ヤコブの手紙

2017年7月23日 (日)

ヤコブの手紙 5章19~20節 「真理に立ち返る」

 今日の聖書の意味を確定するために、99と1の羊の話を取り上げます。この話はマタイとルカにありますが、マタイでは、99を山に残して、出ていった1を羊飼いが探しに行きます。ユダヤ教の伝統で「山」というのは神が語りかける場所であるとされ、そこから転じて聖なる場であると考えられていました。この系統にあるマタイは、山は教会と考えているのです。ですからマタイの場合、99は山という安全な教会に確保しておいて、そこから迷い出た1を探しに行くという姿勢です。これが一般的な99と1のたとえの解釈となります。そういう意味で教会から離れていった人、躓いていった人を何とか迎え入れたいという意味になります。
 ルカの場合は、99を荒れ野に置いて1を探しに行きます。荒れ野に99を捨てて1を選ぶという判断なのです。そこに悔い改めの動機が入ってくるので、結論としてはマタイと同じように悔い改めることが大切だ、となってしまいます。ただしルカの場合は、権力としての多数派の99が少数派の1を追い出したという話となり、イエス・キリストは99を捨てるようにしてでも1を尊重するという文脈になります。すなわち、悔い改めるのは1の側ではなく、99の側が悔い改めるべきであるという、マタイとは逆の発想があるように思われます。
 これを踏まえて今日の聖書に戻っていくと、「真理から迷い出た者」のイメージを、たとえば富の問題、知恵の問題から考えています。富の問題からすれば、教会に金の指輪をはめた立派な身なりの人が来た時と汚い格好をした人が来たときで扱いが全く違ってしまう態度、分け隔てをしてしまう状態がある(総体としての富をも射程に入れている)。知恵の問題にしても、人間の知恵を過信し思い上がり、知恵のあるなしで人を分け隔てする発想がある。そういう不平等な差別的なことが起こってしまっている教会の状況に対して信仰が試されているのです。試練を耐え忍ぶことによって、自由の律法であるところの正しい道、よりイエス・キリストの思いに適ったところに引き戻すという意味での「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて」なのです。そこで「真理へ連れ戻す」ことがテーマとなるのです。これをヤコブの手紙の文脈の中では、教会の内外で人間関係の不平等なあり方を正していく必要があると述べようとしています。
 教会だけでなく、人間関係において序列というものをなくしていく道が「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻す」ということです。迷いだしてしまう人を作り出してしまうような状況を無化していくということです。そのために、わたしたちの発想自体を転換しなければいけないところに立たされているのです。

2017年7月16日 (日)

ヤコブの手紙 5章12~18節 「祈りに生きる」

 自分ではなく神のみが唯一の正しい方であるとの前提に立てば、自ずと自らは相対的存在であることが知らされます。この相対的存在である自分の位置を、「然り」を「然り」「否」を「否」とすることによって整えていこうという祈りの生活への招きが13節から18節で語られているのです。
 ヤコブの手紙の著者は、彼が見ている教会の様々な悪弊は、祈る生き方に立ち返ることによって乗り越えられると信じていたのです。一人で神の前に祈りながら自己相対化が起こってくると同時に、他者であるキリスト者同士が教会の中で祈り祈られという関係性へと育てられていくのです。そして、キリストの具体としての交わり・コミュニケーションへと変えられていくときに、教会が教会として相応しく整えられていくに違いないと信じているのでしょう。この祈り祈られている関係・コミュニケーションは主イエスの守りにある限り、確かで大きな力になるのです。
 誰かを覚えて祈る、その祈りは、主イエスの神による結ばれ方を言葉として表明しており、祈りに対して聞き耳を立て続けている神からの何らかの働きかけによって、わたしたちは神がこの場で働いていてくださることを信じることができるのです。つまり、エリヤの時がそうであったように、神は天におられて何もしないのではなくて歴史に介入すると信じられるということです。
 イエス・キリストご自身がすでに呼びかけて教会を起こしており、そこに招かれてしまっているので祈りは応答なのです。神に対して応えていくという責任的なことです。祈りにおいて自己相対化がなされると同時に他者との交わりにつながっていくことです。
 ヤコブの手紙において祈りとは、混乱した教会を主イエスに相応しい道へと取り戻していく基本的態度なのです。祈りは主イエス・キリストの迫りに対する応答としての共同体の広がりにおけるものです。と同時に、この世におけるキリスト者としての戦いの言葉でもあるはずです。いかにして生きるべきかを相対化しつつ、福音の導きにおいて前進させうる力あるものなのです。きっと何かが変わってくるはずです。主の導きのもとで、主イエスに相応しくされていく祈りは観念ではなく、具体としての力があるからです。祈り祈られという教会の結ばれ方は、主イエスの守りと導きがある限り、この世において神が教会を整えていくに違いないからです。ヤコブの手紙の信仰に立ち返っていくならば、この街に建てられた教会の使命を全うするために、祈りに生きる教会として共々歩んでいけるように祈り続けましょう。

2017年7月 9日 (日)

ヤコブの手紙 5章7~11節 「待ちながら」

 ヤコブの手紙は当時の教会の現実の中で、ここで踏ん張らなくては教会が教会でなくなってしまうのだという危機感をもっているようです。神をないがしろにし、富や知恵を優先させる風潮が蔓延している中で、神に立ち返ることを教会に取り戻そうとしているのです。そのあり方として辛抱とか我慢、忍耐するようにと促しているのです。
 ヤコブの手紙には忍耐によって「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人」の状態から「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」への成長の道筋が備えられていることが描かれていいます。ここでの忍耐とは、嫌なこととか避けたいことを我慢するという気分の問題ではありません。5章7節には「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」とあります。「主が来られるとき」を目指し、このときに希望をつなぎながら<今>を辛抱、我慢、忍耐する、その姿を神の御心に従った態度で生き抜くことが求められているという意味になります。
 農夫の待つ態度を旧約での預言者たちとヨブに例えています。エリヤはバアルの預言者たちに勝利しても逃げなくてはならない境遇に導かれてしまいます。激しい風や地震、火などの自然の中に神は語られず、静かにささやく神の声しかない。ヨブは一人で明確な答えが示されないままであっても、神に問い続けることをやめない。この共に孤立無援である二人に共通するのは、語りかけ祈るべき神の存在を前提としていることです。
 見捨てられ、孤立無援であるときにさえ「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」という言葉を事実として受け止める受け皿としての信仰が問われているのです。神によって認められ支えられているところの辛抱や忍耐、我慢は幸せという人生の質を向上させるという約束がここには語られています。「5:10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」ここで「辛抱と忍耐の模範」は「主の名によってかたった預言者たち」であるなら、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」という言葉の事実から始めていくことによってのみ可能だということです。
 キリスト者が何故、その可能性に拓かれているのかは、主イエスを見つめ思い起こすときに知らされるからです。神のゆえに重荷である見捨てられ感や孤立無援の中で辛抱や我慢、忍耐に生きることができます。そして、「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」という言葉に全幅の信頼をおいていた方だけが、わたしたちの主イエス・キリストなのです。
 この慈しみと憐みにおける主イエス・キリストへの思いを信仰として受け止めるならば、わたしたちの日ごとの辛抱や忍耐は主イエス・キリストご自身の喜びによって支えられた祝福の内におかれていることを知らされます。今を乗り越える希望に生きる道へと招かれていることが偽りではなく、まことの中のまことであるからです。

2017年7月 2日 (日)

ヤコブの手紙 4章13節~5章6節 「この世の富について」

 教会にとって、富の問題、お金の問題は、初代から現代にいたるまで様々な場所で様々な仕方で頭を悩ませ続ける、未解決の課題であると言えます。読み解くカギは4章15節の「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」という言葉にあります。「主の御心であれば」とは、「ヤコブの条件」と呼ばれている姿勢を表わしています。ここに立ちながら発想し、行動して証ししていく、ここにこそ教会のあり方があり、ここに向けての歩みへと整えていくようにとの促しがあるはずです。自らの遜りにおいて貧しい者に仕えていく道こそ、それを行いによって示す信仰こそが生きている者だとヤコブの手紙は主張しているのです。ヤコブの手紙の見ている諸教会は富や、富の側に立つ人々の言葉によって混乱しています。それに対して「上からの知恵」によって解決の道を探ろうとしてもがいていることが読み取れます。ヤコブの手紙は教会の中での富の問題を指摘しながらも、教会を超えて、その当時の社会のあり方を踏まえての富全般の問題性を見ています。教会が社会の富について、その不正について語り行動することは信仰的な行いなのだと考えているからです。
 現代日本はどうなのでしょうか。富む者がさらに富を蓄積し、貧しい者がより貶めらていく仕組みは古代のギリシャ・ローマ世界とそれほど大きく隔たっているのでしょうか。この富を巡る不正の問題をヤコブの手紙は、教会の行いとの関連で信仰的な事柄だと考えています。この意味で、今日の聖書を読むことは、この世の富を巡る諸問題が教会の信仰告白の事態でもあることを思い起こさせようとしているのではないでしょうか。富を富んでいる者のところに蓄積させ、さらなる資本の投入により、より弱い国々の資源を収奪搾取していく方向性に歯止めをかけ、水平社会、より弱い人々へと富を還元していく方向性を模索していく時が告げられているのかもしれません。
 日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。この規定は富を蓄積する勢力によって骨抜きにされています。富が貧しい者の生活権を脅かし、年齢を問わず貧困が国を覆っているのです。これだけ、この国に富が蓄積されていても水平社会とは、ほど遠いのです。
 これらの大きな課題は未解決のままで、わたしたちの前に大きく立ちはだかっています。しかし、希望はあるのだという励ましをもヤコブの手紙は語ろうとしているのです。お互いの知恵を絞っていく中で、迷っていても主の備えられた道に辿り着くことができるのだという信仰の歩みにつながることを願い、ご一緒に祈りましょう。誰もが今生きていることを喜んで暮らせる社会を来たらせようとした主イエス・キリストの思いを受け継いで歩んでいけたらと願っています。

2017年6月25日 (日)

ヤコブの手紙 4章1~12節 「神は近いのだから」

 教会の中に「戦い」や「争い」があることは古代も現代も変わりがありません。混乱した教会を正すために神からの歩み寄りを受け入れるときにはじめて「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」が事実として起こり、「神に近づきなさい、そうすれば神は近づいてくださいます」という方向性が与えられるのです。それは、自らを正当化する信仰理解を相対化し、自己吟味をすべきということです。これも人間の価値判断や価値基準を物差しとして図るのでは、結局人間に依り頼むことから自由ではありません。イエス・キリストの神の側から語られているところにのみ根拠があるところから始める、これが原則です。
 人間が人間の知恵や力を用いて神とは何かを追求していった延長線上には、神はいないのだと認めることが重要です。人間には神を知る知識がそもそも与えられていないのです。神の側からの語りかけからしか、信仰は起こされえないからです。人間の信仰の始まりは、まず受けるところから始まります。この世を友とするのではなく、イエス・キリストの歩み寄りにおいて、神をこそ友とする生き方だというのです。わたしたちが神に近づき友となる道は、まず主イエスが先にわたしたちに向かっておられることに根拠があります。福音書の証言によれば、様々な奇跡物語や論争物語において、弱りや病、差別に対して、そこにいる一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさを復権したのです。
 出会いを求めるイエス・キリストから照らされて、それを反射させていく道こそが神の近さに生かされて行くことなのではないでしょうか。主イエス・キリストに委ねていけば、教会という共同体は相応しく整えられていくに違いないのです。確かに、一筋縄ではいかないかもしれません。日本キリスト教団に限ってみてみても、教団も教区も教会も、立場の違いによる対立関係は確実にあると言わなければなりません。お互いが自分は神において正しい、という「確信」に満ちている中での論争は不毛です。まず、自分と同様に相手の背後にも神がおられるのだと、目を凝らすことが必要です。
 違いがあることを認め、自己相対化しつつ、対話の可能性を探るということ。ヤコブの手紙の主張は、この方針と共鳴していると言えると思います。
 教会の教会らしさの復権が導かれていく中で、わたしたち一人ひとりの信仰者としての生き方は整えられていくはずです。その期待をもって歩むことが赦されているからです。ここから何度でも最初から始めたらいい、それだけのことです。近づきつつある主イエスが一緒にいてくだされば、こちら側から応答して神に近づく教会の歩みがあり、神が友となってくださった事実に支えられて神の友となっていく道があるのです。このことが確実であることに信頼していけば、心配するには及ばないのです。神の近さゆえに、神の友として受け入れられていることを根拠にして、自己相対化と自己吟味すつつ他者との関係を整えていく中に、教会の結ばれ方も確認できるでしょう。

2017年6月18日 (日)

ヤコブの手紙 3章13~18節 「平和に生きる道」

 何故人間は知恵を悪用し、また濫用し、幸せよりも不幸を、平和よりも戦争を、命よりも死を求めてしまうのかと。聖書はこの疑問について創世記の原初物語で語っています。いのちを不幸にする知恵がどこから来たのかについてはアダムとエバが禁断の果実を食べたゆえ、人間は「目が開け、神のように善悪を知るものとなること」を選んでしまったのだと(創世記3:1-6)。さらに、人間の高ぶり、傲慢さへの裁きとしてノアの物語があり、「神のように」という動機はバベルの塔の物語(創世記11:1-9)へと続いていきます。これら原初史(創世記1~11章)の書かれた背後にはダビデ・ソロモンの王朝に対する批判があることが想定されます。富の集中を王朝にもたらすことは、より貧しいところから搾り取る仕方で、富と労働力、軍事力を優先する仕組みを構築しなければなりません。ダビデ・ソロモンは知恵を、神に栄光を帰することよりも自らの欲望の奴隷として利用したのです。知恵は人間の意思に委ねられるとき、人々をより不幸な社会の仕組みの中へと導いていくのだと言えます。
 ヤコブの手紙3章13~16節は、人間の知恵の悪しき現実を指摘し、17~18節では、あるべき知恵の方向性についての提案がなされます。人間が自らの知恵に寄りすがっていくことではなくて、主イエスの知恵に導かれて行くことにおいてのみ、平和の道に連なることができるのだというのです。人間の知恵に対する謙虚さ、遜りを再認識していくことに他なりません。
 諸々の「知恵」の働きや影響は、わたしたちの教会の中にも日々の生活の中にも染み込んでしまっています。この世の「知恵」と神に基づく「知恵」との区別ができなかったり、混同されていたりと、より複雑になっています。今、人を生き生きとさせ喜び合うことへと向かわせるところの「上からの知恵」のあり方にまず注目し、ここから教会を、この社会を、またわたしたち個人から様々な人間同士の関係に至るまで、神に相応しいあり方なのかを自己検証しながら整えていくことが大切です。このことを課題として歩んで行くことをヤコブの手紙は語りかけているのではないでしょうか。この問いから無責任に逃れることなく対峙していくところに、現代のキリスト者の使命があるに違いないのです。人のいのちが悪魔的力に飲み込まれている時代にあって、教会の使命は決して軽くはないからです。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」(バルメン宣言第1テーゼから)事実を受け止め、共に歩む群れとして整えられることをご一緒に祈りましょう。

2017年5月28日 (日)

ヤコブ3:1-12「真実の言葉から/を」

 口は禍の元とは言いますが、初期の教会からすでに言葉における破綻があったようです。3章8節にあるように 「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」と。それでは、教会は全く希望がなくて、焼き尽くし、関係を破壊しつくす「舌」の働きによって破滅の道を辿っていると考えたらいいのでしょうか。8節後半の「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」という言葉を読むと教会には救いがないようにさえ思われます。
 今日の聖書をもう少し注意して読んでみましょう。3章9節と10節には次のようにあります。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」8節に「舌を制御できる人は一人もいません。」とありますので、わたしたちの言葉の可能性には呪いの方向性しかもたされていないはずです。しかし、同じ文脈で「賛美」も「舌」や「口」の働きに対して開かれていると述べていることに注目したいのです。
 人間が自らに頼り自らを誇り、自らで自らを立てようとするなら「舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」という道しかありません。しかし、舌を制御し、賛美への道はあるのだし、ここにこそ教会のあり方はあるのだとヤコブの手紙は語ります。3章6節に代表される「舌は火です。舌は「不義の世界」です。」という言葉は、人間が自らに依り頼むことで、神を忘れてしまうことへの警告です。3章7節の「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されています」という意味は、正確には「均衡を保つように仕えていく」意味でしょうが、これを人間自身に対しても適用することができるというのは勘違いです。人間には人間自身を制御することができないのです。人間は自分の言葉を建設的に用いることができないというのがヤコブの手紙の判断です。その上で、人間の口は賛美にも開かれているのだと語ります。ただし、人間の側からではなく、神の側からしかその道はないのであり、そこへ立ち返れとヤコブの手紙は導こうとしているのです。
 立ち返りの根拠は、1章19-22節ですでに語られています。「御言葉を行う道」です。前もって御言葉というものがあるわけではありません。イエス・キリストご自身の生涯において示された振る舞いと言葉、十字架へと歩まれた道行きの中での招きの言葉です。このイエス・キリストという御言葉こそを真実の言葉として聞き、その応答として真実の言葉に向かっての言葉を紡いていくことを、その都度最初から始めること。ここに教会の存在の基本があるのです。神に由来する真実の言葉から聴くことによって、神に由来する真実の言葉を紡ぎだしていくこと、この途上において固く立つならば、「舌を制御できる人は一人もいません」と言わざるを得ない教会の現実の中で、しかし、だからこそあえて神への応答としての賛美である「口は幸いと賛美をもたらす信仰」が起こされることに信頼しつつ歩む群れになることができるはずです。

2017年5月14日 (日)

ヤコブの手紙 2章14~26節 「生きて働く信仰」

 14節で「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」このように問います。「何の役に立つでしょうか」という問いには、すでに「役に立つはずがない」という意味が込められています。
 教会は、この世に生きる具体的な人間の集まりです。だからこそ、教会はこの世に対してイエス・キリストの信仰のゆえに責任と義務における行いが求められているのです。
 ヤコブの手紙は、「行いを伴わない信仰は死んだものです」として、行いのない信仰を批判しながら、文言にはあらわされてはいませんが、教会の課題は生きて働く信仰にこそあるのだから、あなたがたはどのような決断をもって神の前に立つのか、と同時にわたしたちに問いかけているのです。あなたがたの信仰は果たして信仰に値するのか、と。
 ヤコブの手紙の主張する「行い」とは、信仰によって導かれる総体としての律法です。隣人を愛していくことを中心に据えた、お互いがお互いのいのちを喜び合い、支え合い、共に生きるための人間が人間になっていくための行いです。この行いは教会という閉じられた空間・時間が開かれていくところに成立していくとヤコブの手紙は信じていると思われます。礼拝が「派遣・祝祷」で締めくくられることを真剣に受け止めたいと思います。隣人愛に生きる教会の行いを伴う信仰は、派遣されていくそれぞれの場で主イエスの導きと守りの中で出来事として必ず起こされる、という約束にキリスト者は生きるのです。
 本来、祈りとは戦いの言葉なのです。いかにして共に生きるべきかという神からの問いかけに応えるべく自分の言葉を紡ぐ行為です。深く祈る人は積極的に行う人であります(たとえば関田寛雄牧師の祈りと戦いの姿勢や中村哲医師の働きなどが思い浮かびます)。行動の伴わない祈りは偽りです。人は自己欺瞞に陥り、自分を頼みとする不信仰に導かれています。行いを伴わない信仰を排除しながら歩むところに、生きて働く信仰が動き始めているのです。
 生きて働く信仰とは、主イエス・キリストご自身です。主イエスが神の御心に生きたあり方において政治的であった、それ故わたしたち自身も政治的な決断の中に生きることが求められているのです。無関心とか事なかれ主義や、その時々の権力に身を委ねたりおもねったりするあり方は、政治的権力に飲み込まれてしまう危険があります。深い祈りは、その誘惑を退けます。主イエスも伝道活動を始めるとき、その悪魔の誘惑の呼び声と対峙し、勝利したのです(たとえばルカ4:1-13)。ですから、今一度、主イエスの誘惑に打ち勝った姿から学びつつ、わたしたち自身に生きて働く信仰を求め、権力からの誘惑を退け、祈りつつ歩んでいきましょう。

2017年5月 7日 (日)

ヤコブの手紙 2章1~13節 「恵みを分かち合う道」

 富んでいる者が優遇され、貧しい者がないがしろにされる現実が教会において明確に起こっているとヤコブは指摘します(2:2-4>)。金持ちには立派は席を用意し、貧しい者には「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」という態度に、こちら側とあちら側として教会の中に壁を築き上げる差別思想が明確に表わされています。
 教会の中で富んでいる者と貧しい者との間に壁を築き上げることで教会の教えが著しく破壊されているというのです。そこでヤコブの手紙は皮肉を込めながら神の教えとして律法論を展開することで「憐み」によって関係を整えていく提案をしています(2:7-13)。教会が人間の集まりである以上この世の価値観から完全に自由でない。この自覚のないところでは世俗の価値観に飲み込まれてしまうのです。この人間関係の中に富をめぐって壁が築かれてしまうことによって、あるべき人間関係の豊かさを疎外する現実は古代から現代において途絶えては来ませんでしたし、この意味で古代の問題は現代の問題でもあるのです。
 ヤコブの手紙を読んでいくと、富んでいく側を糾弾し、その責任を追及しています。ヤコブの富んでいるものに対する教会批判は5章で展開されています。さらには4:13から読むならば、彼らが富んでいるのは商売によるものです。ヤコブの手紙の判断では、富んでいる者が富んでいるのは不正によるものであり、富自体を罪だと考えています。したがって、富によって壁が築かれているのであれば、壁を破壊する責任は富む側にあるということです。「富は壁を破壊するために用いられるなら正当な使い方である」という道しか残されないと理解することになります。お金がかかることですから壁は貧しい者の側から築き上げることができないのです。ですから、壁を破壊する費用は富む側が負担すべきなのです。このあり方を「憐み」の具体的行動と呼んでいいのかもしれません。
 分け隔ての壁を破壊していくことによって教会を整え、社会を水平社会へと変えていく道は、ヤコブの手紙の主張する律法を守る道にあると言えます。そしてこの内容は福音としての主イエス・キリストの振る舞いから照らされることによってのみ可能性が開けてくるのです。
 分け隔てを破壊しながら人とのつながりを回復していくのは、分かち合いの道であろうと思われます。恵みを分かち合う道です。それには、富んでいる者が謙虚さを取り戻していく関係性を整えていくほかないのでしょう。富んでいる側からの「憐み」の回復が解決の初めの一歩になるはずです。ここにおいて教会が「恵みを分かち合う道」が備えられているのです。ここを確認しながら、わたしたちの教会の富についての考えが整えられることと同時に世界のあり方についての考える方向を整えつつ、祈りましょう。

2017年4月30日 (日)

ヤコブの手紙 1章19~27節 「神の言葉の実践」

 ヤコブの手紙は、欲望なのか神なのか、どちらに従うのかと二者択一を迫っています。これは問われて正しい答を出すのは優しいです。この場で問われて欲望を選ぶと明言する人はいないでしょう。しかし、一歩教会を出た時も同じように答えられるのでしょうか、これが問われているのです。この手紙によれば、人間は元々良きものとして造られ神と向かい合って生きるよう求められているのですが、人間の中にあるところの欲望がそそのかすので道からそれてしまうというのです。「自由をもたらす完全な律法」とは「御言葉」なのです。ここでは、人間が造られたときに「心に植え付けられた」と理解されています。ただ「自由をもたらす完全な律法」とヤコブの手紙は言う時には、祭儀律法ではなくて神の喜ぶところの人間同士の関係のことを表わしています。すなわち、「御言葉を行う人になりなさい」という促しにつながってきます。
 これは正解を答えるのは優しいけれども実行するのは難しい問いです。分かっているけれどやめられない感覚です(ここでクレイジーキャッツの「スーダラ節」を思い起こしてほしい)。頭で分かることと行動とのズレの問題があるのです。
 これが教会の信仰のあり方の中で起こっているので、今一度神の前で礼拝と言う形の中で自分の今のあり方が神から見て「御言葉を行う人になりなさい」に生きているのかが問われているのです。これを真正面から受け止めているのでしょうか。キリスト教の言葉感覚の中で良いこと、正しいことを頭で分かっているけれども身体、生活がついていってないのではないでしょうか。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」(1:26)にあるように、自分の宗教性が正しいと思っても、「神の義」をないがしろにしてしまう「怒り」に埋もれてしまうのです。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(27節)という具体が失われていくのです。「御言葉」の具体に生きているかが問われているのです。そのために、礼拝の中で信仰者としての<わたし><わたしたち>を自己吟味することが大切なのです。
 イエス・キリストの生き方、死に方、よみがえり方から倣って生きることが求められているのです。21節には「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とあります。「心に植え付けられた」ところの神に喜ばれる生き方を、今の丸ごとの存在として証しに生きること、ここに中心があるのです。「救うことができます」は「このような人は、その行いによって幸せになります」(1:25)とつながってきます。その人が、「御言葉を行う人になりなさい」との促しに導かれ、神に守られ祝福された生き方の中で今の<いのち>の充実を喜んで受け止めることこそが、今日の聖書がわたしたちに語りかけている事柄なのです。ここから他者の<いのち>につながっていくことに対して開かれていることをご一緒に確認したいと願っています。

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