詩編

2021年12月26日 (日)

詩編150 「賛美するという生き方」

 『詩編』は150の詩が集められており、今日の詩はその最後を飾るものです。様々な楽器を用いて晴れやかに歌い上げている姿が思い起こされます。まとめの6節は「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」とあります。命あるものはすべて神に向かって賛美するように定められており、そこには感謝があるのだと呼びかけているようでもあります。

 「賛美するという生き方」とは、ただ単に神が素晴らしいとの告白ではありません。自分たち自身の言葉に誇りをもち、自分らしい生き方を肯定的に捉えることによって、あるがままの姿で自信を失うことなく堂々と他者に向かい合える存在に変えられていくことです。肯定されていることを受け入れていく生き方と態度を賛美と呼んでいいのではないでしょうか。賛美に生きるとは、神に対して受け身であることから導かれる積極性と主体性に生きるということです。神からの光によって照らし出された人間の闇である自己中心の在り方や我儘や傲慢さから解放され、自由になっていく、この時に口から溢れ出す歌こそが賛美するということなのではないでしょうか。賛美とは、神の前にあって、神に応えて新しく生きるための決断であり告白であり祈りです。平和と正義を喜ぶ人間になっていく道の途中にいることが大切なのです。神からの呼びかけに応える賛美は、他者や社会に向かう関係を創り出す力を導き出していくものでもあります。

 この世界は政治の低迷や不安定な経済状況など様々な問題や課題が山のように積もっている事実を否定することはできません。賛美なんていう吞気で悠長な生き方などできるものか、という声も聞こえてきそうです。しかし、キリスト者は、だからこそあえて賛美するのです。賛美するという生き方は激しい生き方であるという側面も持っています。反戦運動や革命が歌と共にあった/あるように。

 この世の価値観や基準からすれば世界は「一寸先は闇」だとしか言えないような状況なのでしょう。しかし、神が聖書から語りかけていることに耳を傾けるならば、「一寸先は光」だと信じることができるのです。苦難や試練を見て見ぬふりをしたり、ごまかしたりすることではありません。これから先のことはどうなるのか、まったく予測できないのが現代の状況です。しかし、だからこそ今、あえて賛美する生き方を選び取る自由が備えられていることへの感謝をもって歩めばいいのではないでしょうか。

2020年11月22日 (日)

詩編 65:10~14 「収穫の風景に思いを寄せながら」

 収穫をささげる態度は、神との関係によって整えられるものです。人間の背きにも関わらず、贖いによる赦しによって導かれていく「わたしたちへのふさわしい答え」としての方向性があるのです。神から「よし」とされるところの人間同士の関係性と言えるかもしれません。権力や支配によって規定される、人間同士の上下や優劣を、収穫から得られる食物の問題として捉え返してみましょう。「わたしたち」の「たち」のありようが問題化し、顕在化される、その場こそが問われているからです。そこから、わたしたちに求められている方向が示されるのではないでしょうか。

 収穫感謝でよく読まれる箇所に申命記26章があります。最も古い信仰告白の一つとされています。実りを携え感謝をしているのですが、そこでは出エジプトの出来事を思い起こしながら、より広い「わたしたち」の「たち」への展開を読むことができます。申命記2610 から11節では「『わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。』あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。」とあり、それが13節では「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」へと広がっていくのです。一方、現代の日本社会ではどうでしょうか。本来、国や各自治体が熱心に取り組まなければならない課題であるはずです。しかし、対象が広がっていく申命記とは反対に、日本の現実は逆の方向を向いているように思われます。生活保護費は削られ続けていますし、難民認定率は国際的に最低レベル、弱い立場に置かれた人たちに対して冷たく、生きることをより困難な方向へと強いているとしか思えません。

 収穫感謝の心とは、広い意味での福祉と呼ばれる分野の活動のあり方をその時々に状況の中で捉えなおしていくことと別の事ではありません。人間は生きるために食べ、食べるために生きるという営みの中で、食を支える収穫について考えを整えつつ歩むことが求められているからです。

 今日のテキストの収穫を思わせる風景を、ただ単にロマンティックで理想的なものとして受け止めるのではなく、今の現実の中で少しでも本当だと言えるような世界を求めていく心や気持ちを忘れてはならないと思います。人間の力や能力や努力も必要なのかもしれません。しかし、根本のところでは人間には作り出すことの出来ない世界観です。歴史を顧みれば、人間は何度もバベルの塔を建てようとしてきました。今もその過程にあります。最も大きくて分かりやすいのは原子爆弾でしょう。バベルの塔を作り上げてしまう心根によって、つまり、神に成りたいという欲望によって、大地に対する破壊的な行為を繰り返し、神に背いてきたことは否定できないのです(讃美歌21424参照)。

 収穫感謝を祝うことによって今ある生き方を修正し、神に向かいつつ歩みたいとの決意を新たにしたいと願います。

2020年5月17日 (日)

詩編119編 103節 「御言葉の味わい」

 詩編119は詩編の中でも最も長く、ヘブライ語のアルファベット22字それぞれにつき、その文字から始まる8節ずつが綴られています。今日の箇書は(メム)とありますから、「メム」から始まる8節の詩が語られ、22×8で全176節となっているのです。この97104節から解釈していきます。

119編を通して読むと、テーマは「神の意志の具体としての言葉」であろうと思われます。それを表わすのに「律法」「御言葉」「命令」「掟」「定め」などが用いられています。今日の箇書で言えば「仰せ」が相当します。神は、イスラエルの民に向かって、神の意志に従って生きるところにこそ喜ばしさがあると示し、これに対する信仰の告白として「詩」という形式をもってこの詩人が応答したのです。神の意志、その御言葉である「律法」の「仰せ」られるところは「わたしの口に蜜よりも甘い」というのです。

 ここで言う「蜜」のイメージを整理しておこうと思います。おそらく「蜜」とは甘味の代表、最も強い甘さを表わしています。近代になって甘味の代表である砂糖が大量生産できるようになり、比較的安価で流通している現代の感覚からは、甘味に希少価値があり憧れの対象であったとは想像しにくいかもしれません。また、現代では甘い物の取り過ぎは健康的でないという風潮もあるようです。しかし、古来人間は甘味への憧れを強く抱いていたと言えます。元々は天然の野生の蜂の巣から得られる蜜を始め、生の果物(ぶどう、いちじく、ざくろ、ナツメヤシ等)を乾燥させたり、絞った果汁や樹液を煮詰めて糖度を上げることもしていたでしょう。甘味は、アルコールほど強力ではないかもしれませんが、快楽をもたらす依存性物質でもあるのでしょうか。甘い物を口にしたときに、ただ口の中に広がる(まさに、ほっぺたが落ちるような感覚)のみならず、甘さが身体中に行き廻り、指先まで痺れるような感覚。そのような甘味を表わすものとして「蜜」という言葉は読んでください。

 97節以下を読むと、律法を愛し心砕く、と詩人はまず告白しています。律法から多くを「教え」られるのであるから、「命令」と「御言葉」を「守る」と。律法に生きる生き方は蜜よりも甘い素晴らしさに満たされている、と高揚していきます。神が与えてくださった律法は、蜜になって身体を満たし、震えるほどの喜びとなって、充実感・人生の質の向上への導きがあると詩人は感謝をもって謳い上げます。

 神の意志、その思いとは、「蜜」で表現されているようにイスラエルの民にとって甘美であり喜ばしいものではあります。しかし、後のイスラエルは「律法主義」に陥り、また人間の都合に合わせた解釈による合理化など神の思いに反逆していくという過ちを犯しました。神の「律法」「命令」「仰せ」とは、本来良きものです。それを捻じ曲げるところに人間の弱さがあるのです。

 キリスト教会は、詩編も含めたユダヤ教の伝統を踏まえ、「律法」の成就がイエス・キリストであると再解釈しました。この点についてマタイによる福音書は次のように述べます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17—18)この律法の成就としてのイエス・キリストは「蜜」の味わいとして次のように語ります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

 しかし、かつてユダヤ教が「律法主義」に陥ったことはキリスト教会にとっても無縁のことではありません。独善に陥ってきたことは「キリスト教史」を概観すれば分かることです。キリスト教的律法主義が多くの「人道に対する罪」を犯してきたことを忘れてはなりません。本来、律法は神からの祝福です。イエス・キリストの神の教えは「蜜」の甘味とか滋養とか人を生かす力あるものです。この主イエスにある「蜜」としての「御言葉」を喰らって生かされてある存在が、教会でありキリスト者なのかもしれません。しかし、注意が必要なのです。

 ここでヒントとなりそうな言葉があります。ヨハネの黙示録です。【「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」】(黙示録1:7-11)

 キリスト者とは、「蜜」である「御言葉」としての「仰せ」を受けつつ歩むものです。しかし、ただ単に耳に心地良いような、口当たりの良い物だけを求めるのは間違っています。黙示録のテキストの告げる「腹は苦くなった」という性質を忘れてはならないのです。「腹の苦さ」に象徴されるであろう、責任性とか気まずさのようなものをも含めて味わうべきなのです。「蜜」にしても、蜜蜂の採取した花の種類や環境によっては、単純な甘さではなくて香りが複雑だったり、雑味に感じられる苦さとか渋さもあるだろうと思います。表面的な甘味だけを追求することは、思考せずに従うことだけを求める律法主義に陥ります。

 困難や苦難、痛みや悲しみと無縁な人生が蜜を味わう人生ではありません。そうではなくて、むしろ、解決困難な課題や問題の中でこそ、人生を味わう力を発揮できることが大切なのではないでしょうか。神から与えられる蜜の味の人生を味わう信頼の中で生き抜く、希望の人生です。

 わたしたちの大先輩であるパウロは、この蜜を味わう伝道の生涯を歩んだと考えます。彼の生活は艱難に満ちたものですが、悲壮感や絶望感ではなくて、希望を味わう蜜の味を知っていたに違いないのです。コリントの信徒への手紙二 11章23節以下でパウロは語ります。【苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。】

 ここで「わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と語りうる主イエスへの信頼とは、人生を蜜として味わうあり方ではないでしょうか。この世の価値観とは別の在り方を知っていたのです。このパウロの信仰における態度は、主イエスの姿を引き継いだものです。神の教えとしての蜜の味を知る者のみが語りうる、世に対する接近の仕方です。理不尽で不平等で争いの絶えない世界にあって、なお希望に生きる。そしてこれは、山上の説教に共鳴していると思えるのです。今一度、主イエスの教えの中でも有名なマタイによる福音書5章の山上の説教の「幸い」の言葉を聞きつつ、「あなたの仰せを味わえば わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」との言葉への思いを整えたいと願います。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3-12)

 主イエス・キリストの神の祝福のもとで、備えられた自分の人生の質を模索しながら主イエスにある喜びに人生を「蜜」として味わいたいものです。それは必ずしも決して上品なものではなくて、しばしば日毎の悩みや苦難の中でなりふり構わず「御言葉」をむさぼり喰らうような、端から見れば見苦しい場合もあるのかもしれません。でも、そこには味わいのある人生が備えられているはずなのです。聖書の「御言葉」のもつ力に一度でも触れたこと、そのように支えられた経験を実感したことにある人にとっては、共感や共鳴へと引戻されるのではないでしょうか。

2019年10月13日 (日)

詩編 139:1~18 「小さないのち」 (農村伝道神学校4年 上杉理絵)

 神学校日に招いていただき、ありがとうございます。昨年度の農伝の卒業生の卒論のひとつに、「赤ちゃんを(流産、死産、新生児死で)亡くした女性を中心とした牧会の現状と可能性~~喪の作業の歩みからの一考察」というものがありました。社会の中、教会の中では、生まれることなく消えていった「いのち」、生まれてすぐに亡くなった「いのち」について、なかなか話されることが少ないと思います。なぜ、語ることができないのか。
 おなかの赤ちゃんを失うということ、生まれて間もないいのちを失うことは、女性にとって、精神的・身体的な危機にみまわれることになります。もちろん、父親である男性も悲しみ痛むかもしれませんが、それは女性の比ではないように思います。キリスト者である時には、信仰的な危機にみまわれることもあるかもしれません。
 彼女の卒論の中では、「喪の作業」について心理的・神学的に深く考察されていています。その「喪の作業」によって、一歩踏み出していかれるのではないかと、「小さないのち記念式」という提案をしています。そのような時間が、教会のなかに位置付けられたら、キリスト者に関わらず、慰めを得る人が多くいるのではないかと思います。
 139編13節「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」16節「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々は あなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」
 ここに、「あなたの書」とあります。「いのちの書」という、神に属する者の名やそのすべての行いのすべてを記録した書がある、と聖書の中で言われていますが、この「いのちの書」にわたしたちひとりひとりが数えられている。ここでの「いのち」は、生命そのもの、肉体的な生体としての命ではなく、死ぬことがない、いのち。永遠のいのち、神と共にあるいのち。その「いのち」は、神さまに知られている。胎の中にいる時から、一日も作られていないうちから。神さまのまなざしの中では、生きているものも、死んだものも、生まれて来なかったものも、みな「いのち」として、今も、神さまの内にある。
 こんなに力強いメッセージが聖書の中にある。このメッセージは、大切な人を失って悲しみの中にある方にとって、本当に大きな慰めになるのではないかと思います。教会を通して、小さないのちを失い、悲しみ、痛みを持った人たちが繋がり、わかち合い、慰めを得られることを願います。

2019年9月15日 (日)

詩編71:1-24「恵みの御業」~「高齢者の日礼拝」~

 「あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦」(7)と、神に存在の根拠一切があるのだ、それゆえに神に向かって訴え、祈り、賛美するほかない、わたしたちはそういう存在なのだということです。わたしたちが生かされてあるこの生命は、母の胎にいるときから選ばれ、生まれ出で、そして歳を重ね、やがて来るべき神の国に向かって帰っていく。
 一旦、神から鼻に息が入ったら吐き出さなくてはなりません。それが呼吸です。同じように、神から貸し与えられた生命に息が吹き込まれたら、吐き出し、すなわち賛美・祈り・告白などの応答をするものなのです。息を溜め込んでおくことはできないからです。人間の生きる目的は、賛美・祈り・告白といった応答で神に感謝しつつ生き、証ししていくところにあります。
 そのような中で、この詩人は多分困難に陥っているのでしょう。神に対して訴えかけています。「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」(9節)「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。」(18節)。このように祈るのです。神は、そのような訴えを待っておられる。わたしたちはこの世にある限り、色々な困難な事柄が起こってくる。歳を重ねるごとに色々なことが起こってくる。しかし、聴いてくださる方がいる。だから、18節の後半から19節では、「御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。」と、喜びにあふれて賛美します。さらにそれは信頼へと広がり、絶えず新しく生き直し、歩みを改めることができることが20節から21節で語られます。「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ/すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。」
 災いと苦しみの先に、神の与えてくださる瑞々しい生命がある。何度でも神は引き上げてくださる。このことを魂に刻むために、わたしたちは毎年誕生日を祝うのかもしれません。だから、「誕生日おめでとう」という言葉は、神が交換できない唯一無二の存在として一人ひとりを招き、その生命を貸し出してくださっていること、またわたしたちは何度でも生き直しが赦されていることの約束でもあるのではないでしょうか大切にした言葉です。自分自身に向けても。

2017年1月 1日 (日)

詩編100:1-5 「教会は歌う」

 「歌わない教会は教会ではない」と著名な神学者は言いました。心を合わせ歌う教会。このことをクリスマスの祝福によって迎えた新年に確認しておきたいと思います。
 歌うことには力があります。「【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。」( 1-2節)まず神の招きがあり、その応答としてわたしたちは集い歌うのです。そして「感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」(4-5節)と主に信頼しつつ、歌う民としての教会として整えられることを願います。
 ここで歌われている神は、「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(3節)とあるように羊飼いのイメージです(詩編23参照)。しかし旧約の時代から新約の時代に羊飼いの位置づけは逆転してしまいました。王や預言者、指導者としてのあり方から虐げられ差別される者へと。
 ルカ福音書によれば、その虐げられる者の代表としての羊飼いたちに、最初のクリスマスの賛美が聞かれました「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)。これはかつての出来事にとどまらず、今のわたしたち、地上での応答へと導かれるものであると理解したいのです。わたしたちはクリスマスの祝福に守られていることを信じます。また同時に天使の歌声も。
 ルカのクリスマスの記事を読むと歌に溢れています。天使たちの歌声に応答する羊飼いたちの歌(2:20)、マリアの歌(1:46-55)もザカリヤ(1:68-80)の歌。これら聖書から示される歌う教会の方向性は「平和」を求め、祈る心を合わせていくところにこそあります。天使の歌声は、自由を奪われ、抑圧され、差別された人たちが絶望から希望に向かって、自由と解放を求めていくところにあるからです。
 もちろん、歌のもっている力は、悪と闇の勢力も知っています。彼らも歌の力を用いるのです(軍歌だけではなく、かつての八紘一宇の思想を支えるために成立した日本基督教団の諸教会が戦時下に歌った讃美歌を検証すれば分かります)。しかし、いやだからこそ教会は今、天使たちの歌声を信じてできうる限りの声で「地に平和」と歌うのです。世界中で歌われ続けている歌によってつながっていくために。天使の歌声を信じる限り、自由と解放を求める歌声は不滅だと教会は信じるのです。「み心にかなう」ところの「平和」を求める人たちの心は共鳴していくからです。
 わたしたちは歌う教会として歩む決意を今、クリスマスの祝福の中で迎える新年において、共に確認して歩んでいくのです。まことの羊飼いである主イエス・キリストによって導かれる羊の群れとして「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」(1-2節)との促しに応答していきましょう。

2016年11月27日 (日)

詩編 24:1-10 「まことの王が来られる」

 詩編24に関しては、印象深かった説教集があります。エバハルト・ユンゲルの『第一説教集』です。ご承知のように、かつてドイツは東西に分かれていました。いわゆる「ベルリンの壁」と呼ばれる隔ての中垣があったのです。ユンゲルはこの壁のブランデンブルク門を通る王として主のイメージを解釈しました。ブランデンブルク門は、当時の東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」の象徴的な意味を持たされています。当時にこの門はコンクリートで塗り固められており、通り抜けることが不可能であったのです。この通り抜け不可能な門を堂々とやってくる主、神の姿、それが栄光に輝く主なのだという仕方で、この世に対して介入してくるイエス・キリストの神の姿であるというイメージを提供してくれているのです。
 この王のイメージをクリスマスの主イエス・キリストに見たいと思います。順説として読むと、戦争の勝利の凱旋を神に感謝する栄光の王の姿となります。しかし、逆説として読むべきではないでしょうか。主イエス・キリストがエルサレムに入られたとき、軍馬ではなくて、荷物を運ぶことくらいしかできず、ささげものにもできないロバの子を用いられました。
 この王の姿とは、ロバの子にまたがる平和の主なのです。平和の主としての王である方をわたしたちはクリスマスに向かって迎える準備をしているのです。主イエスは、平和の主としての「まことの王」としてこの世に来られた。それは正しいものを招くためではなくて、罪人を招く仕方で来られたのです。より弱い立場におかれたものをこそ、仲間とし友とするためです。神であることをやめずに独り子として来られたのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
 イエスという名前はヨシュアから来ています。神は救う、という意味です。その中身がインマヌエル、すなわち「神は我々と共におられる」というのです。
 主イエス・キリストの神は、わたしたちのもとに「まことの王」として来られました。そして、やがて来られる日、来臨の日に向かってわたしたちは歩んでいます。来臨への希望の象徴として、わたしたちは毎年クリスマス、幼な子主イエスが飼い葉桶に来てくださったことに対して感謝をもって迎えるわけです。

2015年11月29日 (日)

詩編130:1-8 「待つことを学ぶために」

 QOLは、人生の質、生活の質の略語です。QOLを考えるときに、悩み、痛み、苦しみというものをマイナス・消極的意味ではなくて、積極的なもの・そこには意味がある、ということを受け止めていく中で、QOLを深めていくことになるのではないか、という流れに変わりつつあるのです。
 この詩人は非常な絶望の淵におかれていることが分かります。しかし、絶望を口にすることのできる前提には神の存在があります。聖書のテキストを読むときにしばしば行われる方法がありますが、最後から読むというものです。詩編だと分かりやすいですが、たとえば、7節と8節を読んでおいて1節から読み直してみると筋が出てくることがあります。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。(7-8節)」 
 「深い淵」とは黄泉と呼ばれる地の底、奥深くであったかもしれないし、深く険しい谷底であるかもしれない。光が届かないようなところであって、自分の力では抜け出すことができない、どん底であったかもしれない。そこから、「主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。(2-4節)」
 5節以降で「待つこと」が強調されます。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。(5節)」。さらに「わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。(6節)」とは、神による支えによって力づけられ、待つ力が備えられるのです。
 暗闇、夜明け前の一番暗い時間帯、ただひたすらに一筋の光を待つ見張りが待ち続けるのだと。痛み、悩み、苦しみ、病、様々な困難、解決不能であるかのような事態、絶望しか呼べないような事態にあっても、神はいらっしゃるということによって、呼ばわり祈ることが赦されていることによって、その人生の意義というもの、人生の質というものを問うていこうとする態度、このことがクリスマスを待つ態度でもあろうかと思います。
 イエス・キリストの神を前提としたQOLを求め、クリスマスを待つということにおいて、待つことを学び、より祝福されたあり方へと変えられていくようにと願っています。

2015年10月25日 (日)

詩編22:20 「神さまにお祈りしよう」

~キリスト教教育週間(子どもとおとなの合同礼拝)

 今日は、ケニアとウガンダの子どもたちが学校に行けるよう、また仕事ができるように支援をしている「アルディナ・ウペポ(大地と風)」の活動を覚えて礼拝します。アフリカという大きな大陸の東側にあるケニアもウガンダも、お金をたくさん持っている人と持っていない人の差がとても大きい国です。また、国の中で戦争があったりして大変です。特に酷いのは、子どもたちが強制的に兵隊にされて、人を殺したり殺されたりするような状態が長く続いてきました。基本的には、その国のことはその国に暮らしている人たちが話し合いによって決めていくのが筋だと思います。しかし、なかなか難しい時に、他の国の人たちが少しでもその国の人たちの幸せのためにお手伝いすることはできると思います。
 不安定な社会の中で、一番身体も心も傷つけられ、痛めつけられるのは子どもたちです。その子どもたちの<いのち>を守り、支える働きの一つがアルディナ・ウペポなのです。子どもの<いのち>が大切にされる社会が良い社会であるし、神が望んでおられるはずなのです。今日の聖書は詩編22:20です。「主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。」この祈りは、ケニアやウガンダの子どもたちの願いそのものでしょう。まずは、わたしたちもこの祈りに心を合わせたいと思います。
 この22編という詩は絶望の言葉から始まります。2節には次のようにあります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」と。しかし後半に向かって、段々と調子が変わってくるのです。今日の20節を挟み、25節ではこう歌います。「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
 日本という国は、アフリカを搾取している事実を否定できないけれども、だからこそ小さな種を蒔く道へと導かれていきたいし、アフリカで種を蒔くアルディナ・ウペポのことも覚えておきたいです。とりもなおさず、そこの国々で暮らしている子どもたちのことを覚えて祈ること、わたしたちは「神様にお祈りしよう」ということで心を合わせていくようにと導かれているし、促されているのです。
 決して絶望のまま終わることはなく、神さまのお守りを信じて祈り続けていきましょう。

2015年9月13日 (日)

詩篇 92:1~16 「白髪になってもなお実を結び」

 今日の詩編は基本的には賛美の歌というものです。ここにあるのは、神に逆らうものが滅びて、神に従うものは祝福されるという、そういう物語です。歳を老いていくところに恵みがある。この世の価値判断とは相反する理解があるのです。13節に「神に従う人」とありますが「義人」ということです。「なつめやしのように茂り/レバノンの杉のようにそびえ」る、それは「主の家に植えられ/わたしたちの神の庭に茂ります。」とあります。神との関係において歳を重ねていく一人ひとりにとっては、「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ていくと。
 つまり、歳を重ねていく、この世の価値観では、それが好ましくない、嫌悪の対象であるけれども詩編の作者は、神に結ばれて在るときには、歳を重ね「白髪になってもなお実を結」ぶ、そして「命に溢れ、いきいきと」すると述べるのです。これをどういう風に読むのか。この世的な感覚からすれば、老いていけば、色んな能力が剥ぎ取られていく、衰えていく、だからダメなんだ、ではなくて、実は逆説的に、余計なものが削ぎ落とされて、より純粋な、非常にシンプルな信仰になっていく、から良いのだと。
 わたしたちは、あれができるとか、これを持っているとか、そういうもので自分に価値を与えているのですが、そうではなくて、そんなものが削られていく、そうした時に核となるような信仰が大切なのです。自分は何も出来ない、何も持ってはいないのだ、というところにこそ「白髪になってもなお実を結び/命に溢れ、いきいきとし」ということが起こってくる。
 歳を重ねていく時に、今この世に神によって貸し与えられたいのちが存在しているという事実、それだけですでに神によって祝福されている存在なんだということを感謝をもって受け止めさえすれば、それでよいのだ、ということです。そして、そこに寄り添おうとする比較的若い者たちは、できるとか持っているという価値観を、全部捨て去ることは困難かもしれませんが、少なくとも相対化することによって、同じ持たざる者、神の側からすれば無に等しい者として同列に立ち、お互いの命を尊敬しあいながら、「世話」をする、配慮を持って接するということが起こりうるということです。
 しばしば、お見舞いに行ったときに、実は励ましにいったのに励まされて帰ってくるという経験をした方は大勢いらっしゃると思います。このような交流が起こるわけです。そういう交流において、わたしたち比較的若い者は高齢者を敬い、高齢者は比較的若いものに自らを委ねて任せていく、ということができればそれで良いのかなあと、高齢者の日にあって思います。

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