ヨハネによる福音書

2022年7月24日 (日)

ヨハネによる福音書 16章25~33節 「キリストの勇気に与って」

 わたしたちは、生かされた存在としてのいのちはあくまで「この世」と呼ばれる現在進行形の「今」という時から決して自由になることはできません。現実の「この世」のことは、どうでもいいとしてしまう信仰のあり方は、コリント教会においてパウロを敵と見做した人たちの勢力の信仰理解と深く共鳴しています。「この世」的な日常を生きる生活人であることをやめてしまって、心であるとか内面、精神性だけを天国に向けて現実逃避することに他なりません。天国的な信仰の醜さがここにはあります。堅実なキリスト者は、このような傾向を否定します。「あなたがたには世で苦難がある。」という現実を主イエスにあって自ら引き受けていくのです。あくまで「この世」でのいのちのあり方を見失うことがないのです。

 「世」とは、今生きている身近なところから地球規模の世界全般を示します。この情報社会にあっては日常生活の身近なところから国際関係に至るまで、古代と比べものにならないくらい多様な圧迫・艱難・苦難・苦しみ・悩みなどがいのちに対して強い力で襲いかかってきます。今、生かされてあることにまつわる一切予測不可能な未来への不安が横たわっているのだということです。あの、見渡せば砂漠や岩場など枯れた大地の中で渇きや飢えに対する危険にも増してです。古代に比べて「あなたがたには世で苦難がある」現実は強められ深められていると言えるかもしれません。わたしたちの暮らす現代社会とは決して大げさではなく、危険に満ち満ちているのです。しかし、主イエスの言葉は時代を越えてこのような意味での「苦難がある」現実に対して「しかし、勇気を出しなさい」と語り続けているのです。

 勇気や元気は、自分の力や能力などを頼りにすることではなく、あくまで主イエス・キリストの側からによってのみ生まれるのだということです。詩編23によれば「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」ということであり、ヨハネによる福音書10章に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」とあるとおりに、です。

 主イエス・キリストが「勇気を出しなさい」と語りかけているのは、その「勇気」のもとを自分こそが授けるのであるという決意の表れです。「勇気」や「元気」が生まれるのは、わたしたちからではなく、主イエス・キリストの側からの行いによるものなのです。この主イエス・キリストからの招きと促しを知るものは「勇気」と「元気」に与る生き方へと導かれるのです。

2022年5月22日 (日)

ヨハネによる福音書 18章1~11節 「何故信じることができるのか」

 「わたしである」という言葉は、イエスを捕らえにやってきた者たちが「後ずさりして、地に倒れた。」という出来事が起こされるに留まらず、主イエスの物語に触れるものにまで、その影響を与えるものです。主イエスがキリストであるという事実は、敵対する者たちだけでなく、好意的に、あるいは信じていると自分で理解している人にさえ力をもって立ち向かう言葉です。イエスは誰かを人間自身の力では理解できないことを告げ知らせるのです。主イエス自らが「わたしである」と自己啓示することによってのみ、主イエス・キリストの神との対峙関係へと導かれる唯一の道なのです。この告げ知らせは、人間の予測をこえてただ神の側から一方的なものだからです。この点においては排他的でさえあります。力ある「わたしである」のと言葉によってのみ、主イエスこそがキリストであることが知らされるのです。

 わたしたちはもちろん、今日の聖書にある「兵士」や「下役」のように主イエスを捕らえようとしているわけではありません。しかし、神に信じ従う人間であったとしても人間の限界から自由になれないという意味においては、主イエスを捕らえにやってきた「兵士」や「下役」と大きな違いはないのです。 

 主イエスが「わたしである」との呼びかけと招きによって、わたしたちにその身をもって迫っていることを思います。この主イエスの迫りを受けた者の応答の一つとして聖書の読み手であるわたしたちの歩むべき道を示し、目標に向かって勇気ある第一歩を歩みだすように支えてくださっていることが知らされているのです。この場に立っている主イエスの「わたしである」とのあり方は十字架刑への決意表明でもあります。同時に、読み手に向かって身代わり・代理としてのいのちの差し出しを行っているのです。わたしがわたしになるために、あなたがあなたになるために、わたしたちがわたしたちになるために、主イエスは自らを差し出すのです。自分のいのちでこれらの一人ひとりのいのちを取り戻すために「わたしである」と名乗り出るのです。ただただわたしたちは、この恵みの主イエスが名乗り出て下さっている事実に耳を澄ませることから、この主イエスに相応しく、取り戻されたいのちを尊いこととして受けとめながら、感謝の道を歩むように促されているのです。ここに、わたしたちが何故主イエスをキリストとして信じることができるのかが示されています。この信じる気持ちを起こさせるためにこそ「わたしである」と名乗り出てくださる主イエスが臨んでくださっているのです。このことは献身の中の献身と言えます。したがって、この主イエスを信じる者は、応答としての献身の道を歩むことが赦されているのです。

2022年5月15日 (日)

ヨハネによる福音書 15章1~15節 「つながり」

 今日の聖書の言うところは、キリスト者としての個と教会のつながりについてです。主イエス・キリストが「まことのぶどうの木」であるがゆえに、「わたし」は「わたし」になることができ、そのつながりとしての枝が教会のメンバーであるという教会論として通常は読まれるのだと思います。しかし、この「まことのぶどうの木」という宣言は、教会が主イエス・キリストにつながっていることだけに留まらないと読むこともできます。主イエスは、人が自分自身になっていくことと同時に様々な人たちとのつながりを深く広く捉えていったのです。人が、教会に限らず自分と、自分を取り巻くあらゆるつながりを整えていくことを作り出し、導き、育てるのは主イエス・キリストだというのです。

 しかし、取り巻くつながりをも含めてその人自身を主イエスが導いているとの宣言を聞いても、わたしたちそれぞれの現状に対する認識は楽観的ではありません。不安や不満を抱える関係性を生きています。それでも、自分と周りとのつながりを見渡すとき、ぶどうの木の一年のサイクルの類比から判断すれば、少しは楽な気持になるかもしれません。ぶどうの木はいつも収穫の充実感に満たされているわけではないことは当たり前です。葉がすっかり落ちて幹の表面が枯れているようなこともあるでしょう。しかし、ぶどうの木自体は、枯れているような見た目の時でも確実に生きているのです。芽を出し、枝を張る準備の時なのかもしれませんし、木の中では栄養分を含んだ水がゆっくりとであったとしても確実に流れているのです。この流れを交わりとかつながりの力と受け止めてもいいように思えてきます。殺伐とした世の中にあっても、必ず根底には信頼し、愛し合えるつながりが途絶えずにある。ぶどうの木の景色が主イエスからわたしたちへと広がっていくイメージへと膨らませながら読みたいと思います。

 この、「まことのぶどうの木」としてのイエス・キリストの語る事態は「互いに愛し合いなさい。」との命令のもとで展開していくはずです。同じぶどうの木につながってしまっているがゆえに、相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、お互いが対等な人格同士や共同体の関係が新たにされ、育てられていくのです。「わたしはまことのぶどうの木」との宣言は、このつながりに生かされていることを確認するところから、何度でも新しく始めることが赦されていることなのです。ここに信頼していけばよいのです。

2022年5月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 13章31~35節 「愛するということ」

 イエス・キリストは「新しい掟」とは「互いに愛し合いなさい。」であると語ります。聖書の語る「愛する」という言葉を本田哲郎神父は「大切にする」と訳しています。その通りだと思います。相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、尊敬の念をもって接することだと思うからです。必要であれば時には、その「愛」のゆえに批判していくこともあり得るということです。ただ忘れてはならないのは「愛しなさい」ではなく「愛し合いなさい」と言われていることです。一方的な「愛」は、時に相手を苦しめることがあることを踏まえておくべきでしょう。お互いが対等な人格同士や共同体の関係の中で実践していくことが「互いに愛し合いなさい」との「新しい掟」に応えていくことだと言えるからです。

 「愛し合いなさい」とは、関係を自らの内側に閉ざしていくことではなく、他者との関係を切断していくことでもありません。ましてや、憎しみや殺意など敵対心を募らせていくことではありません。そんなこと当たり前、と思ってしまいますが、しかし悲しいかなわたしたちは、一方を愛することが他方を排除することになりがちです。そして自分と違うものを受け入れることが苦手です。しかし、その違いを排除の理由にしてはいけないということです。意見などが違っていれば、正していく必要があるなら、話し合いという言葉を信じ、通じ合う努力を続けていくことです。井上ひさしの『子どもにつたえる日本国憲法』という本があります。9条1項の終わりはこのように表現されています。「どんなもめごとも筋道をたどってよく考えて、ことばの力をつくせば、かならずしずまると信じるからである。よく考えぬかれたことばこそ私たちの本当の力なのだ。」言葉の限りを尽くすその根底には、相手への愛があるはずです。

 相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、尊敬の念をもって歩むことへと導かれるのは、人にその能力や才能などがあるからではありません。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」。と語ります。「わたしがあなたがたを愛したように」が決定的な根拠です。ヨハネによる福音書316 節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。ここでは「独り子を信じる者」との限定が記されていますが、重点は前半にあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるところの「愛」の現実こそが、人に「愛する」ことへと導くからです。

2022年5月 1日 (日)

ヨハネによる福音書 10章7~18節 「まことの羊飼い」

 主イエスは語ります。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」。羊飼いによって、1匹残らず顔形から性格など丸ごとのあり方が知られていることを、羊は知っているのです。受け止められ、受け入れられている安心感に委ねることが赦されているのです。

 「まことの羊飼い」であることは「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ことだと言われます。ここでの「羊のために命を捨てる」とは、十字架の磔で殺害されることを示します。一人ひとりの羊であるわたしたちのことをわたしたちが知る以上に、知り尽くしているのが「まことの羊飼い」です。十字架によって担われたのは、人間の根源的な「罪」という事態です。人間が自覚できる犯罪や悪行のことでなく、主イエス・キリストの招きと赦し、これらの呼びかけに依らず、神との正しい関係が損なわれている状態のことです。神との関係における歪みの根っこです。人間が人間である限り、逃れられないものです。その根っこ、基本を「赦す」ために十字架において「羊のために命を捨てる」ことがなされたのです。このことによって、贖い、身代わり、代理の死が成し遂げられるのです。そして、復活のゆえに死からの勝利によって、「生きよ」との促しの力が今のこことして働いているのです。これは、羊である民を生かし、育て、何度でも新しく立ち直すことができ、歩みだす希望と勇気とをもたらすものなのだということです。主イエスの死をもって、これ以上誰かのために、何かの目的を達成するため、あるいは国家という幻想のために死ぬ必要がなくなったのです。

 「わたしは良い羊飼いである。」「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と主イエス・キリストは語りかけています。羊は群れで動き、自立した賢さではなく、ただ先頭についていくだけというイメージがあります。この姿は実際の羊から転じて荒れ野を旅する出エジプトのイスラエルの姿でもあります。さらに言えば、「まことの羊飼い」である主イエス・キリストに声をかけられているわたしたちの姿でもあります。主イエスの招きの祝福のゆえに、あるがままで受け入れられていることに安心し、主イエス・キリストにのみ信じ従う道に連なる羊の群れとして、自らのあり方を見つめ直しながら歩んでいきたいものです。

2022年4月24日 (日)

ヨハネによる福音書 20章19~31節 「あなたがたに平和が」

 主イエスは傷だらけのまま来て、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったのです。その傷は、その生涯の歩み全体を踏まえての傷、十字架において刺し貫かれた方であることを激しく思い起こさせるものでした。そして、弟子たちを閉じられた家という空間、そして関係から解放すべく派遣するのです。その時、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と語ったとあります。この息を吹きかける所作は、人の創造物語を前提としています。土の塵に過ぎない塊に神が息を吹きかけると人が生きる者とされたという言葉です。この、人が人として生きる力である神の息が、復活の主イエスによる「聖霊を受けなさい」との言葉によってなされたのです。家に閉じこもるような、社会的に、あるいは関係的に閉ざされた、土の塵に過ぎないような死の世界から脱出して、新しいいのちに与って歩めとの促しとして受け取ることができるのではないでしょうか。人を生かす聖霊の働きに委ねて歩み始めることが与えられたとの宣言とも読むことができます。

 しかし、先ほどの場にいなかったトマスは信じられないと言うのです。一方、他の弟子たちも復活の主イエスから派遣の言葉として聖霊を受けるように言われていたにもかかわらず、家を閉ざしたままでした。復活の主を見たといっても、まだ十分でなかったのはトマスだけではなかったようにも思われます。その場に再び復活の主イエスが登場し、同じように「あなたがたに平和があるように」と呼びかけました。さらに、トマスに向かって自らの身体を示しつつ「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語りかけました。

 「あなたがたに平和があるように」との挨拶は、人間関係の基本的な立場の表明でもあります。悪意や敵意をすべて捨て去る方向へと導く言葉です。大きな原動力にならず力のない言葉に留まるのは、人間の弱さや勇気のなさに由来します。主イエス・キリストの「あなたがたに平和があるように」との言葉は、このような人間の混沌や無力さを遥かに凌ぐものなのです。ここに信頼するように「あなたがたに平和があるように」との挨拶の言葉が語られていることを何が何でも信じたいと思います。そして、「聖霊を受けなさい」との言葉によって本当が語られていると信じたいのです。さらには「見ないのに信じる人は、幸いである」へと方向づけられていくのではないかと心から願うのです。

2021年1月 3日 (日)

ヨハネによる福音書 14章6節 「道・真理・命のあるところ」 横田幸子

1)「わたしは道である」について  画家・東山魁夷の代表作「道」という絵は、簡単な構図なのに、惹きつけられる。元となった何枚かのスケッチには、道をとりまく風景が描かれていて、視る者の眼・心が開かれる。戦争で召された家族全員のことも一言、語られている。これら作品の背後にあるものが「道」の絵に深みを与えているのだろう。魁夷は戦時、熊本城から見た阿蘇の自然に衝撃を受け、名声を望んでカンバスに向かう姿勢は間違いであったと気付かされた。絵を描く時には、その背後にある自然や事柄への心があってこそ、自然そのものの美しさ・深さの前に立たされるということであった。

 イエスが「わたしは道である」と言われた言葉には同様に、背後にイエスの人生そのもの・多くの人たちとの関わりがある。イエスが様々な障がいや困難のあった人たちを癒すことが「奇跡物語」として聖書には記述されているが、実は「奇跡」とは、イエスに出会った一人ひとりに生きることへの方向転換が起こされたということなのではないだろうか。今まで社会的な価値観によって自己規定していたことを知らされる。自分を呪縛していたものからの解放である。

2)「わたしは真理である」について  ヨーロッパ型の大学や世界的に著名な研究機関の多くが、聖書の言葉「 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)を建物に刻んでいるとのこと。そこには、学問研究や芸術研鑽など真理の探究こそが人間を人間たらしめ、自由を手にすることができるという共通理解がある。

 しかしイエスの語る「真理」は、全てのものを相対化する目をもつことのようだ。「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:4344)「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ172021)などが示すように。さらにイエスは言う。神の国はすでに始まっている、宗教作法を守れず「罪人」呼ばわりされている人や異国人と共なる食卓が開かれているではないか、と。イエスの言う「真理」は、人が他者と出会ってお互いの違いを知り、認め、「神の食卓」に招かれている喜びをもてることに他ならない。

3)「わたしは命である」について  1)と2)で言われていることの総まとめとして「神に愛されている、わたしとあなた」という命の「根源」を自覚して、それぞれに備えられた道を歩むことに他ならない。

2020年4月19日 (日)

ヨハネによる福音書 15章1~5節 「まことのぶどうの木」

 主イエス・キリストは、「わたしはまことのぶどうの木」と語りかけています。この言葉をどのように受け止めるかが今日のテーマとなります。
 「わたしはまことのぶどうの木」である主イエスにつながっていることをわたしたちは知らされています。主イエスが自らを「ぶどうの木」であると表明し、それこそが「まことの」と呼ばれること。わたしたちが主イエスという「まことのぶどうの木」につながる枝であるということは、いのちを枝という関係全体に行き渡らせ、育み支えている事実の関係に置かれているのだということです。主イエスなしに、わたしたちのいのちはあり得ないのだというのです。これはただ単に「わたし」という個人が主イエスを信じることでつながっている、ということではありません。「わたしたち」というつながりにおいてなのです。いのちの関係性を支え育む全責任を「まことのぶどうの木」である主イエス自らが負ってくださるのだという宣言でもあるのです。
 わたしたちは教会という信仰共同体としての「わたしたち」でありますが、それだけではなくて様々な場に応じての「わたしたち」でもあります。人は一人では生きられないと言われています。ですから、「わたし」は、いくつもの「わたしたち」の中の一人です。しかし、「孤独」が様々な仕方で襲いかかり、自分は誰からも相手にされず、したがって自分からも誰かに働きかけることへの気力を失うこともあるでしょう。あるいは人間であるということそれ自体からやってくる、自分とは何かという問いの前で立ち尽くさなくてはならない課題における場合もあるかもしれません。最近は特に、SNSなどの発達によって人と人とがつながっているという錯覚の装置のゆえに、「孤独」の闇は一層深まってきていると思われます。
 主イエスは「まことのぶどうの木」である事実に今一度立ち返ろうではありませんか。 主イエスは「まことのぶどうの木」です。ここからのいのちに与る枝がわたしたちの今という現実なのです。この現実のただ中に復活のキリストの聖霊が働き、支え導いてくださっている恵みを感謝すればいいのです。
 けれどもより深刻なことに、ただ孤独を感じるということを超えて、暴力的な仕方で疎外する言説や行動によっていのちの危険にさらされる場合もあるのではないでしょうか。見方を変えれば、「わたしたち」は常に「誰か」を排除する可能性の中にある、ということです。様々なマイノリティーに対するヘイトスピーチ、あるいは自己責任バッシングなどに明らかなように。
 ここでもう一度聖書に戻り、確認しておきたいことがあります。閉じられた教会理解に陥るべきではないということです。ヨハネ福音書を読むときの注意点の一つです。この福音書の書かれた背景には、会堂から追い出されるモチーフがあります(9:22、12:42、16:2など)。これはユダヤ教からキリストを信じる者が排除された事実の反映です。ですから、ヨハネによる福音書は、この事実を踏まえた上で「この世」に対して自分たちを、乱暴な言い方をすれば「聖別」し、自らの正当性に居直ろうとする癖があるのです(この点を踏まえながらも「この世」に対する「伝道」の意思を捨ててはいないとする学者の説も重要ですが……)。
 田川建三が翻訳したヨハネによる福音書の註に以下のようにあります。【この譬えの焦点は「枝」つまり信者が「実を結ぶ」かどうかにある。いや、実を結ばない信者は切って捨てられるよ、と脅す点にある。いや、実を結ぶ前から、「イエスの中に留まらない信者」つまり正統主義のドグマを信奉しない信者は、切って捨てられる、という点にある。】。これは16節の「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」との言葉からも納得がいきます。さらに、有名な3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉も18節では「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と展開されていくからです。
 しかし、このような傾向があったとしても、それでもなお、主イエスが「まことのぶどうの木」である事実は退けることができない、と思います。この16節を教会の内と外を隔てるための言葉として読むのではなくて、15節後半の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」から読み返していくならば、「枝のように外に投げ捨てられて枯れる」のは、単純に教会の外側に限定すべきではありません。9節から展開される愛のテーマにおける12節の「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」という主イエスの目指した世界観を疎外するあり方や勢力に対して向けられるべきではないでしょうか。17節の「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」との命令に背く事態全般に対して「投げ捨てられて枯れる」という言葉は向けられているのです。すなわち、広義の「人道に対する罪」とも言える現実に対して、「愛」を根拠に立ち尽くす信仰。これが、主イエスの語る「わたしはまことのぶどうの木」の現実を指し示しているのです。
 さらに「わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とあるように、神によって確実に遂行されるのだとの確信が、ここにはあるのです。ですから、わたしたちが神に成り替わるようにして排除の主体になってはいけないのです。人間の限界をわきまえなくてはなりません。あくまで裁きは神の御手にあることへの信頼が大切なのです。人が裁く主体になってはならないのです(「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(12:47)。
 今日のテキストで最も重要なのは、生前の主イエス、十字架の主イエス、復活の主イエスの目指した、いのちのつながりの復権にあります。閉ざされた共同体内倫理ではなくて、広がりゆく「愛」によるつながりの創造的倫理とも言うべき事態への促しと招き。それが、「わたしはまことのぶどうの木」の譬えによって語られているのです。

2020年4月12日 (日)

ヨハネによる福音書 20章1~18節 「振り向くと復活の主イエスが」

 「物語」について、時系列に自然に流れ理路整然としているとか矛盾がないとかを前提にすると、ヨハネによる福音書は、かなり規格外になります。通して読むと理性的な人は矛盾を感じて頭がクラクラしたり落ち着かない気持ちになるかもしれません。ヨハネ福音書は、ルカ福音書の次のような問題意識には無頓着だからです。ルカによる福音書の冒頭は以下のようにあります。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」(ルカ1:1-4)。
 今日の聖書での中心的なテーマは、マグダラのマリアの復活の主イエスとの出会いにあります。この物語で、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声をかけられた時、マリアはそれがイエスだと分かりません。普通に読めばおかしいです。ずっと一緒にいた人の姿や声から本人であるからです。しかし、復活の主イエスが分かること、すなわち「わたしは主を見ました」と他者に告白できるようになるためには、まず復活者である主イエスからの呼びかけから始まるのだとヨハネによる福音書は言いたいのです。
 ヨハネ福音書10章の羊飼いと羊の話の中で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)とあります。3節に「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」とあるように、です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)が出来事として起こったのが十字架刑なのです。そして、「マリア」と名前を呼ぶのは死んだ方ではなく復活された方であり、それゆえそこにはまことの力が働いているのです。
 12章24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」も同様に、主イエスの死の意味を示唆しています。十字架刑による死からいのちへの道筋が備えられている確かな約束があるのです。ここに希望をつないで、今ある生を喜びの内に受け入れることができるのです。ここに悲しみから自由にされていく真理が与えられているのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:32)とあるように、です。
 復活とは本当のところ何なのか、という大きすぎるテーマを一気に述べることは難しいです。少なくとも、今日のテキストから示されているのは、復活の主イエスから名前を呼ばれていること。ここから認識される方こそが、唯一のキリストなのだということです。このマグダラのマリアが誰であり、どのような人であったのかについては教会の解釈の歴史の中で肥大化されており諸説ありますが、4福音書から読み取れる限りで確からしいこととは、ガリラヤでの活動初期から主イエスと行動を共にしていた人であることくらいです。初期の活動から十字架に至る途上における主イエスの振る舞いと言葉の、身近な目撃者として共に歩んできたことです。いのちの根源を尊重し抑圧に抵抗するなどの主イエスの闘いの同伴者であったのです。
 復活とは、主イエスの歩みが十字架刑による死によって終焉を迎えたことを悲しみ泣くことに留まるのではない、ということです。その死の事実を展開点として、マリアは、「マリア」との呼びかけによって振り向き、「ラボニ」=「先生」として生前の主イエスのあり方を再確認することができたのです。ここでの「振り向いて」とは、ただ単に所作だけのことではありません。生前の主イエス総体を振り返る、さらにはかつての出会いを思い起こし、今のこととして新しい生き方の可能性が広がりゆくことの承認であったのではないでしょうか。復活の主イエスの呼びかけに応える、このマグダラのマリアの「振り向いて」という姿勢は、新しく生きることへの促しに対する信仰告白であったとさえ思えてきます。
 この「振り向いて」という姿勢は、マグダラのマリアだけに閉じられているのではありません。ヨハネによる福音書を通して語られる復活日のメッセージに与る、すべての人に関わる出来事です。今日は、主イエス・キリストの復活を記念し、祝う日です。今一度、わたしたち一人ひとりが、自分の名を復活の主イエスが呼びかけてくださっていることを信じ、確認したいと願っています。振り返ればそこに復活の主イエスが、あなたがたのところに実在していることに気付かされるはずですから。

2019年8月11日 (日)

 ヨハネによる福音書 3章16~18節 「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審きたまわん‐使徒信条講解18」

 ヨハネ福音書の冒頭(1:1-4)において語られる先在のキリストが言葉であり命が受肉したことが1章14節に語られます。この言が肉となった主イエスについて、使徒信条では現在、過去、将来が順をおって語られています。まず、過去の部分としては「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり」です。現在としては「全能の父なる神の右に座したまえり」であり、将来については今日の「かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」となります。
 ヨハネ福音書においては、これら過去、現在、将来を時間の流れや歴史的な変化にそって捉えるのではなくて、それらが集約された<今>のこととしてヨハネの教会を支えているのだと理解しています。この感覚は現代人には理解しにくいことかもしれません。賛成できないかもしれませんが、ともかくヨハネ福音書の著者の頭の中には、このような図式があるようなのです。主イエスがその活動において示された神の国の実現という過去があり、今、主イエスは、神の右に座して働いておられ、そして「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審きたまわん」という将来がある。この過去、現在、将来という緊張関係が<今>を支えている、という信仰理解です。
 この、その時に向かっていかされている<今>を応答責任的に生きることが大切です。狂信に陥ることなく、落ち着いており、目を覚ましているようにして、生き抜くことへの招きが終末論の基本なのです。
 神の右にあってイエス・キリストという愛が「かしこ」から働き続けておられるので、わたしたちは神の愛に留まることができるのです。「かしこ」とは「神の右」「神の国」「神の支配」「神の意志」あるいは、いわゆる「天国」でしょう。イエス・キリストは常に変わりなく、過去、現在、将来にわたって差し向かい、招き、慰め、癒し、その人の<今>のいのちを支え、守り導く決意に満ち満ちた方なのだということです。「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とは、過去も現在も、将来に約束されたイエス・キリストのいのちの内に包まれているという宣言なのです。この意味で教会は、来るべき日に至るまで途上を旅する共同体としての使命に生きるのです。終末とは、教会が必要なくなる時です。神の支配、神の国への道標としての役割が終わるからです。来るべき日までは、道標としてあり続けること、それが教会です。
 わたしたちは、まず無条件にそれぞれのいのちが祝福されているのであり、それを根拠に生前の主イエスに倣い、この世の悪や矛盾に対して抗っていくことが求められているのです。使命に生きる教会は、ここにこうして具体的なキリストの体として主イエスを証ししていくのです。

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