コリントの信徒への手紙二

2024年10月27日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章13節 「祝福による関係を作り出す」

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」。この祝福の言葉は、それぞれの教会という群れと聞いている教会員個人に向けられたものですが、これらに閉じられたものではありません。教会や個人が手紙の言葉に押し出されて、礼拝から遣わされ、それぞれの関係や暮らしている街や地方、さらには国単位の広がりをもつものです。

 今日の礼拝後のバザーは、わたしたちの教会がここにこうして存在するということを具体的に知ってもらうことができます。そして、地域との交わりや奉仕の一端を担うことができるのだと考えるのです。教会が街にただ存在するだけでも、何らかの働きがなされるのだという考え方があります。ああ、ここに教会があるのだと知られていることだけです。何かの役に立ったり、心の支えにあるのだとは自信をもって言うことはできないかもしれません。しかし、小さなことかもしれませんが意味なしとは言えないと思います。

 わたしたちのバザーの規模は決して大きいものではありません。また、多少の教会財政のプラスにはなるのかもしれませんが、利益中心には考えていません。どちらかと言うと、街に対する広い意味での証しなのかもしれません。ここに主イエス・キリストの教会が確実に存在するのだということです。何かある時には覚えていてほしいという願いをもっています。

 普段は礼拝を終え、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この祝福を受け、それぞれの場に帰って行きます。今日は、この言葉を受けながらバザーを行うという仕方で、この街の皆さんと一緒に主イエス・キリストの祝福に守られているひとときをご一緒に過ごすことができるなら、ここにわたしたちの教会の証しの働きがあり、豊かで喜ばしいものであることを願います。

2022年7月10日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章13節 「父・子・聖霊のひとりの神」

「三位一体」は「相互作用する3点セット」の意味でつかわれることが多いのですが、それは本来の意味とは違います。三角錐のように3つの側面をもつひとつの「もの」というのがキリスト教本来の意味です。「三位一体」の神は、一人でありながら父・子・聖霊という役割の中で呼びかけと招きにおいて働き続けておられるのです。ユダヤ教からキリスト教への脈絡の中でいわゆる「偶像礼拝」は否定的に捉えられています。これはただ単に「偶像」を礼拝することが間違った宗教・汚らわしい宗教という意味ではありません。神とは物言わぬものではないのだということです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この言葉は、「三位一体」における恵みと愛と交わりとが、それぞれの姿の中で実体となること、現実となることを、働き続ける神への信頼のもとでの感謝と応答として相手に祝福を祈るものです。「三位一体」における神は固まって動かないものではないのだとの表明でもあります。絶えず、呼びかけと招きにおいて、その働きをやめない方なのだとの表明でもあるのです。

コリント教会はパウロがアキラとプリスキラたちと共同して立ち上げました。しかし、パウロがコリントを去ってから分派などの問題が次から次へと起こり続けていたのです。何とか解決策を見出したい思いでパウロはコリント教会に手紙を書き続けました。パウロが願うような解決の方向には至らなかった可能性はあります。そのことをパウロは自覚していたのでしょう。しかし、それでも教会が教会として同じ神を信じ、共に信仰生活を歩むことができることを信じていたに違いないのです。

人間の知恵には限界があります。様々なアドバイスを書き送っても、それが主イエスに倣い、応答していく証の態度であったとしても、あくまでパウロ自身の考えや理解から自由ではないという限界のあったことは言えるのです。だから、コリント教会の今を整えるために、まとめとして神に委ねる必要があったのです。それが「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」という祈りでした。具体的に神が働いてくださるに違いないと信じていたからでしょう。

わたしたちは、このパウロの1313節の言葉を今のこととして受け止めることができるのではないでしょうか。「三位一体」「父・子・聖霊のひとりの神」が呼びかけと招きのあることを信じます。今もなお生きている神がおられることに信頼を置いて歩むことができる幸いに感謝したいと思います。

 

2021年9月19日 (日)

コリントの信徒への手紙二 4章16節「日毎に新しく」

 おはようございます。本日は、コリントの信徒への手紙二 4章16節をテキストに「日毎に新しく」という題で説教します。

 パウロは「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」と今日、高齢者の日礼拝において語りかけていることを確認しながらお話します。

 歳を重ねていくことには絶えず、マイナスのイメージがつきまとうことは否定できません。慢性的な病や体調の不良など若い日には起こらなかったであろうことが日常となってきます。身体の様々な働きが緩慢になり、鈍くなります。心や頭の働きのシャープさも衰えてくるでしょう。あるいは、訳もなくイライラしたり、老人性鬱、という症状が出てくるかもしれません。しかし、生活の繰り返しは続けられています。朝と夜の逆転があったり、時間が細切れになったり、リズムが崩れたりしたとしても、眠って起きる、という営みは続いているのです。死ぬことを聖書ではしばしば「眠る」と表現します。キリスト教会において死のことを「永眠」と表現する元となる考え方です。いわば、人は日毎に「眠り」という死のイメージから目覚めという誕生のイメージを繰り返しつつ、暮らしているのです。

 今日の聖書が語るのも、「外なる人」の衰えを感じる日々にあっても、目覚めにおいて「内なる人」が新鮮な事柄として新たにされるのだということです。創世記の天地創造神話において人は土くれから起こされたとあります。人の形にした土の塊の鼻に神が息を吹き入れたがゆえに、人は生きるものとされたのです。この事実をパウロは「土の器」と表現しています。この「土の器」に光である主イエス・キリストのいのちが注がれているがゆえに、わたしたちの今のいのちがあるのです。歳を重ねていけば、どこかしらに弱りが現れることもあるでしょうし、「衰え」も生じます。この事実をマイナス面だけに集中するのか、それとも別の可能性を求めるのかによって、そもそもの生きることへの態度が全く別のことになってくるのではないでしょうか。古びて朽ちていくだけと思うのか、それとも「日々新たにされていきます」と受け止めるかによって、人生の質はまったく方向が逆のこととして理解されるのです。

 「老人力」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは赤瀬川原平という芸術家が、1997年に使い始めたとされる考えです。通常、「物忘れが激しくなった」などを老化による衰えというマイナス思考があるのですが、これを「老人力がついてきた」というプラス思考へ転換する逆転の発想です。赤瀬川は「ボケも一つの新しい力なんだから、もっと積極的に、老人力、なんてどうだろう。いいねえ、老人力」とこの言葉を思いついたといいます。たとえば、

【ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、「あいつもかなり老人力がついてきたな」というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。】

 赤瀬川の芸術家としてのユーモアなのか本気なのかはハッキリしません。しかし、「衰え」をしっかりと受け止めつつも、マイナス評価で終わらせることではなくて、生きる積極性へと転じていく発想を感じ、なるほど、と共感します。誤解してはならないのが、これは「老人の力強さ」とか「老人の頑張り」、歳をとってもまだまだやれるとか、まだまだ若い者には負けない、ではないことです。「衰え」をきちんと「衰え」として受け止めているということです。体力や知力でも、「衰え」の現実を見つめているのです。ある種の人たちにとっては赤瀬川の主張は反感を買うものでもあり、当時、今もかもしれません。この歳を重ねることの現実を受け入れられない人は少なくなかったようです。「常識」や「良識」に囚われていれば仕方のないことなのかもしれません。しかし、「老人力」をマイナスにしか捉えることができないのは、心の狭さのゆえかもしれません。逆説的な意味合いを理解するユーモアが足りないのではないでしょうか。

 この高齢者にありがちな「衰え」にまつわる事柄を信仰的に捉えなおすことから、高齢者の祝福へと理解を整えるのが今日のテーマです。この「衰え」は信仰的にはマイナスではないということです。若い日の信仰理解は、他の事柄への理解同様「もっと知りたい」とか「もっとしっかり」とか「もっと深く」など「もっと」という何かしらを追い求める傾向が強いのではないでしょうか。いわば、余計なものや事柄を身にまとうことで、より豊かな信仰的な人間になっていくことを追及していくあり方です。しかし、信仰における「老人力」は、余計なものを剝いでいき純粋な、ピュアな方向へと向かうのです。かつてお付き合いしてきた、また今お付き合いしているところの高齢者の信仰のあり方から気づかされるのは、この点です。実感と言っても良いです。「衰え」の中にこそ、純粋な信仰が立ち現れてくるのです。様々なことは忘れても、一番大切な中心というか核が心の奥底に刻まれており、それが磨かれて輝いてきているのではないかということです。たとえば、認知力が落ちてきていても「主われを愛す」の讃美歌は忘れないという人は多くいらっしゃいます。慣れ親しんだということだけではなくて、この讃美歌に凝縮されているような「主われを愛す」現実に支えられているからだと思うのです。忘れられない主の恵みがあるということです。いわば、より若い者が新しい知識や経験を身に付けていく中で自分の信仰を確証するという道筋とは、唐突かもしれませんがダイアモンドのより大きな原石の荒々しさにたとえられるのではないでしょうか。年老いていく信仰者の態度は違うのです。

 信仰についても同じことが言えるのではないかというのが、ずっと感じ続けているところです。何人もの高齢者の信仰的な、中心を捉えた純粋なあり方に触れた経験から思うのです。若い時に様々な「良きもの」を身につけていくことでダイヤは大きくなっていき、しかし、今度はそれらを削っていくことで輝きが生まれてくる。そしてもちろん、形を整え磨いてくださるのは神に他なりません。記憶や気力、体力が「衰え」ていても、というよりもむしろ、であるからこそピュアであり、その人の病や不安や痛みのあるままで、その人らしさを貫かれているのです。神が人の人生の奥底にまで入り込み、神が人となった現実は軽やかな神のユーモアに満ちたものです。イエス・キリストの愛は、底が抜けるほどに奥深いものだからです。

讃美歌21の364番は、神のイメージを捉え返す努力を続けつつ実践している、ブライアン・レンによる歌詞です。この讃美歌は、神を様々な年代にたとえながら歌っています。4番の歌詞は以下のようにあります。「4.年老い弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解 限りなし。いざ、ホサナ、老いし主!」

 高齢に至る中で、余計なものを剝ぎ取り磨かれていく生き方としての信仰の姿がここにはあります。常識では、歳を重ね高齢化していくことのマイナス面だけに心が奪われてしまいます。しかし、それは根本的に間違っているのだと今日の高齢者の日礼拝で確認しておきたいのです。ここには、恵みと祝福が確実にあるのです。このような意味を踏まえていけば、今日の聖書の御言葉が働きつつ、語りかけていることに気が付くのです。すなわち「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と。これは、このままで受け止めるに十分な言葉です。添えて与えられる「配慮」「理解」「知恵」は、余計なものを剝ぎ取られてこそ意味が深められていくのです。知識は削ぎ落とされ知恵となり、「理解」は突き詰めていけば「真に理解することはできない」との受容になっていくのではないでしょうか。この「配慮」「理解」「知恵」とは、「常識」や「良識」の枠を超えた意味において逆説的に働くものです。だからこそ、説得的であり力強いのです。この点をこそ理解したいものです。「弱いからこそ強い」とのパウロの信仰理解とも共鳴します。

 歳を重ねることに対する痛みや不安は、肉体をもつ人間には避けられない厳しい事実として、ここにあります。実際、難しい病に侵されている方、絶えず不安にさいなまれている方、家族の不和の中にある方などの高齢の信仰者との出会いを経験してきました。多くの場合、何故ここまで心豊かでいられるのだろうかとの驚きがありましたし、今もそうです。しかし、それにもまして主にある信仰のゆえに純粋さは衰えることがないのです。それは、主イエス・キリストが共にいてくださるという信仰理解が、ただ単に頭で理解する教えに留まらず、日毎の生活において肉となるようにして染み込んでしまった純粋さに生かされているからなのではないかと思うのです。主イエス・キリストの信仰は、このようにして高齢者を日ごとに支え導くのだと思わされています。それゆえに、信仰のわたしたちはこの日にパウロの言葉に聴くことが許されているのです。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」と。ここで語られている、日毎に新たにされるいのちに恵みと祝福とが満たされていることについて感謝をもって信じ、ご一緒に祈りを合わせましょう。 

祈り

いのちの源である神!

歳を重ねつつ歩んで来られたお一人おひとりを顧み、祝福してください。

これまでのいのち、今のいのち、これらからのいのちに主イエス・キリストが共にいてくださる現実を感謝します。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                               アーメン。

2021年6月20日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章11~13節 「愛と平和の神のゆえに」講解13

 11節から13節は、いわゆる「祝祷」を含む、手紙の締めくくりの挨拶です。「終わりに、兄弟たち」と呼びかけ、色々な問題は確実にあるけれども、それでもわたしたちの間には主イエスが共にいてくださるという信頼は崩れることがないのです。「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」と続けます。神の側から与えられる「喜び」にあって、神の前に相応しい姿へと整えられていき、神の慰めを受けることから、党派心を捨てて、心から平和に向かって手を携えていこうと呼びかけているのです。さらに「そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」と続けます。イエス・キリストにおいて実現された、誰一人として見捨てられない深い愛と、その関係を豊かにするところの平和に与っていく生き方。ここに留まることから「互いに挨拶を交わしなさい。」とあるように親しい関係に生きることが求められるのです。

 しかし、実際にはコリントの教会の問題と混乱は、現代の教会にとって無縁であるどころか切実であり続けていることをどれだけの人が否定できるでしょうか。

 このようなことを聖書と対話する中で、横田勲牧師の説教の言葉に見つけました。少し長いのですが、省略しながら引用します。【間違った聖書解釈と、真実味のない告白と、少しも喜びのない賛美と、形だけの祈りとダメな牧師と、ダメな信徒からなる教会がありうるでしょう。しかし、「主イエスの名によって」二人でも三人でも集まる限り、聖なる教会と信ずることができます。いや信ずるほかありません。このバラバラの、ダメな教会もまた、神の国の矢印(暫定的指標)でありうるし、イエス・キリストにおける義認と聖化のしるし(暫定的指標)でありうることを信ずることもできるし、信ずるほかありません。ダメな教会もありうる。しかし、そのダメさ加減も絶対化してはなりません。ダメだと断定すること自体が傲慢です。…(略)…他を見くだす傲慢さからも、自己卑下という名の別の傲慢さからも解き放たれ、現実をしっかりと見すえ、神の国を遠く見つめながら、ゆっくりと、しかし、賛美の時には、声を張り上げて、一歩一歩歩みたいと思います。】

 問題や混乱や間違いから決して自由になれない教会の限界があります。しかし、その限界を包み込む慰めが、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」が、この惨めな教会に向かって届けられていることもまた現実なのです。この祝福の現実から間違いの多い教会であっても、何度でもやり直しができるのです。主イエスの招きと促しによって自分たちの教会のあり方を含めて自己吟味しつつ歩む道が用意されているのです。

2021年6月 6日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章5~10節 「自分を吟味しなさい」講解12

 「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」という言葉によって導かれる行いとは、端的に言えば「神学」だと思います。 カール・バルトの著作『教義学要綱』の最初にある「課題」で示されている言葉を引用します。【教義学は、次のような学問である。すなわち、この学問において、教会は、その認識のその時々の状態に応じて、批判的に―つまり、聖書の基準に従い・その諸信仰告白に導かれて、その宣教の内容に関して、教会自身に解明を与えるのである。】

 「神学」とは、自分たちが信じ宣教している内容を、聖書の基準に従い批判的に、教会に対して明らかにする責任的な行いなのだということです。この行いの前提は信仰であることは当然ですが、「聖書の基準に従い・その諸信仰告白に導かれて」とあるように、まず第一に聖書が基準であり、諸信仰告白を参考にしながら、という感じです。

「教会は、その認識のその時々の状態に応じて、批判的に」という点から、パウロの語る「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」ということを考えてみたいのです。「聖書の基準に従い」として展開するためには、広い理解が必要だと思われます。その基準とは、たとえば、生前の歴史的イエスの言葉と振る舞いであるかもしれませんし、インマヌエル・神が共にいてくださるということかもしれません。自分なりの「聖書の基準」を定めていくには、「主イエスとは誰であるのか」との問いをも含めながら旧新約聖書を批判的に読み続けていくことが必要です。

 批判的に聖書を読む中で、より明らかにされるのは、イエスの神の前にある真っ直ぐな生き方です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)との言葉どおりに生き抜かれた姿や、生きることに疲れ果て悩みに打ちひしがれている人たちに向かって幸いと語りかけた姿、さらには、寄り添い共にいることを望まれた姿を読み取るのです。そのようなわたしたちの主イエス・キリストを、聖書から読み直すことができるのです。135節後半に「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」という言葉に立ち返るのです。そうすると、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と促されていくのです。積極的にわたしたちが生きる場所において、より相応しくなる道に呼び出されていくのです。ここから、わたしたちの今を見出すことができるのです。

2021年5月30日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章1~4節 「キリストと主に生きる」講解11

 パウロは、4節中程で「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが」と語りますが、その前には「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」という言葉があることに注目したいのです。確かに、パウロは「弱さ」だらけの生涯を歩み続けたのですが、その根拠は十字架のキリストにこそあるのです。

 現代でもしばしば、キリスト教を信じる人たちを揶揄したり軽蔑したりする言葉に触れることがあります。十字架上の主イエスの姿が人々にとって理想的な神のあり方とかけ離れているからです。たとえば、マルコによる福音書の14章から展開される主イエスの受難物語におけるゲッセマネの祈り、最高法院やピラトの前での裁判の場面、嘲笑される姿などです。とりわけ、十字架上での絶望が1533節以下で物語られます。【「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」】

 しかし、です。この十字架の主イエスをどのように理解するのかが、キリスト教信仰にとっての試金石なのです。この主イエスの姿にパウロの言葉を聴くことができるのかが問われているのです。主イエスの十字架は弱さの極みそのものです。主イエスは殺されてから復活するという道筋を知ってはいなかったのです。この点は大切です。主イエスの復活の出来事は予定調和なのではありません。神の御心以外のものではないからです。わたしたちのありようを整える方向へと導くのです。そしてこの言葉はわたしたちにも向けられていることを確認したいのです。

 今日、わたしたちに向かって呼びかけられている方向は、ここにあります。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」弱いからこそ、神が生かしてくださる。このようにして、十字架の主イエス・キリストと共にわたしたちは一人ひとりが、そしてこの群れが生きることができていることに感謝したいと思います。これほどまでにして「弱さ」によって神の人間性を主イエスは貫かれている事実に驚かずにはいられません。

2021年5月16日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章11~21節 「相互理解を求めて」講解10

 しばしばキリスト者の中に、全く悩みや思い煩いから一切解放されていると公言する人があります。それはそれでいいのかもしれませんが、わたしの感覚とはズレています。そのような人たちが根拠とする聖書の言葉は、主イエスの「思い悩むな」というところなのでしょう。しかし、事は単純ではありません。結論部分で「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあるからです。すなわち、今の課題については十分悩んでもいいのだし、その必要を否定してはいないことに注意しておきたいものです。

 わたしたちがこの世に暮らしている限り、多かれ少なかれ悩みや痛み、様々な課題から抜け出してしまうことは、とりわけ社会は人と人との関係によって成り立っていますから不可能といっていいかと思います。教会だけではなくて、パートナーであれ家族であれ、友人であれ、です。わたしたちは同じ言葉を使っていれば、必ず通じるものだと思い勝ちですが、実際は違います。言葉は非常に不便な道具なのです。伝えたいことや分かってほしいことを、言葉を尽くして説明し、弁明することを一生懸命すればするほど、相手からの反感や冷たい反応が返ってくるという経験をしたことのない人の方が少ないのではないでしょうか。冷静に努めたり、熱心であったりには関係なくにです。壊れた関係、ねじれた関係、ボタンの掛け違いのような関係などがあります。それらを何とか解決し、より良い方向に向けて寄り添いたい、分かり合いたいという思いで言葉を語れば語るほど、理解されなくなるのも珍しくありません。日常生活のちょっとしたことから、教会のような共同体においても起こりやすいものです。そのために、わたしと相手という当事者は、その関係自体がギクシャクしたりお互いを傷つけ合ったり、ある場合には絶縁や絶交となる場合があります。意見の違いや異論、反発などの事態は、必ずしも悪いことではないのかもしれません。パウロによれば、コリントの信徒への手紙一1119節にあるように「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。」と。必要な「仲間争い」というものをパウロは必ずしも否定はしていないのです。

 しかし、ここでの「だれが適格者かはっきりするためには」という言葉には、コリントの教会での関係を、破壊的ではなく建設的な議論から新しい関係が生まれ育つことへの希望が込められているのだろうと思います。建設的でない議論が不毛であることを暗に指摘しているのだと思います。

 コリントの教会にパウロが何度も手紙を出したのは、教会からの手紙への応答だったと思われます。教会の中で様々な深刻な問題が立て続けに起こり、何とか建設的な方向付けを行うことができないものかと心痛めた人たちによって書かれた手紙です。今ではパソコンやスマートフォンの画面越しに直接話ができたりできる時代です。画面越しの対話はここ数年としても、それ以前にも電話で直接話すことができていましたから、手紙というメディアは古臭い感じがするものかもしれません。しかし、当時は、手紙が人々の前で朗読される時には、あたかも手紙の書き手がその場にいるかのように受け止められた、朗読される言葉は、書き手の言葉の再現だと考えられ、しかし、この手紙という手段には限界があって失敗に終わっていることもあり、重要な通信手段だったのです。そのためにパウロは、やはり直接コリントの教会の人たちと顔を合わせて話をしたいと願っていたのでしょう。

 パウロとパウロに同意している人たちは、すでにコリントの教会においては説得的な言葉をもつことができず、うさん臭く信用ならない怪しげな、そして疎ましい存在とみなされていたことが分かります。「大使徒」と呼ばれていた人たちの言葉に確からしさを覚え、パウロが被扶養権という教会からの謝儀を拒絶することも信用度を落とし、エルサレム教会への献金を集めてはいるけれどもテトスらとグルになって詐欺まがいにかすめ取っているという疑いに晒されていたことも予想されます。残念なことですが、パウロが手紙において言葉を連ねれば連ねるほど嘘として聞かれてしまう事態だったのでしょう。パウロの言葉は「自己弁護」として何を書いても言い訳としてしか受け取られなくなっていたということです。

 そこで、パウロは自らがコリントの教会の創立メンバーの中での主だった存在であることを宣べます。1111節後半から12節で「あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。」と書き、さらには自分がコリントの教会の親の立場であることを加えます。しかし、それらの意見を徹底していくのではなくて、途中でやめているように読めるのです。パウロは書斎の神学者ではありませんでしたから、おそらく弟子に誰かに口述筆記させていたのでしょう。語りながら途中で話題や文脈が突然に終わってしまうことがあるのです。語りながら、やはり自分が「自己弁護」の罠にハマってしまったことに気付いたからでしょう。15節の後半の「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」という思いを引きずったままに、です。この中途半端さが、逆にパウロの心情をリアルに伝えているとも思えます。

 パウロの関心事は、この間の「講解」において明らかなように、どのような主イエス・キリストを信じているか、その内容としての「十字架」において示された「弱さ」の課題でした。コリントの教会の主流派が価値ありとしていたのは、おそらく「強さ」に象徴されるキリスト像で、その価値観からすればパウロは全く逆の方向を示しつつ生きるものだとされていたのです。この方向性を、パウロは何としても教会に伝えたかったのです。その中心は、19節後半の「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」ということです。自分の考えと言葉は決して「自己弁護」ではないとのパウロの意思表示を読み取ることができます。自分を規定する「十字架の主イエスの弱さ」にあって自分の正しさをただ単に主張することよりも、「すべてはあなたがたを造り上げるため」だというのです。「自己弁護」として響き、聴かれてしまう言葉を修正する方向に向かう言葉として展開されているのです。「造り上げる」とは、建物を建築するという意味であり、この場合は信仰にとって益となることも指します。つまり、パウロの理解するコリントの教会の危機的状況からの立ち返りを求めているのです。今あるコリントの教会の状況はパウロにとって危機であり、立ち返りを求めるパウロの愛があるのです。だからこそ「愛する人たち」と呼びかけているのです。

 ただ、このパウロの思いと言葉とがコリントの教会を動かし、立ち返りを促すことができたとは、聖書からも聖書以外の資料からも確認できませんでした。徒労に終わった可能性もあります。パウロの心が届かなかったのかもしれません。ならば、この手紙は無駄に終わったことになるでしょうか。わたしは違うと思います。確かに20節と21節ではパウロの期待通りにならないことと嘆き悲しむことへの危惧が語られています。しかし、中心はコリントの教会が十字架の主イエスにあって「すべてはあなたがたを造り上げるため」というところにあります。

 言葉が通じない、心が届かない、こういったことは事態が深刻であればなおさら単純には解決されないことは重々承知していたでしょう。肝心なことは、「自己弁護」の姿勢から正されながら「すべてはあなたがたを造り上げるため」の根拠としての十字架への集中にあります。問題や課題を解決できなくても壊れた関係、ねじれた関係、ボタンの掛け違いのような関係が必ずしも解決できなくても、十字架の主イエスに対する信頼と希望を捨てないことです。

 このことは、すべてを受け止め、理解してくださっている方への信頼に生き続けることが大切なのです。以前使っていた讃美歌第二編の210番に『わが悩み知りたもう』に言い表されている姿勢こそが問われているのです。

 元は次のような歌です。一番だけ引用します

Nobody knows the trouble I've seen

Nobody knows my sorrow

Nobody knows the trouble I've seen

Glory hallelujah!

誰も知らない私の悩み

誰も知らない私の悲しみ

誰も知らない私の悩み

グローリー ハレルヤ

 人間は社会的存在です。わたしたちが生きている限り、様々な関係において痛みや破れ、あるいは修復が期待できない事柄から自由ではありません。しかし、絶望に陥らない幸いによって守られていることをパウロは知っていたのです。19節後半の「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」との言葉は、十字架の主イエスが絶えず間にいてくださり、共にいてくださることへの信頼し、委ねることを意味します。この委ねに生きることから、教会だけでなく、様々な関係の痛みや破れがいつの日にか豊かな関係性に向かって開かれていることを信じることができるのです。従って、この委ねのもとで歩んでいく中に十字架の主イエスにある希望は残されているのです。それを「愛」と呼んでいいのかもしれません。この希望のもとで歩むことへの招きを信じ、ご一緒に祈りましょう。

 

祈り

いのちの源である神!

人と人との間に十字架の主イエスがいてくださることを信じます。

人が誰かと一緒に生きることには様々な課題が付きまといます。

しかし、主イエスはいつも共にいてくださることを信じ、委ねる生き方へと招いてくださることも知っています。

より相応しく主イエスと共に歩ませてください。

この祈りを十字架の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                        アーメン。

2021年5月 9日 (日)

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱い時にこそ強い」

 パウロにとって重要なのは、9節にあるように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主の言葉を聞いたという事実です。そして、ここにこそ主イエス・キリストに信じ従う道、教会形成への道の根拠があるということでした。パウロにとって「弱さ」とは、一切の存在が「弱さ」によって包まれていることです。神秘的な体験や経験によって自分を「強さ」において誇るのではなくて、です。病に侵されたまま、そのあるがままの姿で「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ところからの歩み出しに生涯をささげたのです。

 この生き方への決意が9節後半の「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」との意思表示となります。この弱さとは、先週も引用しましたが、134節と内容的につながっています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。このキリストの「弱さ」とは、十字架上に磔られたままの姿において逆説的に示される「強さ」なのです。「弱さ」の極みにおいてこそ、人を生かし教会を形成する力の源があるという事実なのです。かつて磔られた主イエスの十字架の「弱さ」の極みからやってくる支える力としての「強さ」は、ただ単に一時的なものではなくて、今に至るまで、そしてこれからも支え続けていてくださるという信仰の証しの言葉なのです。このような意味において10節以降を踏まえて、過去における様々な苦難や難のことだけではなくて、今のこと、そしてさらには将来の展望をも含みます。

 「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言葉は、困難や課題や悩みのただ中にあって、現状維持を認めるとか、ある種の痩せ我慢とか諦めとか無関心を装うとかでは決してありません。今をあるがまま受け入れることで新しいチャレンジに向かう可能性に開かれていることを確認することです。こんなに苦しいけれども、わたしは孤独ではないのだ、十字架において苦しまれる主イエス・キリストが共に苦しんでくださっているのだ、と思える「強み」です。パウロの「誇り」とは、共にいてくださる十字架の主イエスのみが誇るべき方なのだという信仰の告白なのです。

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 「弱い時にこそ強い」

 パウロにとって重要なのは、9節にあるように「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と主の言葉を聞いたという事実です。そして、ここにこそ主イエス・キリストに信じ従う道、教会形成への道の根拠があるということでした。パウロにとって「弱さ」とは、一切の存在が「弱さ」によって包まれていることです。神秘的な体験や経験によって自分を「強さ」において誇るのではなくて、です。病に侵されたまま、そのあるがままの姿で「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ところからの歩み出しに生涯をささげたのです。

 この生き方への決意が9節後半の「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」との意思表示となります。この弱さとは、先週も引用しましたが、134節と内容的につながっています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と。このキリストの「弱さ」とは、十字架上に磔られたままの姿において逆説的に示される「強さ」なのです。「弱さ」の極みにおいてこそ、人を生かし教会を形成する力の源があるという事実なのです。かつて磔られた主イエスの十字架の「弱さ」の極みからやってくる支える力としての「強さ」は、ただ単に一時的なものではなくて、今に至るまで、そしてこれからも支え続けていてくださるという信仰の証しの言葉なのです。このような意味において10節以降を踏まえて、過去における様々な苦難や難のことだけではなくて、今のこと、そしてさらには将来の展望をも含みます。

 「わたしは弱いときにこそ強いからです」という言葉は、困難や課題や悩みのただ中にあって、現状維持を認めるとか、ある種の痩せ我慢とか諦めとか無関心を装うとかでは決してありません。今をあるがまま受け入れることで新しいチャレンジに向かう可能性に開かれていることを確認することです。こんなに苦しいけれども、わたしは孤独ではないのだ、十字架において苦しまれる主イエス・キリストが共に苦しんでくださっているのだ、と思える「強み」です。パウロの「誇り」とは、共にいてくださる十字架の主イエスのみが誇るべき方なのだという信仰の告白なのです。

2021年5月 2日 (日)

コリントの信徒への手紙二 11章16~33節 「耐える道・逃れる道」講解8

 「キリストに仕える者」と自称していたであろうパウロの論敵の影響下にある人々に向かって、パウロは様々な労苦について語ります。これらは「強さ」とは真逆の「弱さ」の証言です。キリストを宣教することに関してだけではなく、被扶養権を行使しないがために生活に余裕がなく苦しんだことや、世間から褒められるとか称賛され認められるどころか軽蔑に晒されてきたこと、また伝道旅行の中での労苦などを語ります。28節で「このほかにもまだあるが」とあるように一つひとつ数え切れないほどのことであったのでしょう。それだけではありません。「その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」と続けます。これは、文脈から考えればコリントの教会の問題について心を痛めていることを表わしています。さらに「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」と続けるのです。パウロは、コリントの教会の中で「弱さ」のただ中にある人たちと「弱さ」においてつながりたいという願い、つながっているという事実を大切な本当として伝えたいからです。

 30節と31節では、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。」と語ります。パウロにとっての本当とは、正直に「弱さ」を曝け出す生き方において、人生を全面的に肯定していくことなのです。24節以降で様々な難について語りますが、これは「弱さ」に対する開き直りではなく、自慢でもありません。また、「弱さ」を乗り越え、克服してきたということでもありません。「弱さ」そのものを受け入れることです。この受け入れに支えられ、耐える道が開かれたことを宣べているのです。

 十字架のキリストにある限り、様々な難に対して耐える道が用意されているとの信頼のもとで歩むことができたのです。この、絶える道とは痩せ我慢ではなく、また様々な課題や問題に対していつでも正面突破できるとか、すべきだとかということではありません。32節と33節では、困難から逃げることができたエピソードが付け加えられています。十字架という「弱さ」の極みに支えられ、その場その場にある課題や困難において、「耐える道」や「逃れる道」も備えられていたこと、これからもそうだという信頼が語られているのです(Ⅱコリント10:13参照)。 その時に、大切な一つのこととして「弱さ」の極みである十字架を決して忘れないことが必要です。ここにこそ、復活の力が働いているのですから。わたしたちの「生」は、十字架の主イエス・キリストの「弱さ」において約束され、支えられつつ守られているのです。

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