今日の聖書は、マルコによる福音書に特徴的な弟子たちの無理解のテーマについて語られている箇書になります。登場人物であるヤコブとヨハネの兄弟がイエスのところにやってきます。2人は、来るべき日にキリストが栄光の座につかれるとき、一人を右に一人を左にと願ったのです。これはイエスという方が栄光の王として、当時の社会で彼らの思い描く王として君臨した暁には、それぞれ右大臣、左大臣にしてくれ、というものです。並行するマタイによる福音書では、本人たちの願いではなく、その母を登場させていますが、事実としては本人たちだったと考えられます。ヤコブとヨハネの責任を母に擦り付けているわけです。いずれにしても、イエスという王の重鎮として二人を受け入れてほしいということです。少し前のところでは誰が一番かという議論をしていたという記事もあります。要するに、弟子たちの中で誰がイエスに近いのか、イエスをめぐって、イエスとの距離によって自分の価値が優れているかを競っている中、ヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。他の10人はこのことで腹を立てた、とあります。言い換えれば、残りの10人も同じように自分が一番であり二番になりたかったのです。マルコによる福音書を通して読む時に、いわゆる弟子批判というテーマがあります。特にペトロに対してです。彼は弟子の代表と見做されていましたから。非常に強く批判的な見方がなされています。これについて、複数の新約聖書学者たちは、このようなペトロたちを代表とするようなキリスト者になってはいけない、だからそうではない生き方をすべきだということがマルコ福音書の意図だと主張しています。確かにペトロを代表とする弟子たちを反面教師として見る視点は必要ですが、切り捨ててしまうのではなくて自分のあり方と重ね合わせるようにして読むと、弟子批判の動機がもっと柔らかく穏やかなものとして受け止めることができるようになると思います。わたしたちを右大臣左大臣、一番と二番にしてくれ、あるいは12人の中で誰が一番かという争いは、誰彼と比較して自分が優位に立つことによって指導者の権威を笠に着て権力を行使しようとする、この世の論理から自由でなかったということです。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
「支配者」「偉い人たち」「いちばん上」という言葉で想定されている人たちとは、当時のローマ帝国の皇帝であったり、あるいは代官であったり、ヘロデ家の人々であったり、あるいは宗教的に支配している祭司長、律法学者、ファリサイ派、長老などでしょう。ヤコブとヨハネの願いは、この権力体系に乗っかってしまいます。しかし、それは根本的に間違いです。イエス・キリストに従うということであれば、まずイエス・キリストがどうであったかに注目するところから始めるべきです。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」というイエス・キリストの問いに対して応えていくことは、自分を中心にして物事を考え行動する生き方ではありません。イエスに真似び、倣っていくことです。そのためにはイエス・キリストご自身が十字架へと歩まれた謙遜と遜り、杯と洗礼に示される苦難の道を歩む方なのだと受け止め直すことが必要です。これが「皆に仕える者」「すべての人の僕」として「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と言われていることによって知らされます。そして、それぞれに与えられている十字架を背負ってついていくのです。このようにしてイエスの後ろに直っていき、先頭に立つ主イエスに従っていくのです。この促しを今日の聖書は語るのです。
そのイエスの歩みとは何であったのか。それは言うまでもなく、十字架への道行きです。しかもそれは、他者、より小さくされた人たち一人ひとりの命の尊厳を取り戻す仕方で仕えていったのです。それは、弱りを覚えた人たちだけではありません。イエスのことを理解しきれていなかった弟子たちの愚かさや躓きや弱ささえも、イエス・キリストは受け入れていたのです。十字架への道行きとは、徹底した同伴者としての歩みでもあったのです。
上昇志向は、人間のあり方を歪にします。誰彼と比較して自分の方がより優れた人間であるとする眼差しによって、実はその眼差しを与えている本人の人格とか自尊心を貶めてしまうのです。そうではなくて、モノを見る、考える、判断する基準を、この世の価値観とは全く別の、いわば神の国の価値観に置くのです。「皆に仕える者」「すべての人の僕」になっていくことによって、この世の価値観に染まっているあり方から自由にされ、より弱い人たちとつながっていくところで、そしてそれがより困難な道であったとしても、これを志していくところにこそイエス・キリストの道があるのです。この道をわたしたちはイエス・キリストから知らされているのですから、思いあがった人生も、どこかで転換されていくのではないでしょうか。別の生き方、もっと他者と心の底でつながっていくような生き方へと促されることによって人生の質みたいなものがより豊かにされていくことができるのではないでしょうか。そのような筋道をイエス・キリストがつくってくださっているのです。わたしたちがもっている上昇志向とか思い上がりとか傲慢さというものが、イエス・キリストの十字架によって打ち砕かれ、わたしたちはそれぞれが与えられているところのより困難な道である強いられた十字架を強いられた恵みとして受け止めていくことができる中で、より豊かに「神さまありがとう」ということができ、信じることができる道があるはずだ、迷っていても辿り着く場所があるはずだ、そう信じることができるようになるのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)と主イエスは語られました。イエス・キリストの十字架への道とは、遜りと謙遜の極みとしての十字架を「多くの人の身代金として」自分のいのちをささげたことです。このいのちをささげられたところのイエス・キリストに与っていくならば、わたしたちがどのような困難な道を選ばざるを得ないことが起こったとしても、それを恵みとして受け止めていくような生き方があるはずだ。きっとあるに違いない。いや、そのように確信できる。ここにキリスト者の希望があるのではないでしょうか。
こんにち、わたしたちの身近なところから国際関係に至るまで、ヤコブとヨハネの野望や欲望は決して無関係に思われません。生活の場でも国際間にあっても、誰が一番二番なのか、そしてその場に上り詰めていきたい、認められたいという願いが満ち溢れているように思われてなりません。その人を突き動かす原動力のようなものが神のように働くのではないかと思います。そのような偽物の神によって自らに権力を与え、さらに実力を行使していくのです。そこに起こるのは、支配―被支配という関係です。水平で平等な関係ではありません。親が子に、国が国に対して何を行っているのかを見極める必要があるのではないでしょうか。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という現実は、とりわけ今の世界状況の中で、わたしたちにとって切実な課題として圧し掛かっているのです。アメリカのバイデン大統領の言うところの「民主主義と専制主義の対立」だと指摘すれば事足りるのでしょうか。権力に対して権力で立ち向かうという方法、権力を行使して、より優位に立つという仕方の戦略ではなく、そもそもの発想の転換をしない限り、解決への道行きは遠いと言わざるを得ません。こんにちの課題からすれば、10章3節の「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢が求められています。相手の低みに寄り添うこと。相手の場に対して、また相手の丸ごとのいのちを生かすために寄り添うことに他ならないのではないでしょうか。たとえば、国と国との対立の中で侵略者に対して抵抗し、闘うことは当然のことなのかもしれません。しかし、いずれの側の軍隊の中でも国の存在こそが最も重要だと判断される時には、個という一人の存在・いのちは軽く扱われます。いずれの国の軍隊においても1人の人間の尊厳・いのちは国に吸収されてしまうのです。いわば、国という幻想の中でひとつの名もなき歯車以上のものではなくされ、個としての人間の価値は貶められていくのです。このことを、わたしたちはもっと強く自覚すべきではないでしょうか。もちろん侵略は悪であるとの判断に迷いはありません。しかし、この間、プーチンが悪で、ゼレンスキーが正義であるという図式が当たり前の前提として語られていることに違和感を覚えます。単純化するところに落とし穴はないかと。ロシアの人民がプーチンの暴走を止めるしかないと思いつつ、日本という場にあって、ウクライナの抗戦を応援することも、降伏を促すことも語ることはしたくはありません。ただ、別の物語の可能性を主イエスの発想から示されたいと願います。
さて、主イエスの今日の言葉は「十戒」の中で教えられていることが前提となっています。「十戒」の前半で神のみを神として受け止めることが語られています。この前半から後半の倫理が導き出されるのです。神を神とすることは偶像を退けることです。つまり、思考や行動の原理を神に置くことによって、殺すことや盗むことやむさぼるということをしてはならないという倫理が方向づけられるのです。この「十戒」に立脚して、主イエスに信じ従い、権力への欲望や野望を断ち切ることが求められているのではないでしょうか。これをプロテスタントの神学理解として展開していけばバルメン宣言第1項にまとめられるように思われます。すなわち、【聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。】
コロナ下のステイホーム状態にあって家庭内ではDVや虐待が増えていること、またロシアがウクライナを侵略している現実と各国の対応の仕方など、いずれもヤコブとヨハネの立ち居振る舞いと決して無縁のことではないと言えます。神を神として受け止める場に立ち返らなければ、自分を神として建て上げてしまうバベルの塔の精神に飲み込まれてしまうからです。今、あちこちに立ち現われているベベルの塔に対して、いかなる立ち位置でいられるのかが問われているのではないでしょうか。相対立するどちらかの側に味方するということよりも、別の物語を主イエスの言葉からいかに聞き取っていくのかが求められているのではないでしょうか。ヤコブとヨハネの人間という限界性にあって「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」という姿勢に立ち返ることを自分の現場で行っていくことが、世界大でものを考え、地域的に行動していく証しなのではないでしょうか。その課題を担っていくために聖霊の助けを求めるものです。
わたしたちは、国というものがあって当然のものであり、そこに所属しているという意識も含め一種の信仰であるかのような前提に立っています。国という神話と言ってもいいのかもしれません。この神話のようなものを一度相対化しながら発想していくことが主イエスから提示された、権力を無化する思想なのではないかと思わされています。国という存在や所属意識よりも、まず個・1人の人のあるがままの存在、そのいのちが尊重されるあり方を祈り求めていく道こそが、今日の聖書の語る、主イエスの目指す方向なのではないかと思うのです。
祈り
この世をすべおさめる全能の神!あなたの主権が確かにされますように祈ります。
この世界はあなたによって創造されたものですから、あなたのものです。
この世界を託されている責任への裏切りの罪を告白します。
わたしたちの罪を、底抜けの赦しによって正しい道へと立ち返らせてください。
神の秩序の人間の無秩序との関係が正されますように。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩ませてください。
この祈りを、平和の主イエス・キリストの御名によってささげます。
アーメン。
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