イザヤ書 46章4節 「人生を導く神」
(高齢者の日礼拝)
今日の聖書です。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」。これらの言葉を、わたしたちが故郷に帰るイメージとして解釈してみたいと思います。神の息によって造られたわたしたちは神に背負われている存在であることが宣言されています。第二イザヤの文脈によれば、バビロン捕囚から解放されて故郷であるイスラエル、ユダの地、やがて復興され中心となるエルサレムに向かうことが歌われています。しかし、今日はその場を天国ないしは神の国として読んでみたいと思います。
讃美歌484の『主われを愛す』の1番によれば、「主われを愛す」がゆえに「恐れはあらじ」として今を受け入れて、OKとする信仰です。主イエスが愛してくださっているがゆえに、歳を重ねることにまつわるマイナスに見える事柄一切を含めながら、全面的にその一人ひとりの丸ごとのいのちが受け入れられて祝福されてしまっている現実を、応答として賛美しているのです。歳を重ねていく中に人生を導く神の働きの本当・リアリティーが存在するのです。わたしたちのこの世における使命の中心には「主われを愛す」があります。この現実から人生は「本国は天」、つまり神の国・天国に向かっていくのです。神の国・天国とは、単なる死後の世界なのではありません。神の支配のことであり、その領域のことでもあります。主イエス・キリストの願いや思い、その優しさや慈しみの満ち満ちた世界であり場のことです。「御心が天になるごとく」が実現されている場です。わたしたちの導かれる人生の目標でもあります。
主イエス・キリストによって保証され、守られ、確保されている世界観であり場に向かって人生を導く神が、年齢を重ね高齢を迎えた一人ひとりに語りかけているのです。それは、さらに言えば『主われを愛す』の3番の歌詞と共鳴するものです。「みくにの門を ひらきてわれを招きたまえり、いさみて昇らん。」。この道が人生を導く主イエス・キリストによって歳を重ねて高齢者とされている、お一人おひとりに備えられていることを信じ、ご一緒に祈りつつ歩みましょう。
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