ヨハネによる福音書

2023年10月22日 (日)

ヨハネによる福音書 17章3節 「永遠のいのち」

 今日の聖書は次のように語ります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」。この言葉からわたしたちが考えがちなのは、「肉体は滅んでも霊ないし魂は不滅である。」あるいは、「肉体という牢獄に閉じ込められた魂は、その死によって解放される」などかもしれません。しかし、「永遠のいのち」とは、主イエス・キリストの神について知ること、つまり認識です。人はどこから来て、どこに行くのかを知っているのか、ということです。永遠の過去から永遠の将来において主イエス・キリストが今を支えているがゆえに、わたしたちは今、救いの約束が実現されているという認識です。主イエス・キリストは、その生涯、十字架の処刑による死、復活、昇天をもって、そして天にありつつ聖霊の働きによって、「今」を支えるのです。ちょうどハイデルベルク信仰問答59の答えにあるように、です。「わたしが、キリストにあって神の御前に義とされ、そして永遠の生命の相続人となる」と。

 このあり方から、わたしたちは、自らのこの世における死の現実が、主イエスにおける永遠によって支えられているがゆえに、この世の基準や価値観である「生から死」という方向から「死からいのち」という方向によって守られていること、「永遠のいのち」という賜物のもとで今のいのちが祝福されていることが知らされるのです。ここに「永遠のいのち」を知る信仰があります。だからこそパウロは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と語ることができたのです。

 農村伝道神学校の初代校長ストーン宣教師は、洞爺丸の事故の際、救命具を譲って命を落としました。彼は、この「永遠のいのち」を自身の存在丸ごとで受け止めていたからこそ、躊躇なく救命具を譲ったのではないかと思うのです。「友のために命を捨てる」という行為は、ただ自己犠牲的な愛によって導かれたのではなく、「永遠のいのち」を知る強さに支えられていたのだろうと。

 わたしたちは、この世における死が得体のしれないこと、おそるべきこと、悲しむべきことであることを確かに知っています。このことは主イエスご自身も知っていたことです。だからこそ、この杯を取り除いてほしいとゲッセマネの園で祈られたのです。主イエスは十字架刑によって殺され、無残な死を迎えました。しかし復活者として死に勝利したのです。この主イエス・キリストの守りのうちにあることは、すでにその復活の力により、今、「永遠のいのち」の賜物に与りながら歩むことへと招かれているということであり、その意義をもってわたしたちは「永遠のいのちを信ず」と告白することが赦されているのです。どこから来て、どこに向かうのかが約束されてある今を覚えご一緒に祈りましょう。」

2023年8月27日 (日)

ヨハネによる福音書 14章15~17節 「共におり、内にいる」

 まず、聖霊が「共におり」というイメージですが、これは「インマヌエル=神は我々と共におられる」というクリスマスのメッセージに代表されるものです。かつて奴隷の民イスラエルを助け導いた神が民族や文化を越えて、あらゆる民の神として幼子イエスにおいて実現したのだということです。より弱く小さく貧しく虐げられているところにこそ神は「共におり」、より困難な場に強いられている人々のまことの友となり仲間となったことを事実として示されているのです。

 聖霊の働きは、わたしたち人間の側からの願望や都合の良さから判断するものではないということです。あくまでも、イエス・キリストのみが主体であることから外れてはならないのです。主イエス自らの判断において歩み寄り、語りかけ、導かれる。ここにのみ聖霊の働きがあるということです。それは、主イエスの生涯を語る福音書の物語における救いが、わたしたち現代人のもとにも「共におり」が出来事として常に開かれているという聖書からの導きを根拠にしなければならないということです。聖霊とは聖書に証言される神としてのイエス・キリスト以外ではありません。聖霊が働かれている時、わたしたちは聖書の物語へと巻き込まれてしまっているのです。この状態を「共におり」と理解すべきです。

 次に「内にいる」についてです。これは、いわゆる「内在のキリスト」というものです。わたしではないわたし、という感覚です。これはパウロの手紙に数多く表れるイメージです(たとえばガラテヤ2:20、ローマ8:11など)。注意すべきは「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。(Ⅱコリント13:4-6参照)」いう指摘です。キリストが「内にいる」点は、「共におり」も含めて自己吟味は必要なのです。

 厳しい時代の只中にあって、わたしたちには時代の風潮を含め、様々な誘惑や長いものに巻かれろ式の堕落や打算などから自由ではありません。「共におり、内にいる」聖霊である主イエスの呼びかけと歩み寄りへの応答として祈っていかねばなりません。耳を澄ませ心を澄ませば、「安心しなさい、わたしだ」の声が、きっと聞こえています。「共におり、内にいる」聖霊である主イエスは慰め主なのですから。思い煩うことなくこの道をご一緒に歩みたいと願うのです。

2023年7月 9日 (日)

ヨハネによる福音書 19章31~42節 「十字架の死」

 十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。これについて渡辺英俊は『私の信仰Q&A キリスト教ってなんだ?』という著書で述べています。

Q34 イエスは、なぜ十字架にかけられたのですか。

A34 当時のユダヤは、ローマ帝国軍の支配下にありました。政治・経済的には、神殿を頂点とする祭司貴族が、地主貴族、律法学者たちと結んで権力を握っていました。人びとはローマからと神殿からの二重の収奪を受けていました。しかし、神殿を中心とする宗教文化に心を支配され、「罪人・徴税人・売春婦」と呼ばれるアウトカースト階層に対する差別意識を強く植え込まれていました。イエスがこれに抗議して、差別されている「貧しい人々」こそ「神の国」の主人公だと告げ、差別を越える運動を展開しました。これはユダヤ教的秩序、ひいてはローマ支配の秩序に対する反抗とみなされました。

 イエスは、最後の抗議行動として、神殿にデモをかけ、神殿を商売の場にしていた者たちのテーブルをひっくり返す実力行使を行いました(マルコ11:15-19)。これが直接のきっかけとなって逮捕され、政治反乱者に対する見せしめの処刑であった十字架に処せられたのです。

 主イエスの十字架上での死の出来事から埋葬の記事がわたしたちに語るのは、主イエスの死をしっかりと見つめよ、ということです。その上で主イエスの生前の生涯を思い起こすのです。わたしたちが死ぬべき存在である事実を踏まえながら、イエスの死から、今のわたしたちのいのちが支えられていることを思い起こすのです。神である主イエスが、すでに人間の死を死んでくださったのです。しかも呪いの死をです。無残な十字架によって権力によって虐殺された事実。この十字架を確かに呪いの事実としてわたしたちは確認しなくてはありません。

 しかし、信仰の眼差しからすれば、呪いに留まるものではありません。呪いを遥かに超え、突き抜けたところにある、かつて生前の主イエスが人々の間にあって実現したところの無条件にそして全面的にもたらされる祝福へと展開させる出来事として十字架は立ち続けるのです。差別され、抑圧され、今生きていることに喜びが見いだされないところに祝福をもたらす生き方をしたために政治犯として殺された主イエスを、しっかりと見届けなければならないのです。この十字架を仰ぐ信仰に立ち続け、呪いを自ら引き受けてくださった主イエスの恵みと祝福に感謝しつつ、ご一緒に証しの生涯を歩みたいと願います。呪いから祝福へと転じる十字架は、同時に絶望から希望へと転じる力ある出来事なのだとの信仰に立ち続けたいのです。

2023年6月 4日 (日)

ヨハネによる福音書 3章16節 「ひとり子」

 「独り子」をささげることについて、フィリピの信徒への手紙2章6節以下で語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。この主イエスをささげる神のあり方は人を救う愛の業です。人には根源的な罪があり、赦されることのないほど深くて闇に満ちたものであるのだとして、です。人は自分の力では自らの丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に肯定することなどできないような存在なのです。

 主イエスを十字架に磔ることによってなされた出来事は、一度限り根源的な罪の赦しとして生贄として献げられたことを意味します。神ご自身が、息子イサクを捧げようとしたあのアブラハムの厳しさや重苦しさ、苦痛などを遥かに超えた痛みを担われたのです。この神のあり方の塊を愛と呼ぶのです。人の理解の及ぶことのできないほどのものです。「お与えになったほどに」と言い表されるところの愛です。ここでの「与える」とは、引き渡して好きにさせるという意味合いを読み取ることができそうです。主イエスという「独り子」をこの世の権力の総体の象徴としての十字架へと追いやるままにさせたということです。これによって神の痛みと悲しみとをもって人を愛しつくす、大切に慈しむのです。

 主イエスが神の「独り子」であること、またその十字架の処刑から復活の出来事のゆえに、わたしたちもまた主イエスによって神の子とされる道筋につらなる幸いに導かれているのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という宣言によって示されているのは、十字架と復活の出来事によって、わたしたちも神の子として受け入れられているということです。神の愛に基づいて歩むことができるということです。この事実に立つことが赦されているがゆえに、主イエスがなさった数々の愛の業に照らし出された生き方へと招かれているに違いないのです。

 主イエス・キリストによって愛されていることを聖書は証言しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」この愛こそに本当があると、わたしは信じます。聖書を読むときに主イエスの数々の恵みある出会いに巻き込まれてしまっている事実を感謝をもって受け入れる信仰にしか可能性がないと信じるからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ことによって、我儘さや冷酷さや残酷さなど非道な自分がその愛によって暴かれていくからなのかもしれません。その愛に包まれてしまっているとしか言いようがないのです。「世を愛された」その愛によって、今日もまた恵まれ赦されている事実を拠り所にしながら主イエスの道を歩み続けていくことを求めましょう。

2023年5月14日 (日)

ヨハネによる福音書 20章24~29節 「わたしの神」

 復活の主イエスが現れた場にいなかったトマスは、主の復活を信じませんでした。主イエスが十字架上で殺されたという出来事に打ちのめされたままのトマスには、復活の主との出会いを喜んでいる他の弟子たちへの怒りや妬み、取り残されてしまったような気持ちなどを含んだ複雑な感情が蠢いていたのではないでしょうか。

 その8日後、1週間後に今度はトマスもいるところに同じようにして復活の主イエスは現れたのです。「あなたがたに平和があるように」との挨拶の言葉を語りかけながらです。そしてトマスに語りかけます「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。ヨハネによる福音書では、復活の主イエスは傷だらけのままであったと解釈されています。十字架にくぎ付けられた手のひら、そしてわき腹を示されたのです。その時、トマスの心の中に荒れ狂っていた様々な感情が静かにおさまり、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白の言葉が導き出されたのです。復活の主イエスの前にあって自分が何者であるのか?これが、頭で分かるというよりも腹で分かる、いわゆる腑に落ちる、という出来事が起こったのだとしか言いようがありません。復活の主イエスの傷だらけの姿をもって示されているのは、傷から流れ出た「血と水」に象徴されるいのちがトマスにも注がれているのだということです。

 本田哲郎神父はトマスの愛称「ディディモ」を「そっくりさん」と訳していますが、ここから、わたしたちはトマスの「そっくりさん」であると読めます。「疑い深い」「不信仰」のトマスと呼ばれる登場人物は、わたしであり、あなたであり、疑いや信仰の揺らぎの只中にある人々のことでもあるのです。ですからトマスと共に、トマスのように「わたしの主、わたしの神よ」と復活の主イエスに向かって告白することが赦されているのです。 実際には、わたしたちは肉眼で主イエスの姿を観察し、そして確認することはできません。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉は、トマスがその後おそらく変えられていったように、新しく生き直して信じる者となりなさいということを示します。この復活の主イエスから示される方向転換に向かって「見ないのに信じる人は、幸いである」という生き方が、わたしたちに備えられていることを受け入れる聖霊の働きを求めたいと思います。主イエスの示された手とわき腹を思う時、そこから流された「血と水」に強く象徴される聖霊の注ぎが、トマスに、そしてわたしたちに向けられているのです。そして、わたしたちが「信じる」ということは、この主イエスからの力に与っていることに応えていく道を歩むことなのです。

2022年12月24日 (土)

ヨハネによる福音書 1章1~15節 「まことの光」

 旧約聖書の天地創造物語にある、神の第一声は「光あれ」という言葉でした。この「光」とは、可視的なものではなくて、天地に関わる一切の「根源としての光」です。キリスト教会はこの「光」を、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、「イエスの十字架の死と復活を中心とする救いの出来事」として再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:15a)。

 この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」であるこの世界は混沌として絶望に満ちているように見えるかもしれない。しかしこの世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。

 主イエス・キリストは、旧約に示された神「光あれ」との思いが人となった姿そのものです。この方こそが「まことの光」「根源的な光」なのだと確認するのがクリスマスを祝うということです。現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。「光あれ」という言葉によって開かれた神の祝福が、イエス・キリストという「まことの人」として、わたしたちのところに来られたという事実から、人間の中にある深くて暗い「闇」が明るみに出される方向へと導かれていくのではないでしょうか。

 この意味において、クリスマスを祝うことは「平和」への願いや祈りを込めて歩むことと別のことではないのです。光としての主イエス・キリスト、その誕生の光のまことに照らされることによって、世界中を覆いつくしているかに見える「闇」の現実を今、自分たちの置かれている場から応えていくことが求められているのではないでしょうか。「クリスマスおめでとう」という嬉しい挨拶の中には、主イエスの語られた「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」という祝福の力が込められているのです。

2022年7月24日 (日)

ヨハネによる福音書 16章25~33節 「キリストの勇気に与って」

 わたしたちは、生かされた存在としてのいのちはあくまで「この世」と呼ばれる現在進行形の「今」という時から決して自由になることはできません。現実の「この世」のことは、どうでもいいとしてしまう信仰のあり方は、コリント教会においてパウロを敵と見做した人たちの勢力の信仰理解と深く共鳴しています。「この世」的な日常を生きる生活人であることをやめてしまって、心であるとか内面、精神性だけを天国に向けて現実逃避することに他なりません。天国的な信仰の醜さがここにはあります。堅実なキリスト者は、このような傾向を否定します。「あなたがたには世で苦難がある。」という現実を主イエスにあって自ら引き受けていくのです。あくまで「この世」でのいのちのあり方を見失うことがないのです。

 「世」とは、今生きている身近なところから地球規模の世界全般を示します。この情報社会にあっては日常生活の身近なところから国際関係に至るまで、古代と比べものにならないくらい多様な圧迫・艱難・苦難・苦しみ・悩みなどがいのちに対して強い力で襲いかかってきます。今、生かされてあることにまつわる一切予測不可能な未来への不安が横たわっているのだということです。あの、見渡せば砂漠や岩場など枯れた大地の中で渇きや飢えに対する危険にも増してです。古代に比べて「あなたがたには世で苦難がある」現実は強められ深められていると言えるかもしれません。わたしたちの暮らす現代社会とは決して大げさではなく、危険に満ち満ちているのです。しかし、主イエスの言葉は時代を越えてこのような意味での「苦難がある」現実に対して「しかし、勇気を出しなさい」と語り続けているのです。

 勇気や元気は、自分の力や能力などを頼りにすることではなく、あくまで主イエス・キリストの側からによってのみ生まれるのだということです。詩編23によれば「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」ということであり、ヨハネによる福音書10章に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」とあるとおりに、です。

 主イエス・キリストが「勇気を出しなさい」と語りかけているのは、その「勇気」のもとを自分こそが授けるのであるという決意の表れです。「勇気」や「元気」が生まれるのは、わたしたちからではなく、主イエス・キリストの側からの行いによるものなのです。この主イエス・キリストからの招きと促しを知るものは「勇気」と「元気」に与る生き方へと導かれるのです。

2022年5月22日 (日)

ヨハネによる福音書 18章1~11節 「何故信じることができるのか」

 「わたしである」という言葉は、イエスを捕らえにやってきた者たちが「後ずさりして、地に倒れた。」という出来事が起こされるに留まらず、主イエスの物語に触れるものにまで、その影響を与えるものです。主イエスがキリストであるという事実は、敵対する者たちだけでなく、好意的に、あるいは信じていると自分で理解している人にさえ力をもって立ち向かう言葉です。イエスは誰かを人間自身の力では理解できないことを告げ知らせるのです。主イエス自らが「わたしである」と自己啓示することによってのみ、主イエス・キリストの神との対峙関係へと導かれる唯一の道なのです。この告げ知らせは、人間の予測をこえてただ神の側から一方的なものだからです。この点においては排他的でさえあります。力ある「わたしである」のと言葉によってのみ、主イエスこそがキリストであることが知らされるのです。

 わたしたちはもちろん、今日の聖書にある「兵士」や「下役」のように主イエスを捕らえようとしているわけではありません。しかし、神に信じ従う人間であったとしても人間の限界から自由になれないという意味においては、主イエスを捕らえにやってきた「兵士」や「下役」と大きな違いはないのです。 

 主イエスが「わたしである」との呼びかけと招きによって、わたしたちにその身をもって迫っていることを思います。この主イエスの迫りを受けた者の応答の一つとして聖書の読み手であるわたしたちの歩むべき道を示し、目標に向かって勇気ある第一歩を歩みだすように支えてくださっていることが知らされているのです。この場に立っている主イエスの「わたしである」とのあり方は十字架刑への決意表明でもあります。同時に、読み手に向かって身代わり・代理としてのいのちの差し出しを行っているのです。わたしがわたしになるために、あなたがあなたになるために、わたしたちがわたしたちになるために、主イエスは自らを差し出すのです。自分のいのちでこれらの一人ひとりのいのちを取り戻すために「わたしである」と名乗り出るのです。ただただわたしたちは、この恵みの主イエスが名乗り出て下さっている事実に耳を澄ませることから、この主イエスに相応しく、取り戻されたいのちを尊いこととして受けとめながら、感謝の道を歩むように促されているのです。ここに、わたしたちが何故主イエスをキリストとして信じることができるのかが示されています。この信じる気持ちを起こさせるためにこそ「わたしである」と名乗り出てくださる主イエスが臨んでくださっているのです。このことは献身の中の献身と言えます。したがって、この主イエスを信じる者は、応答としての献身の道を歩むことが赦されているのです。

2022年5月15日 (日)

ヨハネによる福音書 15章1~15節 「つながり」

 今日の聖書の言うところは、キリスト者としての個と教会のつながりについてです。主イエス・キリストが「まことのぶどうの木」であるがゆえに、「わたし」は「わたし」になることができ、そのつながりとしての枝が教会のメンバーであるという教会論として通常は読まれるのだと思います。しかし、この「まことのぶどうの木」という宣言は、教会が主イエス・キリストにつながっていることだけに留まらないと読むこともできます。主イエスは、人が自分自身になっていくことと同時に様々な人たちとのつながりを深く広く捉えていったのです。人が、教会に限らず自分と、自分を取り巻くあらゆるつながりを整えていくことを作り出し、導き、育てるのは主イエス・キリストだというのです。

 しかし、取り巻くつながりをも含めてその人自身を主イエスが導いているとの宣言を聞いても、わたしたちそれぞれの現状に対する認識は楽観的ではありません。不安や不満を抱える関係性を生きています。それでも、自分と周りとのつながりを見渡すとき、ぶどうの木の一年のサイクルの類比から判断すれば、少しは楽な気持になるかもしれません。ぶどうの木はいつも収穫の充実感に満たされているわけではないことは当たり前です。葉がすっかり落ちて幹の表面が枯れているようなこともあるでしょう。しかし、ぶどうの木自体は、枯れているような見た目の時でも確実に生きているのです。芽を出し、枝を張る準備の時なのかもしれませんし、木の中では栄養分を含んだ水がゆっくりとであったとしても確実に流れているのです。この流れを交わりとかつながりの力と受け止めてもいいように思えてきます。殺伐とした世の中にあっても、必ず根底には信頼し、愛し合えるつながりが途絶えずにある。ぶどうの木の景色が主イエスからわたしたちへと広がっていくイメージへと膨らませながら読みたいと思います。

 この、「まことのぶどうの木」としてのイエス・キリストの語る事態は「互いに愛し合いなさい。」との命令のもとで展開していくはずです。同じぶどうの木につながってしまっているがゆえに、相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、お互いが対等な人格同士や共同体の関係が新たにされ、育てられていくのです。「わたしはまことのぶどうの木」との宣言は、このつながりに生かされていることを確認するところから、何度でも新しく始めることが赦されていることなのです。ここに信頼していけばよいのです。

2022年5月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 13章31~35節 「愛するということ」

 イエス・キリストは「新しい掟」とは「互いに愛し合いなさい。」であると語ります。聖書の語る「愛する」という言葉を本田哲郎神父は「大切にする」と訳しています。その通りだと思います。相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、尊敬の念をもって接することだと思うからです。必要であれば時には、その「愛」のゆえに批判していくこともあり得るということです。ただ忘れてはならないのは「愛しなさい」ではなく「愛し合いなさい」と言われていることです。一方的な「愛」は、時に相手を苦しめることがあることを踏まえておくべきでしょう。お互いが対等な人格同士や共同体の関係の中で実践していくことが「互いに愛し合いなさい」との「新しい掟」に応えていくことだと言えるからです。

 「愛し合いなさい」とは、関係を自らの内側に閉ざしていくことではなく、他者との関係を切断していくことでもありません。ましてや、憎しみや殺意など敵対心を募らせていくことではありません。そんなこと当たり前、と思ってしまいますが、しかし悲しいかなわたしたちは、一方を愛することが他方を排除することになりがちです。そして自分と違うものを受け入れることが苦手です。しかし、その違いを排除の理由にしてはいけないということです。意見などが違っていれば、正していく必要があるなら、話し合いという言葉を信じ、通じ合う努力を続けていくことです。井上ひさしの『子どもにつたえる日本国憲法』という本があります。9条1項の終わりはこのように表現されています。「どんなもめごとも筋道をたどってよく考えて、ことばの力をつくせば、かならずしずまると信じるからである。よく考えぬかれたことばこそ私たちの本当の力なのだ。」言葉の限りを尽くすその根底には、相手への愛があるはずです。

 相手を他に取り換えることのできない尊いものとして受け入れ、尊敬の念をもって歩むことへと導かれるのは、人にその能力や才能などがあるからではありません。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」。と語ります。「わたしがあなたがたを愛したように」が決定的な根拠です。ヨハネによる福音書316 節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。ここでは「独り子を信じる者」との限定が記されていますが、重点は前半にあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるところの「愛」の現実こそが、人に「愛する」ことへと導くからです。

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