フィリピの信徒への手紙 2章1~11節 「神のへりくだり」
フィリピの信徒への手紙2章6~8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。それはどのような姿であったのかについて『讃美歌21』の280番「馬槽のなかに」の歌詞をご覧ください。簡潔でありながら十分に歌いあげられています。自らの身を削るようにして、小さく弱くされている人びとのところに友なき人の友となり仲間となるためにこそ主イエスはやってきたのです。そして、その生涯は当時の世俗の、また宗教的な権力者たちから迫害され、当時最も忌み嫌われていた十字架という処刑によって、いわば余計者として殺されていくのです。この十字架の死には、徹底した神のへりくだりが示されています。人間の負うべき、底知れないどす黒いもの、人間力や能力では解決できない罪や業の深さ一切を十字架において担うためにこそ来てくださったのです。
これを踏まえると、聖書の前半の言葉へと導かれてきます。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と。イエス・キリストが、わたしたちへの神からのプレゼントであり、神のへりくだりがイエス・キリストであることを信じるところから、わたしたちは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払」う生き方へと導かれていくに違いないのです。このあり方が「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」へと実現していくのです。
イエス・キリストにおける神のへりくだりに発する、人間同士のへりくだりの道に連なることで、少しでも平和に近づきたいと願い、祈るのです。神のへりくだりとは、誰彼の差別や区別なく愛し受け入れていくことです。わたしたちは、お互いの意見や思想、あるいは信仰が異なっていても、イエス・キリストにおいて愛されてしまっているのです。ですから、「わたしたち」だけでなく、たとえ敵対する立場であっても「あの人たち」も含め、神がイエス・キリストにおいて、全人類の友であるのだということを受け止めていきたいのです。すべての人が「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」という神の国・神の世界観へと招かれているのです。
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