マルコによる福音書

2023年7月 2日 (日)

マルコによる福音書 15章6~15節 「十字架の苦しみ」

 主イエスは、一切の苦しみや痛みをその身に負い、身代わりとして国家権力の暴力による仕打ちへと引き渡されています。主イエスの味わっているのは全世界のあらゆる苦しみや痛みではないでしょうか。この姿が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一言に表され、この姿に対して全面的に同意し「アーメン」と告白するところに、すでに教会は建て上げられています。そして、そこにつらなることによって主イエスの苦しみによって守られていることをお互いに確認することが赦されているのです。主イエスの苦しみの場から神の国への道筋は開けてくるのです。教会は主イエスの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という事実によって支えられている共同体です。実線として閉じられた枠や必ずしも組織として整えられているものとは限りません。

 現代も、世界中のありとあらゆる場所に、形を変え名前を変え、偽りの神の国を語るところの様々なポンテオ・ピラトは存在します。世界中の国家権力の暴力性は神の国に押し入ろうとしています。この人間の野望はバベルの塔を想像させるものでもあります。人間の万能感が権力の暴力性によって満たされる途上において、この世の帝国を神の国と偽るのです。神の国とは本来、神ご自身の願いに満ちた場であり、時間です。そこではあらゆるいのちが神の祝福に包まれており、愛という現実が満ち溢れている場です。ここに向かって国家権力の暴力性が忍び寄ります。あちらこちらに存在するポンテオ・ピラトのもとで収奪や搾取、様々な国家権力という暴力にさらされている場に対して、主イエスが冷たい態度をとるはずはありません。その場に共にいたいと願うのが、わたしたちが主イエス・キリストと心を込めて告白するその方なのです。教会はあくまで、ポンテオ・ピラトの側に立つことを拒むところでなければなりません。現代のポンテオ・ピラトを注意深く拒むことは、同時に神の国・神の支配である主イエスの思いに寄り添う生き方を選び取ることでもあります。

 この生き方は「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉によって招かれていくものです。また、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」がその苦しみを強いられているところに向かうのです。そしてその場で、その時々のポンテオ・ピラトによる構造悪としての国家権力の暴力に抗うことが求められているのではないでしょうか。その抵抗は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」た主イエスによって支えられていることを信じ、神の国を共に目指したいと願います。

2023年6月11日 (日)

マルコによる福音書 2章1~12節 「ともだちっていいな」

 ~花の日・子どもの日 子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスは体が動かない人を治して元気にしました。その時の主イエスの気持ちが何だったのかと思いました。それはきっと、「友達っていいな」だったと。確かに、四人の人たちが家の屋根を壊してしまうのは、乱暴なことかもしれませんが、友達を何とかしてあげたい、助けたい、そういう気持ちは分かるし好きだなあ、友達を思う気持ちって大切なことなんだ、と。

 体が動かない人のことを何とかしてあげたいと思う四人の友達の心は、神を信じる気持ちにつながる信仰だと主イエスは考えたのでしょう。こういう気持ちこそがとても大切なんだ、と。主イエスは、四人の友達の信仰に応えて体が動けるようにして元気にしたのです。それは、治された人も運んできた四人の友達にとっても嬉しいことでした。そして、それだけではありません。その体が動かない人を思う友達の気持ちが、その家の中にいる人たちにも伝染し、さらにはその気持ちがもっと多くの人たちにどんどん広がっていったのではないかと思うのです。家の外にも、それが町全体そして国全体、世界全体に広がっていくことを想像するとなんだか嬉しくなってきます。つらい思いをしている人に心を寄せる人たちが、広がっていったらきっと素敵な世界になっていきます。そこにいた人たちの心の広がりを、「このようなことは見たことがないと言って神を賛美した」と今日の聖書に書いてある言葉は、そういうことだと思います。

 実は今日の話の本当の始まりは、神が人間と心が通じ合う本当の友達になるために、この世界に主イエスとしてやってきたという出来事です。誰もが、つらい思いや悲しい思いをしている人の友達になっていくことができるし、このことを主イエスは大好きなのです。もしかしたら、自分には友達なんて一人もいないと思う人がいるかもしれません。でも大丈夫です。主イエスはいつだってあなたと友達になりたいし、もうすでに友達になってくれていることを思い出せばいいのです。そして主イエスの力によって友達の輪が広がっていくよと今日の聖書は約束しているのではないでしょうか。この友達の広がりが世界中に広がっていけば、主イエスの願っている平和な世界がやって来ることを信じることができるようになるのです。紛争や戦争の中にある国々のところにも、友達っていいな、という主イエスの願いと同じ心が広がっていってほしいと、たくさんのたくさんの人が思いつづけたら、きっとそれは本当になります。

2022年4月 3日 (日)

マルコによる福音書 10章35~45節 「権力を無化するために」

 今日の聖書は、マルコによる福音書に特徴的な弟子たちの無理解のテーマについて語られている箇書になります。登場人物であるヤコブとヨハネの兄弟がイエスのところにやってきます。2人は、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左にと願ったのです。これはイエスという方が栄光の王として、当時の社会で彼らの思い描く王として君臨した暁には、それぞれ右大臣、左大臣にしてくれ、というものです。並行するマタイによる福音書では、本人たちの願いではなく、その母を登場させていますが、事実としては本人たちだったと考えられます。ヤコブとヨハネの責任を母に擦り付けているわけです。いずれにしても、イエスという王の重鎮として二人を受け入れてほしいということです。少し前のところでは誰が一番かという議論をしていたという記事もあります。要するに、弟子たちの中で誰がイエスに近いのか、イエスをめぐって、イエスとの距離によって自分の価値が優れているかを競っている中、ヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。他の10人はこのことで腹を立てた、とあります。言い換えれば、残りの10人も同じように自分が一番であり二番になりたかったのです。マルコによる福音書を通して読む時に、いわゆる弟子批判というテーマがあります。特にペトロに対してです。彼は弟子の代表と見做されていましたから。非常に強く批判的な見方がなされています。これについて、複数の新約聖書学者たちは、このようなペトロたちを代表とするようなキリスト者になってはいけない、だからそうではない生き方をすべきだということがマルコ福音書の意図だと主張しています。確かにペトロを代表とする弟子たちを反面教師として見る視点は必要ですが、切り捨ててしまうのではなくて自分のあり方と重ね合わせるようにして読むと、弟子批判の動機がもっと柔らかく穏やかなものとして受け止めることができるようになると思います。わたしたちを右大臣左大臣、一番と二番にしてくれ、あるいは12人の中で誰が一番かという争いは、誰彼と比較して自分が優位に立つことによって指導者の権威を笠に着て権力を行使しようとする、この世の論理から自由でなかったということです。

10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

 「支配者」「偉い人たち」「いちばん上」という言葉で想定されている人たちとは、当時のローマ帝国の皇帝であったり、あるいは代官であったり、ヘロデ家の人々であったり、あるいは宗教的に支配している祭司長、律法学者、ファリサイ派、長老などでしょう。ヤコブとヨハネの願いは、この権力体系に乗っかってしまいます。しかし、それは根本的に間違いです。イエス・キリストに従うということであれば、まずイエス・キリストがどうであったかに注目するところから始めるべきです。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」というイエス・キリストの問いに対して応えていくことは、自分を中心にして物事を考え行動する生き方ではありません。イエスに真似び、倣っていくことです。そのためにはイエス・キリストご自身が十字架へと歩まれた謙遜と遜り、杯と洗礼に示される苦難の道を歩む方なのだと受け止め直すことが必要です。これが「皆に仕える者」「すべての人の僕」として「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と言われていることによって知らされます。そして、それぞれに与えられている十字架を背負ってついていくのです。このようにしてイエスの後ろに直っていき、先頭に立つ主イエスに従っていくのです。この促しを今日の聖書は語るのです。

 そのイエスの歩みとは何であったのか。それは言うまでもなく、十字架への道行きです。しかもそれは、他者、より小さくされた人たち一人ひとりの命の尊厳を取り戻す仕方で仕えていったのです。それは、弱りを覚えた人たちだけではありません。イエスのことを理解しきれていなかった弟子たちの愚かさや躓きや弱ささえも、イエス・キリストは受け入れていたのです。十字架への道行きとは、徹底した同伴者としての歩みでもあったのです。

 上昇志向は、人間のあり方を歪にします。誰彼と比較して自分の方がより優れた人間であるとする眼差しによって、実はその眼差しを与えている本人の人格とか自尊心を貶めてしまうのです。そうではなくて、モノを見る、考える、判断する基準を、この世の価値観とは全く別の、いわば神の国の価値観に置くのです。「皆に仕える者」「すべての人の僕」になっていくことによって、この世の価値観に染まっているあり方から自由にされ、より弱い人たちとつながっていくところで、そしてそれがより困難な道であったとしても、これを志していくところにこそイエス・キリストの道があるのです。この道をわたしたちはイエス・キリストから知らされているのですから、思いあがった人生も、どこかで転換されていくのではないでしょうか。別の生き方、もっと他者と心の底でつながっていくような生き方へと促されることによって人生の質みたいなものがより豊かにされていくことができるのではないでしょうか。そのような筋道をイエス・キリストがつくってくださっているのです。わたしたちがもっている上昇志向とか思い上がりとか傲慢さというものが、イエス・キリストの十字架によって打ち砕かれ、わたしたちはそれぞれが与えられているところのより困難な道である強いられた十字架を強いられた恵みとして受け止めていくことができる中で、より豊かに「神さまありがとう」ということができ、信じることができる道があるはずだ、迷っていても辿り着く場所があるはずだ、そう信じることができるようになるのです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と主イエスは語られました。イエス・キリストの十字架への道とは、遜りと謙遜の極みとしての十字架を「多くの人の身代金として」自分のいのちをささげたことです。このいのちをささげられたところのイエス・キリストに与っていくならば、わたしたちがどのような困難な道を選ばざるを得ないことが起こったとしても、それを恵みとして受け止めていくような生き方があるはずだ。きっとあるに違いない。いや、そのように確信できる。ここにキリスト者の希望があるのではないでしょうか。

 こんにち、わたしたちの身近なところから国際関係に至るまで、ヤコブとヨハネの野望や欲望は決して無関係に思われません。生活の場でも国際間にあっても、誰が一番二番なのか、そしてその場に上り詰めていきたい、認められたいという願いが満ち溢れているように思われてなりません。その人を突き動かす原動力のようなものが神のように働くのではないかと思います。そのような偽物の神によって自らに権力を与え、さらに実力を行使していくのです。そこに起こるのは、支配―被支配という関係です。水平で平等な関係ではありません。親が子に、国が国に対して何を行っているのかを見極める必要があるのではないでしょうか。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という現実は、とりわけ今の世界状況の中で、わたしたちにとって切実な課題として圧し掛かっているのです。アメリカのバイデン大統領の言うところの「民主主義と専制主義の対立」だと指摘すれば事足りるのでしょうか。権力に対して権力で立ち向かうという方法、権力を行使して、より優位に立つという仕方の戦略ではなく、そもそもの発想の転換をしない限り、解決への道行きは遠いと言わざるを得ません。こんにちの課題からすれば、103節の「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢が求められています。相手の低みに寄り添うこと。相手の場に対して、また相手の丸ごとのいのちを生かすために寄り添うことに他ならないのではないでしょうか。たとえば、国と国との対立の中で侵略者に対して抵抗し、闘うことは当然のことなのかもしれません。しかし、いずれの側の軍隊の中でも国の存在こそが最も重要だと判断される時には、個という一人の存在・いのちは軽く扱われます。いずれの国の軍隊においても1人の人間の尊厳・いのちは国に吸収されてしまうのです。いわば、国という幻想の中でひとつの名もなき歯車以上のものではなくされ、個としての人間の価値は貶められていくのです。このことを、わたしたちはもっと強く自覚すべきではないでしょうか。もちろん侵略は悪であるとの判断に迷いはありません。しかし、この間、プーチンが悪で、ゼレンスキーが正義であるという図式が当たり前の前提として語られていることに違和感を覚えます。単純化するところに落とし穴はないかと。ロシアの人民がプーチンの暴走を止めるしかないと思いつつ、日本という場にあって、ウクライナの抗戦を応援することも、降伏を促すことも語ることはしたくはありません。ただ、別の物語の可能性を主イエスの発想から示されたいと願います。

 さて、主イエスの今日の言葉は「十戒」の中で教えられていることが前提となっています。「十戒」の前半で神のみを神として受け止めることが語られています。この前半から後半の倫理が導き出されるのです。神を神とすることは偶像を退けることです。つまり、思考や行動の原理を神に置くことによって、殺すことや盗むことやむさぼるということをしてはならないという倫理が方向づけられるのです。この「十戒」に立脚して、主イエスに信じ従い、権力への欲望や野望を断ち切ることが求められているのではないでしょうか。これをプロテスタントの神学理解として展開していけばバルメン宣言第1項にまとめられるように思われます。すなわち、【聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。】

 コロナ下のステイホーム状態にあって家庭内ではDVや虐待が増えていること、またロシアがウクライナを侵略している現実と各国の対応の仕方など、いずれもヤコブとヨハネの立ち居振る舞いと決して無縁のことではないと言えます。神を神として受け止める場に立ち返らなければ、自分を神として建て上げてしまうバベルの塔の精神に飲み込まれてしまうからです。今、あちこちに立ち現われているベベルの塔に対して、いかなる立ち位置でいられるのかが問われているのではないでしょうか。相対立するどちらかの側に味方するということよりも、別の物語を主イエスの言葉からいかに聞き取っていくのかが求められているのではないでしょうか。ヤコブとヨハネの人間という限界性にあって「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢に立ち返ることを自分の現場で行っていくことが、世界大でものを考え、地域的に行動していく証しなのではないでしょうか。その課題を担っていくために聖霊の助けを求めるものです。

 わたしたちは、国というものがあって当然のものであり、そこに所属しているという意識も含め一種の信仰であるかのような前提に立っています。国という神話と言ってもいいのかもしれません。この神話のようなものを一度相対化しながら発想していくことが主イエスから提示された、権力を無化する思想なのではないかと思わされています。国という存在や所属意識よりも、まず個・1人の人のあるがままの存在、そのいのちが尊重されるあり方を祈り求めていく道こそが、今日の聖書の語る、主イエスの目指す方向なのではないかと思うのです。

祈り

この世をすべおさめる全能の神!あなたの主権が確かにされますように祈ります。

この世界はあなたによって創造されたものですから、あなたのものです。

この世界を託されている責任への裏切りの罪を告白します。

わたしたちの罪を、底抜けの赦しによって正しい道へと立ち返らせてください。

神の秩序の人間の無秩序との関係が正されますように。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩ませてください。

この祈りを、平和の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                                  アーメン。

 

2022年3月27日 (日)

マルコによる福音書 9章2~10節 「これに聞け!」

 「わたしの愛する子」である主イエスは、マルコ福音書のあらすじから言えば、今日の聖書の箇書は十字架を見据えているのです。場所はフィリポ・カイサリア地方のどこかの「高い山」であると考えられます。この地方は、8章までの主な活動の場所であるガリラヤ湖の北側に位置します。ここはつまり、一旦ガリラヤ湖周辺から身を引いた場所であることに加えて、南を見渡すと、まずガリラヤ湖、その先ヨルダン川沿いに南に向かっていくとエルサレムがあります。聖書の巻末にある地図を見ていただければイメージが掴みやすいと思います。「山を下り」て目指すべきはエルサレムなのです。当時の社会の歪みが集中している場所だからです。マルコ福音書を通して見ると、826節までがガリラヤでの活動、そこから転換して旅を始めることになります。11章でエルサレムに入り、14章から本格的な受難物語となっていきます。今日の聖書は、先週に続き主イエスの活動の展開地点なのです。具体的な名前よりも、「高い」位置であることに意味があると思われます。この「高い」は、南に向かって今後の歩みを見渡し、見通すことのできる場面設定を意味しているのではないでしょうか。

 読み手に要求されているのは、この主イエスの歩みに対して「これに聞け!」という命令です。今、福音書の告げる「神の子主イエス・キリスト」に対して「これに聞け!」を本気で受け止める勇気があるのか、決断があるのか、という問いかけなのです。主イエスの十字架への道行きに対して決断が弟子たちに迫られているということなのではないでしょうか。栄光に光り輝くキリストの具体的な姿は、十字架刑に至る道行きにおいてしか示されないのだとのマルコ福音書の信仰が表されているように思われます。だからこそ、「これに聞け!」という命令形であり、ここに福音書自体の決断を読むことができるのではないでしょうか。マルコ福音書の文脈にあっては、弟子たちに「無理解の動機」がなくなることはありません。形を変えて何度も弟子の「無理解」が描かれ気づきが求められています。著者は注意深く福音書を読む者が、すでに主イエスの語りかけは始まっていると読み取ることを望んでいます。この呼びかけの言葉は、「無理解」をも乗り越えて語り続けているのです。わたしたちが依って立つべきは「これに聞け!」という主イエス・キリストの言葉と振る舞いとに注意深く耳を澄ませることなのではないでしょうか。

2022年3月20日 (日)

マルコによる福音書 8章27~33節 「イエスの背中に向かって直れ!」

 主イエスはペトロの告白を聞いてサタン呼ばわりしながら「引き下がれ」と𠮟りつけます。これを「私の後ろに直れ」と渡辺英俊牧師が訳しています。そうすると、「前へならえ」のイメージからもう一度主イエスの背中に向かって直れ!と促しているように思われるのです。残念なことにペトロだけでなく弟子たちは、この言葉の意味するところを主イエスの生前には理解できなかったようです。正しい信仰告白である「あなたこそが唯一の救い主です」という言葉は、「主イエスの背中に向かって直れ!」という促しに聞き従うことなしには意味をなさないという戒めの物語なのだと思います。

 この、ペトロの口先だけの信仰告白と比べることのできる物語があります。それは、14章の初めの、いわゆる「ナルドの香油の物語」です。食事の席にやってきた名前も残されていない一人の女性が「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」という事件です。香水は、ほんの一滴でも強く香ります。それを全部ぶちまけたら咽返るほどでしょう。せっかくの食事が台無しです。しかし、主イエスは「するままにさせておきなさい」というのです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と説明しています。油を注ぐことは王の即位の儀式を思い起こさせます。そして同時に埋葬の準備でもあるというのです。こののち十字架にかけられた主イエスの亡骸は、そのまま、油を塗るなどの処理をしないまま墓に収められたことが聖書の記事から分かります。しかし、亡骸に塗る油はすでにここでなされていたとも読めるのです。香油を注ぎかけた女性は、一言も発していません。言葉だけで告白したペトロと対称的です。マルコ福音書は、この女性の香油を注ぐという行動が、主イエスの受難予告の内容に対応した相応しい信仰告白の態度であったことを読者に分からせようとしているように思われます。行いとしての信仰告白を際立たせることで、弟子たちを代表とするペトロの口先だけの信仰告白のあり方を批判しているのでしょう。

 主イエスを「あなたこそが唯一のキリストです」と信じ告白することには、行動や証しという従うことが同時になくてはならないのです。その振る舞いが具体的にどのようなものであるのかについては、その場その場における責任的な<今>の課題に真剣に立ち向かっているときに示されると信じることができるのです。

2021年12月 5日 (日)

マルコによる福音書 7章1~13節 「神の言葉の新しさ」

 本日の聖書がアドベントの時期に読まれるべき箇書として指定されたことの意味を考えるならば、「排除の否定」ではないでしょうか。ここで主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちが強いる、生きる価値のある「期待される人間像」や、そこから一歩でも外れたら「罪人」とされ社会から排除されていく仕組み、これが神の望まれていることなかを問われたのではないでしょうか。いのちに対して条件や資格を当てはめるのは間違っているということでした。いのちにおいては、ファリサイ派や律法学者たちも「罪人」と呼ばれる人も、水平なのだという生き方を主イエスは選び取ったのでした。ですから、理不尽な宗教的な慣習に対して批判的に、あるいは皮肉をもって立ち向かったのでした。当然、彼ら主イエスに敵対する勢力の背後にはローマの権力が控えていますから、主イエスはこの世の秩序を脅かす危険人物として断罪され、十字架へと歩まなければならなくなるのです。

 飼い葉桶という低みに生まれ、小さく弱くされている者とともに歩まれた主イエスが生まれたことを記念するクリスマスの根っこには、十字架があるのです。ここにこそ、喜ばしさがあることを強調したいのです。

 クリスマスは確かに毎年巡ってきます。しかし、それはただの繰り返しではなく、「神の言葉が人となる」という事実に対する謙虚さに立ち返るための新しい訪れなのです。この点からブレないことを心に刻みながらアドベントを過ごしたいと思います。街角のクリスマスの賑わいを笑い飛ばしたり、軽蔑したりする必要はありません。わたしたちはわたしたちに求められている祝いに忠実であればいいのです。

 クリスマスは、固定化された記念日ではありません。常に新しく生まれる主イエスによって、自己検証していくための鏡のような働きを持つものです。飼い葉桶の主イエスは、いかに生きるべきなのか、どのように生きていくのが神の前に相応しいのか、そしてあなたはどこにいるのか、と問いかけてきます。クリスマスとは、飼い葉桶から十字架、そして復活から照らし出される主イエス・キリストの誕生を記念することです。主イエスの生き方や語りかけと歩み抜きに受け取ることのできないものです。主イエスがこの世に生まれてきた出来事を祝うのであれば、誰と共に分かち合う、新しい出来事なのかが明らかにされるのではないでしょうか。

2021年11月21日 (日)

マルコによる福音書 4章26~29節 「育てるのは神」

 主イエスの姿勢は、たとえば農作物についての態度から分かる楽観性にあると思います。それが今日の聖書の箇書です。農夫が種を蒔いて、放っておいて夜昼寝起きしていれば勝手に育っていくのだというのです。主イエスは大工仕事をしていたと言われていますが、農民の日々の暮らしぶり、種を蒔く前に耕し肥料を与え、種を蒔いた後も水を与え雑草を取り、毎日のように面倒を見るという大変さを知らなかったはずがないのです。にもかかわらず放っておけば育って実りをもたらすと言い切るのです。ここには、蒔かれた種に宿った命というものが土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれてしまっている時には、放っていたって、すでに祝福されているのだから、ぐんぐん育っていくのだから安心だし大丈夫だという楽天性が見られます。

 この楽天性をお気楽とか、ものを考えない愚かさだと勘違いすべきではなりません。楽天性から現実の厳しさを見据えて、そしてより喜ばしい生き方への可能性を広げていくイメージへと導かれていくものだからです。現代日本の住宅街で祝う収穫感謝は、直接的に農作物というよりは、生活困窮の問題として浮かび上がってきます。持てる者と持たざる者という図式の中でわたしたちは何を為すべきなのか。

 主イエス・キリストを信じるということは、イエスの在り方をわたしたちが倣うということです。主イエスのおおらかさに倣うことです。

やがて来るべき日には、神の前での絶対平等な世界がやって来るのだから、その姿を心に刻むことから今を照らし出していけば、為すべきことを理解し、実行していく在り方へと導かれていくのではないでしょうか。楽観に支えられた現実認識から委ねていくことへと歩むことができるはずなのです。主イエスは十字架直前に次のように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」。全くの絶望の中にありながらも、その根幹には神に対する全面委任、命がすべて神によって守られていることへの確信からなされた祈りです。神に委ねるということは、何もしなくていい、ということでは決してありません。全面委任であるからこそ、為すべきことを為していく責任を負うことができるのです。主イエスの楽観性に与っていくならば別の事柄に変えられていくことを信じることはできるのです。

2021年4月25日 (日)

マルコによる福音書 1章9~11節 「洗礼」

 主イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けたことが示すのは、他者に仕えていく、僕となっていくあり方です。わたしたちは洗礼を受けます。が、主イエス・キリストが、わたしたちの代理として、遜り、従順、仕えていくこと、その方向性を意味する洗礼を受けられたということに基づいてのみ、わたしたちの受ける洗礼には意義があるのです。主イエス・キリストが、わたしたちのいのちの身代わり・代理として十字架上で苦しみ殺されたのであれば、その主イエスの洗礼も同様に身代わり・代理であったと言えるのではないでしょうか。わたしたちの受けるべき洗礼とは、この主イエス・キリストのあり方から示される神の思いの全体像を自らの生き方・教会員としての生き方に映し出すものです。洗礼を受け、クリスチャン・キリスト者になるということは、十字架から復活の力に与ることによって、生前の主イエスの活動に倣う生き方を自ら選び取ることです。 

 渡辺英俊牧師は自らを「イエスじみた」という言葉で言い表したことがあります。洗礼を受けるということは、主イエスに対して決断的に生きるということです。これについて英語圏で合言葉的に使われている言葉にW.W.J.D. というのがあります。「What Would Jesus Do?」の頭文字を取ったものです。「イエスならこんな時どうすれるだろう?」という意味です。わたしたちは、普段の生活の中でしばしば色々な課題や困難に直面することがあります。そこで絶えず、「もしイエスだったらこんな時どうするだろう?」と、より相応しい道を祈りによって考え探り出し、行動に移すことができるのです。ただこれは、他者から切り離された個人的で孤独な働きではありません。一緒に主イエスによって結ばれている友・仲間はいるという平安と安心感の中で守られているものだからです。時として、自分一人でその課題や困難に対する直面しなければならないことも少なくないでしょう。しかし、背後に支えがあるということが保証されているのです。

 この道は、主イエスから示された道を応答的に歩んでいくことです。イエス・キリストが洗礼を受けた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」と神の言葉が語られます。そして、神の心に適う生涯、すなわち苦難の道を歩む生涯を主イエス・キリストは遂げられるのです。その方に対して「これに聞け」と示されていることに対する応答として、わたしたちの洗礼はあるのです。

 イエス・キリストご自身の信仰における洗礼を通して理解されるならば、わたしたちの洗礼はスタートラインへの決意であり、出発であり、信仰の表明ないしは告白です。さらに言えば祈りです。わたしたちが、イエス・キリストにおいて恵まれてしまっている、贖われてしまっている、すでに与えられていることに関して感謝していく、祈っていく、そのような意味において洗礼は人を救うのです。

2021年4月 4日 (日)

マルコによる福音書 1章14~20節 「ガリラヤで主イエスに会える」

 正典に含まれる福音書は四つありますが、マルコによる福音書は何度もお話しているとおり復活の出来事を循環構造として表現しています。それは、161節から8節の空の墓の物語が示しています。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが香料を買い求めて墓に行くと空だった。墓のふたの大きな石は転がしてあり、入ってみるとそこには、白い長い衣を着た若者が右手に座っていました。その若者が語るのは6節以下の言葉です。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」。このガリラヤでの再会の約束は14章28節で「 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と語られています。これは最後の晩餐の場で、弟子が一人残らず羊が散ってしまうようにして躓くことを述べた後の言葉です。そんなことはないとペトロたちは言うのですが、逮捕の場で逃げてしまったことはご承知のとおりです。マルコの文脈で主イエスの活動は、ガリラヤで始まります。9章から10章でおおむねヨルダン川沿いに南に下り、11章でエルサレムに入り、14章から本格的な受難物語となり十字架で殺され…という展開になります。

 今日のテキストは、いわばガリラヤでの活動の始めの部分です。マルコによる福音書は何度も読まれることが前提です。再び読む時、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」という言葉の示すのは、1章14節から20節から展開される、ガリラヤでの活動に他ならないと考えているからです。どういうことかと言うと、復活の主イエスに会えるのはガリラヤに他ならないのだということです。ガリラヤは、ユダの中心地であるエルサレムからすれば辺境の地であり、キリストの登場の場としては相応しくないとされていました。ヨハネによる福音書7章に「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」また、「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」とあるとおりです。このあたりの事情の詳しい説明は省略しますが、要するにガリラヤはユダヤではあるけれど、正統ではなくて劣るとされ、いわば広い被差別地域であったとさえ言えるのです。この、ガリラヤでの生前のイエスとの出会いに注目し、再解釈していくただ中においてこそ、復活の主イエスとの出会いがあるのだというのがマルコによる福音書の考えです。

 この、ガリラヤとは、わたしたちにおいて捉えかえすなら、日毎に汗を流し、様々な苦労や悩みなど課題を担うべき、与えられている自分たちの現場のことに他なりません。この場に立ち返れとの促しにおいて、復活のキリストが待っていてくださるのだから安心して戻っていけとの命令でもあるのです。

 今日の聖書が語るのは最初の弟子たち4人の招きです。復活のキリストが今新たに「わたしについてきないさい」と呼びかけておられるということです。主イエスが呼ばわったなら、ついていくのが当然である、という奇跡物語に巻き込まれていくのです。常に主体はイエス・キリストその方なのです。たまたまガリラヤ湖のほとりを主イエスは歩いている時に、二組の兄弟をそれぞれ「御覧に」とあります。ただ視界に入ってきたので見かけたというより、もっと強いニュアンスがここにはあります。その人たちの心の底、心の奥、醜い部分、やがて裏切るであろうことをも含めた、あるがままの存在全体を表す一人ひとりを真っ直ぐに見つめた、という感じです。いわば、イエスに声をかけられた一人ひとりは主イエスの眼差しの中に包まれるようにして、守りの確かさへと導かれるのです。主イエスの呼びかけは、信じ従うということを起こす力があるのです。

 わたしたちは、イエス・キリストから「わたしに従いなさい」と声をかけられて、歩み始めましたけれども、しばしば、主イエスに出会い損ねることがあり、確信が揺らぐことがあります。しかし、イエス・キリストは、当然御承知の上で、何度でも何度でも立ち返るようにわたしたち一人一人に声をかけているのです。それができる、大丈夫だと復活の主イエスは語りかけてくださるのです。今日、イエス・キリストの神は、真っ直ぐに心の底まで見透かした上で、わたしたちに「わたしに従ってきなさい」と語りかけておられるのです。主イエスのところに集まってくる子どもたちを排除する、弟子たち同士の中での優劣や順位について議論する、主イエスの十字架への道を理解することができないなど、現実から自由になれない無理解な弟子たちの姿を思い出しますし、これらはわたしたちの姿でもあるのです。

 それでも、分かっているからこそ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけてくださるのです。たぶんマルコ福音書が言いたいのは、伝道者たる弟子たちが伝道される人たちを捕まえるということよりも、むしろ主イエスという網に弟子たちも含めた人々が絡めとられ、主イエスと共に生きるあり方に巻き込まれていく、一緒にされていくというイメージではないかと思うのです。網にかかって逃れようとする魚(=人間)たちの中にあって積極的にこの中に留まろうと呼びかける役割、それが「人間をとる漁師」の意味するところではないかと思います。みんな一緒に、ガリラヤである自分の場において生き直していこう、との主イエスの呼びかけ。その力が復活なのだと言いたいのではないでしょうか。この、ガリラヤに象徴された場は、わたしたちが今置かれ、生きている場のことに他なりません。ここに復活の主が前もって待っていてくださるがゆえに、恐れる必要はなく、主イエスの思いを受けながら生きていく姿勢を整えていこうとの呼びかけの力が、復活の主がガリラヤで会えるとの約束の言葉なのです。

 これについて、一つの歌を紹介します。歌詞を読んでみます。

『ガリラヤで主イエスに会える』川上盾 作詞・作曲

(くりかえし)ガリラヤで主イェスに会える よみがえりの主に

       ガリラヤってどこにある? それはわたしのそばに

傷ついて倒れてる あの人のすぐそばに

貧しさで飢え渇く あの人のすぐそばに (くりかえし)

いじめられ泣いている あの人のすぐそばに

さみしさに耐えている あの人のすぐそばに (くりかえし)

さあ行こう ガリラヤへ 愛と平和を求めつつ

さあ行こう ガリラヤへ あなたもわたしも共に

さあ行こう ガリラヤへ 神の正義を願いつつ

さあ行こう ガリラヤへ あなたもわたしも共に

 この歌詞を味わいながら思いを寄せ、ガリラヤで主イエスに会える約束に従えば、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との言葉に今ある場において信じ従う決意が何度でも起こされるのです。そして、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」との約束が出来事となっていくに違いないのです。

 イースターとは、ただ単に「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」という『使徒信条』に代表される、信仰の基準の箇条を単純にオウム返しすることではありません。その内実を復活の主イエスのリアリティーによって押し出されるところに起こる事件に巻き込まれていくことです。生前の主イエスとの出会いによって生き直していくことだけではなく、出会い損ねることをも含めて主イエスとの関わりに巻き込まれてしまっていることを事実として受け止めていくことです。

 マルコによれば、最初に招かれたのはシモンすなわちペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人でした。この4人のうち3人の登場する重要な場面を2箇書見てみます。一つ目は9章の「山上の変貌」と呼ばれる山の上で服が真っ白に輝き、モーセとエリヤと話し合っていたが恐れたという記事です。雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との声を聞いたけれども、見回すと誰もいなくなっていたという記事です。シモン・ペトロは、この栄光の十字架の主イエスの姿を理解できなかったことが強調されています。また、14章のいわゆる「ゲッセマネの祈り」で主イエスが一緒に祈ってほしいと願ったのに寝てしまうという恥ずかしい事態も記されています。弟子たちの中のリーダー格の人たち自身が、すでに主イエスのあり方を見失っていたし、理解できていなかったし、共感もできていなかったことが畳み込まれるように記されています。彼らの無理解の現実にも拘わらず、主イエスは共にいることを願い続けていました。こうしてみると、マルコにおいて主イエスに招かれた人たちは、必ずしも模範的で立派な人格であったわけではないのです。むしろ、主イエスの真心から離れてしまうような鈍い心根から自由でなかったことが分かります。しかし、この人たちが主イエスから呼ばれ、招かれ続けていた事実は揺らぐことがありません。逮捕に際して逃げ出すような見苦しさからも、また他の弟子たちよりも自分たちが優っているという思い上がりからも自由ではありません。彼らが主イエスを見捨てることはあっても、この人たちは、主イエスから見捨てられることはないのです。主イエスは、誰であれ、どんな人であれ、その人の丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に受けいれ、肯定し、赦し、愛し続ける方なのです。弟子たち、人間の混乱や迷いにもかかわらず、一貫して愛することをやめないのです。この弟子たちへの主イエスの思いは、現代の弟子たちであるわたしたちへの思いと変わることはありません。あなたのいのちが大切でかけがいのないこと、条件なしに愛し続けてくださっている事実に変わりはないのです。この、弟子たちへの思いを復活の後に彼らは気付かされ、自らの裏切りを思い知らされるところから立ち直り、自らの現場であるガリラヤへと赴く勇気と希望が与えられたのです。2度と裏切るものかと。この自分たちの限界を超えた神の愛を復活のキリストのガリラヤでの再会の約束に人生を賭けたのです。主イエスの招きが事件として起こされていくからです。

 この主イエスは、直接の弟子たちだけではなくて、様々な弱りや病、苦しみや悩み、悲しみの中にある人たちと、どのような場でどのように出会ったのか、またどのようにして生き直しを促しながら一緒に生きることを志したのか、を今のこととして捉えなおすときには主イエスは時代を越えて過去の人ではなくなるのです。今、確実に復活者として生きている人であることが確認されるのです。わたしたちが、自分のことを顧みるならば、こんな時にはイエスならどうするのだろうとか、あの人やこの人の仕草や口ぶりの中に主イエスの影を見るような感覚を覚えるとか、今のこととしての主イエスを身近なこととして捉えることができる瞬間ってあると思うのです。聖書を読み祈る中で、折あるごとに生前の主イエスに集中することができるはずなのです。復活の主イエスが今のこととして出来事となるような、聖書の言葉が動き始めることってあるのです。このことを鏡のようにして今生かされている自分の責任的なあり方を捉えなおすことができるのです。さらに模索し、実践していくことへと‥。自分に都合の悪いことや貧乏くじを引いてしまったかのようなことや、あるいは困難や解決困難な課題の前でさえ、希望を失わないで立ち続けること。さらには、より良き道へと祈りをもって前進する勇気の源が備えられていることによる平安と喜びに生きること。復活の主イエス・キリストの本当が、自分の身に起こる瞬間はあるのです。今わからなくても、後から分かることもあるかもしれません。この主イエスから離れないようにと、復活の主イエスはそれぞれのガリラヤにおいて誰よりも先んじて待ち続けておられるからです。わたしとわたしたちをガリラヤである、わたしたちの現場で常に新しい出会いを求め、招き続ける方がここにいることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

 

祈り

いのちの源である神!

主イエスの復活の光に照らされている幸いを感謝します。

主イエスの死からのよみがえりに導かれつつ、歩ませてください。

現代における、様々な死の力に抵抗する勇気を与えてください。

復活の喜びの広がりに巻き込まれていることを信じます。

喜び合う世界が、神の国が来ますように。

この祈りを、復活の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                         アーメン。

2020年10月 4日 (日)

マルコによる福音書 14章22~25節 「イエスの食卓の広がりとして」(世界聖餐日)

 食卓をめぐる物語はマルコ福音書を読み進めていく中で、意味が濃縮していきます。その結論的部分として今日の聖書を読み返すことで世界聖餐日の意味を捉えなおすことができるのです。

 今日の箇書で描かれている食事は、共観福音書では「過ぎ越し」の食事であったとされます。奴隷の民からの解放であるエジプトからの脱出の時の記念としてユダヤ人の間で祝われていたものです。その解放者が主イエスに他ならないのだと教会は再解釈したのです。一つのパンとブドウ酒の入った一つの杯なのです。裂かれたパンを食し、杯を回し飲みしたのでしょう。出エジプトの記念の食卓につながる「奴隷」からの解放が「罪人」という理解を無化する運動に深められたのです。これまで闘われてきた主イエスの食卓を記念し、主イエスの幸いに満ちた闘いへの招きがここにあるのです。

 いつの日にかこの世は終わるでしょう。その日が来るまでは教会は主イエスの闘いとしての食卓である聖餐を祝うことによって、歩むべき方向性を修正しつつ整えていくのです。来るべきメシアの前での宴会を先取りして祝うのです。25節では「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」と語ります。つまり、くだけて言えば、神の支配の行き渡る神の国、来るべき日に再会した時には、ブドウ酒をたらふく飲んで宴会しよう、ということです。聖餐は、かつて主イエスがなさったところの食卓の業と、やがて来るべき日に至るキリストとの宴会の間にあって、キリストに従うものへと招かれていることを確認するという、そういう儀式でもあります。最後の晩餐として有名なこの場面は、ここに至るまでの主の食卓の総決算として読まれるべきです。

 聖餐は、このような主イエスの生き方を受け入れるのかどうか、ということです。主イエス・キリストの道、それが一つのパンであり、杯です。主イエス・キリストの杯に与るということは、その苦しみに与ると同時に、その恵みとしての命にも与るということです。食卓は閉ざされた人たちによってなされるものではなく、誰もが、とりわけ、貧しいもの、飢えているもの、泣いているものに向かって差し出されている。主の晩餐とは、主イエス・キリストがここに臨んでおられるのだとの招きなのです。世界聖餐日は第二次世界大戦の頃、世界の平和を願って始められたといいます。聖餐に与ることは、ただ個人的な内面や精神性に閉じられるものではありません。主イエスの目指した、格差のない社会、誰一人「罪人」として排除されることない世界、平和の構築を引き受けていく、という態度表明に他なりません。だからこそ、世界中で同時に祝い確認し合うことで、その思いを強くしようと、世界聖餐日は制定されたのでしょう。

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