マタイによる福音書

2023年3月12日 (日)

マタイによる福音書 26章47~56節 「友よ」

 主イエスはゲッセマネの園の祈りにおいて、自らの逮捕に対して腹を括っていたのです。2642節の言葉にあるように、です。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」。この「あなたの御心」から照らすと、ユダに対する主イエスの態度が分かってくるのではないでしょうか。

 ユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と主イエスを捕えようとする人たちに示しました。主イエスがユダに語る「しようとしていることをするがよい」との言葉を支えているのは「あなたの御心が行われますように」というゲッセマネの園の祈りでの決意です。ですから、ユダに「友よ」と親しげに語りかけることができたのです。ここには、裏切りに溺れてしまっているユダに対する哀しみが込められていたのかもしれません。十字架への道行きという運命に直面しながら、裏切りという仕方で振舞うユダに対しても「友よ」と呼びかける懐の深さと愛とを思わずにはいられません。

 しかし同時にユダの心の奥深く、本人さえも気が付かない深みまで見通す愛があったのではないでしょうか。

 この主イエスの「友よ」という呼びかけの言葉は、ユダにだけ語りかけられている閉じられたものではありません。手下を切りつけた弟子にも届けられているでしょうし、後に主イエスを知らないと誓うペトロも含め、その場にいた主イエスを取り囲む仲間たちにも広げられていたのかもしれません。決してあなたを見捨てることはしない。どのようなことがあろうと、あなたはわたしにとって「友」なのだとの主イエス・キリストの決意がここにはあるのではないでしょうか。「あなたの御心が行われますように」とは、主イエスの祈りの中で与えられた生き方であり、死に方です。このような方向で「友よ」との呼びかけは、単なる言葉上のことではなくて実を結んでいくものなのだと、ご一緒に確認しておきたいところです。この「友よ」との呼びかけが、ユダだけではなくて、今もわたしたちのところに届けられていることを感謝のうちに受け止めたいと願います。ユダは主イエスに覚えられていることによって救われています。そしてさらに、主イエスの「友よ」という呼びかけが、憎しみ合い敵対する世界中に起こっている悲惨に向かっても届けられ、その働きの終わることのないことを信じたいのです。

2023年1月22日 (日)

マタイによる福音書 4章23~25節 「教会の働き」

 教会とは、礼拝に集められることが働きの目的すべてではありません。これだけでは不十分です。送り出し・派遣に与ることへとつながるのではければ不十分です。証しの歩みにこそ、教会の働きの使命があるからです。キリスト者であることとは、ただ単に洗礼を受け、聖餐にあずかり、礼拝において神の御言葉を聞くことに留まらないのです。受けることによって、証しの現場へと送り出されること・派遣されていくときにこそキリスト者になり教会になっていくのです。

 主イエスの教えと奇跡によるいやしを今のこととして捉えなおしてくことが、その時々の教会のテーマとなります。現代の教会にこれを大まかに当てはめると、礼拝において語られた事柄をこの世に向かう奉仕の力とするという流れになろうかと思われます。この場合の「奉仕」とは「ボランティア」のような狭い意味ではありません。社会への向き合い方と言ったらいいでしょうか。礼拝において聖書に証言されている主イエス・キリストの御言葉に聴くことによって自らが整えられる必要があります。主イエスによって受け入れられ祝福されている事実に巻き込まれてしまっていることを受け止め直すことです。「幸い」の祝福にあって、「地の塩」「世の光」として証しへと歩みだすことです。上大岡教会の礼拝の最後に「派遣」があります。「わたしは誰をつかわすべきか。だれがわたしと共に行くだろうか。」との問いに対して、「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。」と応答し、祝福を受け、歩み始めることです。

 このことを福音書は、奇跡によるいやしの物語として表現しているのです。わたしたちは古代の世界観で奇跡によるいやしの物語と表現されていたことを現代に応用していく必要があります。確かに、これは奇跡なのではないのかと思えるような経験をすることも全くないわけではありません。神秘体験をする人もいるかもしれません。しかし、多くの人の場合は違います。日常の平凡な暮らしの中で、主イエスであったら、このような場面でどうするだろうか、どんな言葉を発するだろうか、どのような判断や決断をするのだろうかと思いめぐらせながら、その時々の判断を信仰に応じて選び取っていくこと、その時に働く力が奇跡なのです。わたしたちは礼拝から押し出されることで奇跡の力を得、その力の恵みの中で社会と向き合う時、そこにいやしが起こされるのです。

2023年1月15日 (日)

マタイによる福音書 4章18~22節 「人間をとる漁師」

 主イエスに招かれた人たちは、必ずしも模範的で立派な人格であったわけではないのです。むしろ、主イエスの真心から離れてしまうような鈍い心根から自由でなかったことが分かります。しかし、この人たちが主イエスから呼ばれ、招かれ続けていた事実は揺らぐことがありません。主イエスの逮捕に際して逃げ出すような見苦しさからも、また他の弟子たちよりも自分たちが優っているという思い上がりからも自由ではありません。彼らが主イエスを見捨てることはあっても、この人たちは、主イエスから見捨てられることはないのです。主イエスは、弟子たちの混乱や迷いにもかかわらず、一貫して愛することをやめないのです。この弟子たちへの思いを、復活の後に彼らは気付かされ、自らの裏切りを思い知らされるところから立ち直り、自らの現場であるガリラヤへと立ち返る勇気と希望が与えられたのです。この弟子たちへの主イエスの思いは、現代の弟子たちであるわたしたちへの思いと変わることはありません。主イエスは、誰であれ、どんな人であれ、その人の丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に受けいれ、肯定し、赦し、愛し続ける方なのです。

 この主イエスは、直接の弟子たちだけではなくて、様々な弱りや病、苦しみや悩み、悲しみの中にある人たちと、どのような場でどのように出会ったのか、またどのようにして生き直しを促しながら一緒に生きることを志したのか、を今のこととして捉えなおすときには、主イエスは時代を越えて過去の人ではなくなるのです。今、確実に復活者として生きている人であることが確認されるのです。わたしたちが、自分のことを顧みるならば、こんな時にはイエスならどうするのだろうとか、あの人やこの人の仕草や口ぶりの中に主イエスの影を見るような感覚を覚えるとか、今のこととしての主イエスを身近なこととして捉えることができる瞬間ってあると思うのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスは、活動の最初に4人の漁師たちを招きました。重要なのは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の促しによって、それぞれの場で知恵を働かせ、工夫や創造によって、より人生の質を高めていくような人間関係を作り出していく方向に招かれていることを信じていくことです。より幸せな道、生きていることの幸いに生きることとはどのようなことなのかを絶えず主イエスにあって確認し、実践していくことに他ならないのです。この道への招きが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の意味するところです。

2023年1月 1日 (日)

マタイによる福音書 4章12~17節 「天の国は近づいた」

 教会が起こされて以来の2千年間、人間の世界は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」であり続けたとしか理解できないほどの歴史なのだということを、いわゆる「世界史」、もっと狭く捉えて「教会史」において思い知らされ続けていることは否定できません。わたしたち自身の、そして歴代の教会の無力さを突きつけられることも少なくありません。しかし、それでもわたしたちはクリスマスの祝福における「すでに」を手放すことなく、完成していない神の国を待ち続ける「いまだ」という現実の中で、あえて希望することが赦された存在であることを確認しておきたいのです。

 「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの出来事はクリスマスによって指示されていることを思い起こしたいのです。「すでに」とは「大きな光を見」ることであり、「光が射し込んだ」事実を示します。この「すでに」と「いまだ」という「教会の時」という緊張関係を支えるのは、「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に他なりません。この事実は、マタイによる福音書の終わりの部分である、2816節以下で確認することができます。このようにあります。【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】「すでに」語られた主イエスの言葉に生かされながら、「いまだ」という「教会の時」を歩み続けなさい。そこに主イエスが共におられるのだから、不安や恐れや脅えが起こったとしても、支えと導きがあるのだとの固い約束がある、ここに希望をつなぐことが赦されているのです。キリスト者とは、「すでに」と「いまだ」との間の緊張の中で「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に生かされており、その責任ゆえの正義を求めていくものです。主イエスとしての「天の国は近づいた」という現実に支えられて「悔い改めよ」という方向に招かれていることを今日はご一緒に確認したいと思います。

2022年12月11日 (日)

マタイによる福音書 1章18~24節 「共にいる神」

 天使が夢でヨセフに現れて、「マリヤが男の子を生む。イエスと名付けなさい」また「その名はインマヌエルと呼ばれる『神は我々と共におられるという意味である』」と語ります。今日の箇書を読むと、名前はイエスなのだけれども、その中身にはインマヌエルという意義が込められているということになります。イエスとは「救う者、救いに関わる者」という意味です。インマヌエルは「神が我々と共におられる」ということですから、神の御子がイエスでありインマヌエルであるということは、神は我々と共にいる、それが救いなのだということです。

 マタイによる福音書の最後は「 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で締められています(2820)。

 「インマヌエル」という言葉は旧約のイザヤ書7章にしかありませんが、神が共にいるというイメージは旧約から引き継がれています。①創世記27章~。ヤコブが双子の兄エサウから長子の祝福を父イサクから卑怯な方法でだまし取ることが原因となり殺されないために逃げるたびにおいて。②出エジプト記3章~。モーセはエジプトを脱出させようとする重い使命に恐れをなした時。③ヨシュア記第1章から。ヨシュアがモーセから任務を託された時、不安と恐れに襲われた時。

 旧約の困難な旅路を支えるというイメージをマタイによる福音書のインマヌエル=神は我々と共におられるのだと再解釈することができます。人生は旅にたとえられますが、先ほどの旧約の記事に従えば、実際の旅、しかも非常に困難さを伴うものであったことが分かります。

「共におられる」神としてのイエスのイメージは、いくつかの詩編を読みながらイメージを広げることができると思います。23編によれば、羊飼いとして羊である民を導き、「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」という平安の内にいるようにしてくださる方であり、121編によれば旅立つ人の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」という不安や恐れに対して「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」との信頼のもとで歩みださせる力ある励ましなのです。

 クリスマスとは、神が人となる仕方での旅だとすれば、ここに招かれているわたしたちの人生という旅に共なる主イエスを迎えることに喜びのないはずがありません。「

2022年12月 4日 (日)

マタイによる福音書 1章1~17節 「破綻した系図の示すもの」

 マタイによる福音書の冒頭の部分は、人類の父だとされているアブラハムと、かつてのイスラエル統一王国を代表するダビデを中心に語られたイエスまでの「系図」となっています。これは一見、自分が歴史的に由緒正しい家柄であることを主張するためのものであることだと読めます。父方の系統の権力者たちを引き出すことで、イスラエルの歴史における血筋の確かさや純粋さを保証しようとしているようだからです。

しかし、「系図」の中に4人の女性が含まれていることに「破綻」を見ることができように思われます。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という4人です。ユダヤの完全な男性中心社会の系図に女性の名前が含まれている違和感のようなものがあるからです。このことを踏まえて、この「系図」はもっと広い視点から読まれるべきではないかという立場があります。ここに名前の挙がっている人たちは確かにイスラエルの歴史において重要な事柄を担った人たちであるには違いありませんが、清廉潔白な人たちではないことを忘れてはならないということです。「ウリヤの妻」という記述は、部下の妻を奪ったダビデの罪性を想起させますし、タマルは義父ヤコブを騙して子をなし、ラハブもルツも「異邦人」です。この「系図」は、民族の純粋さの破綻しているところにこそ主イエスが登場するのだとして、マタイによる福音書の初めで前もって語っているのではないでしょうか。

 さらに言えば、人間の限界としての「汚れ」とも言うべき事柄は、この4人の女性に閉じられるものではありません。系図に登場する人たちすべてに当てはまることです。誰一人として「汚れ」の歴史から逃れることはできないという人間の限界があるからです。この意味において、イエスの背負わされた歴史は神の呼ばわりの極みであったとさえいえるのではないでしょうか。「系図」を読み返すならば、血筋の正統性が破綻していることが分かります。中心にあるのは、神の呼びかけと招きにおける連綿とした歴史です。イエス・キリストに至ることで完結するのではなくて、わたしたちも、聖書の世界観、福音書の世界観に巻き込まれていくことで、この「系図」に連なるものとされてしまっているのです。中心的な課題は神の側からの呼びかけに対する応答と責任に対する態度決定だと迫ってくるのではないでしょうか。神の思いがどこに向かっているのかを示すために、ここにこそ神は目を留められてるのだと思い知るようにと、です。

2022年10月30日 (日)

マタイによる福音書 9章32~34節 「自分の言葉で語る力」

 今日の聖書は、悪霊に憑かれて口の利けなかった二人の人が主イエスのところに連れてこられ、語る力が与えられた物語です。この話は、実際に口で発する言葉に限定する必要はないと思います。人に向かって語ることや書くことだけでなく、全般的な自分の意志を伝えるということの広がりとして受け止めていいのだと思います。主イエスが悪霊を追い出すことによって言葉の力が与えられた物語として読むのです。

 わたしは、言葉の力が圧倒的に欠けていますから、誤解されることもあるでしょうし、不用意な言葉を使うことも少なくありません。考えたことを整理して、伝える言葉にしていくことが得意ではないのです。それでも、隠れた神が主イエス・キリストという具体的な人間として見える姿で現れたこと、この方が十字架上の処刑を経て復活したこと、今や天に帰られた主イエスの神が聖霊として働き続けている、と言わざるを得ないのです。この、聖霊によって支えられ、導かれているがゆえに、今わたしはここにこうして立たされているのだと信じています。

 聖書を読むと、自分自身の言葉の力の不足を感じたり、脅えたり、不安になったり、という場にこそ導きが与えられた記事がいくつも出てきます。出エジプトの指導者としてモーセは召命を受けた時「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と答えます。しかし神はアロンをその助けとして与えます。また、預言者エレミヤが召命を受けた時には「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」という彼に向かって神は次のように語りかけ、支えます「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」。怖じ惑い、怯むときに神は支えるのです。この支えが新約においては、主イエスの汚れた霊や悪霊を追い出す業に通じます。この、主イエスの言葉をマルコによる福音書13章には「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(13:11)として、「最後まで耐え忍ぶ者」(13:13)になるための相応しい言葉を聖霊が備えるのだという信仰理解が示されているのです。

 言葉の力は、人間の内にはないのだということです。確かに、わたしたちは自分の言葉で語る力で表現しなければならない現実に何度もぶち当たると思います。しかし、これに対処するのは自分という主体であることに違いはないのですが、ここでの基本は、あくまで聖霊なのだという信仰がなければならないのです。主イエスの神が聖霊として働くことで共にいてくださることこそが、信仰者の現実なのだということです(ハイデルベルク信仰問答53を参照)。 

        

2022年9月25日 (日)

マタイによる福音書16章13~20節「岩の上に教会を」

 今日の聖書は、しばらくの間わたしにとって躓きでした。マルコとルカではイエスが自分のことを誰だと考えているかという問いに対して、メシア(キリスト)であるという告白をしているだけなのですが、マタイだけが、いわゆる「鍵の権能」と呼ばれるペトロに対して特別扱いをしているとしか読めなかったからです。つまり、後のローマカトリックの教皇制度の聖書的な根拠として扱われてきたのです。19節では「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とあるように、この世と天上の世界との間のつながりに関わる権限がペトロにのみ与えられているのです。ここには、マタイ福音書における二種類の人間の選別の権威が与えられていることになります。天の国に入れるものと入れないものを選り分ける発想がマタイにはあり、その権限が全面的に主イエスからペトロに移されていると読めるからです。18節には「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。ペトロという言葉は、元はペトロスで石を表し、ここでの「岩」はペトラで別の意味合いがあるように読めますが、マタイの意図としてはペトロという石が岩なのだ、と読ませたがっているように思われます。ここで「石」としてのペトロスから、「岩」としてのペトラにされていることには別の意味が示されているように思われます。いくつもの詩編には神を「岩」と表現している箇書が見つかります。たとえば詩編18編32節「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」詩編62編3節「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」などから分かります。つまり、主イエスの口にペトロが主イエスないしは神に成り代わることへの道を開いてしまっていると言えるからです。

 霊的な問題でも肉体の問題でも構いませんが、地上でのいのちも天の国のいのちでも、ペトロを介してないと意味をなさないのだとでも言いたげです。当時の感覚や、もしかしたら現代の感覚でもあるのかもしれませんが、天の国に入るためにペトロを介することによらなければならいということです。マタイには、二種類の人間を選り分ける発想があります。24章では、終わりの日に関する説教の中で40節と41節では「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」とあります。続く45節以下の小見出しによれば「忠実な僕と悪い僕」があります。さらに続く25章1節からは十人の乙女がいて五人ずつが良い悪いで分けられます。そして、25章31節以下では「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。義人と罪人、善人と悪人を選り分ける思想があちらこちらに散りばめられているのです。このような発想は、教会の内側と外側、救われるものと滅ぼされる者、天の国に入れるものと弾き飛ばされる者などに対して明確な線引きを行うことで、強引に、マタイの理解するところの良い側に向かう良い人間へと方向づける暴力的な発想と権力を感じます。

 このような区別ないしは差別的な発想は初代教会に始まります。後のカトリック教会に及ぶものであったことは確かです。現代のカトリック教会も、この発想から完全に自由であるのかについては疑問のあるところです。しかし、宗教改革の問題提起の一つであった教皇制の問題は解決を見たとは思えません。最近のアメリカの教会で使われているかどうかは確かではありませんが、アメリカのローマカトリックがプロテスタントを揶揄するときに牧師のことを「タイニー ポープ」という言葉を使っていたようです。要するに「ちっぽけな教皇」という意味です。ローマカトリックからすれば、ポープたる教皇は世界に冠たる偉大なものであるのに、プロテスタントは小さなお山の対処に過ぎないというのです。もちろん、アメリカのプロテスタントは地味な教会でなければ教会員が何百人どころか何千人規模のところも少なくないはずですが、それでもローマカトリックからすれば、牧師なんかは「タイニー ポープ」に過ぎないということなのでしょう。とは言うものの、このペトロが「岩」である神の代理人のようなあり方は、日本のような教会員が百人に満たない規模の教会でも決して無縁ではありません。

18節をもう一度読んでみます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。このペトロに与えたとされる権威が現代の日本の教会にとって決して無縁ではないことを批判的に検証し、聖書を読み直していく必要を感じています。自覚しているか、していないかを別にして、実際のところ必要以上に「鍵の権能」もしくは、ここから由来する判断などをもとにして牧師自身が立ち振る舞ってはいないかどうかを検証する必要があると思われます。単純に、この人はいい人であの人は悪い人みたいな選り分けをしている牧師は決して少なくないというのが、わたしの印象です。自分たちの立ち位置に反対する立場に対して露骨な悪意をもった振る舞いや発言を見聞きすることは実際のところ少なくないからです。プロテスタントの多くは牧師になるために按手礼という儀式が行われます。手を置くことで任職するものです。日本基督教団の場合は教区総会で行われることが多いです。教憲教規によれば教区総会議長が行うことになっています。コロナ期間は別でしたが、習慣としては、正教師になろうとしている人の頭に議長が手を置き、その方に数人が手を置き、その肩に手を置き…とつながって、その場にいる正教師が一塊になる感じで行われます。神奈川教区の場合は出席正教師が100名弱ほどの出席がありますから、この光景を初めて見る人はギョッとするかもしれません。この儀式が隠れた意味でのサクラメントになっているのではないかと感じたことがあります。洗礼式や聖餐式に与る以上に喜んだ志願者を見て(あれほどの喜び方を洗礼式と聖餐式のたびににしているなら、かろうじて認めてもいい)、鼻白んだ記憶があります。この按手礼が「ペトロの手」であるとして使徒継承だと考える人も少なくないようです。

 このまま、今日のテキストを解釈するだけではマタイによる福音書の二種類の人間を分け隔てることで、一方を救い、もう一方を滅びに至る道へと導くことになってしまいます。18節の「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」との言葉をもう一度捉え返す方向を探ってみたいのです。ヒントとなるのが、18章15節から20節です。読んでみます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この聖書自身にも問題がないわけではありません。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」とあるからです。異邦人や徴税人に対して主イエスが受け入れ祝福した態度とは逆の方向を指した言葉であり、もしかしたらマタイ福音書の差別的な本音が現れているのかもしれません。しかし、ここでの中心は16章で語られたペトロに対しての言葉が18章18節では広がりの中で解釈されていることです。それは次のようにあります。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。つまり、ペトロだけでなく「あなたがたに授ける」と「あなたがた」に対して鍵の権能を与えていると拡大されているからです。鍵の権能はペトロ一人だけに対して閉じられ続けていくものではないということです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあるように、教会の共同性の中で自己検証されることによって修正すべき点は修正されなければならないということです。ペトロは確かに教会の伝統からすれば、使徒の中の使徒、指導者の中の指導者なのかもしれません。しかし、ペトロも限界のある人間であることを忘れてはならないのです。今日の16章13節から20節のテキストは教会の伝統におけるペトロの優越性を語っていることに違いありません。しかし、その後に続く「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ところの主イエスから常に正されていかなければならないのです。ペトロのような存在は古代教会から現代教会、わたしたちの場合は日本基督教団ですが、暴走することが少なくありません。

 神は神であり、人は人であるという原則から外れてはならないのです。教会は神の御心に従うものです。役割分担としての教職や指導者もそうです。ペトロは確かに初代の教会の指導者であったという事実は変えられません。しかし、今日の聖書の箇書の続きの16章22節以下では「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』エスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」このように諫められています。山上での変貌でもペトロの無理解があります。他にも主イエスに対する理解の足りなさはいくつもあります。そもそも逮捕直前に「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い、さらには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とさえ言ったにもかかわらず、逃げ出してしまったではありませんか。逮捕後、主イエスのことを「知らない」と言い募り、26章75節には次のようにあります。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

 もう一度今日の箇書に戻ります。人としての限界をもつ、このようなペトロに「鍵の権能」を与え、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と主イエスは語りかけているのです。人としての臆病さや卑怯な態度、あるいはおっちょこちょいであることなど、弱さや惨めさを踏まえた上での言葉として受け止め直すことができれば、あのペトロをもって「岩」とし、その上に教会を建てるとの言葉には主イエスの慰めと憐みが染み渡ってくるのではないでしょうか。このようなペトロを思い起こすならば、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、決してペトロ一人に閉ざされたものではないことへと理解が広がってくるのではないでしょうか。「二人または三人」であるところの、わたしもあなたというわたしたちそれぞれが共に、自分であり続けると同時にわたしたちという共同体、つながりとして「岩」となるようにして教会を生きることへと招かれていると信じることができるのではないでしょうか。ここに主イエスからの慰めと憐みを共に与ることのできる幸いがある、このように信じることができるのです。ご一緒に祈りましょう。

祈り

二人または三人としての共同性の中で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、

わたしたちの中で事実として起こされますように。

主イエスに信じ従う群れとして整えられますように。

主イエスの守りのうちにあって、祈り考え、発言し、行動していくことができますように。

共に主イエスの道を歩ませてください。

信じ従う喜びを感謝し、この祈りを主イエス・キリストの御名よってささげます。

                                アーメン。

2022年9月11日 (日)

マタイによる福音書 27章45~56節 「キリスト者はどこから来るのか?」

 51節の後半から53節はマタイによる福音書にしかありません。この箇書は、墓が開かれることによって新しい現実の始まりを表しているように思われます。岩という、かつて考えられていた聖なる価値観が裂かれること、そして地盤が根本的に揺さぶられることによって今、全く新しくされたというイメージです。これは、51節の前半の「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」とも共鳴しています。エルサレム神殿には、入り口から入ってすぐのところに、聖所というものがありました。その一番奥には、垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる場所があり、ここは最も聖なる場所であり、大祭司一人だけが入る資格が与えられていました。ですから、神殿の中にある垂れ幕が避けるのを外にいた百人隊長たちが見たというのは当然あり得ないことです。しかし、ここでは事実は問題なのではなくて、ユダヤ教の神殿の至聖所に象徴される当時の世界観の根拠が崩れ落ち、新しい世界観が登場したことを示します。この新しい世界観をもたらしたのが、主イエス・キリスト以外にはありえないというのがマタイによる福音書の理解です

 わたしたちの通常思い描く人生の流れは、死が終着駅です。しかし、そうではありません。5253節に「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とあるように、マタイの教会に所属している人たちの自己理解が表されています。墓が開かれることによって、かつて眠りについたという死者たちが生き返ったという言葉通りの意味合いを越えて、今生きている者も含めて墓という死の世界からいのちの世界に移されたという信仰の告白となっているのです。

 「キリスト者はどこから来るのか?」という問いへのマタイによる福音書の教会の答えとは、墓が開かれるところからやって来る、ということです。墓というとジメジメして冷たく憂鬱で、明るいイメージから遠いところにあるように思われがちです。しかし、墓は決して暗いものではなく、主イエスの十字架刑→死→墓→復活という出来事に照らされて明るさへと転じていくのです。ここには、主イエスに支えられた明るい力が存在します。

「インマヌエル・神は我々と共におられる」事実に支えられて、この道を歩むことがキリスト者のあり方です。主イエス・キリストが、墓という死の世界からいのちの光の復活の世界への歩みにおいて共におられます。この意味において、キリスト者は復活を踏まえた主イエスの墓から生まれているのです。

2022年3月 6日 (日)

マタイによる福音書 25章31~40節 「いと小さき者の神」

 善と悪を「羊と山羊」に喩えたことに注目したいと思います。両者はとても似ています。善と悪を二つに明快に分けることはできないということです。また、いずれの立場においても自覚が決定的に欠けています。善の側・悪の側、いずれに対しても問題になっているのは「この最も小さい者の一人」に対しての行い、振る舞いとなります。どちらの側も思い当たる節がないように、この行い、振る舞いの善悪の基準は人の側からの判断の及ばない領域でした。人の判断や考えの枠からは発想できない限界があるのだということです。そして、その違いや差というものは紙一重ほどのものであるからです。この、ほんの僅かな違いを見極め、乗り越えていくポイントが「この最も小さい者の一人」への気づきです。この「この最も小さい者の一人」に対する気づきは紙一重に満たないほどの違いであるのに、全面的な方向付けにとっての決定的な契機なのだというのです。神の側からの決定的な方向付けがここに示されます。解釈の可能性は「この最も小さい者の一人」に対する注目によって示されていく方向性にあります。「この最も小さい者の一人」とは誰のことなのか。これも明確には語られておらず、暗示されているだけです。善人も悪人も「いつ」のことなのかと自分で問いかけても思いもよらないほど理解できないのです。今日の聖書は二種類の人のあり方を示しながら、同時に自分や誰かをどちらかの枠に当てはめるという発想自体を拒んでいます。

 「この最も小さい者の一人」とは、善人の側での文脈では「わたしの兄弟」となっており、悪人の側の文脈では「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」とあります。ここでの「兄弟」であり「わたし」と言われているのは、主イエス自身ないしは主イエス的なあり方の人全般を指すと判断できます。

 これは主イエスがどこに目を注いで歩んだのかを示すだけに留まりません。主イエス自身がそもそも誰であったかに関わります。主イエスが上から目線で下に向かって「この最も小さい者の一人」を見つめていたのではないのです。主イエス自身が文字通り「この最も小さい者の一人」ということです本田哲郎神父の著書で紹介されているフリッツ・アイヘンバーグの絵が示すように、主イエスは配食する側ではなく、列に並んでいるのです。わたしもあなたもあの人もこの人も、主イエスの十字架への道行き、その途上での行い、振る舞いに倣う生き方の中へとすでに招かれてしまっているのです。

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