詩編119は詩編の中でも最も長く、ヘブライ語のアルファベット22字それぞれにつき、その文字から始まる8節ずつが綴られています。今日の箇書は(メム)とありますから、「メム」から始まる8節の詩が語られ、22×8で全176節となっているのです。この97~104節から解釈していきます。
119編を通して読むと、テーマは「神の意志の具体としての言葉」であろうと思われます。それを表わすのに「律法」「御言葉」「命令」「掟」「定め」などが用いられています。今日の箇書で言えば「仰せ」が相当します。神は、イスラエルの民に向かって、神の意志に従って生きるところにこそ喜ばしさがあると示し、これに対する信仰の告白として「詩」という形式をもってこの詩人が応答したのです。神の意志、その御言葉である「律法」の「仰せ」られるところは「わたしの口に蜜よりも甘い」というのです。
ここで言う「蜜」のイメージを整理しておこうと思います。おそらく「蜜」とは甘味の代表、最も強い甘さを表わしています。近代になって甘味の代表である砂糖が大量生産できるようになり、比較的安価で流通している現代の感覚からは、甘味に希少価値があり憧れの対象であったとは想像しにくいかもしれません。また、現代では甘い物の取り過ぎは健康的でないという風潮もあるようです。しかし、古来人間は甘味への憧れを強く抱いていたと言えます。元々は天然の野生の蜂の巣から得られる蜜を始め、生の果物(ぶどう、いちじく、ざくろ、ナツメヤシ等)を乾燥させたり、絞った果汁や樹液を煮詰めて糖度を上げることもしていたでしょう。甘味は、アルコールほど強力ではないかもしれませんが、快楽をもたらす依存性物質でもあるのでしょうか。甘い物を口にしたときに、ただ口の中に広がる(まさに、ほっぺたが落ちるような感覚)のみならず、甘さが身体中に行き廻り、指先まで痺れるような感覚。そのような甘味を表わすものとして「蜜」という言葉は読んでください。
97節以下を読むと、律法を愛し心砕く、と詩人はまず告白しています。律法から多くを「教え」られるのであるから、「命令」と「御言葉」を「守る」と。律法に生きる生き方は蜜よりも甘い素晴らしさに満たされている、と高揚していきます。神が与えてくださった律法は、蜜になって身体を満たし、震えるほどの喜びとなって、充実感・人生の質の向上への導きがあると詩人は感謝をもって謳い上げます。
神の意志、その思いとは、「蜜」で表現されているようにイスラエルの民にとって甘美であり喜ばしいものではあります。しかし、後のイスラエルは「律法主義」に陥り、また人間の都合に合わせた解釈による合理化など神の思いに反逆していくという過ちを犯しました。神の「律法」「命令」「仰せ」とは、本来良きものです。それを捻じ曲げるところに人間の弱さがあるのです。
キリスト教会は、詩編も含めたユダヤ教の伝統を踏まえ、「律法」の成就がイエス・キリストであると再解釈しました。この点についてマタイによる福音書は次のように述べます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17—18)この律法の成就としてのイエス・キリストは「蜜」の味わいとして次のように語ります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
しかし、かつてユダヤ教が「律法主義」に陥ったことはキリスト教会にとっても無縁のことではありません。独善に陥ってきたことは「キリスト教史」を概観すれば分かることです。キリスト教的律法主義が多くの「人道に対する罪」を犯してきたことを忘れてはなりません。本来、律法は神からの祝福です。イエス・キリストの神の教えは「蜜」の甘味とか滋養とか人を生かす力あるものです。この主イエスにある「蜜」としての「御言葉」を喰らって生かされてある存在が、教会でありキリスト者なのかもしれません。しかし、注意が必要なのです。
ここでヒントとなりそうな言葉があります。ヨハネの黙示録です。【「第七の天使がラッパを吹くとき、神の秘められた計画が成就する。それは、神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせとして告げられたとおりである。」すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」】(黙示録1:7-11)
キリスト者とは、「蜜」である「御言葉」としての「仰せ」を受けつつ歩むものです。しかし、ただ単に耳に心地良いような、口当たりの良い物だけを求めるのは間違っています。黙示録のテキストの告げる「腹は苦くなった」という性質を忘れてはならないのです。「腹の苦さ」に象徴されるであろう、責任性とか気まずさのようなものをも含めて味わうべきなのです。「蜜」にしても、蜜蜂の採取した花の種類や環境によっては、単純な甘さではなくて香りが複雑だったり、雑味に感じられる苦さとか渋さもあるだろうと思います。表面的な甘味だけを追求することは、思考せずに従うことだけを求める律法主義に陥ります。
困難や苦難、痛みや悲しみと無縁な人生が蜜を味わう人生ではありません。そうではなくて、むしろ、解決困難な課題や問題の中でこそ、人生を味わう力を発揮できることが大切なのではないでしょうか。神から与えられる蜜の味の人生を味わう信頼の中で生き抜く、希望の人生です。
わたしたちの大先輩であるパウロは、この蜜を味わう伝道の生涯を歩んだと考えます。彼の生活は艱難に満ちたものですが、悲壮感や絶望感ではなくて、希望を味わう蜜の味を知っていたに違いないのです。コリントの信徒への手紙二 11章23節以下でパウロは語ります。【苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。】
ここで「わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と語りうる主イエスへの信頼とは、人生を蜜として味わうあり方ではないでしょうか。この世の価値観とは別の在り方を知っていたのです。このパウロの信仰における態度は、主イエスの姿を引き継いだものです。神の教えとしての蜜の味を知る者のみが語りうる、世に対する接近の仕方です。理不尽で不平等で争いの絶えない世界にあって、なお希望に生きる。そしてこれは、山上の説教に共鳴していると思えるのです。今一度、主イエスの教えの中でも有名なマタイによる福音書5章の山上の説教の「幸い」の言葉を聞きつつ、「あなたの仰せを味わえば わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」との言葉への思いを整えたいと願います。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3-12)
主イエス・キリストの神の祝福のもとで、備えられた自分の人生の質を模索しながら主イエスにある喜びに人生を「蜜」として味わいたいものです。それは必ずしも決して上品なものではなくて、しばしば日毎の悩みや苦難の中でなりふり構わず「御言葉」をむさぼり喰らうような、端から見れば見苦しい場合もあるのかもしれません。でも、そこには味わいのある人生が備えられているはずなのです。聖書の「御言葉」のもつ力に一度でも触れたこと、そのように支えられた経験を実感したことにある人にとっては、共感や共鳴へと引戻されるのではないでしょうか。
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