フィリピの信徒への手紙

2014年12月 7日 (日)

フィリピ2:12-18「喜んで待て」

 12節「だから」とは、直前に記されているキリスト賛歌の内容を受けています。つまり、神が神を捨てることで、人となり、この100パーセント人となった方こそが、100パーセント神である、ということです。このキリストに生涯をかけて従うことへの促しをパウロは告げているのです。
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。この勧告を導き出しているのは13節の「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」という言葉です。福音自身の前進、この働きがまず先にあるということです。この神の側からの働きかけを根拠に「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」とパウロは勧告しているのです。この言葉は、前半と後半に分けて、前半に重きを置きながら読みたいところです。「恐れおののき」とは神に対して自分を主張することができない人間の現実をわきまえ、自分で自分の救いを確保し、作り出し、達成することなど、そもそもできない事実に圧倒されることです。一見矛盾するようですが、この上で、自分の救いの達成、作り出すことへと歩むのです。
 全面的に神により頼みつつ、自分たちのありようの自己検証を含む信仰の道を歩むということです。それは、この世において暫定的な存在として、旅人の教会であるということです。しかも、パウロの場合、終末論を捨てていませんから、教会員みんなで走ってしまうイメージを保持しているのです。これに先行するのは、のろのろ歩くイメージです。奴隷の民イスラエルがエジプトをモーセによって率いられて歩む旅です。教会が、この世に存在することが旅であると理解されるのは、このイメージを保持しているからです。「不平」は旅の途中で起こってきます。新共同訳の「不平」は口語訳では「つぶやき」と訳されています。エジプトを脱出したものの水や食べ物のことなどについて不平不満を口にしてしまうイスラエルの民の姿が、出エジプト記には記されています。
 教会の信仰は、かつてのイスラエルの躓きをも乗り越える可能性に満ちています。イエス・キリストの福音自身が、前進する、この神への信頼と、信頼ゆえの自立のことです。このバランスの妙によっているのです。このバランスが崩れると教会は信仰を失ってしまう危険に陥るのです。
 パウロの「喜ぶ」という言葉の使い方は順説として人間の側の都合の良い点に関してではありません。彼の生涯を思い起こすならば、あらゆる艱難のただ中において、あえて主の恵みを感謝して「喜ぶ」という態度なのです。飼い葉桶の主イエスを透かして観て取れるのは明らかに十字架です。余計者とされる中に生まれ、殺されていく。この主イエスの誕生を待ち望むことは、だからこそ、あえて喜んで待つことに他なりません。

2014年11月 2日 (日)

フィリピの信徒への手紙 3章20~21節 「また会えるよ、きっと」(永眠者記念日)

 「本国は天にある」とは、生きているものも死んでいる者も、共にその丸ごとの生命が天によって支えられているということです。永遠の相において、生も死も神のもとでしっかりと受け止められているという事実です。
 「天」に属する者は、この世の価値観の延長線上にはないのです。遺された者の責任は、58節前半にあるように「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」ということなのです。かつて共に<いのち>に与っていたところの、お一人おひとりを記憶し、記念する責任を負っていく務めに専念することが大切なのです。
 しかし、わたしたちには「天」、「天国」の具体的な姿を思い描くことはできません。分かっているのは、天は神の絶対的な支配のもとにある、ということです。今、わたしたちの生きる、こちら側の世界は争いや憎しみがはびこっています。それらはすべて人間によるものです。このような「欠け」のあるわたしたち人間には、想像することもできないところ、それが「天」です。「天」ないし「天国」、その在り様は「神がご存知です」と語るパウロの言葉を素直にそのまま受け入れたい、と思います。
 パウロが、「本国は天にある」と語ったのは、眠りについているものも、ここにこうして生きているものも、天によって結ばれた存在であることを踏まえてのことです。やがて来るべき再会が主イエスによって保証されているということなのです。
 であるなら、わたしたち、今、生きているものは、生きているという責任において、眠っている人々との関係を、育て、整えていくことがゆるされているということではないでしょうか。ここから分かるのはつまり、わたしたちの手の届かない「天」、「天国」があり、「また会えるよ、きっと」という約束に生きることは、かつての関係が神のもとで育てられ変えられていくものだ、ということです。
 故人への憎しみや怒りを胸に抱えているもおられるかもしれません。しかし、その憎しみや怒りの感情の記憶さえ、変えられる、このように信じていいのです。
 わたしたちが、かつて共に<いのち>に与っていた、お一人お一人への思いは、記憶において整えられていくに違いないと、わたしは、信じています。生きているものも眠っている者も、共にその丸ごとの生命が天によって支えられているということです。ここには、「本国は天にある」という事実に支えられた「ゆるし」が、磔の主イエスにおいて実現されていることを覚え、祈りましょう。

2014年4月27日 (日)

フィリピの信徒への手紙 2章6~8節 「教会は歩み続ける」

 テキストの示すところは、キリストの遜り(へりくだり)です。神が、神として自己完結することを捨てて、真の人間として来てくださったというのです。わたしたちの友として仲間としてです。これは驚くべき事柄です。
 教会は遜りのキリストへの応答的態度が備えられていることへの信頼において、キリストにおいて倣って、この世を旅人として歩み続けていくことが基本です。
 神奈川教区の「教区形成基本方針」には以下のようなくだりがあります。長いですが引用します。

 我々は、1941年の日本基督教団の成立、1954年の「教団信仰告白」、1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、1969年の日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同等、今日改めて問い直すべき内容を含む課題を負う教団の現実を踏まえ、理解や方法論の対立を伴うその他の諸問題についても、意見を誠実につき合せ、対話を重ね、聖霊の導きを求めつつ、なお一つの地域的共同体としての教区形成を目指すことを基本方針とする。
 我々は既に、この状況の中で時と地域と課題とを共有している。さまざまな理解の相違や対立は存在する。しかし我々は共に集まり、共に祈り、共に語り合い、共に行動することが許されている。我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。
 我々は、合同教会としての形成、教会会議、今日の宣教、教会と国家、教会と社会との関わり、差別問題、さらに教区運営・教区財政、地区活動、諸教会の宣教の支援等、教区として取り組むべき諸課題を担い、当面合意して推進し得る必要事項を着実に実施できるようにと願うものである。

 ここには、教区としてキリストの遜りに対する応答的態度への模索を読み取ることができます。
 わたしは、果たしてキリストの遜りに倣う者なのでしょうか?わたしたちは相応しい共同体なのでしょうか?遜りの極みである十字架上から、さらには復活の姿から主イエスは、わたしたちに寄り添いつつ問いかけておられるのではないでしょうか。

2013年8月11日 (日)

フィリピの信徒への手紙 4章4~7節 「主における喜び」 仲程剛

 フィリピの信徒がおかれた状況が、「喜び」とは程遠いものであったのにも関わらず、またパウロ自身が、監禁されて行動の自由を奪われ、生命の危険にさらされていたのにも関わらず、パウロは「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と語っています。
 「喜び」と一口にいっても、私たちが感ずる喜びは様々あると思います。パウロがここに述べている「喜び」とは、何でしょうか?
 私たちは、日常生活の中でどれだけ「喜ぶ」ことを意識しているでしょうか?よりいいものを求める生活にどっぷりと浸かっている私たちは、日常のささいな喜びでさえも見失ってはいないでしょうか?
 大事なのは、「主において」という言葉です。
 それは、主を信じて喜ぶ、主を愛して喜ぶ、主に望みをおいて喜ぶ、ということ。しかも、意志をもって喜ぶことを指します。嬉しいことがあろうがなかろうが、例え困難な苦しい状況であろうが、主を信じているから、それゆえに喜ぶということです。ただ「主」が共にいて下さることこそ、「喜び」の根拠なのです。
 さらにパウロは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」とも言われています。
 「思い煩うな」と言われても、私たちは、そんなに簡単にできるものではありません。
 しかし、聖書はすばらしい具体的な解決策を示してくださっています。
 それは、「感謝を込めて祈りと願いをささげなさい」ということです。実は、神様は、すでに私たちの願いを知っておられるのですから、改めて私たちが願いを告白する必要はありません。
 しかし、私たちは「祈りと願い」ささげることによって、私たちの「思い煩い」を「神が知っていてくださる」ということを確信することができるのです。
 「主において」、言い換えると「主が共にいて下さる」のだから、私たちの思い煩っていることは、もうすでに全て解決されているのです。だから思い煩う必要がないのです。
 私たちの信仰を、主において喜ぶ者、常に喜ぶ者となることで、強めてみませんか?

2011年11月 6日 (日)

フィリピの信徒への手紙 3章20~21節 「思い出を整える」

わたしたちは、それぞれ故人への思い出を様々な仕方で抱えたままでいます。たとえば、会えない辛さ、充分に尽くせなかったというやり残し感や和解できなかった後悔などから完全に自由ではないからです。今日、わたしたちは、このような思いをそれぞれが抱えたままで、この場に集められています。わたしたちに求められているのは、自分を責める言葉を心に迎えることではありません。主イエスは、わたしたちの意識にも上らない心の奥深くにある悲しみや嘆きを、誰よりも深くご存知なのです。さらに、わたしたちの想いを十字架上の痛みと叫びにおいて、すでに担われてしまっているという事実から示されるのです。イエス・キリストは、ローマの価値観からもユダヤの価値観からも最も忌み嫌われていた十字架に磔にされ処刑されることによって、人間を覆い尽くすあらゆる闇の力、罪を担ってくださったのです。そして、死んでよみがえることによって、この世界と神の側の世界との仲介者となってくださったのです。やがて天に上られたのですが、天と地を繋ぐイエス・キリストの力は決して無効になってしまうことはありません。このような事情を受けとめるときに、わたしたちは、やがてわたしたちも神のもとに帰っていくべき運命にあることを踏まえながら、この世を責任的に生きていかなければならないことが確認されます。同時に、すでに向こう側に、神の側に移された人たちとの関係をイエス・キリストがとり結んでいてくださるという信頼の道が備えられているのです。故人と残されたわたしたちとの関係は今もなお生き続けているのです。会いたいという思いややり残し感を主イエス・キリストの神に向かって思いっきりぶつけてしまってもいいのです。故人へのマイナスの感情を神に向かって吐き出してしまっていいのです。神は聞き届けてくださいます。主イエスがその全能において受けとめてくださることは確かであると、わたしは信じています。これらの想いを祈りや嘆きの中で、とことん神に向かって投げかけていいのです。何故という疑いも、許せないという呪いさえも投げかけていいのです。しかし、そこが終着なのではありません。神の慰めの中、空虚さは満たされ、やり残し感はぬぐわれ、マイナスの感情は塗り替えられる時が、その先にあるのです。やがて、いつの日になるのか、神だけがご存知です。思い出や記憶が、ちょうどよいところに向かって整えられていくという信頼に生きることが、この世に残された者の責任です。

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