ガラテヤの信徒への手紙 4章1~7節 「神の子とされる」
パウロは、今日の聖書の4節から5節で次のように語ります。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」。主イエスが「真実の」「本当の」人間として生まれてくださったことから、本来神から子と呼ばれることなどあるはずのないわたしたちが「神の子」とされる道を切り開いてくださったのだという慰めを語っているのです。
そしてこの言葉はパウロによれば「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」というテーマの展開です。「受肉」した主イエスにとって、神は天の上はるか彼方、遠いところにいますとは考えられなかったのです。あの十字架直前のゲッセマネの祈りの言葉を思い起こすならば、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、主イエスは、すぐ傍にいるところの神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈るのです。「アッバ」とは、当時使われていたアラム語のくだけた表現で「父」を表す言葉です。このゲッセマネの園において神は沈黙を続けるのですが、主イエスはすぐ傍にいる神の存在を疑うことなく呼びかけ祈っているのです。
この主イエスが「聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」であることから、今日の5節以下の「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」このこと、さらにはローマの信徒への手紙8章15節へと導かれるのです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」
主イエスのみが「聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」たからこそ、わたしたちも神に向かって「アッバ」と呼びかけることのできる神の子として招かれているのです。三位一体における神によって、いわば確実な養子縁組によって本当の神の子と呼ばれるわたしたちとされているのです。この主イエスによって、しかも「聖霊によりてやどり、おとめマリヤから生まれ」であるからこそ、自らの「身」をもって身代金としてささげられる、贖い出すことができるのです。このようにしてわたしたちは買い戻される仕方で神の子とされているのです。
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