創世記

2022年9月18日 (日)

創世記 12章1~9節 「人生という旅」(高齢者の日)

 今日はアブラハムの旅立ちについての記事です。出発の場所はカルデアのウルであったとあります。ここから結果的にはカナンに向かう旅が始まるのですが、この時点で目的地は神によって示されていませんでした。12章1節で「「わたしが示す地」とあるだけで、どこに行けとは言われていないのです。しかし、アブラハムは旅立ちます。中継地点のハランにおいてアブラハムは75歳であったとあります。175歳で生涯を終えるまで、それこそドラマティックな旅が続くのです。100年間にわたる旅の始まりです。もちろん実年齢であったとは考えられませんが、おそらく長寿だったのでしょう。

 今日のアブラハムの旅立ちに示される課題は、75歳と相当な年齢になってから、まだ見知らぬ場所へと新しい旅が神に示されるかぎりにおいて始まるのだという可能性です。どんなに歳を重ねていたとしても、いつだって新しい世界に向かって開かれている現実があるのだとの宣言としても読めるのです。歳をとることを前向きに捉える日野原重明戦線のように、あるいは「老人力」の価値観でもいい。歳を重ねていくことに対しては神からの恵みがともなうという信仰理解に立つことが赦されていると信じることができるのです。

 わたしは人のいのちは人間の持ち物ではないという立場をとります。ですから、いのちを生かすことも殺すことも人間がわがままを貫く仕方で自由にしてはならないものだと考えています。十戒の中の「殺してはならない」という教えの積極性は、神の貸し与えたいのちである以上最大限に尊べという命令であり、「生きよ」という促しであると思うのです。この地上でのわたしたち一人ひとりのいのちは、あくまで神に所属します。主イエスが福音書において、様々な弱りのある人たちに向かって寄り添い、生き直しを促し導いたことは神の願う世界観だったのです。あなたはあなたの道を、わたしはわたしの道を、主イエスにあって相応しく歩んでいけばいい、この寿命が尽きるまで。その道はすでに祝福されてしまっているのだから安心していて大丈夫。この信頼のもとで今のいのちに感謝しながら、ともに祈り合い支え合いながら歩む途上に主イエスの祝福がないはずがない、そう信じているのです。日ごとに「今日はよい一日だった」「生きていてよかった」ということに感謝をもって過ごしていけばいい、と思います。同時に大切なのは他者の旅路を邪魔しないこと。

 最終的な行先・目的地さえも告げられないまま押し出された、年老いたアブラハムの旅立ちには、神によって備えられている道、人生という旅に対する祝福の原型のようなものがあります。神の約束と守りのうちに神の名を呼び求めながら歩むところには、平安があるのです。

2022年7月31日 (日)

創世記 1章31節 「いのち」

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とは、神によって創り出されたとしか言いようのない事態を示します。この、いのちの事態そのものが奇跡としか言いようのない現実として日ごとにあるということです。このいのちにおいて一人ひとりの人間は全く平等なのです。どんなに「極悪人」とされていても、そのいのちにおいては誰彼が制限を与えたり、奪ったりすることは赦されてはいないのです。「極めて良」い事態を創り出したのは人間ではなく、あくまで神なのです。この神の側からの創造と、その結果に対する、あらゆるいのちの全面的無条件の肯定を事実として受け止めることから始めるべきなのではないでしょうか。

 わたしたちは、わたしたちのいのち、寿命をどうすることもできません。わたしたちにできることは、この貸し与えられているいのちを感謝のもとで受け止める生き方を前進させていくことです。このことはただ単に、わたしという一人の人間の心の中という内面性に閉じこもることではありません。いのちにおいては、貧富の差や能力の差、善人であるとか悪人であるとかが問われないということです。このいのちは、神が貸し与えてから取り去られるまでの間という、いわば「寿命」が尽きるまで精一杯生き抜くところに意義があります。時として、生きている意味が分からなくなることもあるでしょうし、迷いが生じることも少なくないかもしれません。しかし、神の意志によってわたしたちの命が今、ここにあることには神の側から意義や意味が与えられていると信じることはできるのです。

 ただ神だけが知る時に至るまで、わたしたちはこの世において貸し与えられたいのちに与っています。このことは、わたしに貸し与えられたいのちに生きることとは、誰かと共に生き、お互いのいのちを認め合い、喜び合うことと別のことではありません。ですから、この世における愛する者、親しい者のいのちが神のもとへ帰る時には、残された一人ひとりは言いようのない悲嘆や悲しみに襲われるのです。わたしたちのいのちは、創造者である神によってそれぞれ貸し与えられているだけではなくて、結ばれていくことも願われているのです。やがてわたしもこの世から神のもとに帰る日が来ることは確かなのですが、その時に至るまでの主イエス・キリストの神の支えにあって、お互いのいのちを喜び合う歩みを続けたいと願っています。

2021年11月 7日 (日)

創世記 2章4後半~7節 「人のいのちは神から」~永眠者記念

 わたしたちは、それぞれ愛する人・親しい人をイエス・キリストの神のもとにお届けしました。お一人おひとりを覚えつつ、この世の死後のいのちを慈しみ守り抜く神に対する信頼をご一緒に新たにしたいと願っています。 今日は、わたしたち今生かされていることから故人を思い出しながら、いのちについて考えたいと思っています。そのために、旧約聖書の最初にある創世記の人が神によって造られたという神話を読みました。これは神話であり、現代人からすれば荒唐無稽な物語と受け止められえても無理はないと、わたしも思います。しかし、神話という表現でなければ描けない<本当>があるはずだとの前提でお話しします。

 簡単にテキストをおさらいしてみます。創世記1章から2章の初めの部分で神が天地を六日で創造され七日目に休まれたとあります。創られた世界は「見よ、極めて良かった」とされます。神が良きものと判断されたのです。人の創造も良きことの文脈として理解することができます。7節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。新共同訳によれば括弧書きで土と人とが、それぞれアダマとアダムと書かれています。要するに土も人も本質において大して変わらないものであることの表明となっています。人が人であるのは、その土の塊に神の息が吹き入れられてはじめて<いのち>あるものとされるのであって、神によらなければ、人は土の塊のままであるような存在なのだというのです。

 神の息によってのみ人は生きるものとされたという信仰は、現代人が<いのち>を思いのままに扱ってもいいという思い上がりに対して警告を与えるものです。人は、<いのち>を自らの知恵や知識、また技術によって創り出すことはできないのだし、してはならない神の領域に属するのだと考えるべきです。

 人の<いのち>とは自分の持ち物では決してあり得ないと、わたしは思います。この世の<いのち>も、やがてわたしたちが向かう神の国での<いのち>にしても、神のものだと信じているからです。わたしたちの<いのち>は神から預かった借りものとしての尊さのあるものだと考えるのです。旧約聖書の中での非常に重要な教えに十戒というものがあります。この中に「あなたは殺してはならない」という言葉があります。人が人を殺してはいけないのは、どのような理由があったとしても、そもそも<いのち>は神のものだということです。

 わたしたちは今この世の<いのち>に与っており、永眠者を記念することで、神の国に招かれ守られている故人の<いのち>とのつながりを神のもとで確認しています。神の国での故人お一人おひとりの具体的な今については知ることができません。ただ、神のもとで安らかであると信じることができるだけです。神は、この世の<いのち>も、死後の<いのち>も良きこととして尊ばれる方であると教会は信じてきました。プロテスタント教会は宗教改革の歴史の中で、自分たちはこのように信じているのだとの文章を数多く残しています。その一つにハイデルベルク信仰問答というものがあります。1563年にドイツの町ハイデルベルクにおいて作成された、問とその模範解答です。この中から問Ⅰとその答を読んでみます。次のようにあります。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 このような信仰のあり方はバルメン宣言にも継承されています。バルメン宣言とは、1934年5月29-30日の会議で制定されたもので、正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」です。これはナチス・ドイツに対して抵抗するものとして成立していますが、今日のわたしたちにとっても意義ある言葉だと思うのです。第1項から引用します。

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

 この世における生も死もイエス・キリストの神のものであると信じ認めることは、<いのち>に対する謙虚さと尊敬へと導くものです。さらには、信じる者が、この世における責任的な生き方を選び取ることをも感謝と共に要求します。わたしたちは、あくまで神の前においては被造物・創られた存在にすぎないのです。この点に関して思い上がるときに道を逸れ、的を外ししてしまうのです。「罪」という言葉があります。罪とは、何か悪いことをしてしまうことという枠には収まりません。まずは神との関係において的を外してしまうことです。人が、この世において死を迎える理由を創世記2317節から19節で説明しています。

神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。

 食べてはならないと禁じられた実を蛇の誘惑のゆえに食べてしまったことから、エデンの園を追い出されていく。ここから人の死が決定されたというのです。これを決定的な罪の一つとして聖書は理解しています。神によって良きものとして息を吹き入れられたものでありながら、神からの忠告を聞かず、自分たちの思い上がりに敗北した結果とされます。人が土の塵などではなくて、もっと優れた何者かであること、そうなりたいという願望が罪だと断罪されているのです。この、神が息を吹き入れて生きるものにしなければ人は<いのち>あるものではない、という事実に対する謙虚さを忘れたのが現代ではなくて、人の創造物語の続きとして描かれていることに注意しておきたいものです。人は、自由意志が与えられているがゆえに、思い上がりや傲慢さを抱くことができてしまうのです。

 このように、生から死へ向かう<いのち>というところに留まり続けているのであれば、わたしたちは故人のことを思い出し、追悼し、悲しみの場に立ちつくすことに終わりはありません。しかし、思い出し、追悼、悲しみの質は、今やイエス・キリストによって方向が転換されている。ここにキリスト教の理解による慰めがあります。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙5章19節で次のように述べています。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 このパウロの言葉の文脈は、最初の人によってもたらされた罪の事態が、一人のイエス・キリストによって正されて<いのち>に至る道が開かれたことを示しています。

 通常、わたしたちの常識的な<いのち>の理解は、生から死という方向です。ところが、イエス・キリストを信じる信仰からすれば、死から<いのち>への方向性も開かれているというのです。この世における死の出来事は、わたしたちを恐れさせ、不安にさせます。しかし、この世における死の出来事は、終わりではなくて、この世に残された人たちとの<いのち>を結ぶ力でもあります。ですから、わたしたちは今、この世から去ったお一人おひとりを思い起こすときに、悲しみや嘆きを素直に語り合うことができるし、このことは守られているのです。イエス・キリストが死人の中からよみがえった事実は、死から<いのち>の方向を力強く支えるのです。

 ですから、わたしたちは主イエス・キリストの慰めのゆえに、神の国で守られているお一人おひとりを思い起こすことが許されているのだし、関係は生き続けるのです。よみがえりの主イエス・キリストは、この世にあるお一人おひとりと神の国にあるお一人おひとりとのすべての関係を執成し続けてくださるのです。このことを信じさえすればいいのです。主イエス・キリストは、わたしたちの誰よりも悲しみ嘆きを知り抜かれている方です。神の国の側のお一人おひとりとの関係を放り出すことは決してなさらないのです。神の<いのち>の息は、この世においても神の国においても爽やかであり力強く吹きかけられていることを信じたいと思います。吹き入れた<いのち>の息に神の思いが満たされていることをご一緒に確認するひと時であったことを感謝します。

 神のもとに招かれたお一人おひとりは、誰彼と交換することが不可能な大切なかけがえのない<いのち>です。そのお一人おひとりに対する、わたしたちの慈しみと愛は、この世にある責任において安心のもとで赦されているものです。もしかしたら、忘れてしまいたいと思うような、負の関係性にあった人の死、という経験もあるかもしれません。しかし、その思いも含め、神は丸ごと受け止めて赦してくださるのです。思い出すこと、そして思い出さないこと、懐かしむこと、追悼すること、どれもみな、わたしたちに与えられた故人とのつながりです。かつて一緒に生きていた<いのち>とわたしたちの間を、主イエス・キリストが取り結んでくださっているがゆえに、故人お一人おひとりに対する正直さと謙虚さを持ち続けることができるのです。先ほどのハイデルベルク信仰問答の1にあるように慰めは主イエス・キリストにのみあるのです。生と死をも司る、この主イエス・キリストに委ねて歩んでいきましょう。

 ご一緒に祈りましょう。

【祈り】

すべての<いのち>の源であり、司り続けているところの主なる神!

この永眠者記念礼拝が主イエス・キリストの守りのうちにあることを信じ、感謝します。

この世の<いのち>も神のもとでの<いのち>も神のものです。

ご遺族お一人おひとりに主イエス・キリストの慰めが豊かでありますように。

関係性を育て続けてくださいますようにお願いします。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

2020年5月 3日 (日)

創世記1章3節 「根源としての光」

 創世記1:1-2:4aは、いわゆる「天地創造神話」となっています。この記事が史実であると信じなければならないという立場を、少なくともわたしは取りません。しかし、神による「天地創造」自体を否定するわけではありません。「天」と呼ばれる人間の理解を超えた世界も「地」と呼ばれるわたしたちの暮らす世界のいずれも、神による被造物であることは信じています。というか、むしろ「天地創造」の物語それ自体を信じるよりも、創造者である神を信じることの方が大切なのだという立場です。すなわち、「天」であれ「地」であれ被造物なのであり、その限界が置かれているのだということです。とりわけ、「地」にあるわたしたちはとことん被造物であることに対して謙虚であるべきだと考えます。この謙虚さを維持することは、傲慢な人間にとってなかなか難しいことだと言えます。続く物語では、アダムとエバが禁断の実を食べてしまう動機が、蛇の言葉に表されています。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(1:3b‐5)とあり、「神のように」なりたいという願望から自由ではないのです。また、11章の初めの「バベルの塔」建設の動機も「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(11:4)とあるように「天まで届く」力の誇示としての傲慢さがあるのです。

 この「天地創造神話」は、常識的な人からすれば荒唐無稽で笑い飛ばすほどの物語であるかもしれません。また、古代人もどこまで本気で信じていたのかも分かりません。しかし、「神話」という形式でなければ伝えられない「本当の本当」があるのではないかと思うのです。人間は、確かに知的でありますが、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)と命じられたことにおいて他の被造物に対して何をしてもいいのだという「支配」の権威が与えられているのでしょうか。否、あくまで人間もまた被造物であるのですから、他の被造物を侵さずに、保護し、共存する仕方で「仕える」謙虚さが求められているのではないでしょうか。

 さて、神は六日間で世界を創造し、七日目に休まれた、とあります。神は、神として自己完結することも可能であり、「天地創造」をしない自由ももちろんあったわけです。しかし、神は創造された。ただ、恵みの業として行われたのです。そしてすべてをご覧になって「良し」とされました。この究極の肯定、大いなる恵みから、世界は始まっているのです。

 神の第一声は、「光あれ」という言葉でした。この天地創造の光とは何だったのでしょうか。第4日目には次のようにあります。【神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。】(1:1419)。ここでは、太陽や月や星が創造されています。そうすると、3節で「光あれ」との言葉で呼びかけることによってたらされた「光」とは何を指しているのでしょうか。岩波版の創世記を月本昭男が訳していますが、註で「光は生命と秩序と救いの根源の象徴」とあります。すなわち、神の意志の表れとしての生命の基本、秩序の基本だというのでしょう。いわば、最初に創造されたのは不可視的な「根源としての光」だというのです。

 何故、創世記は「根源としての光」を「天地創造物語」で最初に描かなくてはならなかったのでしょうか。この背景には、「バビロン捕囚」というイスラエルの歴史における困難な事態があります。そこでまず、大雑把にイスラエル王国について説明しておきます。紀元前1000年ごろにイスラエル統一王国がダビデ・ソロモンによって繁栄します。しかしソロモンの死後、北王国イスラエルと南王国に分裂します。その後、北王国イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民族混交政策が取られます。残った南王国ユダは新バビロニア帝国により紀元前587年に滅ぼされ、上流階級の人や祭司、また腕の立つ職人などはバビロンに連行されました。国の再建をさせないためにです。古代における戦争は国と国との戦いだけではなく、それぞれ背後にいる神の闘いでもあるわけです。すなわち、国の滅亡とは、自分たちの神の敗北なのです。したがって、バビロン捕囚は自分たちの神が負けたゆえの出来事であるとさえ言えるのです。その嘆きは次のようでした。【バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。】(詩37:14)。

 当初は祖国復帰を願っていたのでしょうが、この事態が60年続く中で世代交代されつつ、バビロニアに同化していく向きもあったようです。しかし、この困難な状況の中でイスラエルの民族性・宗教性を保持し、整え、純化していく運動もありました。その人々が、この「天地」は神による創造だとの信仰、つまりあらゆる事象は被造物であるという認識に至るようになりました。バビロン捕囚のただ中、その闇の時代の中にあって、神の敗北は自分たちの罪のゆえであると自覚したのです。そして「根源としての光」を再認識し、歌い上げたのが「天地創造物語」の「光あれ」という言葉の出来事だったのです。

 キリスト教会は、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、先在のキリストとして再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:15a)。

 この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」である世界は混沌として絶望に満ち、希望のかけらさえ完全に失われているように見えるかもしれない。しかし、それでもこの世界は神の言葉の呼び出しによって創られたのだから神の想いに立ち返れ、との促しがあるのです。その立ち返りを促す言葉が、「光あれ」なのだと。この世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。

「光あれ」という言葉のもたらす現実をパウロは語ります。【こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。…‥】(Ⅱコリント4:1以下)。

 このパウロの指摘する現実を、わたしたちの時代においても十字架のイエス・キリストの力として受けとめることができるのではないでしょうか。

 現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。なぜなら、今日もイエス・キリストは揺らぐことなく働き続けておられるからです。「光あれ」という言葉の成就であるイエス・キリストによって包まれており、「土の器」としての限界と責任性をもって歩むことが赦されているのです。根源としての光の前で、わたしたちは被造物である事実に対する謙虚さを学び直すときなのではないでしょうか。人が万能感に酔いしれて来た近代から現代に至る歴史を冷静に省みることはできないものでしょうか。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:28)、この言葉における「支配」を人間は誤解してきたのではないでしょうか。人間は、他の被造物に対して全能でも万能でもないのです。これは核や遺伝子をいじることへの警告に留まりません。アダムとエバが誘惑に陥った事態、またバベルの塔の建設への欲望は、終わってしまった過去などではないのです。今というこの時の課題です。被造物としての自覚をもちつつ、「光あれ」という大いなる神の恵みを生きていくこと、それがわたしたちに示された道ではないでしょうか。人間は、あくまで被造物であることを直視することから絶えず謙虚さに引戻されなければ、道を踏み外してしまうのです。

 主イエス・キリストは「光あれ」が人となった姿そのものです。その方から示される、まことに立ち返ることを願い、また祈ります。そして、主イエス・キリストが先在であり光であるという理解から、わたしたちは被造物であるという限界における責任性において歩んでいけばいいのです。「根源的な光」の祝福と守りのもとで…‥。

2018年2月25日 (日)

創世記1章31節 「神のつくられたものはとてもよい」

   ~世界祈祷日を覚えての子どもとおとなの合同礼拝~
 今日はスリナムという国です。南アメリカ大陸の北東部、カリブ海に面しています。国の広さは日本の半分くらいで人口は約54万人で横浜市の中学生までの子どもの人数と大体同じくらいです。国の90パーセント以上は人が普通に暮らすことができないジャングルです。残りの10パーセントの土地にほとんどの人が住んでいることになります。それだけ緑が豊かだというのです。このことは地球を考えるときに大切なことです。人間が生きていくのに必要な酸素を生み出す豊かで美しいジャングルがあるのです。
 神はこの世界を六日間で創造して七日目に休まれました。そして「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とは六日目目に語ったのです。この世界は何ものにも代えられないほど素敵なものなのだということです。神はすべての人が幸せに生きられるように、この世界を豊かに創造されたということです。そのために人間に役割が与えられました。
 神が創られた世界は本当に美しく、素晴らしいものであるはずです。ところが人間は欲望のために勘違いをしてしまったのです。地上のものを「支配せよ」という言葉を人間の好き勝手に何でもやっていいのだという間違った考えに囚われてしまったのです。本当は、この地上の世界を守り、世話をし、大切にするという意味から外れてしまったのです。
 ここに立ち返ることをスリナムのこれからを祈りながら考えていきましょう。スリナムは自然がとても豊かで多様な生物に溢れ、珍しい動物や鳥などがたくさんいます。また、人々も多様です。1499年にスペイン人が到着して以降、フランス、イギリスを経てオランダの植民地になりました(1975年独立)。奴隷として30万人以上のアフリカ人が連れて来られた他、奴隷制度終結を前後して契約労働者として、中国、ポルトガル、インド、インドネシア等から来た人たち、その子孫と先住民族。産業は、砂糖やコーヒー、ココアや綿などの農業の他、原油、ボーキサイトや金など地下資源もあります。しかし、金を取るために危険な水銀を使う人たちも少なくなく、環境が壊されつつあるとのことです。
 肌の色や言葉、文化や宗教などの違いを豊かさとして捉え、自然の豊かさを守り、世話をするように神から任された働きをし、スリナムの人たちの幸せを祈りましょう。スリナムの人たちが喜んで生きられるように祈りましょう。神が「見よ、それは極めて良かった」との言葉を今でも語り続けておられることを信じます。

2013年10月20日 (日)

創世記 1章31節 「神の思いに応えたい」

~キリスト教教育週間をテーマにして~
  神はこの世界を六日間で創造して七日目に休まれました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とは六日目の言葉です。この世界は本当は素敵なものなんだよ、と聖書は語っています。神はすべての人が幸せに生きられるように、この世界を創造されたということです。ところが、旧約聖書を読んでいくと、人間の歴史は神の思いに応えようとしない、裏切りの連続です。
 今日ミャンマーという国で争いが続いています。第二次世界大戦までの歴史も第二次大戦後、イギリスの植民地から1948年に独立したあとも困難続きです。ミャンマーには色々な民族がありますが、その中の多数派を占めているビルマの民族、しかも軍隊が支配するようになったのです。少数派の人たち、少数民族の人たちが辛い目にあわされたり、不当な扱いを受けたり、弾圧されるようになって来たのです。これが今でも起こっています。ミャンマーないしはビルマという国は非常に混乱しており、自分の国に住めなくて世界中に逃げている人たちも大勢います。
 先程、写真と説明で国の中で逃げているカチンという民族様子を知らされました。このカチンという民族はミャンマーだけではなくタイの山岳地方にもいます。カチン語という言葉と自分たちの文化をもっています。そして、今はミャンマーの軍隊とカチンの軍隊は戦争をしたり停戦したりしています。おとなはいつも自分たちの権力とか欲望とか願いとかを最優先して争いごとを起こします。その中で、子どもたちは生きています。
 神の子どもは、一人ひとりが大切にされて毎日を心穏やかに暮らす権利をもっています。鉄砲の音にビクビクしながらではなく。しかし、安心して暮らせない状況の中で、カチンの人たちは山の中の出来るだけ安全な場所、ミャンマーの軍隊に見つからないように隠れるようにして暮らしています。そうしないと生き残れないからです。神様によって与えられた大切な命、その価値は誰ひとり損なわれてはなりません。不当な仕方で傷つけられたり殺されたりしてはならないのです。それなのに、この世界はそのような戦争や紛争のただ中にある現実におかれているのです。
 主イエスが「極めて良かった」神の思いを受けて何を活動したのか?それは一人ひとりが今生きているままで祝福されているし、その命は大切なんだよ、と訴えていくことでした。教会は主イエスの言葉にあるように「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ6:9)と聞いています。教会は世界中の平和を祈るように求められています。イエス・キリストの思いに応えられるような教会になっていきましょう。

2013年1月27日 (日)

創世記 45章3~8節 「神の計画に委ねる」

 創世記37章から50章を通して見ると、ヨセフの生涯がよきものであったと思えるように物語られています。登場人物と共に主がいるということは、安らかな死に向かって神の守りがあるということになります。
 これはハッピーエンドが約束されているから、その時々の苦労を我慢できるということではありません。安っぽい機械仕掛けの神が語られているのではありません。その時々に人が生きている限りにおいては様々な艱難があるが、主が共にいることにおいて逃れる道があるのだというところにすべてを委ねていくということです。いわゆる神の計画であるところの摂理と言うものを前提として生きていく中において、この世の苦しみを耐えうるし、それを真正面から受け止めていくことができる勇気を与えようとするのが、創世記のヨセフ物語の働きだろうと思います。
 カナンからエジプトへの旅のヨセフの壮大なドラマは、一つの成功物語かもしれません。今日の箇所は、ヤコブや兄たちが死んだと考えていたヨセフが自らを告白する場面です。思いもしなかった再会です。兄たちはヨセフを見捨てた負い目を悔やんで来た。ヨセフは、驚きのあまり応えることのできない兄たちに向かって近寄るようにと促します。ここでの物理的なお互いの距離は、負い目とか憎しみという心理的隔絶を表します。これを近寄るように促すヨセフの言葉は和解へと導くものです。許すということです。
 やがてイスラエルの民はエジプトに定住することになりますが、その前提として「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」との言葉があります。かつて兄たちに捨てられて悲しみの時を過ごしてきたけれど、過去の辛い時々において神が共にいますということにおいて、自分がこの世に生まれ生かされている意味や価値、使命は、神の計画であるところの摂理のうちに隠されていたことを知ったということです。ここにあるのは安易な「予定論」ではありません。神の計画、神の摂理が貫かれることにおいて、その人がその人として生かされていく道が備えられていることに重きを置くことにおいて受け止め直したいと願います。
 神が共にいてくださることによってヨセフは成長していきます。その時には分からなくても、後から神の計画、摂理に包まれていたのだということが腑に落ちるようになるのです。この神の計画に実を委ねていくようにと神の側で待ち受けていてくださることに対する信頼を今一度新たにするようにとの促しがここにあるのです。

2013年1月13日 (日)

創世記 41章1~16節 「未来を拓く信仰」

 今日の聖書はヨセフがファラオの夢を解いたことを記しています。「エジプト中の占星術師や賢者たちに解らなかった夢をヨセフは、7年間豊作が続き、続く7年間は飢饉が続く」と解いたのです。やがて、ヨセフは、この対策に任じられていきます。
 ヨセフが夢を見、また解釈することによって歴史に参与していく姿勢の現代的な課題とは何でしょうか。夢も様々であることは旧約の中でも描かれていますが、今日の文脈には歴史的参与を指示しようとする夢の働きが描かれています。信仰的な意味合いから考えましょう。ここでの夢とは、今ないしは将来どのようになっていくのか、という事柄が神が共にいてくださることによって正しく解釈される限りにおいて、夢見られ、解釈された内容は実現されていくということです。もちろん、夢見られ、解釈される力は神に由来します。夢には歴史に参与していく筋道があるのだということを創世記は告げようとしているのです。
 わたしたちの生きる現代は、歴史に積極的に参与し、神に喜ばれる世界観を求めていくような夢を見ることが許されないような時代になっています。しかし、だからこそ夢みる力が神によって備えられているという信頼を取り戻そうではないか、という招きが創世記から現代に向かって語られているのではないでしょうか。教会は夢なき時代にあって、あえて希望し夢みようとするべきです。あえて創造的な少数者としてこの国において警告を与えるような夢を見る、希望を語る課題が、イエス・キリストの神の側から与えられているのだということを確認しておきたいと思います。教会にはキリストを宣べ伝えるという尊くも厳しい使命が与えられています。キリストを信じるとは、あえて希望し、あえて夢みる生き方をイエス・キリストにあって選び取っていく自由に招かれているということです。
 ヨセフに与えられた夢みる力、夢を解釈する力を現代的に解釈していくならば、悲惨な、この現代という時代にあって、あらゆる知恵を絞って夢み、希望していくことです。ある意味イエス・キリストがあの悲惨な状況にあって「野の花、空の鳥」を指差して語られた清廉さに生きることが赦されているのが、わたしたちの教会なのだからです。安心と大丈夫だという言葉の支えのもとで新しい勇気ある一歩を踏み出すことへと促されています。さらには前もって復活のキリストが待っていてくださるという信仰が前提されているのです。このようにして、わたしたちはこの世に向かって、それぞれに与えられた現場に向かって未来を生きる信仰に生かされている存在なのだと信じることができるのです。

2013年1月 6日 (日)

創世記 37章12~36節 「神は存在しないのか」

 今日の物語は、夢みる人でもありヤコブから溺愛されていたヨセフが兄たちの妬みによって殺されかかり、結局はエジプトに売られてゆく文脈で語られていきます。
 兄たちはヨセフがいなくなったことを取り繕うために、特別に仕立てられた彼の長い衣に殺した羊の血を塗りたくることで、猛獣に襲われてしまったことを偽装してヤコブに報告します。すると、「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」(33-35節)。
 このヤコブの態度に注目しましょう。ヤコブの父としての愛は、その子どもがどんなであったとしても「心に留める」方向をもっています。それは、見た夢を自慢げに語るヨセフをたしなめながらもヤコブの立った在り方です。その思いが、ヨセフが死んでしまったと思ったときに「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」という言葉に反応が表されています。
 創世記37章を神は存在するのか、という観点のもと読むと、一見無慈悲にも神は存在しない物語に読むことができます。しかし、そうではありません。実は神が隠れて働く物語であることが分かってきます。神が存在しないかに思える物語のただ中にこそ、神が存在するという逆説を読み取ることができます。陰府に共に下って行きたいとヤコブが願うのは神に顧みられているが故の態度ではないかと思います。神が族長を我が子のようにして慈しんだ歴史に巻き込まれているヤコブの実感が、わが子に抱く感情に表明されているのです。それが聖書の証言する神の愛の働きの方向です。
 ユダヤ・キリスト教の伝統では神は「父」として捉えられていますが、その「父なる神」の愛の方向性というものが共鳴している新約聖書の記事がルカによる福音書15章11-32節の「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる物語です。この物語で描かれる父の姿、ただただ無力なまま弟息子の帰りを待ち続ける、その弟がどのような悲惨な状況におかれたとしても絶えず待ち続けるしかない、傍から見れば愚かな、情けない、いわゆる「ダメ親父」の姿があります。だけれども、そこにこそ無力な神における全能が示されているのです。
 同じようにヤコブの「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」という言葉は無力な父の姿を現していますが、「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15:32)という事柄が、隠された神の存在が確かな歴史として介入されているという信仰へと、わたしたちを導き入れようと促さられているのです。

2012年12月30日 (日)

創世記 37章1~11節 「心に留めて」

 ヨセフの見た兄弟たちの束が自分の束に向かってひれ伏した夢、父と母を象徴する太陽と月、兄弟を象徴する星がひれ伏したという夢。これは3~4節にあるように「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」という、甘やかされ依怙贔屓されることで仕事をせず、自己万能感に浸る傲慢な若者の姿です。意識の水準だけではなくて無意識の水準でもそうだったということです。
 12節以降で兄たちの妬みや怒りによって穴に放り込まれ、やがてはエジプトに売られてしまうことになっていきます。そこから、ヨセフは様々な試練の中、成長していくのです。それは神が共にいるという事実に支えられてのことです。
 11節で父ヤコブは「心に留めた」とあります。このことはヨセフがどのような人間であったとしても、その将来というものを神の導きに委ねていこうとする決意の表れです。ただ、それがあまりにも人間的なものであったことは否めないのですが、ヤコブがヨセフのことを「心に留めた」というのは、これまでの族長物語、アブラハム、イサク、ヤコブの物語において、絶えず神の側から心に留められたという歴史をヤコブが経験していることに依ります。神がヤコブとその子孫たちを心に留めることを受け入れることにおいてヨセフを受け入れているということです。なので、このヨセフという人がその時点においてすぐれていたり、優秀であったりということではありません。
 物語の中心は神が共にいることによって導かれ、変えられていくヨセフの成長物語なのです。かつて見た夢の中味が変質していくのです。自意識過剰な自己万能感に浸っていた若者が様々な経験の中で自己相対化できていくのです。神に顧みられているヤコブの「このことを心に留めた」という見守りは、神による見守りによって支えられている事実に委ねていくこと。神の守りの中にある安堵感におかれている限りにおいて成長していくことが赦されていく、という物語なのです。これが37章から50章に続くヨセフ物語です。様々なドラマの背後には絶えず神が存在し、導くのです。物語が語られる中でヨセフの物語から神の物語に向かって純化していくのです。11節でヤコブが「心に留めた」という時点では、それが良いことなのか悪いことなのか分からないのですが、それを委ねていくことにおいて福と転じていく、その可能性が神の導きのもとにあるという旧約聖書の理解があります。
 わたしたちにも、今分からないことはたくさんあります。判断に悩むことはあります。しかし、神の導きに委ねていくならば、やがてわかる日がやってくるに違いない、ここに望みを繋ぎながら古き年を終えたいと願っています。

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