ヨハネによる福音書

2024年10月 6日 (日)

ヨハネによる福音書 11章38~44節 「墓から出てこい」(世界聖餐日)

 ラザロの<いのち>が復活したような出来事は、主イエスは、弁護者・聖霊として働き続けているという信仰の告白物語として読むことが必要です。<いのち>をもたらす仕方での復活は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ところの「今ここに」おいて関係という出来事があるということです。「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼びかけられているのは、ラザロ本人だけでなくて、今、この物語に触れている一人ひとりなのだということです。

 死臭漂う姿なのはラザロその人一人だけなのかという問いがあるのです。ラザロの「手と足を布で巻かれたまま」で「顔は覆いで包まれていた」姿は、自分とは一切関わりにないことだと胸を張って言い切れる人がどれほどいるのでしょうか。ラザロは死んで四日も経ち、死臭が漂い「手と足を布で巻かれたまま」で「顔は覆いで包まれていた」姿で墓におさめられている姿です。ここに向かって、語られてた主イエスの「出て来なさい」という言葉を、わたしに向かう言葉として受け止め、聴き直すことができないでしょうか。「ラザロ」との呼びかけを自分の名前が呼ばれていると読み替えてみることができないでしょうか。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」との宣言は、あのラザロと変わらないわたしたちに向けられてもいるのです。この世における、わたしたちの<いのち>はこの世を越えた<いのち>と無関係ではないということなのです。この世の<いのち>とかの国での<いのち>が、主イエスの復活において結ばれているがゆえに、新しい<いのち>の可能性への招きを信じることができるのです。ラザロの死において、その死を<いのち>へと向かわせる時、主イエスは大声で「出てきなさい」と呼びかけられました。その主イエスは「心に憤りを覚え、興奮して」います。これほどまでラザロを思う主イエスの心は、実はわたしたちにも向けられているのだと今日の聖書は告げているのです。

 今のあなたの姿は死んだラザロとどれほどの違いがあるのか思いめぐらせてみなさい、との呼びかけです。ラザロと読み手には、大きな違いはないのだということです。彼とさほど変わりのない惨めさの中にあることが知らされていると思うのです。このことに加えて、「出てきなさい」との言葉にラザロと共に与ることが赦されてある現実が、出来事として起きるのだと信じることができるのです。

 「出てきなさい」と墓に向けて語られた言葉が、主イエスの愛の力がラザロと友人・知人たちへと広がっていったように、わたしとわたしたち、今や神のもとにいる知人・友人たちというこの世とあの世の隔たりさえを乗り越えていく、豊かな招きの言葉として「今ここで」語られていることを確認したいのです。

2024年9月29日 (日)

ヨハネによる福音書 11章1~16節 「イエスは復活のいのちだから」

 読まれた聖書は11116ですが、17節以降のマルタの態度に焦点をおきます。

 ラザロが重たい病気にかかって死んで、その死を巡って彼をとりまく周りの人たちの反応などを折り混ぜながら物語は進められます。興味深いのは、今日読まれなかった17節以降のマルタの態度です。ラザロが葬られてから四日も経っていました。迎えに出たマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と語り、正直な気持ちを吐き出します。そして続けて「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と。これに対して主イエスは「あなたの兄弟は復活する」というのです。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。このマルタの答えには、死についての当時のユダヤ教の常識的な考えが描かれています。死んだ者たちは、この世の終わり、終末に復活するのだという考えです。しかし、主イエスは、次のように宣言し、マルタに問いかけます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」。これに対してマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」このように答えるのです。

 ヨハネ福音書は、主イエスのよみがえりを前提に、つまり、主イエスが十字架上の処刑からよみがえった勝利者であることを踏まえて物語る癖のようなものがあります。主イエスが十字架の死に打ち勝った復活者であるから、この世における死の向こう側の<いのち>の永遠においてわたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて「わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と語るのです。主イエスの復活の<いのち>に与ることにおいて、この世における死を向こう側の<いのち>への招きにおいて承認していく姿勢を与えるのです。

 このマルタの、いわば信仰告白と言っていいあり方とは、この世の<いのち>がこの世の<死>を受け入れつつもなお、向こう側の<いのち>への希望にあるという肯定的なものです。死の力を乗り越えているからこそ、向こう側の<いのち>を今のこととして祝福する光り輝く宣言の言葉のように思われます。ここには<いのち>への希望の信仰があるのです。

 もちろん、理不尽な<いのち>の奪われ方が世界中に蔓延していることに注意深くあることを忘れずに、です。

2024年9月22日 (日)

ヨハネによる福音書 10章31~42節 「拒絶されても」

 今日の聖書によれば、捕われようとしているその場から主イエスは逃れてヨルダンの向こう側に行かれ、42節に「そこでは、多くの人がイエスを信じた」とあります。ここで場が移動していますが、もしかしたら前の場所、石打されそうになったところからやって来た人もいたかもしれません。

 主イエスの活動は当初はユダヤの会堂の中でもなされていましたが、次第に追い出されるようになりました。ヨハネ福音書は、その追い出しが激しくなってきた頃に書かれています。「追い出し」は、追い出す側の正義や信仰の正しさを根拠にします。しかし、その正義や信仰的な正しさが神から来ているのか、と吟味することが求められるのではないでしょうか。34節と35節の引用元の詩編82を参照してみます。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」、ここに神の思いや願いが込められており、それが肉となったのが主イエスであることを認めてはくれないだろうか、という対話への可能性を開きたいというヨハネ福音書の理解する信仰的な表明があるのだと思うのです。

 善と悪、正義と不義、聖さと汚れなどを無自覚に決めつけることは、反対の立場を切り捨てて攻撃することに直結する、ということをわたしたちは肝に銘じるべきでしょう。二元論を根拠とする立場は、自分自身のことや家族や地域社会や国内に留まらず、世界大の規模によって展開されています。これらがエスカレートして戦争や紛争がより暴力的になり、「弱者や孤児」「苦しむ人、乏しい人」「弱い人、貧しい人」をさらに痛めつけていくことは、「神々」の前に屈してしまうことであり、神の思いからかけ離れたところにあるのです。

 自分と異なる側を審くのではなく、このことによって傷つく人々をまず思い浮かべることが必要であると思います。痛めつけられている人たちをこそ大切にすること、愛することが神の意志だとの提示が主イエスの存在そのものであったのではないでしょうか。この主イエスを根拠にしていけば、単純な光と闇という対立関係があったとしても、その間に新しい関係性を構築することができるのではないでしょうか。この可能性が開けてくることを信じることができるのではないでしょうか。ここに今日の聖書の提案が示されている、と思います。この世において、自分の立っている場における自らの善とか正義を相対化し、相手が何を根拠にしながら考えつつ行動していくこと。低みにおかれた人たちとの連帯を求めていく神の愛への共鳴に生きること。ここに神のまことの意志があるのではないかと。拒絶されてもなお、対話の可能性が開かれていくことを信じることができるのだと。

2024年9月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 10章1~6節 「連れられて」

 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。つまり、羊には一頭ずつ名前が与えられていたわけです。「名前」は、羊の個性、一頭一頭のいのちが独自なものであり、それぞれのかけがえのなさを表しています。「名前を呼んで」とは、ただ単に声をかけて呼びかける、ということに留まりません。そのいのちを慈しむ姿勢、大切にすること、尊重することなどが含まれます。羊は群れをなす生き物の代表みたいなものですから、ギリシャ語でも英語などでも単数形と複数形の区別がありません。羊というのは、一塊の群れをもって「羊」と呼ばれる伝統を持っています。しかし、今日の聖書からすると主イエスは、「おーい羊!」と群れ全般に向かって呼びかけているのではなく、羊の個を一頭ずつ気にかけていることが分かります。羊という一括りではなく、一頭ずつの個性や性格、習性などの違いによって見極め、これを大切にする態度を読み取ることもできます。主イエスは、羊の一頭一頭の名前を呼ぶのだということ、そして、その一頭一頭を大切にし、連れて行くのだということを、わたしたちは羊を自分たちに置き換えて安心することができます。しかし、わたしたち羊の側の現実はどうでしょうか。

 わたしたちには、一人ひとりに名前が付けられています。生まれてから誰かにつけられたもの、あるいは自分らしく生きるために自らで付け直すこともあります。この「名前」とは単なる記号ではありません。「名前」とは、その人そのもの丸ごとを表す「言葉」です。尊重されなければならない「人権」と言っても決して言い過ぎにはならないかと思います。

 主イエスが羊に向かって「名前」で呼んだことは、その羊のあるがままのいのちが全面的に受け止められ、肯定され、尊重されているのだと知ることができます。羊を人として受け止め直すならば、主イエスに自分の「名前」を呼ばれた者は、自分の「ほんとうの名前」を生きるようにして「連れ」出されるのです。ここに主イエスの「人権」への招きがあります。

 しかし、風潮は主イエスの姿勢を拒みます。「名前」を呼ぶことのできない勢力があるのです。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」このように指摘される「盗人」や「強盗」に相当するあり方です。「人権」を無視し、拒み、暴力的な思想や行動をもって襲いかかる悪しき力や風潮があるのです。

 主イエスに「名前」を呼ばれた者は、これらの悪しき力に抗う使命が与えられていると言えるのではないでしょうか。あなたもわたしも、同じ主イエスによって「名前」を呼ばれるようにして「人権」が尊重されているならば、お互いのあり方として大切にしあう道への招きを受け止めることができるのではないでしょうか。そんな生き方へと呼びかけ、招くのは羊飼いである主イエス・キリストなのだとご一緒に確認したいのです。

2024年9月 1日 (日)

ヨハネによる福音書 8章31~38節 「真理はあなたがたを自由にする」

 主イエスは語りかけています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、主イエスの言葉に留まることをもって弟子となり、それを導く「ほんとう」によって自由へと歩む方向付けと導きがあるということです。

 ところで、わたしたちは果たして、主イエスの言葉において示される「ほんとう」によって自由へと向かっているのでしょうか。「ほんとう」でないものを、あたかも「ほんとう」のことのようにして誤解していないでしょうか。デマや噂を「ほんとう」として刷り込まれて、強制的な誰かの意志に服従する、そのような従順に犯されてはいないでしょうか。

 聖書の文脈では、主イエスを「信じたユダヤ人たち」に対しての言葉です。これに対して彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と不満を述べ、自らがすでに「自由」であると言いたげです。しかし、彼らの自覚に隠された「奴隷根性」、つまり、何かしらの権威を傘に着ることで保証されていると思う勘違いのあることが理解できていないのです。常に、今ある自分の立ち位置を主イエスの「真理」に基づいて正していかなければならないのです。そうでなければ、「奴隷」としての「従順さ」において「服従」に溺れてしまうのです。これは「自由」とは程遠いものです。

 「真理はあなたたちを自由にする。」という立ち位置は、デマや噂に飲み込まれない道への招きがあります。「真理」によってもたらされる「自由」に与ることは、この世における責任的な生き方を選び取ることと別のことではありません。その人の内面性に閉ざされて完結するものではないのです。

 この意味において、今一度主イエスの言葉に立ち返りたいと願うのです。そうでなければ、わたしたちは「関東大震災」の混乱の中でデマを信じて「異質なもの」への襲撃に走った人たちの誤った道を再び歩むことになりかねないからです。何かしらの権力や扇動者たちの従順な奴隷になってはならないのです。この御言葉はそのままで信じるに値するものです。すなわち、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」。この御言葉のもと、デマや噂に溺れないで、責任的な生き方をこの世においてなしていくことを願います。主イエスの真理において自由へと歩みたいのです。

2024年8月18日 (日)

ヨハネによる福音書 8章3~11節 「主イエスは見ている」

 今日の聖書では、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」とあることから、著者は「性善説」に立っているかのように感じます。「性善説」とは孟子が唱えたとされるあり方で、人間というものは、そもそも善の基本があって、それを発展させ徳性に至るという考え方です。人間はもとが良いものだというのです。しかし、人間はそもそも誰一人として逃れられない根本的で決定的な「罪」が根付いているというユダヤ的な発想からすれば、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」という場面には違和感があります。聖書のテキストを好意的に読めば、「こうあればいいのに」という理想的な場面として著者は描きたかったのでしょうか。

 わたしたちを巡る現代社会のリンチの発想は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」ではありません。気に入らないことなら何でもいいとばかりに寄って集って標的を定めたら、とことん詰めてヘイトスピーチで叩き潰していこうとする空気が満ち溢れています。我先に石を投げつけることが主流のようになっているのではないでしょうか。インターネットの発達によって、石を投げつけるにしても匿名性で守られている以上、自らの攻撃的なあり方は表に現れにくいし、このことによって無責任に攻撃をエスカレートさせることもデマをでっち上げて煽り立てることもできるようになっているのです。

 ここでは、人間の持つこのような攻撃性を無化しつつ、その女性の立場を、また石を投げつけようとする立場を、沈黙によって問う主イエスの姿勢が、わたしたちのところにも染み渡ってくることへの期待をも持つのです。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語り、その後は沈黙し「身をかがめて地面に書き続けられた」、この言葉において、この女性に対して、また同時にその場にいる人たちに対して主イエスの姿からの迫りがあることを確認したいと思います。この場にいる人たちが、自分たちの「正義」に縛られた「悪意」に気づくことで自らが正されて「一人また一人と、立ち去って」行ったこと、この意味において自らに非を認めることができたこと。そして、この女性には、誰からも罪に定められることなく、「行きなさい」と自由に生きるために前進していく力が与えられたこと。これらを確認しておきたいのです。いずれの道も決して安易なことではありません。しかし、沈黙をもって主イエスは自らの姿を思い描くことへと導き、方向を与えてくださることを信じることはできます。主イエスは支える沈黙の力として働かれるはずなのです。ここに信頼しながら、自らの姿が明らかにされつつ、主イエスにあるところの相応しさの道を歩みたいと願うのです。沈黙の主イエスの見守りに信頼しつつ、歩んでいきましょう。

2024年8月11日 (日)

ヨハネによる福音書 7章40~52節 「対立の中で」

ヨハネ福音書は冒頭で、イエスの出所があくまで天なのだと語っています。このことを「命は人間を照らす光であった」「光は暗闇の中で輝いている」にもかかわらず「暗闇は光を理解しなかった」というのです。この「理解しなかった」現実の具体の一つとして今日の聖書の文脈があるのです。

 イエスをキリストとして受け止め理解するためには聖書からの語りかけに耳を傾けなければならないのは当然なのですが、聖書には神・イエスのすべてが描かれているのではないことを常に忘れず、書かれていないことも含め聖書を読む立場へと立ち返る必要がありそうです。

イエスがメシアかどうか議論している人々は、人間の側からの追求や研究などによって神を認識できる、すなわちイエスを理解できるという考えに囚われていたと思われます。しかし理解とは、イエスの側からの歩み寄り、ちょうど逮捕の場面でイエスを探しに来た人々に向かって「わたしである」と進み出たように、主イエスの側からもたらされる信仰です。

 信仰にとっての不誠実とは、悪意や偏見によってだけでなく、熱心で真面目で誠実な信仰的な態度にもひそんでいます。メシア、救い主、神である者は、こうあってほしい、あるいはこうでなければならない、という願いは、人間の持つ根本的な神認識にまつわる歪みであり呪いです。

 ここから自由にされていく信仰があるのだとの思いに立ち返りたいのです。いのちのパン、いのちの水とは、わたしという存在一切を生かしているイエスそのものの象徴です。イエスの側からのみ信仰は起こされるのです。わたしたちそれぞれのキリストとの出会い方は違いますが、多くの場合、自分がイエスをキリストと信じるという決断をくだし、「分かった」ということから始まっているかのように考えがちです。今日の聖書の文脈で言えば、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」という指摘の後で、議論が交わされその結果イエスがメシアであることは確かだと認められたという展開を想像することもできますが、このような流れがわたしたちの中で起こったゆえの「信じる」なのだと、わたしたちは錯覚しがちです。

 確かにヨハネ福音書を読むと「信じる」ことの主体性についての言葉をいくつも見つけることができます。しかし、わたしたちが信じる決断はイエスの側からの「選び」によって導き出されたものであることが前提です。すなわち1516節にあるようにです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」。この任命において、わたしたちは「信じる」ことへと導かれているのです。

2024年7月28日 (日)

ヨハネによる福音書 6章41~59節 「イエスの肉と血」

 本田哲郎神父の翻訳解釈によれば、41節から47節には「天から来たパン=イエス=のもとに来る人は、神に導かれている」という小見出しがあり、48節から59節には「イエスの生身(肉)に食らいつき、その生きざまに徹底してならえ」という小見出しがつけられています。今日の聖書を読み解くにあたって、ここにヒントがあるように思います。

 日本語で「飯を食う」とか「食べる」という時には、生計を立てるとか生活することを意味します。そして、どうやって飯を食うのかという問いがあるとすれば、ただ単にどんな仕事をして生活していくのか、という狭い意味だけではなくて、そもそもどのような態度や姿勢で生きていくのか?生きるべき信条とは何なのか?何を指標にして生きていくのか?という、生き方全般のあり方に対する問いとなるのではないでしょうか?

 今日の聖書が問うのは、読み手であるわたしたちが、主イエスの肉と血に与って生きているのかどうかを省みてみなさい、ということなのではないか、ということです。福音書に描かれている主イエス・キリストの生き方に倣い、真似びつつ歩んでいるのか、という問いが投げかけられているのではないでしょうか。福音書を細かく読めば、主イエスが、当時の格差社会、宗教的・経済的な差別社会、これら抑圧的な社会の仕組みの中で悩み苦しみ、苦闘の日々を送り、食うや食わずの不安定な生活が強いられている人たちと一緒に生きる喜びを作り出す働きの道を、十字架に向かって歩まれたことが浮かび上がってきます。差別される側の人たち、律法を守らない人たち、守れない人たち、汚れと判断される病気や障害や職業、そのような人たちの命が無条件で、そして生贄をささげなくても、今あるがままの姿で全面的に肯定されていることの表明・宣言を、主イエスはその身をもって行ったのではないでしょうか。今、生かされてあるあなたの命はそのままで美しい、祝福されているのだと語り続けたのではないでしょうか。

 主イエスの肉と血に与るということは、キリストをもっと知るために信じる道を歩み続けることです。現代社会において飲み食いは非常に厳しいです。戦争や紛争、災害や経済的な理由などにより具体的な飢えの問題は切実です。この時代にあって、飢え渇きのない世界を求めて、主イエスの肉と血に共に与る世界に向けって祈りつつ歩みながら、まことの平和がこの地上になりますようにと祈るものです。

2024年7月21日 (日)

ヨハネによる福音書 6章22~27節 「いのちの糧」

 26節を田川建三は次のように解釈しています【著者の眼から見れば、「徴」を見てイエスのことを持ち上げるような人々よりも、奇跡がどうこうではなく、素朴に、イエスが与えてくれたパンを食べて満足した、という人々の方が安心して会話できる相手だ、ということになる】。つまり、主イエスと一緒にパンを食べること、そして満腹することを全面的に承認する方向です。いわば、主イエスの食卓における祝福を肯定し、観念化や精神化に陥らず、単純に食べて満足している中に平安があるという発想があるのだと、わたしは受け止めています。

 この意味で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」この言葉を理解したいと思うのです。そしてさらには「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いに対する答えとして「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」という世界観に向かっていきたいと願っています。

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」この言葉を、永遠の命に与るためと信仰的に閉ざされた理解をするのがおそらく多数派であろうことは承知しています。しかし、通常の食卓と聖餐という儀式の食卓を分離するのではなく、主イエスは共なる食卓にこそ「永遠の命に至る食べ物」は備えられていること、その食卓を「聖餐」から「日常」へと取り戻すことの必要性を感じています。

 人が生きていくこと、いのちを保持するためには様々なものが必要です。特に、単純に食べることが大切です。何かしらの食べ物を食べることによって消化・吸収し排泄します。吸収された食べ物は血となり肉となり、身体を維持するエネルギーとなります。今、ここで生かされてあるいのちは食べることによって支えられているのです。辺見庸が、世界各地の日常食を食べる体験を書いた『もの食う人びと』というルポがあります。そこには、腐ったもの、放射能に汚染された料理も含まれます。そして「食べられない」現実も。ここに描かれている食べるという営みが「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という言葉と共鳴しているように、わたしには思えてくるのです。「永遠の命に至る食べ物」は、「すべての人が満腹」という日常の食卓の先にある、と思えるのです。主イエスは誰と食卓を共にしたのか、このことを常に軸にして考えたいと思います。

2024年7月14日 (日)

ヨハネによる福音書 6章16~21節 「恐れることはない」

 「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」場にある弟子たちを乗せたこの舟。この背後にはヨハネ福音書において主イエスの不在というテーマがあります。ヨハネ福音書の教会が「強い風が吹いて、湖は荒れ始め」ている中にあって、主イエスがいないために滅びに向かっているのではないか、という危機感にあったということです。しかし、その場においてこそ「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を受けることができるのだともいうのです。そして、この舟を、その時々の教会は自分事として読んできました。現代日本の教会においては、教勢が低下し続けている現実のことかもしれません。

 その時々の教会に向かって、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を語りかけ、歩み寄る方です。湖という普通は歩くことの不可能な状況で描かれていますから、この語りかけと歩み寄りには、不可能を越える主イエス自身の自由さに基づいた、主体的な行動だと読み取れます。実際、ヨハネ福音書から現代日本の教会に至るまで、主イエスの不在が問題にならず、実感もされずということがあるでしょうか。それでも、不在の主イエスは、この不在において「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけているのです。この言葉を受けるのかどうか、この問いと迫りに対しての反応、応答が求められているのです。

 「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を受ける態度としての相応しさを考える時に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』の一節を思うのです。

 【「僕たちは、この世の中で生きねばならない―『たとえ神がいなくても』-ということを認識することなしに、誠実であることはできない。しかも、僕たちがこのことを認識するのはまさに、神の前においてである。神ご自身が僕たちをしいてそのことを認識させたもう。このように、僕たちが成人することによって、神の前における僕たちの状態を正しく認識するようになるのだ。神は、僕たちが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、僕たちに知らしめたもう。僕たちと共にいたもう神とは、僕たちを見捨てたもう神なのだ(マルコ1534)。神という作業仮説なしに僕たちにこの世の生を営ませる神は、僕たちが絶えずその方の前に立っている神なのである。神の前で、神と共に、僕たちは神なしに生きる」。】(ここで言う「作業仮説とは、これから行う研究や考えをまとめる時に「差し当たって」前提として有効であると設定することです。)

 つまり、主イエスの不在にあって、それでも「神が共におられる」ことを語るとすれば、「神が共におられる」ということがわかる状況に向かう自立が求められているということです。どういうことか。不在の中、「わたしだ。恐れることはない。」との言葉において共にいるところから支えられるのだということです。

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