マルコによる福音書

2024年3月31日 (日)

マルコによる福音書 16章1~8節 「いのちを肯定する力」

 8節の終わり方は不自然です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これでは物語は終われないと思えるからです。しかし、翻訳には現われていませんが、「恐ろしかったからである」のすぐ後にギリシャ語で「ガル」という単語があるのです。この「ガル」は、「なぜならば」とか「というのは」という、その理由や根拠を述べる言葉として使われています。マルコによる福音書には「循環構造」があるとの指摘がありますが、ここから、もう一度最初からマルコによる福音書を読み返していくことによって、ちょうど1章の主イエスの登場からの物語をなぞりつつ、もう一度自分の現場で生きてみなさいという招きの言葉が働き始めるのです。各自に与えられた生きるべき現場としてガリラヤが備えられているのだから、そこで生きよとの招きがあるのです。

 社会の歪みによって傷つき、倒れ、呻く人々のいるところ、それらはすべて現代のガリラヤです。拡大解釈すれば、わたしたちが日ごとに苦労しながらも何とか支えられながら生きている今という日常をガリラヤと呼んでもかまわないのです。今日の聖書は、そのようなわたしたちの現場、生きるべき場にこそ、再会のキリストが復活者として待っていてくださるのだという約束が語られているのです。わたしたちが遣わされていく現場、そこにおいて復活のキリストと再会し、共に主イエスをキリストとして信じ従う道が備えられているのです。ここに、わたしたちが出会いと出会い損ねを続けながらも、復活のキリストと何度でも再会し、従う道がある。このように今日の聖書は、わたしたちに招きの言葉を語っているのです

 再読することにより、インマヌエル・神われらと共にいます方が主イエス・キリストその方であるのだとあらためて気づかされるのではないでしょうか。この出会いに対して開かれていることをもって「主イエスは復活した」と信じることができるのです。私たちの歩みと共におられる主イエスの復活は、わたしたちの丸ごとのいのちを肯定する力として、今も働き続けていることを信じることが赦されているのです。生きることが困難であり、悩み多く、虐げられ、痛めつけられて、差別され、このような様々な苦難にあった人々が、主イエスとの出会いによって、一人ひとりの状況の中で勇気づけられ、立ち上がり、胸を張って、喜びのうちに生かされたことは、福音書の中に閉じ込められた物語・お話などではないのです。悪霊払いや癒しの物語が、わたしたちのところで出来事となるのです。

2024年1月28日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「受容の受容」

 現代において特に自己肯定感の欠乏からくるであろう歪んだ自己承認欲求の表出が目立つようになってきています。条件付きの愛、取引の愛の中で作られてきた人間関係における暗さがその根底にあるのではないかと思います。

しかしこれは、現代日本の社会に限られたことではなく、新約聖書の時代にも、もちろんありました。当時の感覚で言えば、聖さと汚れという基準です。律法や掟を守っている人、守ることのできている人たちとそうでない人たちとの区別があったのです。病気や「障がい」など都合の悪いことの一切は悪霊の働きとされ、汚れている、罪人であると断罪されていました。そして、社会に復帰するためには清められなければならなかったのです。律法や掟という良きことに従っているならば、その人の人格や存在が社会によって受け入れられるという仕組みであったのです。「罪人」という括りの内側にいる人たちは、「聖さ」を獲得しなければ、その存在さえ認められない社会であったのです。

 しかし、主イエスの受け入れは、律法や掟という基準に依りません。いわば、その人の「罪人」という括りを打ち破ったのです。律法や掟を守っているか、守れているのか、そんなことは一切関わりなく、今生かされてあるいのちを無条件で全面的に認め、受け入れたのです。この主イエスにおける神により受け入れられているところから、人間の側は、その応答として信じる気持ち、その心が起こされるのです。受け入れられていることを受け入れるのです。そのように導かれ整えられていくのです。今日の題を「受容の受容」としましたが、主イエスの神は、どこまでも受け入れる愛そのものです。一切の条件はありません。こういうことをしたらOK、ああいうことをしたらNG,ということはありません。今あるがままの姿で全面的にOKを差し出すのです。信仰とは、これを事実として感謝をもって受け止めるところにあります。神の愛が主イエスとして立ち現われており、その招きに巻き込まれていることを受け止めるところに、応答として神を愛する道が備えられるのです。この神を愛することは、主イエスに全面的に受け入れられていることによる自己肯定感に支えられて、同時に隣人を愛することへと導かれていくのです。

 主イエスの愛を受けての信仰としての受容の受容をより深く理解し、自己肯定感が整えられていくときには、その小さな愛さえも育てられていくのではないかという希望へと導かれていくことを信じることができるのです。この信じる気持ちによって「神の国に近い」道へとつながる可能性に結ばれていくのではないでしょうか。

2024年1月14日 (日)

マルコによる福音書 2章21~22節 「醸し出せ!いのち」

 今日の言葉は、おそらく一般的な暮らしの中での知恵として語られてきた格言だと言えます。いわば、どこにでも転がっているような言葉です。重要なのは、言葉の意味自体ではありません。しばしば、何を語るのかについては誰がどのような状況で語ったのかの方が読み解きにとって重要であることがあります。このどこにでもある格言ですが、語っているのが主イエス・キリストであることにこそ意味があるのです。

 あなたは世間や社会の強いる価値観によって生きるべきではない。本来、神はすべてのいのちを全面的に肯定し、祝福している。その肯定と祝福が今、ここに実現したと、主イエスは癒しの業や宣言によってなしたのではないでしょうか。あなたには、主イエスに支えられた、満ち満ちたいのちのエネルギーが与えられている、それを正面から恵みとして受け取ることがすでに赦されている。それを受け止めさえすればいい。このようにして、時代の強いる病に代表される不自由からの解放を行ったのです。価値観の逆転として、です。主イエスの癒しの力とはエネルギー注入であり、そこで起こされるのは、いわば受容の受容ということです。受け入れられていることを受け入れるということです。今、あるがままの姿に対して条件を付けないで全面的にOKが出されているということです。

 主イエスの生涯が、ヨハネからの受洗時に天が裂け、十字架上の死の際神殿の幕が裂ける出来事であるなら、その語る言葉が当時の言い伝えや格言に過ぎない内容であっても、古い布切れや古い革袋を破るほどのいのちが漲っているのです。このいのちの勢いに身を任せていけばいいのです。

 著者マルコは言います。あなたは、主イエス・キリストからもたらされた溢れ出るエネルギーに満たされてしまっている、そこに身を委ねて歩め!何故なら、古い布切れと古い革袋は、主イエスの人を生かすエネルギーによって破られているからだ、ここに立つことへと導かれているのだから、真正面から受け止めさえすればいい。それだけのことに今立ち返れ!あなたは生きる意味や価値など自分にはないと強いられ、自分でも思い込んでいるかもしれないが、それは幻に過ぎない。あなたのいのちは神によって生き生きと漲るいのちのもとにある。主イエスにおける無条件で資格を問わないいのちの全面的な肯定感に包まれてしまっていることを自覚せよ、と。

 主イエスの招きは、それだけで聴くに十分な恵みに漲っているのです。誰彼からのレッテル張りや権威や権力から強いられた価値観によって理解させられてしまっている自分から、本来のあるがままの姿で受け止められ支えられてしまっている自分へと位置をズラすことで整えること。ここから生き生きとした、喜ばしい自分を生きていくことへの方向付けが与えられるのではないでしょうか。醸し出されるいのちに共に与って歩んでいきたいと願います。

2023年7月 2日 (日)

マルコによる福音書 15章6~15節 「十字架の苦しみ」

 主イエスは、一切の苦しみや痛みをその身に負い、身代わりとして国家権力の暴力による仕打ちへと引き渡されています。主イエスの味わっているのは全世界のあらゆる苦しみや痛みではないでしょうか。この姿が「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一言に表され、この姿に対して全面的に同意し「アーメン」と告白するところに、すでに教会は建て上げられています。そして、そこにつらなることによって主イエスの苦しみによって守られていることをお互いに確認することが赦されているのです。主イエスの苦しみの場から神の国への道筋は開けてくるのです。教会は主イエスの「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という事実によって支えられている共同体です。実線として閉じられた枠や必ずしも組織として整えられているものとは限りません。

 現代も、世界中のありとあらゆる場所に、形を変え名前を変え、偽りの神の国を語るところの様々なポンテオ・ピラトは存在します。世界中の国家権力の暴力性は神の国に押し入ろうとしています。この人間の野望はバベルの塔を想像させるものでもあります。人間の万能感が権力の暴力性によって満たされる途上において、この世の帝国を神の国と偽るのです。神の国とは本来、神ご自身の願いに満ちた場であり、時間です。そこではあらゆるいのちが神の祝福に包まれており、愛という現実が満ち溢れている場です。ここに向かって国家権力の暴力性が忍び寄ります。あちらこちらに存在するポンテオ・ピラトのもとで収奪や搾取、様々な国家権力という暴力にさらされている場に対して、主イエスが冷たい態度をとるはずはありません。その場に共にいたいと願うのが、わたしたちが主イエス・キリストと心を込めて告白するその方なのです。教会はあくまで、ポンテオ・ピラトの側に立つことを拒むところでなければなりません。現代のポンテオ・ピラトを注意深く拒むことは、同時に神の国・神の支配である主イエスの思いに寄り添う生き方を選び取ることでもあります。

 この生き方は「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉によって招かれていくものです。また、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」がその苦しみを強いられているところに向かうのです。そしてその場で、その時々のポンテオ・ピラトによる構造悪としての国家権力の暴力に抗うことが求められているのではないでしょうか。その抵抗は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」た主イエスによって支えられていることを信じ、神の国を共に目指したいと願います。

2023年6月11日 (日)

マルコによる福音書 2章1~12節 「ともだちっていいな」

 ~花の日・子どもの日 子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスは体が動かない人を治して元気にしました。その時の主イエスの気持ちが何だったのかと思いました。それはきっと、「友達っていいな」だったと。確かに、四人の人たちが家の屋根を壊してしまうのは、乱暴なことかもしれませんが、友達を何とかしてあげたい、助けたい、そういう気持ちは分かるし好きだなあ、友達を思う気持ちって大切なことなんだ、と。

 体が動かない人のことを何とかしてあげたいと思う四人の友達の心は、神を信じる気持ちにつながる信仰だと主イエスは考えたのでしょう。こういう気持ちこそがとても大切なんだ、と。主イエスは、四人の友達の信仰に応えて体が動けるようにして元気にしたのです。それは、治された人も運んできた四人の友達にとっても嬉しいことでした。そして、それだけではありません。その体が動かない人を思う友達の気持ちが、その家の中にいる人たちにも伝染し、さらにはその気持ちがもっと多くの人たちにどんどん広がっていったのではないかと思うのです。家の外にも、それが町全体そして国全体、世界全体に広がっていくことを想像するとなんだか嬉しくなってきます。つらい思いをしている人に心を寄せる人たちが、広がっていったらきっと素敵な世界になっていきます。そこにいた人たちの心の広がりを、「このようなことは見たことがないと言って神を賛美した」と今日の聖書に書いてある言葉は、そういうことだと思います。

 実は今日の話の本当の始まりは、神が人間と心が通じ合う本当の友達になるために、この世界に主イエスとしてやってきたという出来事です。誰もが、つらい思いや悲しい思いをしている人の友達になっていくことができるし、このことを主イエスは大好きなのです。もしかしたら、自分には友達なんて一人もいないと思う人がいるかもしれません。でも大丈夫です。主イエスはいつだってあなたと友達になりたいし、もうすでに友達になってくれていることを思い出せばいいのです。そして主イエスの力によって友達の輪が広がっていくよと今日の聖書は約束しているのではないでしょうか。この友達の広がりが世界中に広がっていけば、主イエスの願っている平和な世界がやって来ることを信じることができるようになるのです。紛争や戦争の中にある国々のところにも、友達っていいな、という主イエスの願いと同じ心が広がっていってほしいと、たくさんのたくさんの人が思いつづけたら、きっとそれは本当になります。

2022年4月 3日 (日)

マルコによる福音書 10章35~45節 「権力を無化するために」

 今日の聖書は、マルコによる福音書に特徴的な弟子たちの無理解のテーマについて語られている箇書になります。登場人物であるヤコブとヨハネの兄弟がイエスのところにやってきます。2人は、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左にと願ったのです。これはイエスという方が栄光の王として、当時の社会で彼らの思い描く王として君臨した暁には、それぞれ右大臣、左大臣にしてくれ、というものです。並行するマタイによる福音書では、本人たちの願いではなく、その母を登場させていますが、事実としては本人たちだったと考えられます。ヤコブとヨハネの責任を母に擦り付けているわけです。いずれにしても、イエスという王の重鎮として二人を受け入れてほしいということです。少し前のところでは誰が一番かという議論をしていたという記事もあります。要するに、弟子たちの中で誰がイエスに近いのか、イエスをめぐって、イエスとの距離によって自分の価値が優れているかを競っている中、ヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。他の10人はこのことで腹を立てた、とあります。言い換えれば、残りの10人も同じように自分が一番であり二番になりたかったのです。マルコによる福音書を通して読む時に、いわゆる弟子批判というテーマがあります。特にペトロに対してです。彼は弟子の代表と見做されていましたから。非常に強く批判的な見方がなされています。これについて、複数の新約聖書学者たちは、このようなペトロたちを代表とするようなキリスト者になってはいけない、だからそうではない生き方をすべきだということがマルコ福音書の意図だと主張しています。確かにペトロを代表とする弟子たちを反面教師として見る視点は必要ですが、切り捨ててしまうのではなくて自分のあり方と重ね合わせるようにして読むと、弟子批判の動機がもっと柔らかく穏やかなものとして受け止めることができるようになると思います。わたしたちを右大臣左大臣、一番と二番にしてくれ、あるいは12人の中で誰が一番かという争いは、誰彼と比較して自分が優位に立つことによって指導者の権威を笠に着て権力を行使しようとする、この世の論理から自由でなかったということです。

10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

 「支配者」「偉い人たち」「いちばん上」という言葉で想定されている人たちとは、当時のローマ帝国の皇帝であったり、あるいは代官であったり、ヘロデ家の人々であったり、あるいは宗教的に支配している祭司長、律法学者、ファリサイ派、長老などでしょう。ヤコブとヨハネの願いは、この権力体系に乗っかってしまいます。しかし、それは根本的に間違いです。イエス・キリストに従うということであれば、まずイエス・キリストがどうであったかに注目するところから始めるべきです。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」というイエス・キリストの問いに対して応えていくことは、自分を中心にして物事を考え行動する生き方ではありません。イエスに真似び、倣っていくことです。そのためにはイエス・キリストご自身が十字架へと歩まれた謙遜と遜り、杯と洗礼に示される苦難の道を歩む方なのだと受け止め直すことが必要です。これが「皆に仕える者」「すべての人の僕」として「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と言われていることによって知らされます。そして、それぞれに与えられている十字架を背負ってついていくのです。このようにしてイエスの後ろに直っていき、先頭に立つ主イエスに従っていくのです。この促しを今日の聖書は語るのです。

 そのイエスの歩みとは何であったのか。それは言うまでもなく、十字架への道行きです。しかもそれは、他者、より小さくされた人たち一人ひとりの命の尊厳を取り戻す仕方で仕えていったのです。それは、弱りを覚えた人たちだけではありません。イエスのことを理解しきれていなかった弟子たちの愚かさや躓きや弱ささえも、イエス・キリストは受け入れていたのです。十字架への道行きとは、徹底した同伴者としての歩みでもあったのです。

 上昇志向は、人間のあり方を歪にします。誰彼と比較して自分の方がより優れた人間であるとする眼差しによって、実はその眼差しを与えている本人の人格とか自尊心を貶めてしまうのです。そうではなくて、モノを見る、考える、判断する基準を、この世の価値観とは全く別の、いわば神の国の価値観に置くのです。「皆に仕える者」「すべての人の僕」になっていくことによって、この世の価値観に染まっているあり方から自由にされ、より弱い人たちとつながっていくところで、そしてそれがより困難な道であったとしても、これを志していくところにこそイエス・キリストの道があるのです。この道をわたしたちはイエス・キリストから知らされているのですから、思いあがった人生も、どこかで転換されていくのではないでしょうか。別の生き方、もっと他者と心の底でつながっていくような生き方へと促されることによって人生の質みたいなものがより豊かにされていくことができるのではないでしょうか。そのような筋道をイエス・キリストがつくってくださっているのです。わたしたちがもっている上昇志向とか思い上がりとか傲慢さというものが、イエス・キリストの十字架によって打ち砕かれ、わたしたちはそれぞれが与えられているところのより困難な道である強いられた十字架を強いられた恵みとして受け止めていくことができる中で、より豊かに「神さまありがとう」ということができ、信じることができる道があるはずだ、迷っていても辿り着く場所があるはずだ、そう信じることができるようになるのです。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と主イエスは語られました。イエス・キリストの十字架への道とは、遜りと謙遜の極みとしての十字架を「多くの人の身代金として」自分のいのちをささげたことです。このいのちをささげられたところのイエス・キリストに与っていくならば、わたしたちがどのような困難な道を選ばざるを得ないことが起こったとしても、それを恵みとして受け止めていくような生き方があるはずだ。きっとあるに違いない。いや、そのように確信できる。ここにキリスト者の希望があるのではないでしょうか。

 こんにち、わたしたちの身近なところから国際関係に至るまで、ヤコブとヨハネの野望や欲望は決して無関係に思われません。生活の場でも国際間にあっても、誰が一番二番なのか、そしてその場に上り詰めていきたい、認められたいという願いが満ち溢れているように思われてなりません。その人を突き動かす原動力のようなものが神のように働くのではないかと思います。そのような偽物の神によって自らに権力を与え、さらに実力を行使していくのです。そこに起こるのは、支配―被支配という関係です。水平で平等な関係ではありません。親が子に、国が国に対して何を行っているのかを見極める必要があるのではないでしょうか。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という現実は、とりわけ今の世界状況の中で、わたしたちにとって切実な課題として圧し掛かっているのです。アメリカのバイデン大統領の言うところの「民主主義と専制主義の対立」だと指摘すれば事足りるのでしょうか。権力に対して権力で立ち向かうという方法、権力を行使して、より優位に立つという仕方の戦略ではなく、そもそもの発想の転換をしない限り、解決への道行きは遠いと言わざるを得ません。こんにちの課題からすれば、103節の「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢が求められています。相手の低みに寄り添うこと。相手の場に対して、また相手の丸ごとのいのちを生かすために寄り添うことに他ならないのではないでしょうか。たとえば、国と国との対立の中で侵略者に対して抵抗し、闘うことは当然のことなのかもしれません。しかし、いずれの側の軍隊の中でも国の存在こそが最も重要だと判断される時には、個という一人の存在・いのちは軽く扱われます。いずれの国の軍隊においても1人の人間の尊厳・いのちは国に吸収されてしまうのです。いわば、国という幻想の中でひとつの名もなき歯車以上のものではなくされ、個としての人間の価値は貶められていくのです。このことを、わたしたちはもっと強く自覚すべきではないでしょうか。もちろん侵略は悪であるとの判断に迷いはありません。しかし、この間、プーチンが悪で、ゼレンスキーが正義であるという図式が当たり前の前提として語られていることに違和感を覚えます。単純化するところに落とし穴はないかと。ロシアの人民がプーチンの暴走を止めるしかないと思いつつ、日本という場にあって、ウクライナの抗戦を応援することも、降伏を促すことも語ることはしたくはありません。ただ、別の物語の可能性を主イエスの発想から示されたいと願います。

 さて、主イエスの今日の言葉は「十戒」の中で教えられていることが前提となっています。「十戒」の前半で神のみを神として受け止めることが語られています。この前半から後半の倫理が導き出されるのです。神を神とすることは偶像を退けることです。つまり、思考や行動の原理を神に置くことによって、殺すことや盗むことやむさぼるということをしてはならないという倫理が方向づけられるのです。この「十戒」に立脚して、主イエスに信じ従い、権力への欲望や野望を断ち切ることが求められているのではないでしょうか。これをプロテスタントの神学理解として展開していけばバルメン宣言第1項にまとめられるように思われます。すなわち、【聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。】

 コロナ下のステイホーム状態にあって家庭内ではDVや虐待が増えていること、またロシアがウクライナを侵略している現実と各国の対応の仕方など、いずれもヤコブとヨハネの立ち居振る舞いと決して無縁のことではないと言えます。神を神として受け止める場に立ち返らなければ、自分を神として建て上げてしまうバベルの塔の精神に飲み込まれてしまうからです。今、あちこちに立ち現われているベベルの塔に対して、いかなる立ち位置でいられるのかが問われているのではないでしょうか。相対立するどちらかの側に味方するということよりも、別の物語を主イエスの言葉からいかに聞き取っていくのかが求められているのではないでしょうか。ヤコブとヨハネの人間という限界性にあって「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢に立ち返ることを自分の現場で行っていくことが、世界大でものを考え、地域的に行動していく証しなのではないでしょうか。その課題を担っていくために聖霊の助けを求めるものです。

 わたしたちは、国というものがあって当然のものであり、そこに所属しているという意識も含め一種の信仰であるかのような前提に立っています。国という神話と言ってもいいのかもしれません。この神話のようなものを一度相対化しながら発想していくことが主イエスから提示された、権力を無化する思想なのではないかと思わされています。国という存在や所属意識よりも、まず個・1人の人のあるがままの存在、そのいのちが尊重されるあり方を祈り求めていく道こそが、今日の聖書の語る、主イエスの目指す方向なのではないかと思うのです。

祈り

この世をすべおさめる全能の神!あなたの主権が確かにされますように祈ります。

この世界はあなたによって創造されたものですから、あなたのものです。

この世界を託されている責任への裏切りの罪を告白します。

わたしたちの罪を、底抜けの赦しによって正しい道へと立ち返らせてください。

神の秩序の人間の無秩序との関係が正されますように。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩ませてください。

この祈りを、平和の主イエス・キリストの御名によってささげます。

                                  アーメン。

 

2022年3月27日 (日)

マルコによる福音書 9章2~10節 「これに聞け!」

 「わたしの愛する子」である主イエスは、マルコ福音書のあらすじから言えば、今日の聖書の箇書は十字架を見据えているのです。場所はフィリポ・カイサリア地方のどこかの「高い山」であると考えられます。この地方は、8章までの主な活動の場所であるガリラヤ湖の北側に位置します。ここはつまり、一旦ガリラヤ湖周辺から身を引いた場所であることに加えて、南を見渡すと、まずガリラヤ湖、その先ヨルダン川沿いに南に向かっていくとエルサレムがあります。聖書の巻末にある地図を見ていただければイメージが掴みやすいと思います。「山を下り」て目指すべきはエルサレムなのです。当時の社会の歪みが集中している場所だからです。マルコ福音書を通して見ると、826節までがガリラヤでの活動、そこから転換して旅を始めることになります。11章でエルサレムに入り、14章から本格的な受難物語となっていきます。今日の聖書は、先週に続き主イエスの活動の展開地点なのです。具体的な名前よりも、「高い」位置であることに意味があると思われます。この「高い」は、南に向かって今後の歩みを見渡し、見通すことのできる場面設定を意味しているのではないでしょうか。

 読み手に要求されているのは、この主イエスの歩みに対して「これに聞け!」という命令です。今、福音書の告げる「神の子主イエス・キリスト」に対して「これに聞け!」を本気で受け止める勇気があるのか、決断があるのか、という問いかけなのです。主イエスの十字架への道行きに対して決断が弟子たちに迫られているということなのではないでしょうか。栄光に光り輝くキリストの具体的な姿は、十字架刑に至る道行きにおいてしか示されないのだとのマルコ福音書の信仰が表されているように思われます。だからこそ、「これに聞け!」という命令形であり、ここに福音書自体の決断を読むことができるのではないでしょうか。マルコ福音書の文脈にあっては、弟子たちに「無理解の動機」がなくなることはありません。形を変えて何度も弟子の「無理解」が描かれ気づきが求められています。著者は注意深く福音書を読む者が、すでに主イエスの語りかけは始まっていると読み取ることを望んでいます。この呼びかけの言葉は、「無理解」をも乗り越えて語り続けているのです。わたしたちが依って立つべきは「これに聞け!」という主イエス・キリストの言葉と振る舞いとに注意深く耳を澄ませることなのではないでしょうか。

2022年3月20日 (日)

マルコによる福音書 8章27~33節 「イエスの背中に向かって直れ!」

 主イエスはペトロの告白を聞いてサタン呼ばわりしながら「引き下がれ」と𠮟りつけます。これを「私の後ろに直れ」と渡辺英俊牧師が訳しています。そうすると、「前へならえ」のイメージからもう一度主イエスの背中に向かって直れ!と促しているように思われるのです。残念なことにペトロだけでなく弟子たちは、この言葉の意味するところを主イエスの生前には理解できなかったようです。正しい信仰告白である「あなたこそが唯一の救い主です」という言葉は、「主イエスの背中に向かって直れ!」という促しに聞き従うことなしには意味をなさないという戒めの物語なのだと思います。

 この、ペトロの口先だけの信仰告白と比べることのできる物語があります。それは、14章の初めの、いわゆる「ナルドの香油の物語」です。食事の席にやってきた名前も残されていない一人の女性が「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」という事件です。香水は、ほんの一滴でも強く香ります。それを全部ぶちまけたら咽返るほどでしょう。せっかくの食事が台無しです。しかし、主イエスは「するままにさせておきなさい」というのです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と説明しています。油を注ぐことは王の即位の儀式を思い起こさせます。そして同時に埋葬の準備でもあるというのです。こののち十字架にかけられた主イエスの亡骸は、そのまま、油を塗るなどの処理をしないまま墓に収められたことが聖書の記事から分かります。しかし、亡骸に塗る油はすでにここでなされていたとも読めるのです。香油を注ぎかけた女性は、一言も発していません。言葉だけで告白したペトロと対称的です。マルコ福音書は、この女性の香油を注ぐという行動が、主イエスの受難予告の内容に対応した相応しい信仰告白の態度であったことを読者に分からせようとしているように思われます。行いとしての信仰告白を際立たせることで、弟子たちを代表とするペトロの口先だけの信仰告白のあり方を批判しているのでしょう。

 主イエスを「あなたこそが唯一のキリストです」と信じ告白することには、行動や証しという従うことが同時になくてはならないのです。その振る舞いが具体的にどのようなものであるのかについては、その場その場における責任的な<今>の課題に真剣に立ち向かっているときに示されると信じることができるのです。

2021年12月 5日 (日)

マルコによる福音書 7章1~13節 「神の言葉の新しさ」

 本日の聖書がアドベントの時期に読まれるべき箇書として指定されたことの意味を考えるならば、「排除の否定」ではないでしょうか。ここで主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちが強いる、生きる価値のある「期待される人間像」や、そこから一歩でも外れたら「罪人」とされ社会から排除されていく仕組み、これが神の望まれていることなかを問われたのではないでしょうか。いのちに対して条件や資格を当てはめるのは間違っているということでした。いのちにおいては、ファリサイ派や律法学者たちも「罪人」と呼ばれる人も、水平なのだという生き方を主イエスは選び取ったのでした。ですから、理不尽な宗教的な慣習に対して批判的に、あるいは皮肉をもって立ち向かったのでした。当然、彼ら主イエスに敵対する勢力の背後にはローマの権力が控えていますから、主イエスはこの世の秩序を脅かす危険人物として断罪され、十字架へと歩まなければならなくなるのです。

 飼い葉桶という低みに生まれ、小さく弱くされている者とともに歩まれた主イエスが生まれたことを記念するクリスマスの根っこには、十字架があるのです。ここにこそ、喜ばしさがあることを強調したいのです。

 クリスマスは確かに毎年巡ってきます。しかし、それはただの繰り返しではなく、「神の言葉が人となる」という事実に対する謙虚さに立ち返るための新しい訪れなのです。この点からブレないことを心に刻みながらアドベントを過ごしたいと思います。街角のクリスマスの賑わいを笑い飛ばしたり、軽蔑したりする必要はありません。わたしたちはわたしたちに求められている祝いに忠実であればいいのです。

 クリスマスは、固定化された記念日ではありません。常に新しく生まれる主イエスによって、自己検証していくための鏡のような働きを持つものです。飼い葉桶の主イエスは、いかに生きるべきなのか、どのように生きていくのが神の前に相応しいのか、そしてあなたはどこにいるのか、と問いかけてきます。クリスマスとは、飼い葉桶から十字架、そして復活から照らし出される主イエス・キリストの誕生を記念することです。主イエスの生き方や語りかけと歩み抜きに受け取ることのできないものです。主イエスがこの世に生まれてきた出来事を祝うのであれば、誰と共に分かち合う、新しい出来事なのかが明らかにされるのではないでしょうか。

2021年11月21日 (日)

マルコによる福音書 4章26~29節 「育てるのは神」

 主イエスの姿勢は、たとえば農作物についての態度から分かる楽観性にあると思います。それが今日の聖書の箇書です。農夫が種を蒔いて、放っておいて夜昼寝起きしていれば勝手に育っていくのだというのです。主イエスは大工仕事をしていたと言われていますが、農民の日々の暮らしぶり、種を蒔く前に耕し肥料を与え、種を蒔いた後も水を与え雑草を取り、毎日のように面倒を見るという大変さを知らなかったはずがないのです。にもかかわらず放っておけば育って実りをもたらすと言い切るのです。ここには、蒔かれた種に宿った命というものが土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれてしまっている時には、放っていたって、すでに祝福されているのだから、ぐんぐん育っていくのだから安心だし大丈夫だという楽天性が見られます。

 この楽天性をお気楽とか、ものを考えない愚かさだと勘違いすべきではなりません。楽天性から現実の厳しさを見据えて、そしてより喜ばしい生き方への可能性を広げていくイメージへと導かれていくものだからです。現代日本の住宅街で祝う収穫感謝は、直接的に農作物というよりは、生活困窮の問題として浮かび上がってきます。持てる者と持たざる者という図式の中でわたしたちは何を為すべきなのか。

 主イエス・キリストを信じるということは、イエスの在り方をわたしたちが倣うということです。主イエスのおおらかさに倣うことです。

やがて来るべき日には、神の前での絶対平等な世界がやって来るのだから、その姿を心に刻むことから今を照らし出していけば、為すべきことを理解し、実行していく在り方へと導かれていくのではないでしょうか。楽観に支えられた現実認識から委ねていくことへと歩むことができるはずなのです。主イエスは十字架直前に次のように祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」。全くの絶望の中にありながらも、その根幹には神に対する全面委任、命がすべて神によって守られていることへの確信からなされた祈りです。神に委ねるということは、何もしなくていい、ということでは決してありません。全面委任であるからこそ、為すべきことを為していく責任を負うことができるのです。主イエスの楽観性に与っていくならば別の事柄に変えられていくことを信じることはできるのです。

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