黙する熱意の神が共にいてくださったように、今わたしたちはその主イエスの祈りにおける執り成しのゆえに、人間の手の届かない天にいる神が、同時にこの場においても共にいてくださることを信じることが赦されているからです。

2017年11月 5日 (日)

ローマの信徒への手紙 14章7~9節 「自分のために生きる人はなく」

(永眠者記念礼拝)

 7節は新共同訳では「自分のために」とありますが、田川建三訳では「自分自身に対して」となっています。田川は翻訳の根拠を註で以下のように述べています。
【これは口語訳等のように「自分のために」と訳すと誤解を生む。日本語で「自分のために生きる」なんぞと言われると、自分勝手な利己主義者で、他人のことを考慮しない、といったような意味に受け取られてしまう。ここはそうではなく、人間の生はそれ自体として存在しているわけではなく、神と向かいあうものとしてあり、という意味。神との関わりにおいてしか人間は存在しない、というのである。だから次節で「死のうと生きようと、我々は主のものだ」と言っている。】
 わたしたちが生きているものであれ、死んでいるものであれ共々主のものである、というところに一つの慰めがあります。鏡に映った自分だけを見つめて生きることはできません。人は他者と向き合って、他者に対して生きるのであり、その他者の先にも神はいるのです。神と向き合い神に対して生きるとは、必然的に他者に対して生きることです。その他者とは誰か。
 使徒信条」に「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人うちよりよみがえり、」とあります。「死にて葬られ、陰府にくだり」というのは、イエス・キリストご自身が一度確実に死を迎えたということです。田川が解説するようにパウロの主張は「神との関わりにおいてしか人間は存在しない」のです。つまりは、イエス・キリストの十字架によって非常に確実な、誰もがどのような力によっても断ち切ることのできない絆があるので、故人を思い起こすときに、それはただ単なる思い出とか懐かしさだけではなくて、生の世界と死の世界が結ばれ、育まれていることに希望を抱くことが赦されているのです。もしも故人に対して負の思いがあったとしても、その関係は固定化されず、神のもとで整えられていく、ということです。
 生きている者も死んでいる者も共々主のものなのです。イエス・キリストの力の及ばない領域はないのです。生きている者も死んでいる者も、両方ともイエス・キリストの十字架のゆえに、愛されているかけがえのないいのちなのです。生きている者の国にあるいのちも天に召されている向こう側のいのちもイエス・キリストの神から見れば等しく尊く慈しまれている具体的な存在なのです。このことのゆえに、わたしたちは生きている者の責任として神のもとに召されている者を覚え、今生かされている者も神のもとにいるお一人おひとりもイエス・キリストの愛のゆえに、その関係はより豊かにされ、より確かなものとされ、育まれているのです。

2014年8月31日 (日)

ローマの信徒への手紙 12章3~8節 「キリストの<からだ>」

 パウロの言葉は必然です。わざわざ言わなくてもいいことは言わないのです。そうせざるを得ないパウロの現実があるのです。教会が「キリストの<からだ>」として機能していない、という現実認識です。キリスト者というものが、一体どのように生きていくのか。二つの方向性である自尊感情を持つということと自己相対化の視点を持つとにおいて、それぞれが与えられている賜物を活かし務めに専心する、全うするということができているか、という問いです。
 傲慢さというものが、いつも教会には紛れ込んできます。自分と他の誰かを比較することによって自らが優位に立つとか、あるいは教会を支配しようとする力への意思、欲望などが渦巻いている中で、自尊感情と自己相対化、これによって「キリストの<からだ>」としての共同体を相応しく整えていきなさい、という促しがパウロによって語られているのです。キリストにあるところの水平社会の関係である神の国の反射、反映がなされるようにとの願いが込められています。
 教会の現実は、この世の現実を反映した鏡となっています。この世の価値観とか構造を、そのまま教会に持ち込んできているからです。
しかし、パウロは、この点に関して否定的です。まず、教会というものにおいてキリストの意思が働くのであれば、それがこの世に対して逆に転じていって新しいキリストにおける関係性が造られていくに違いないという考え方をしているわけです。
 <いのち>によって祝福された結ばれを示すためには、その場に与えられている課題を大切にしていけばお互いの<いのち>がきっと輝ける、そして喜ばしい生き方へと導かれていくのだとパウロは言いたいのでしょう。神に祝福された生き方とは、人と人との関係が赦されて同じ平面に立つことができて、そこで自尊感情と自己相対化によって<いのち>が結ばれていくのだという実感へと導かれていくのだという生き方があるのです。ここにこそ、神の祝福があるのです。
 思い上がってしまう人たちに対する警告と、それぞれ与えられている人たちが分に応じた働きによって生きていくこと。このことによって、新しい人間の可能性が生まれてくるということ。ここにキリストにあって生きる道筋のヒントがパウロのテキストから示されているのです。
 このことをただひたすらに実践しておられた小田原紀雄牧師が8月23日、永眠されました。遺されたわたしたちは、水平社会への道筋を、彼から託されたのだと肝に銘じたいと思います。

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