マタイによる福音書

2022年10月30日 (日)

マタイによる福音書 9章32~34節 「自分の言葉で語る力」

 今日の聖書は、悪霊に憑かれて口の利けなかった二人の人が主イエスのところに連れてこられ、語る力が与えられた物語です。この話は、実際に口で発する言葉に限定する必要はないと思います。人に向かって語ることや書くことだけでなく、全般的な自分の意志を伝えるということの広がりとして受け止めていいのだと思います。主イエスが悪霊を追い出すことによって言葉の力が与えられた物語として読むのです。

 わたしは、言葉の力が圧倒的に欠けていますから、誤解されることもあるでしょうし、不用意な言葉を使うことも少なくありません。考えたことを整理して、伝える言葉にしていくことが得意ではないのです。それでも、隠れた神が主イエス・キリストという具体的な人間として見える姿で現れたこと、この方が十字架上の処刑を経て復活したこと、今や天に帰られた主イエスの神が聖霊として働き続けている、と言わざるを得ないのです。この、聖霊によって支えられ、導かれているがゆえに、今わたしはここにこうして立たされているのだと信じています。

 聖書を読むと、自分自身の言葉の力の不足を感じたり、脅えたり、不安になったり、という場にこそ導きが与えられた記事がいくつも出てきます。出エジプトの指導者としてモーセは召命を受けた時「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と答えます。しかし神はアロンをその助けとして与えます。また、預言者エレミヤが召命を受けた時には「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」という彼に向かって神は次のように語りかけ、支えます「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」。怖じ惑い、怯むときに神は支えるのです。この支えが新約においては、主イエスの汚れた霊や悪霊を追い出す業に通じます。この、主イエスの言葉をマルコによる福音書13章には「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(13:11)として、「最後まで耐え忍ぶ者」(13:13)になるための相応しい言葉を聖霊が備えるのだという信仰理解が示されているのです。

 言葉の力は、人間の内にはないのだということです。確かに、わたしたちは自分の言葉で語る力で表現しなければならない現実に何度もぶち当たると思います。しかし、これに対処するのは自分という主体であることに違いはないのですが、ここでの基本は、あくまで聖霊なのだという信仰がなければならないのです。主イエスの神が聖霊として働くことで共にいてくださることこそが、信仰者の現実なのだということです(ハイデルベルク信仰問答53を参照)。 

        

2022年9月25日 (日)

マタイによる福音書16章13~20節「岩の上に教会を」

 今日の聖書は、しばらくの間わたしにとって躓きでした。マルコとルカではイエスが自分のことを誰だと考えているかという問いに対して、メシア(キリスト)であるという告白をしているだけなのですが、マタイだけが、いわゆる「鍵の権能」と呼ばれるペトロに対して特別扱いをしているとしか読めなかったからです。つまり、後のローマカトリックの教皇制度の聖書的な根拠として扱われてきたのです。19節では「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とあるように、この世と天上の世界との間のつながりに関わる権限がペトロにのみ与えられているのです。ここには、マタイ福音書における二種類の人間の選別の権威が与えられていることになります。天の国に入れるものと入れないものを選り分ける発想がマタイにはあり、その権限が全面的に主イエスからペトロに移されていると読めるからです。18節には「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。ペトロという言葉は、元はペトロスで石を表し、ここでの「岩」はペトラで別の意味合いがあるように読めますが、マタイの意図としてはペトロという石が岩なのだ、と読ませたがっているように思われます。ここで「石」としてのペトロスから、「岩」としてのペトラにされていることには別の意味が示されているように思われます。いくつもの詩編には神を「岩」と表現している箇書が見つかります。たとえば詩編18編32節「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」詩編62編3節「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」などから分かります。つまり、主イエスの口にペトロが主イエスないしは神に成り代わることへの道を開いてしまっていると言えるからです。

 霊的な問題でも肉体の問題でも構いませんが、地上でのいのちも天の国のいのちでも、ペトロを介してないと意味をなさないのだとでも言いたげです。当時の感覚や、もしかしたら現代の感覚でもあるのかもしれませんが、天の国に入るためにペトロを介することによらなければならいということです。マタイには、二種類の人間を選り分ける発想があります。24章では、終わりの日に関する説教の中で40節と41節では「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」とあります。続く45節以下の小見出しによれば「忠実な僕と悪い僕」があります。さらに続く25章1節からは十人の乙女がいて五人ずつが良い悪いで分けられます。そして、25章31節以下では「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。義人と罪人、善人と悪人を選り分ける思想があちらこちらに散りばめられているのです。このような発想は、教会の内側と外側、救われるものと滅ぼされる者、天の国に入れるものと弾き飛ばされる者などに対して明確な線引きを行うことで、強引に、マタイの理解するところの良い側に向かう良い人間へと方向づける暴力的な発想と権力を感じます。

 このような区別ないしは差別的な発想は初代教会に始まります。後のカトリック教会に及ぶものであったことは確かです。現代のカトリック教会も、この発想から完全に自由であるのかについては疑問のあるところです。しかし、宗教改革の問題提起の一つであった教皇制の問題は解決を見たとは思えません。最近のアメリカの教会で使われているかどうかは確かではありませんが、アメリカのローマカトリックがプロテスタントを揶揄するときに牧師のことを「タイニー ポープ」という言葉を使っていたようです。要するに「ちっぽけな教皇」という意味です。ローマカトリックからすれば、ポープたる教皇は世界に冠たる偉大なものであるのに、プロテスタントは小さなお山の対処に過ぎないというのです。もちろん、アメリカのプロテスタントは地味な教会でなければ教会員が何百人どころか何千人規模のところも少なくないはずですが、それでもローマカトリックからすれば、牧師なんかは「タイニー ポープ」に過ぎないということなのでしょう。とは言うものの、このペトロが「岩」である神の代理人のようなあり方は、日本のような教会員が百人に満たない規模の教会でも決して無縁ではありません。

18節をもう一度読んでみます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。このペトロに与えたとされる権威が現代の日本の教会にとって決して無縁ではないことを批判的に検証し、聖書を読み直していく必要を感じています。自覚しているか、していないかを別にして、実際のところ必要以上に「鍵の権能」もしくは、ここから由来する判断などをもとにして牧師自身が立ち振る舞ってはいないかどうかを検証する必要があると思われます。単純に、この人はいい人であの人は悪い人みたいな選り分けをしている牧師は決して少なくないというのが、わたしの印象です。自分たちの立ち位置に反対する立場に対して露骨な悪意をもった振る舞いや発言を見聞きすることは実際のところ少なくないからです。プロテスタントの多くは牧師になるために按手礼という儀式が行われます。手を置くことで任職するものです。日本基督教団の場合は教区総会で行われることが多いです。教憲教規によれば教区総会議長が行うことになっています。コロナ期間は別でしたが、習慣としては、正教師になろうとしている人の頭に議長が手を置き、その方に数人が手を置き、その肩に手を置き…とつながって、その場にいる正教師が一塊になる感じで行われます。神奈川教区の場合は出席正教師が100名弱ほどの出席がありますから、この光景を初めて見る人はギョッとするかもしれません。この儀式が隠れた意味でのサクラメントになっているのではないかと感じたことがあります。洗礼式や聖餐式に与る以上に喜んだ志願者を見て(あれほどの喜び方を洗礼式と聖餐式のたびににしているなら、かろうじて認めてもいい)、鼻白んだ記憶があります。この按手礼が「ペトロの手」であるとして使徒継承だと考える人も少なくないようです。

 このまま、今日のテキストを解釈するだけではマタイによる福音書の二種類の人間を分け隔てることで、一方を救い、もう一方を滅びに至る道へと導くことになってしまいます。18節の「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」との言葉をもう一度捉え返す方向を探ってみたいのです。ヒントとなるのが、18章15節から20節です。読んでみます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この聖書自身にも問題がないわけではありません。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」とあるからです。異邦人や徴税人に対して主イエスが受け入れ祝福した態度とは逆の方向を指した言葉であり、もしかしたらマタイ福音書の差別的な本音が現れているのかもしれません。しかし、ここでの中心は16章で語られたペトロに対しての言葉が18章18節では広がりの中で解釈されていることです。それは次のようにあります。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。つまり、ペトロだけでなく「あなたがたに授ける」と「あなたがた」に対して鍵の権能を与えていると拡大されているからです。鍵の権能はペトロ一人だけに対して閉じられ続けていくものではないということです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあるように、教会の共同性の中で自己検証されることによって修正すべき点は修正されなければならないということです。ペトロは確かに教会の伝統からすれば、使徒の中の使徒、指導者の中の指導者なのかもしれません。しかし、ペトロも限界のある人間であることを忘れてはならないのです。今日の16章13節から20節のテキストは教会の伝統におけるペトロの優越性を語っていることに違いありません。しかし、その後に続く「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ところの主イエスから常に正されていかなければならないのです。ペトロのような存在は古代教会から現代教会、わたしたちの場合は日本基督教団ですが、暴走することが少なくありません。

 神は神であり、人は人であるという原則から外れてはならないのです。教会は神の御心に従うものです。役割分担としての教職や指導者もそうです。ペトロは確かに初代の教会の指導者であったという事実は変えられません。しかし、今日の聖書の箇書の続きの16章22節以下では「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』エスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」このように諫められています。山上での変貌でもペトロの無理解があります。他にも主イエスに対する理解の足りなさはいくつもあります。そもそも逮捕直前に「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い、さらには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とさえ言ったにもかかわらず、逃げ出してしまったではありませんか。逮捕後、主イエスのことを「知らない」と言い募り、26章75節には次のようにあります。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

 もう一度今日の箇書に戻ります。人としての限界をもつ、このようなペトロに「鍵の権能」を与え、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と主イエスは語りかけているのです。人としての臆病さや卑怯な態度、あるいはおっちょこちょいであることなど、弱さや惨めさを踏まえた上での言葉として受け止め直すことができれば、あのペトロをもって「岩」とし、その上に教会を建てるとの言葉には主イエスの慰めと憐みが染み渡ってくるのではないでしょうか。このようなペトロを思い起こすならば、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、決してペトロ一人に閉ざされたものではないことへと理解が広がってくるのではないでしょうか。「二人または三人」であるところの、わたしもあなたというわたしたちそれぞれが共に、自分であり続けると同時にわたしたちという共同体、つながりとして「岩」となるようにして教会を生きることへと招かれていると信じることができるのではないでしょうか。ここに主イエスからの慰めと憐みを共に与ることのできる幸いがある、このように信じることができるのです。ご一緒に祈りましょう。

祈り

二人または三人としての共同性の中で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、

わたしたちの中で事実として起こされますように。

主イエスに信じ従う群れとして整えられますように。

主イエスの守りのうちにあって、祈り考え、発言し、行動していくことができますように。

共に主イエスの道を歩ませてください。

信じ従う喜びを感謝し、この祈りを主イエス・キリストの御名よってささげます。

                                アーメン。

2022年9月11日 (日)

マタイによる福音書 27章45~56節 「キリスト者はどこから来るのか?」

 51節の後半から53節はマタイによる福音書にしかありません。この箇書は、墓が開かれることによって新しい現実の始まりを表しているように思われます。岩という、かつて考えられていた聖なる価値観が裂かれること、そして地盤が根本的に揺さぶられることによって今、全く新しくされたというイメージです。これは、51節の前半の「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」とも共鳴しています。エルサレム神殿には、入り口から入ってすぐのところに、聖所というものがありました。その一番奥には、垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる場所があり、ここは最も聖なる場所であり、大祭司一人だけが入る資格が与えられていました。ですから、神殿の中にある垂れ幕が避けるのを外にいた百人隊長たちが見たというのは当然あり得ないことです。しかし、ここでは事実は問題なのではなくて、ユダヤ教の神殿の至聖所に象徴される当時の世界観の根拠が崩れ落ち、新しい世界観が登場したことを示します。この新しい世界観をもたらしたのが、主イエス・キリスト以外にはありえないというのがマタイによる福音書の理解です

 わたしたちの通常思い描く人生の流れは、死が終着駅です。しかし、そうではありません。5253節に「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とあるように、マタイの教会に所属している人たちの自己理解が表されています。墓が開かれることによって、かつて眠りについたという死者たちが生き返ったという言葉通りの意味合いを越えて、今生きている者も含めて墓という死の世界からいのちの世界に移されたという信仰の告白となっているのです。

 「キリスト者はどこから来るのか?」という問いへのマタイによる福音書の教会の答えとは、墓が開かれるところからやって来る、ということです。墓というとジメジメして冷たく憂鬱で、明るいイメージから遠いところにあるように思われがちです。しかし、墓は決して暗いものではなく、主イエスの十字架刑→死→墓→復活という出来事に照らされて明るさへと転じていくのです。ここには、主イエスに支えられた明るい力が存在します。

「インマヌエル・神は我々と共におられる」事実に支えられて、この道を歩むことがキリスト者のあり方です。主イエス・キリストが、墓という死の世界からいのちの光の復活の世界への歩みにおいて共におられます。この意味において、キリスト者は復活を踏まえた主イエスの墓から生まれているのです。

2022年3月 6日 (日)

マタイによる福音書 25章31~40節 「いと小さき者の神」

 善と悪を「羊と山羊」に喩えたことに注目したいと思います。両者はとても似ています。善と悪を二つに明快に分けることはできないということです。また、いずれの立場においても自覚が決定的に欠けています。善の側・悪の側、いずれに対しても問題になっているのは「この最も小さい者の一人」に対しての行い、振る舞いとなります。どちらの側も思い当たる節がないように、この行い、振る舞いの善悪の基準は人の側からの判断の及ばない領域でした。人の判断や考えの枠からは発想できない限界があるのだということです。そして、その違いや差というものは紙一重ほどのものであるからです。この、ほんの僅かな違いを見極め、乗り越えていくポイントが「この最も小さい者の一人」への気づきです。この「この最も小さい者の一人」に対する気づきは紙一重に満たないほどの違いであるのに、全面的な方向付けにとっての決定的な契機なのだというのです。神の側からの決定的な方向付けがここに示されます。解釈の可能性は「この最も小さい者の一人」に対する注目によって示されていく方向性にあります。「この最も小さい者の一人」とは誰のことなのか。これも明確には語られておらず、暗示されているだけです。善人も悪人も「いつ」のことなのかと自分で問いかけても思いもよらないほど理解できないのです。今日の聖書は二種類の人のあり方を示しながら、同時に自分や誰かをどちらかの枠に当てはめるという発想自体を拒んでいます。

 「この最も小さい者の一人」とは、善人の側での文脈では「わたしの兄弟」となっており、悪人の側の文脈では「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」とあります。ここでの「兄弟」であり「わたし」と言われているのは、主イエス自身ないしは主イエス的なあり方の人全般を指すと判断できます。

 これは主イエスがどこに目を注いで歩んだのかを示すだけに留まりません。主イエス自身がそもそも誰であったかに関わります。主イエスが上から目線で下に向かって「この最も小さい者の一人」を見つめていたのではないのです。主イエス自身が文字通り「この最も小さい者の一人」ということです本田哲郎神父の著書で紹介されているフリッツ・アイヘンバーグの絵が示すように、主イエスは配食する側ではなく、列に並んでいるのです。わたしもあなたもあの人もこの人も、主イエスの十字架への道行き、その途上での行い、振る舞いに倣う生き方の中へとすでに招かれてしまっているのです。

2022年2月20日 (日)

マタイによる福音書 25章1~13節 「共感する力について」

 今日の聖書は、イエス・キリストを信じる者の今とはどのような在り方なのかが喩によって問いかけられているのではないでしょうか。この問題意識から読み解いていきたいと思います。

 キリスト教はユダヤ教から終末論という理解を受け継いでいます。創世記の創造物語によれば天地を神が創造することで世界ができたとあります。このように神による始まりがあるなら、当然世の終わりがあるだろうと考えられます。この世界が終わりを迎え、神の国がやってくる日が必ずやって来るという考え方です。そこでは永遠の神の支配が完成されるというものです。この、いつやって来るのか知ることのできない終末を迎えるための今を、どのように生きるのかが問われているのです。いわば、終末を射程に置きながら今の生き方や態度を自己検証することが求められているということです。今、わたしたちはどのように生きているかの問い直しを求める喩話であると読みます。

 今日の喩は婚礼の中の一場面です。婚礼とは、新約聖書の他の箇書でも来臨のイエスを念頭に置く読みが要求されています。ですから、花婿である主イエスを迎える態度として読まれる必要があるのです。登場するのは10人の未婚の女性です。当時の結婚式のあり方については、地域性の違いなども考えると色々なあり方があったとは思いますが、一般的にはこんな感じだったようです。花嫁の家に花婿が友人たちと共に迎えに行き、花嫁を伴い街の中で祝福され練り歩きながら、花婿の家に戻ってきて宴会をする。今日の10人の未婚の女性たちは、花婿が花嫁を連れ戻って来たときに、迎えに出る役割だったのでしょう。しかし、練り歩き、いわばパレードですね。パレードに時間が思いの他かかったのでしょう。到着が予定より遅れ、灯を窓辺にでも置いて待っているこの女性たちは皆眠気に負けてしまったのです。真夜中になって花婿が間もなく到着すると告げられ、10人は一斉に跳ね起きて灯をもって迎えに出ます。ところが、長時間つけていた灯は消えかかり、「愚か」と呼ばれる5人は予備の油の用意ができていなくて、「賢い」と呼ばれる女性たちに分けてくれるように頼みます。しかし、余分に持っていないと断られ、買いに行くように言われます。5人が買いに出ている間に花婿の一行は到着し、油を手に入れた5人が戻ってみると、門は固く閉じられ、家に入れません。開けてほしいと頼み込んでも「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」という冷たい言葉を投げかけられてしまうのです。

 さて、5人と5人が「愚か」と「賢い」で比べられています。これは何を意味するのかが様々な解釈によって考えられてきました。「賢い」のはキリスト者で、「愚か」なのはユダヤ人であるという読み方があります。しかし、ここにある「御主人様、御主人様」と2回呼びかけている言葉は721節から23節の使われ方と同じです。それは、

7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 ここでの「主よ、主よ」という言葉と「御主人様、御主人様」はギリシャ語の原典では「キュリエ キュリエ」となっています。「主」とか「主人」を表す「キュリオス」の呼びかけとなっています。これからすると10人はすべてキリスト者が表されていると言えるでしょう。

 この話は天の国の喩として語られていますから、この婚礼は終末、世の終わりとして理解できます。つまり、終末である世の終わりを迎えるにあたっての準備の態度が問題であるというのです。終末である世の終わりを前にしてキチンと準備ができているのかという問いかけとなります。当然、期待される答えとしては「賢い」と呼ばれている5人の態度を見習うようにして自らを整えなさいということになります。さらには解釈として、油を信仰として理解して、終末を迎えるに相応しい信仰であれ、という勧めとして読まれることになります。要するに、5人の「賢い」側に自分たちの信仰を整えていきましょう、という話になるわけです。

 しかし、主イエスは、「賢い」と「愚か」ということを、どちらかを選びなさいという〇×式・二者択一問題として喩で示したのでしょうか。単純に「賢い」と「愚か」を比べるだけなら、「賢い」を選べばいいだけの話です。そんな単純なことをわざわざ喩で語る必要があるのでしょうか。もう少し、慎重にテキストに対して当たるべきと思われます。251節では「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。」とあります。ここから考えると、「賢い」とされる5人だけに天の国が喩られているとは、わたしには読めませんでした。これら10人を総合的に読んだ方が良いと思うのです。この10人を55で、どちらかを選ぶということではないのです。「備えあれば憂いなし」ということわざもありますが、備えていること自体は悪いことではありません。しかし、人間という限界ある存在ができうる限りの準備していたとしても「完全」ということはあり得ないのです。準備万端整えていたとしても、予想を超えたアクシデントは起こるのです。

 そこで、次のように読んでみようかと思います。この「賢い」5人と「愚かな」5人を合わせた「花婿を迎えに出て行く」10人をもって、わたしたちなのだと解釈するのです。「賢さ」と「愚かさ」を併せ持つ存在だと理解するのです。「花婿と一緒に婚宴の席に入」ることができる「賢い」女性たちも、締め出されてしまう「愚かな」女性たちも、そのどちらの両面もあるということです。つまり、終末、世の終わりを目前にしているキリスト者の現実とは、婚礼の席に招かれていると同時に婚礼から締め出されているという、一見矛盾した存在なのだということです。救われていると同時にさばかれており、さばかれると同時に救われているということです。この二面性は、プロテスタントの伝統的理解である「赦された罪人」という言葉を思い起こせば、わたしたちになじみ深い理解です。そして、この現実を深く見極めよ、という発想へとつながっていくのです。限界ある人間は、来るべき終末、世の終わりに向かって歩む日々の暮らしにおいて、準備できていることもあるでしょうし、できていないこともあるでしょう。10人の「賢さ」と「愚かさ」の違いは必要な油を用意していたか否かということです。ついウッカリというレベルと大きな違いはありません。このような「賢さ」と「愚かさ」を併せ持つ存在として、それでも花婿である主イエスの来臨に備えつつ、今をキチンと見据えながら確実に暮らしていけばいいという招きとして読むことへと導かれるのではないでしょうか。ついウッカリということは、誰にでも十分あり得ます。それでも「賢さ」を諦めないでいられるように心を備えておけばいいのです。今を大切にするとはそういうことです。ヒントになりそうな態度への共鳴を、アップル社設立者のスティーブ・ジョブズの言葉に感じました。彼は様々な宗教思想に触れたことがあるようです。もちろんキリスト教の影響もあると思われますので、二つ紹介します。①「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」②「毎日を人生最後の日だと思って生きれば、いつか必ずその日は来るだろう。」

 今日の聖書の示す10人のあり方は、パウロのフィリピの信徒への手紙に読み取ることもできます。310節以下です。

 3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 特に注目すべきは12節です。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」とあります。このパウロの視座には、来るべき日を目前にした「賢さ」と「愚かさ」が同居しているわたしという存在の今が言い表されています。終末、世の終わりを目前に想定することによって今野自分のあるべき姿が規定されていくということです。

 キチンとしていてもズッコケていたとしても全体としてあるがままの<わたし>の存在を招かれている存在として受け入れることさえできていれば、何一つ問題がないということです。5人の「賢さ」そして5人の「愚かさ」を併せ持つのがわたしたちキリスト者の今なのだということです。人が生かされている今という時は、いつだって終末、世の終わりに直面しているのだということです。今日と同じように約束された明日があるわけではありません。今日の聖書に登場する5人と5人の姿に、今を生きることに「賢さ」と「愚かさ」の間で揺れ動きながらも今日生かされている現実に共鳴していることを認めていくことです。わたしだけじゃない、わたしもそうだと思えることです。ボチボチであること。50100歩であることを認めていけば共鳴へと向かいます。そうすれば、自分の「賢さ」で他者の「愚かさ」を裁くことから自由にされていきます。また、他者の「賢さ」から自分の「愚かさ」について卑屈になる必要もなくなるのです。このような関係を整えていくことへと共鳴の物語が喩として語られているのです。ここから、自分に対しても他者に対しても自由な生き方はできるようになれる、この約束が喩として語られているのです。この、喩を語る主イエスが天の国としての神の支配へと招き続けているのでしょう。この招きにもとで今日を生きる力が主イエスにある共鳴のもと、守られていることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

祈り

いのちの源である神!

主イエス・キリストが天の国へと招く力にあふれた方であると信じます。

「賢さ」も「愚かさ」も、またその間に揺り動く、そのようなわたしたちです。

主イエスの招きに委ねつつ歩ませてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。                                                                                                                                                          アーメン。

2022年2月13日 (日)

マタイによる福音書 21章28~32節 「言葉と振る舞いと」

 父親から畑に行って働くように言われ、「嫌です」と答えたけれど行った兄と、「はい」と答えて行かなかった弟の喩です。主イエスは「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問いかけます。「兄」と答えた「彼ら」とは、祭司長や長老たち、ユダヤ教の権力者を指します。「彼ら」は、神の掟である律法をきちんと守っている自分たちこそが神の前に正義があると思い上がっており、律法を守れない人たちを罪人という括りの中に入れて軽蔑し、社会からはじき出すことによって安心を得ていたのです。これは神の思いではありません。「彼ら」が正しいと思う兄ではなく、「はい」と答えて従わない弟の側にいます。一方、徴税人や娼婦たちは律法を守れず、しかし、「祝福されたいのち」を受け入れている。「嫌」と答えるも従った兄の側です。「彼ら」ユダヤ教の権力者たちの正しさは確かにあるけれども、それが本当に神の思いに適っているのかを謙虚に自己検証できないなら、それは神の意志ではなく人の思いに過ぎず、傲慢さに満ち溢れたものではないでしょうか。「罪人」たちの与った<祝福されたいのち>の自覚がないまま正義を振り回すのは、神の意志ではないと気づくことが大切です。

 人にはそれぞれ自らの信じて疑わないところの正義が大なり小なりあります。その「正義」を疑うこと、確かめることなしに主張するときに偽りに陥ってしまうことに気付くよう、主イエスから促されているのです。身近な人間関係から国際関係に至るまで、それぞれ自らにある正義によって争いが続き、その正義のせいで人を傷つけている現実があるのに、それでもやめることができない。しかし、「正義」を貫くことによる争いから、別の方向性の可能性への気づきを、主イエスはわたしたちに思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 喩の読み手であるわたしたちは兄の側なのか弟の側なのか。実はどちらも、わたしたちの姿ではないかと読めます。他人ではなく兄弟という設定が、同根の存在、分けきれないもととして示しているように思えます。「わたしたち」の「今」とは、兄の立ち位置でもあり、弟の立ち位置でもあるのでしょう。主イエスにおける憐みにおいて、自らの意思に逆らいながらも信じて従う行いへと招かれている存在であり、同時に自らの「正義」に囚われて自由になれない存在でもあるのではないでしょうか。そして、相当困難ではありますが、兄でもあり弟でもありうるのだという自覚を持ち、常に自分の立ち位置を確かめていくことが必要だと思われます。

2022年2月 6日 (日)

マタイによる福音書 20章1~16節 「こんな世界観もある」

 今日の聖書のテーマは、「同一労働同一賃金」とは全く別ののあり方を示します。ぶどう園の主人が朝6時に11デナリオンの約束で労働者を雇い、その後9時、12時、3時、5時にもそれぞれ人を雇った。仕事が終わると全員に1デナリオンずつ払ったという有名な話です。おそらく最も頑強な人から雇われていき、一日中仕事を待ち続け、最後に雇われた人は弱々しく、あるいは高齢だったのかもしれません。この人たちにも生活に必要な額が支払われる。それが神の国なのです。

 井出英策という経済学者がベーシックサービスということを提案しています。消費税を増やしてでも財源を税に置くことにより、ベーシックサービスとして、教育・医療・介護などを全て無償化できるとの考えです。命や暮らしにダイレクトに関わるサービスを全ての人に無償で提供して、生活を保障し、将来の不安を取り除く。その代わりしっかりと税金を取る。貧しい人も含め、みんなで負担を分かち合う。貯蓄ゼロでも不安ゼロ、弱者を助ける社会から弱者を生まない社会に変える。これがベーシックサービスの考え方です。財源については、多額の税収をもたらす消費税を中心に、多様な税の組み合わせを考えるべきだと言います。

 たとえば、三種類の年収の人を例に挙げます。Aさんが年収200万、Bさんが年収600万、Cさんが年収1000万とします。このままだと年収の格差は、Aさんを1とするとBさんは3倍、Cさんは5倍となります。全員に25パーセントの税金をかけると、それぞれ50万、150万、250万で、税収は450万になります。これを現金ではなくサービスとして150万円ずつ均等に配るという提案です。そうするとAさんは150150300万、Bさんは600万、Cさんは900万となり、格差は、それぞれ2倍、3倍となります。住民にとって必要なものは住民みんなで負担しあい、全ての住民に給付するという構想です。貧しい層も税を負担し、富裕層もサービスで給付を受ける。Bさんは、いわゆる中流層で圧倒的多数です。このBさんがCさん側に立ってAさんへの給付に不満を持つ今の制度と違って、Bさんが不満を持たずにAさん側に立つことができれば、世界は変えていける。そしてベーシックサービス政策なら、それが可能だと。

 このように主張する井出英策の理解の方向性は、ぶどう園主人のたとえで語られている主イエスの示す世界観を現代的な世界観に転じてく可能性として読み取ることもできるのではないでしょうか。

2022年1月23日 (日)

マタイによる福音書 18章21~35節 「自分を見つめ直してみれば」

 何回赦せばいいのかについてペトロは7回でいいのかと主イエスに問います。主イエスは、その70倍をと答えます。「7」は「何度も」を意味する完全数ですから、ペトロという人間の側から精一杯の「赦し」の意気込みを表します。しかし、主イエスは、そうではなくて人間では計り知ることのない、限界が突破されている「赦し」を語るのです。このあり方こそが赦しの事態なのです。一切の条件付けから自由にされて、人が今ここで生かされてあることいることを、主イエスは生き方すべてによって知らせたのではないでしょうか。この、底が抜けるような主イエス・キリストの赦しに与っているという事実からこそ、初めて自分を見つめ直すことができ、そこから他の人に対する「赦し」の姿勢が整えられるはずだというのが今日の聖書のテーマであるように思われます。まず、主イエス・キリストの底が抜けるような赦しの事実に与ることなくして、他の人に対する「赦し」や「赦し合い」は起こりえないのだということです。中心はまず、主イエス・キリストという「赦し」としての神の意志にあるのだということです。

 しかし、それでも人間の実際はそんなに神の思いを真っすぐに受け止めて理解していないのです。そのことを畳み込むようにして23節以下でたとえが語られているのです。人間の現実は、このように罪の赦しが「借金の帳消し」として語られています。

 主イエス・キリストの「赦し」に与っているゆえにこそ、他の人に対する接し方が整えられる方向があることが知らされます。このように定められていれば、他の人に対しても、あの人もまたわたしと同じように主イエスによって無条件の「赦し」に与っていることへと気づきが与えられるのです。そうすれば、接し方が変わって来るのではないでしょうか。ただ、ここでの他の人に対する「赦し」とは、なあなあの関係にしてしまうことや問題点を不問にしてしまうことではありません。同じように主イエス・キリストの「赦し」のもとにある者同士であること、しなわち「対等」であることから接していくことができるようになるということです。上下関係や力関係ではなくて、事柄における平等さにおいて自由に対話していけるということです。相手の存在自体が主イエスによって無条件に認められているお互いであることを前提にしていけるということです。主イエス・キリストの「赦し」のもとにあるがゆえに、他の人に対して、どうしたらいいのか、という課題の前での基本的な態度が整えられていくのではないでしょうか。

2022年1月16日 (日)

マタイによる福音書 13章51~52節 「古いもの・新しいもの」

 聖書の解釈には完全な正解が存在せず、「とりあえず」という限界があります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。】と51節にありますが、続く物語において主イエスの逮捕から十字架刑の場面では逃げてしまったことからすれば、弟子たちの「分かりました」という言葉の疑わしさを否定することはできません。しかし、「分かりました」と言えるに至ることの限界を知りつつ、信じることと聖書から学ぶことをより深めていきたいのです。

 聖書を自分で読んで学ぶことへの提案というかお誘いとして、今日の聖書を読むことができるのではないでしょうか。現代社会に暮らすわたしたちは一人静かに聖書と向かい合う時間を持つことは難しいかもしれません。それでも、聖書に向かい合い、そこから示される主イエス・キリストの言葉と出会いたいと願うのです。伝えられた良き知らせとしての神の言葉は、わたしたちに向かってすでに語られています。わたしたちは、それを開かれた聖書として受け止め、これに応えていく態度であればいいのだと思います。

 聖書は、細かく読んでいくと矛盾だらけで統一観などありません。だから解釈に幅が出ます。聖書は信じるものであって批判的に解釈したり学んだりするものではないという意見も少なくないことは承知しています。しかし、福音書の主イエス自身、旧約聖書を批判的に読んでいたことが山上の説教の態度から分かります。「あなたがたも聞いているとおり、〇○と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」という仕方で神の思いを展開されたのです。この主イエスの旧約に対する態度は、わたしたちが聖書を読む方向を示していると思われます。

 この主イエスの態度から今日の聖書を読むならば、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」が示すのは、古いものは価値ありとか新しいものに力があるとかいう頑なさではなく、もっと自由で、より豊かな生き方で聖書に向かう、ということではないでしょうか。マタイ福音書が言いたいことは、旧約の流れを引き継ぎながら自由に喜ばしく、聖書に親しみながら歩む人生っていいものだ、ということかもしれません。わたしたちも、柔らかい心と体で聖書に向き合い、そこから示されていきたいと思います。

2022年1月 9日 (日)

マタイによる福音書 13章44~46節 「人生の価値」

 「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。「宝」と「真珠」はいずれも非常に価値の高いものとして引き合いに出されており、すべての人間が買い取られている状態が天の国のたとえとなっています。イエス・キリストという代価をもって神はわたしたちを買い取ってくださるのだと語りながら、すべての人間が「宝」であり「真珠」であると読み手に伝えたいと願っているのです。つまり、見出される人間の人生の価値の素晴らしさを述べているのです。

 イエス・キリストは、祭司長や律法学者たちからすれば銀貨30枚の価値しかないと判断されたのですが、神は、このイエス・キリストをもって、すべての人間を買い取る代価とされたのです。値段のつけられないほどの贈り物として十字架の出来事によって罪の赦しというとてつもない贈り物を差し出したのです。わたしたちの存在すべては神の所有とされているのですから、神はわたしたちが神の思いに生きることを求めておられます。

 このイエス・キリストにおける神の思いを受けて歩むことは、パウロの生き方と共鳴しています。神から買い取られた人生を神にささげつつ全生涯を賭けることには価値があるからです。取るに足らないわたしたちが、すでに「宝」や「真珠」のような価値ある人生を歩んだキリスト者たちの歴史は2000年来続いており、わたしたちも教会を通じて連なっています。この代表の一人としてパウロの自覚に従えば、コリントの信徒への手紙一 6章20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」となります。わたしたちは、イエス・キリストが代価を支払ってくださったがゆえの「宝」であり「真珠」として、立たされています。この促しに応えていくことは信じ従うことに他なりません。

 イエス・キリストの尊さについて言い尽くすことは人間には不可能です。お金で換算することなどできません。このイエス・キリストによって買い取られたすべての人間の人生は、パウロにおいてそうであったように教会の内側だけに留められているだけでは不十分です。信じ従う中で、新しい出会いを求めていく歩みへと導かれるものだからです。

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