イザヤ書

2021年11月14日 (日)

イザヤ書 11章6~10節 「神さまの願い」

 ~子ども祝福礼拝~

 イザヤ書は「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語ります。肉食動物が草食動物を襲って食べるようなことはしないで一緒にいられて平和な状況にあることが書かれています。ここで肉を食べる動物は、強くて威張っている人々の喩えになっています。誰か強い者がいて弱い者がいる、誰か弱い者がいて強い者がいる、という世界ではなく、神によって<いのち>与えられているもの全てが同じ地平に立っている、という世界です。そして、そういう世界を導くのは小さな子どもだ、というのです。おとなたちは、強い人はより強く、弱い人はより弱く、という世界に慣れてしまっています。でも、子どもは、小さければ小さいほど、強さも弱さも関係なく、自分を助けてくれる人を信頼して生きています。それが神の心に適った生き方です。おとなたちよ!子どもを見習いなさい、というわけです。

 「ぱぎやん」という人の「グーチョキパーのうた」という歌があります。「グーより強いのはパー、パーより強いのはチョキ、チョキより強いのはグー」と歌います。続けて今度は、「グーより弱いのはチョキ、チョキより弱いのはパー、パーより弱いのはグー」そして「みんな強くてみんな弱い…」と続きます。わたしたち一人ひとりみんなは、それぞれ「グーチョキパー」なのだというのです。みんな強くてみんな弱いというのは、強い人がずっと強いままだったり、弱い人が弱いままだったりするのはおかしい、その場その場で強くなったり弱くなったり違うのだし違っていいというのです。みんな一人一人が違う人なのだから、この違うという当たり前を受け入れるところから始めていこうという呼びかけを感じます。じゃんけんで勝つこともあれば負けることもあるけれど、全体から見ればOKだし大丈夫。一人ひとりがそれぞれ、イエスさまによって喜ばれ祝福されているのです。

 預言者イザヤの語る世界観と「グーチョキパーのうた」は同じ方向を向いています。わたしたちの心もみんながグーチョキパーだと分かってきたら、もうすでに「平和」を求める神の子どもになっているのかもしれません。そんな子どもになっていくことが神の願いなのだと思うのです。

 そしてさらには、おとなたちが子どもの言葉に耳を傾けつつ導かれ、子どもが神の願う平和への道をおとなに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができるのではないでしょうか。そのような思いへと子どももおとなも神の子どもとして招かれ、この生き方を主イエスが教えてくださっているのではないでしょうか。

2019年11月10日 (日)

イザヤ11:6「明日を生きる神の子どもたち」

~子ども祝福礼拝として~
 イザヤが活動したのは、主イエスの時代よりも700年以上前のことです。当時は、ユダヤ人の国は、北の王国のイスラエルと南の王国のユダという二つになっていました。イザヤは南王国のユダで活動していました。
 イザヤは、その時の王が神から見たら間違っていることをしていると告げました。そして、希望は、子どもに託されているというのでした。それが今日の聖書です。獰猛な狼と小羊、豹と子山羊が、そして子牛と子ライオンたちが仲良く暮らせる世界を夢見ていて、「小さい子供がそれらを導く」というのです。ここにあるのは「平和」のイメージです。「平和」のイメージは「神は我々と共におられる」(イザヤ書を11章まで読んでいく中で捉えられます)ことだと言えそうです。
 今日の聖書の言葉には、戦争に加わってはいけないというイザヤの心が現れています。イザヤが仕えていた南王国ユダの王のアハズは、ダマスクスの王と北の王国イスラエルの王からアッシリアに対して一緒に戦争しようと誘われたのですが断ります。そうしたら、それらの国から攻撃されてしまったのです。そこで、南王国ユダのアハズ王は、アッシリアに、これらの国が、あなたの国に対して戦争を仕掛けてきますよと教えて、アッシリアに助けてもらったのです。しかし、イザヤは、一緒に戦争に参加することも、戦争から助かるために大きな国に助けを求めることも間違っていて、いずれも大きな戦争になってたくさんの人が死んでしまうし、傷ついてしまうからやめなさいと言ったのです。このような事情の中で、イザヤは夢見る力によって子どもに「平和」への希望をつなごうとしたのです。
 おとなたちが子どもの言葉に耳を傾け、子どもたちが夢見る平和への道をおとなたちに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができます。そのような思いへと招かれていくことが大切だと思うのです。神が、主イエスとして一緒にいてくれる感じ・その心は、イザヤ書の語る「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。」ところにあります。この生き方を主イエスは、その生き方を通して教えてくださいました。
 マタイによる福音書5章9節には、次のような言葉があります。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と。イザヤが預言し、主イエスとして現れた神の思いは、ここにあります。少しでも「平和」への思いを寄せていくところにはすでに、子どももおとなも一緒に「明日を生きる神の子どもたち」として招かれてしまっているのです。この主イエスの願いを受け止めながら、子どもたちの祝福を願う教会として歩んでいきましょう。(加納眞士 作『もしも8歳のこどもが大統領に選ばれたら』を参考に)

2018年3月18日 (日)

イザヤ書 53章1~12節 「苦難を受ける者」

 最初の弟子たちにとって、イエスの死は、希望が失われて真っ暗闇のどん底に叩き落される経験だったことでしょう。あのイエスの死というのは全くの無駄死にだったのだろうか、と。イエスの十字架の死に対してなぜだという謎の中に陥ったはずです。
 しかし、イザヤ書53章を読むことにより、イエスの十字架は、ただ単に神に呪われ反逆者として殺されていった悲惨な処刑なのではなく、実は新しい<いのち>を照らし出し、新しい生き方への招きの喜ばしいおとずれであったとの気づきがやってきたのです。
 浅野順一は「主の僕」について以下のように規定しています。
【・主の僕とはイスラエルでありヤコブである。イスラエル国民全体を人格化したもの。・一人の人という象徴でもって同胞のために悩み苦しみ、自ら罪がないにもかかわらず他の苦難を負うところの一個の殉教者である。・代苦者。・理想的な少数者であって光の死者としての任務を苦難を通して果たす。・弱った民を励ますためにすべてを投げうってでも行う者である。】
 一人の人によって贖われる、その贖い主こそが十字架上の主イエス・キリストであった。あの苦難を受ける者、あの人によって我々は癒されたという経験をしたのです。イザヤ書53章の一つひとつの言葉がイエス・キリストを示していると読んだのです。それが頭で理解できるということではなくて、神の促しのもとで謎だったことが解き明かされて腑に落ちる、世界が一挙に別の明るさに包まれてしまう、そういう経験をしたのでしょう。
 「…彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。…彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」
 イザヤ書53章がアーメンとして理解されることで当初のキリスト者たちは復活のキリストに気づかされたのです。この遜りの苦難を受ける僕の姿の中に教会の道が示されている。この方によってのみ、わたしたちは新しい<いのち>に与ることが赦されているのです。この事実に向かって正されていくことに希望をつないでいくことができるのです。

2017年10月29日 (日)

イザヤ書 57章19節 「カンボジアの子どもたちを覚えて」

      ~子どもとおとなの合同礼拝~(キリスト教教育週間)
 40年程前、カンボジアの指導者だったポル・ポトは、自分に従わない人を大勢殺したり、迫害しました。20年続いた圧政の影響で、教育の行きわたらない地域がまだたくさんあります。
 ポル・ポト政権に批判的だったのは、自分でものを考えることができる人たちです。国のあり方が間違っていると考えることができた人たちです。
 勉強で大切なのは自分で問いを立てて考えて答えを見つけていくことです。良い問いを見つけることが大切なのです。身近なことから世界のことなどに対して問いを立てて考えていくこと。この大切さをなくしていくと政治家や金持ちや権力者に都合のよい国が作られてしまいます。本当にこれでいいのだろうかという問いを立てて考えることは、よりよく生きていくために必要なことです。それは次の世代を担う子どもたちに対するおとなたちの期待でもあります。そして、おとなの責任です。そのために教育が保証されなくてはならないのです。今日はとりわけカンボジアの子どもが、よりよく生きるために必要な教育が与えられるよう祈りたいと思います。
 今日の聖書「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」は、紀元前537年以後に書かれました。その頃、戦争によって滅ぼされた南王国ユダの王や指導者層や特別な技術を持った職人などがバビロニアに連れていかれていたのですが、ペルシャがバビロニアを滅ぼしたためユダに戻ることができました。そこで戻ったユダの人たちに向けられた言葉として語られています。指導者たちと指導者なしで残されていた人々がもう一度一緒になったのです。教育がない状態というのは、良い指導者のいない状態と似ているかもしれません。
 神の言葉を伝える今日の聖書は、希望のないところでも神の平和と癒しが届けられるのだという約束を語っているのです。カンボジアでも日本でも、子どもたちには教育によって平和を実現する神の子どもとして生きていくことができるとの約束に一緒に与ることができるはずだというのです。そのような関係が作られていくことによって、毎日をワクワクドキドキしながら生きていく神さまの子どもだ、だから喜んでいなさいと語りかけられているのです。

2016年11月13日 (日)

イザヤ書 11章6節 「導くのは子ども」

~子ども祝福礼拝~

 「おとなしい」という言葉は、元々は「おとな」から来ていて、「おとならしい」ということのようです。態度などが穏やかで、騒いだりしない静かな感じでしょうか?「おとなしい」の反対の言葉は、「こどもしい」となるのですが、ほとんど使われません。今日は、「こどもしい」について一緒に考えたいと思います。それは、イエスの望んでいる人間のあり方とも関係があるからです。「こどもしい」という言葉があるなら、その意味は、「荒い」とか「荒々しい」です。今日は、いい意味で使います。「こどもしい」をイメージしやすいように、モーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』という絵本を手掛かりにして、考えてみたいと思います。
 マックスという子どもが、狼の着ぐるみを着て大暴れして遊んでいると、お母さんに夕飯抜きで自室に追いやられてしまいます。さらに暴れていると、いつの間にか部屋は森になり海になり、舟で旅して「かいじゅうたちのいるところ」へ。
 マックスには「荒々しさ」が隠されています。その荒々しさは、狼の着ぐるみに表わされています。狼の恰好をしたら、中身も狼のようになってしまった、マックスの中の狼のような部分が出てきたと言ってもいいかもしれません。「かいじゅうたちのいるところ」に着いたマックスは、怖くて乱暴な怪獣たちを飼いならすようにして王様になり、一緒に踊って遊びます。怪獣の乱暴さを子どもの心で静かにさせるのです。そして、最後、温かい夕食のある自分の部屋に戻ってきます。
 この物語は、マックスの成長物語と読めます。狼の着ぐるみによって怪獣の世界に近づき、そこで子どもらしい「荒々しさ」を発散することによって、安らかな心へと向かう道を示している、と。「荒々しさ」とうまく向き合い、心の中で自由にすることによって、「荒々しさ」という簡単にはコントロールできない乱暴な力が、平和へと向かうたくましさに変えられるのです。心を開いて生きる道を示しているのです。
 平和ということは、難しいのですが、まずは自分の心との付き合い方から始めることが必要なのだということでしょう。
 今日の聖書では、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。」と語られています。狼、豹、若獅子(子ライオン)という獰猛な動物と子羊、子山羊、子牛という弱い動物との共存できる世界を導くのが小さい子供だというイメージは、マックスが、怪獣たちと一緒に踊ることを通して、荒々しさから安らかさへと転じていく過程と重なります。
 そして、この聖書で語られている小さな子どもの姿は、子どもを祝福するイエスの姿と対になり、誕生物語の言葉をも思い出させるものです。【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(マタイ1:23)。このように「導くのは子ども」というテーマが展開されているのです。

2014年8月 3日 (日)

イザヤ書 11章1~10節 「甘いと言われても構わない」

 今日のテキストから、イザヤは歴史において、軍事力や経済力のより優った国々がより弱く貧しい国々を支配し、いわば「弱肉強食」の世界の姿を否定し、まことの意味で水平で平等な世界を夢見ていたことが分かります。この世界観は非戦論の考え方と共鳴しているのではないでしょうか?
 旧約聖書は、神の民イスラエルが神に従い信じた歴史と神を裏切り、偶像礼拝に陥った歴史を、記憶として心に刻む意図によって書かれています。ここで言う記憶とは、個人の経験や思い出ではありません。語り伝え、書き残されたものを後の時代の人々が解釈し、反省と展望によって、より神の思いに相応しい世界を模索することです。
 この日本という国は、敗戦国であるという歴史的事実を記憶によって学ぶことを忘れているようにしか思われません。第二次世界大戦の記憶が継承されていないとしか考えられません。「戦争のできる国が普通の国なのだ」という誤った記憶を教訓化することのなかった大衆の支持によって、危険な方向に向かっているとしか考えられません。保守的な政治家も、実際の戦争の記憶のある人々は、今の日本の状況を憂いているのです。
 今日のテキストから聴くことは、非戦の理解が今の時代の空気の中で「甘いと言われても構わない」立場へと導かれることだと信じています。
 非戦論とイザヤ書との共鳴を、憲法に先立ち改悪された教育基本法から見てみましょう。新旧いずれの教育基本法も「教育は、不当な支配に服することなく」という言葉が語られていますが、続く言葉によって,旧い方で「政治権力から自由に」であったものが、改訂版では、その時々の権力の意思に従い、と正反対の方向を向いています。
 これは、いわゆるパックス・ロマーナ、ローマの平和の概念に通じるものがあります。つまり、権力に逆らわない限りにおいて自由を与えるということです。イエスはパックス・ロマーナという時代的背景の中で、自由に生きる道を目指すものとして反逆者として十字架につけられた事実を深く受け止める必要があるのではないでしょうか?イエスが十字架につけられたのなら、この道に従うことがキリスト者の道ではないでしょうか?
 わたしたちはどのような道を歩むのか、イザヤ書は決断を迫っているのです。
 この意味において、キリスト者は「本国は天にある」と信じるからこそ「甘いと言われても構わない」存在として旅する道へと招かれているのです。

2013年8月 4日 (日)

イザヤ書 35章1~2節 「平和を求める祈り」

 シリア・パレスチナは絶えず戦火の中にあります。その中で土地は荒れ、人の心も荒んでくる、そのような状況のただ中にあって経験してきた苦悩、それをあえて1節と2節で語られているところの、第一イザヤの魂を継承した無名の預言者は、あえて絶望の中において希望を謳います。戦火に荒れたただ中にあって平和を求める祈りとして今日の聖書は読まれるべきです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。(35:1-2)」
 この言葉は、そのような、極端に言うと死体がゴロゴロと転がっているような、そのような景色を見ながら、もう戦はいらない、平和をこそ求める、そこにこそ神の思いがあるのだという、だからあえて「主の栄光と我らの神の輝きを見る」という幻を、ここでは祈りとして語られているのです。わたしたちの住むこの国では今、荒れ果てた土地を見た経験をもたない世代の保守的な政治家たちが非常に極端な論を最近立て、目立っています。国土が荒れている、人々の心の荒んでいる状況の記憶をもたない政治家たちが非常に乱暴な国の方向へともっていこうとするただ中にあって、キリスト教会は平和への祈りを新たにしなければいけないと思っています。
 この現代日本にあって、沖縄においてオスプレイが追加配備される、ということなどを通しながら、さらなる沖縄に対する軍事的な政策が強行されている、その中にあって希望を持つことが困難な暗い時代に生きています。しかし、天地創造神話の証言に従うならば、神はこの世を創られて「よし」とされた。そして、人間はその世界に対して仕えていくように、治めるとか支配という言葉が使われていますが、仕えていくようにとの責任が与えられているのです。そのような意味において教会は、主イエスの「平和を実現する人々は幸いである」という言葉への信頼において、イザヤ書で語られている、平和への祈りを今のこととして何度でも何度でも祈り続けていくようにとの促しが今日の聖書を語るところであろうと思います。
 カントは「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課せられた使命である」と語っています。
 教会は、主イエス・キリストが生きられたように、その背中を見つめて歩んでいく責任があります。それは今日平和聖日ということを覚えながら、永遠平和を祈り求め続ける、その促しのただ中に、わたしたちは巻き込まれてしまっているのだと自覚するところから、新しい一歩を始めていけばよいのです。

2012年10月28日 (日)

イザヤ書 43章19節 「子どもたちは生きる」

 今日の聖書の時代は、かつてイスラエルの人たちがエジプトから神によって導き出されて救われたように、今度は囚われているバビロニアから故郷に帰っていくことが必ず起こるという希望が語られています。
 それが「見よ、新しいことをわたしは行う」という神の言葉であって、「今や、それは芽生えている」というのです。さらに「あなたたちはそれを悟らないとか」と促しています。「わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」というのです。人が通ることもできないような荒れ果てた土地に道を造り自由に行き来できるようにし、水が少しもない枯れ果てた砂漠に滔々とした川の流れをもたらすのだというのです。
 これは、希望の欠片さえもなくなってしまっているバビロニアに捕われたユダの人たちに対する、もうすぐ世界が変わって故郷に帰って幸せになれるという約束の言葉です。
 この言葉を、現代に生きるわたしたちはどのように読みとったらいいのでしょうか。世界中に子どもたちは暮らしています。でも、ご承知のように皆が皆平和に暮らしているわけではありません。おとなの起こす戦争や紛争の犠牲になる子どもたちがいます。環境破壊の故の飢餓に苦しむ子どもたちがいます。不平等な社会の中で貧しさに苦しむ子どもたちがいます。国際的な約束では、子どもの労働や子ども兵士は許されていません。しかし現実のこの世界には、そういう子どもがたくさんいるのです。子どもたちの平和に生きる権利を奪う力が働いているのは事実なのです。こういう社会にあって、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。何ができるのでしょうか。
 今日はブラジルの子どもたちのことを覚えています。先程のパネルでは、ブラジルの大都市周辺で暮らしている貧しい地域の子どもたちが、思いっきり遊び、学び、しっかりと食べ、安心して寝ることのできる社会を造り出そうとしている人たちの働きが紹介されていました。
 「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」ということは、社会の中に埋もれてしまいそうな地味で目立たない活動の中に、すでにイエス・キリストの神の働きがあるということです。そして「あなたたちはそれを悟らないのか。」と問われているのです。神の語られる「わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」出来事は、子どもたちが安心して安全に、心から喜んで生きる社会なのであり、神の言葉を聴く人は祈って、その道に連なっていくように招かれているのです。
 わたしたちは、そのような働きに直接関われるとは限りません。でも、このようなストリートチルドレンになりかねないようなブラジルの子どもたちも、わたしたちも神の子どもとして生きるように招かれていることを心から信じることはできます。ここから、世界中の子どもたちが神に祝福されて喜んで生きる、ことを一緒に祈っていきましょう。

2012年1月 1日 (日)

イザヤ書11章1~10節 「こういう世界を夢みたい」

6節~8節では、肉食動物と草食動物が一緒にいて平和な状況にあることが述べられています。ここで肉食動物は、より強い権力ある横暴な人々の喩えになっています。草食動物は、より弱いとされている、あるいは軽蔑されている人のことです。そのような人たちが同じ地平に立つ。権力ある者の権力が貶められ、軽蔑されている者が高められることによって、同じいのちある人間として、同じいのちの尊さ、というところに立つことができるということ。そういう世界観です。誰か強い者がいて弱い者がいる、誰か弱い者がいて強い者がいる、そういう世界観ではなくて、神よっていのち与えられてもの全てが同じ地平に立っているという世界観です。いつの時代も権力者たちは思いあがり、弱い者はより貶められていく、その関係が神の国の一歩手前の中で変えられていくのです。昨年は、とりわけ3.11以降、希望が持てないわたしたちをめぐる状況、失意、絶望、また人間の力の弱さ、愚かさとか、富にしがみつこうとする人々の愚かさや醜さというもの、また大自然の災害の中で、如何に人間達が弱く儚いものなのか、ということを思い知らされた年でもありました。しかし、イエス・キリストの誕生という出来事、クリスマスの光という出来事から照らされていくとき、その絶望のただ中にあっても新しい動きとしての希望は、もうすでに動き始めているし、動き続けていると思います。わたしたちは、平和の主イエス・キリストにあって、来たるべき日、終わりの日、に至る一歩手前のところであらゆる人々がいのちの底でつながっていく、網の目に結ばれているということを心の底で信じるように導かれているのではないでしょうか。いのちというものが結び付けられているのだから、何とかしてお互いのいのちを喜びあって生きていける、そのような社会をクリスマスの主イエスにあって求め続けていくことができるのです。その平和の主イエス・キリストの誕生を祝うということは、そのようないのちを尊ぶ働き、活動に連なっていく、あるいは、そこに心を寄せる、あるいはささげていくことに他なりません。そのような社会を夢みる力、夢みる希望、それがわたしたちとってのクリスマスの喜ばしき音信なのではないか、そのように思います。わたしたちは一人で生きているのではありません。クリスマスの主イエス・キリストによって貸し与えられているいのちを精一杯使うためには、他のいのちとつながっていく道を模索していくように促されています。

2011年11月13日 (日)

イザヤ書 6章1~8節 「今ここで」 

イザヤは不思議な幻を見ました。神が天に座り、衣の裾は神殿いっぱいに広げられ、神の周りには多くのセラフィムという天使たちが飛びまわっていました。このセラフィムというのは顔が人間で胴体がヘビで、羽が6枚あるのでした。神の顔を見ないために二枚が顔を隠し、二枚が恥ずかしいところを隠し、残りの二枚で羽ばたいて飛んでいるのでした。神を見ると死んでしまうと信じられており、天使でさえ顔を隠して神を見ないようにしていましたから、イザヤは幻を見た時に「ああ、神を見てしまった。わたしはもう破滅だ」と思いました。自分が唇の汚れたものだといったのです。旧約聖書では、身体の一部分が汚れたという言い方は、身体全体のことを表わします。神の「聖なる」あり方からして、自分の汚れとか愚かさ、弱さ、醜さや卑怯さ、そのような、どうしようもないちっぽけな人間の一人であることがイザヤには思い知らされたのでしょう。そのうちにセラフィムの一人がイザヤのところに飛んでやってきます。祭壇から取ってきた火ばさみに掴まれた炭火をイザヤの口につけました。このことによってイザヤのちっぽけな人間性は全て赦され、神から肯定されたのです。イザヤ書68節には次のように書かれています。そのとき、わたしは主の御声を聞いた。誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。 『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」と。神からイザヤに示された仕事は、人々が神に立ち返って、神への思いを相応しく整えていくことでした。しかし、人々は神の思いに近づくことをせず、イザヤは働けど働けど成果を上げられず、しかし決してあきらめることなく、神から与えたれた使命に対して「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」という言葉通りの生涯を送ったのです。苦しみに満ちた生涯でしたが、神の招きを受けた生き方の中で神への感謝と喜びに満ちていたに違いありません。わたしたちはどうでしょうか。神の願いは主イエスの言葉、「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉に生きることだと思います。神の仕事には色々なことがあります。誰もが一様にイザヤのように生きる必要はありません。それぞれ一人ひとりに出来ることやれることが用意されているのです。大切なのは、それら一つひとつの働きの背後には、まず神への感謝の気持ちがなければならないということです。そうでないと、自分はいいことをしているから、いい人間なのだと考えるところから思いあがり、自分を神のように考えてしまう危険が、ここには潜んでいるからです。この点をしっかりと心に刻み、神からの問いかけと預言者イザヤの答えを読み直して、わたしたちの歩むべき道への思いを整えられたいと願います。

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