マタイによる福音書

2022年3月 6日 (日)

マタイによる福音書 25章31~40節 「いと小さき者の神」

 善と悪を「羊と山羊」に喩えたことに注目したいと思います。両者はとても似ています。善と悪を二つに明快に分けることはできないということです。また、いずれの立場においても自覚が決定的に欠けています。善の側・悪の側、いずれに対しても問題になっているのは「この最も小さい者の一人」に対しての行い、振る舞いとなります。どちらの側も思い当たる節がないように、この行い、振る舞いの善悪の基準は人の側からの判断の及ばない領域でした。人の判断や考えの枠からは発想できない限界があるのだということです。そして、その違いや差というものは紙一重ほどのものであるからです。この、ほんの僅かな違いを見極め、乗り越えていくポイントが「この最も小さい者の一人」への気づきです。この「この最も小さい者の一人」に対する気づきは紙一重に満たないほどの違いであるのに、全面的な方向付けにとっての決定的な契機なのだというのです。神の側からの決定的な方向付けがここに示されます。解釈の可能性は「この最も小さい者の一人」に対する注目によって示されていく方向性にあります。「この最も小さい者の一人」とは誰のことなのか。これも明確には語られておらず、暗示されているだけです。善人も悪人も「いつ」のことなのかと自分で問いかけても思いもよらないほど理解できないのです。今日の聖書は二種類の人のあり方を示しながら、同時に自分や誰かをどちらかの枠に当てはめるという発想自体を拒んでいます。

 「この最も小さい者の一人」とは、善人の側での文脈では「わたしの兄弟」となっており、悪人の側の文脈では「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」とあります。ここでの「兄弟」であり「わたし」と言われているのは、主イエス自身ないしは主イエス的なあり方の人全般を指すと判断できます。

 これは主イエスがどこに目を注いで歩んだのかを示すだけに留まりません。主イエス自身がそもそも誰であったかに関わります。主イエスが上から目線で下に向かって「この最も小さい者の一人」を見つめていたのではないのです。主イエス自身が文字通り「この最も小さい者の一人」ということです本田哲郎神父の著書で紹介されているフリッツ・アイヘンバーグの絵が示すように、主イエスは配食する側ではなく、列に並んでいるのです。わたしもあなたもあの人もこの人も、主イエスの十字架への道行き、その途上での行い、振る舞いに倣う生き方の中へとすでに招かれてしまっているのです。

2022年2月20日 (日)

マタイによる福音書 25章1~13節 「共感する力について」

 今日の聖書は、イエス・キリストを信じる者の今とはどのような在り方なのかが喩によって問いかけられているのではないでしょうか。この問題意識から読み解いていきたいと思います。

 キリスト教はユダヤ教から終末論という理解を受け継いでいます。創世記の創造物語によれば天地を神が創造することで世界ができたとあります。このように神による始まりがあるなら、当然世の終わりがあるだろうと考えられます。この世界が終わりを迎え、神の国がやってくる日が必ずやって来るという考え方です。そこでは永遠の神の支配が完成されるというものです。この、いつやって来るのか知ることのできない終末を迎えるための今を、どのように生きるのかが問われているのです。いわば、終末を射程に置きながら今の生き方や態度を自己検証することが求められているということです。今、わたしたちはどのように生きているかの問い直しを求める喩話であると読みます。

 今日の喩は婚礼の中の一場面です。婚礼とは、新約聖書の他の箇書でも来臨のイエスを念頭に置く読みが要求されています。ですから、花婿である主イエスを迎える態度として読まれる必要があるのです。登場するのは10人の未婚の女性です。当時の結婚式のあり方については、地域性の違いなども考えると色々なあり方があったとは思いますが、一般的にはこんな感じだったようです。花嫁の家に花婿が友人たちと共に迎えに行き、花嫁を伴い街の中で祝福され練り歩きながら、花婿の家に戻ってきて宴会をする。今日の10人の未婚の女性たちは、花婿が花嫁を連れ戻って来たときに、迎えに出る役割だったのでしょう。しかし、練り歩き、いわばパレードですね。パレードに時間が思いの他かかったのでしょう。到着が予定より遅れ、灯を窓辺にでも置いて待っているこの女性たちは皆眠気に負けてしまったのです。真夜中になって花婿が間もなく到着すると告げられ、10人は一斉に跳ね起きて灯をもって迎えに出ます。ところが、長時間つけていた灯は消えかかり、「愚か」と呼ばれる5人は予備の油の用意ができていなくて、「賢い」と呼ばれる女性たちに分けてくれるように頼みます。しかし、余分に持っていないと断られ、買いに行くように言われます。5人が買いに出ている間に花婿の一行は到着し、油を手に入れた5人が戻ってみると、門は固く閉じられ、家に入れません。開けてほしいと頼み込んでも「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」という冷たい言葉を投げかけられてしまうのです。

 さて、5人と5人が「愚か」と「賢い」で比べられています。これは何を意味するのかが様々な解釈によって考えられてきました。「賢い」のはキリスト者で、「愚か」なのはユダヤ人であるという読み方があります。しかし、ここにある「御主人様、御主人様」と2回呼びかけている言葉は721節から23節の使われ方と同じです。それは、

7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 ここでの「主よ、主よ」という言葉と「御主人様、御主人様」はギリシャ語の原典では「キュリエ キュリエ」となっています。「主」とか「主人」を表す「キュリオス」の呼びかけとなっています。これからすると10人はすべてキリスト者が表されていると言えるでしょう。

 この話は天の国の喩として語られていますから、この婚礼は終末、世の終わりとして理解できます。つまり、終末である世の終わりを迎えるにあたっての準備の態度が問題であるというのです。終末である世の終わりを前にしてキチンと準備ができているのかという問いかけとなります。当然、期待される答えとしては「賢い」と呼ばれている5人の態度を見習うようにして自らを整えなさいということになります。さらには解釈として、油を信仰として理解して、終末を迎えるに相応しい信仰であれ、という勧めとして読まれることになります。要するに、5人の「賢い」側に自分たちの信仰を整えていきましょう、という話になるわけです。

 しかし、主イエスは、「賢い」と「愚か」ということを、どちらかを選びなさいという〇×式・二者択一問題として喩で示したのでしょうか。単純に「賢い」と「愚か」を比べるだけなら、「賢い」を選べばいいだけの話です。そんな単純なことをわざわざ喩で語る必要があるのでしょうか。もう少し、慎重にテキストに対して当たるべきと思われます。251節では「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。」とあります。ここから考えると、「賢い」とされる5人だけに天の国が喩られているとは、わたしには読めませんでした。これら10人を総合的に読んだ方が良いと思うのです。この10人を55で、どちらかを選ぶということではないのです。「備えあれば憂いなし」ということわざもありますが、備えていること自体は悪いことではありません。しかし、人間という限界ある存在ができうる限りの準備していたとしても「完全」ということはあり得ないのです。準備万端整えていたとしても、予想を超えたアクシデントは起こるのです。

 そこで、次のように読んでみようかと思います。この「賢い」5人と「愚かな」5人を合わせた「花婿を迎えに出て行く」10人をもって、わたしたちなのだと解釈するのです。「賢さ」と「愚かさ」を併せ持つ存在だと理解するのです。「花婿と一緒に婚宴の席に入」ることができる「賢い」女性たちも、締め出されてしまう「愚かな」女性たちも、そのどちらの両面もあるということです。つまり、終末、世の終わりを目前にしているキリスト者の現実とは、婚礼の席に招かれていると同時に婚礼から締め出されているという、一見矛盾した存在なのだということです。救われていると同時にさばかれており、さばかれると同時に救われているということです。この二面性は、プロテスタントの伝統的理解である「赦された罪人」という言葉を思い起こせば、わたしたちになじみ深い理解です。そして、この現実を深く見極めよ、という発想へとつながっていくのです。限界ある人間は、来るべき終末、世の終わりに向かって歩む日々の暮らしにおいて、準備できていることもあるでしょうし、できていないこともあるでしょう。10人の「賢さ」と「愚かさ」の違いは必要な油を用意していたか否かということです。ついウッカリというレベルと大きな違いはありません。このような「賢さ」と「愚かさ」を併せ持つ存在として、それでも花婿である主イエスの来臨に備えつつ、今をキチンと見据えながら確実に暮らしていけばいいという招きとして読むことへと導かれるのではないでしょうか。ついウッカリということは、誰にでも十分あり得ます。それでも「賢さ」を諦めないでいられるように心を備えておけばいいのです。今を大切にするとはそういうことです。ヒントになりそうな態度への共鳴を、アップル社設立者のスティーブ・ジョブズの言葉に感じました。彼は様々な宗教思想に触れたことがあるようです。もちろんキリスト教の影響もあると思われますので、二つ紹介します。①「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだろうか?」②「毎日を人生最後の日だと思って生きれば、いつか必ずその日は来るだろう。」

 今日の聖書の示す10人のあり方は、パウロのフィリピの信徒への手紙に読み取ることもできます。310節以下です。

 3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 特に注目すべきは12節です。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」とあります。このパウロの視座には、来るべき日を目前にした「賢さ」と「愚かさ」が同居しているわたしという存在の今が言い表されています。終末、世の終わりを目前に想定することによって今野自分のあるべき姿が規定されていくということです。

 キチンとしていてもズッコケていたとしても全体としてあるがままの<わたし>の存在を招かれている存在として受け入れることさえできていれば、何一つ問題がないということです。5人の「賢さ」そして5人の「愚かさ」を併せ持つのがわたしたちキリスト者の今なのだということです。人が生かされている今という時は、いつだって終末、世の終わりに直面しているのだということです。今日と同じように約束された明日があるわけではありません。今日の聖書に登場する5人と5人の姿に、今を生きることに「賢さ」と「愚かさ」の間で揺れ動きながらも今日生かされている現実に共鳴していることを認めていくことです。わたしだけじゃない、わたしもそうだと思えることです。ボチボチであること。50100歩であることを認めていけば共鳴へと向かいます。そうすれば、自分の「賢さ」で他者の「愚かさ」を裁くことから自由にされていきます。また、他者の「賢さ」から自分の「愚かさ」について卑屈になる必要もなくなるのです。このような関係を整えていくことへと共鳴の物語が喩として語られているのです。ここから、自分に対しても他者に対しても自由な生き方はできるようになれる、この約束が喩として語られているのです。この、喩を語る主イエスが天の国としての神の支配へと招き続けているのでしょう。この招きにもとで今日を生きる力が主イエスにある共鳴のもと、守られていることを信じ、ご一緒に祈りましょう。

祈り

いのちの源である神!

主イエス・キリストが天の国へと招く力にあふれた方であると信じます。

「賢さ」も「愚かさ」も、またその間に揺り動く、そのようなわたしたちです。

主イエスの招きに委ねつつ歩ませてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。                                                                                                                                                          アーメン。

2022年2月13日 (日)

マタイによる福音書 21章28~32節 「言葉と振る舞いと」

 父親から畑に行って働くように言われ、「嫌です」と答えたけれど行った兄と、「はい」と答えて行かなかった弟の喩です。主イエスは「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と問いかけます。「兄」と答えた「彼ら」とは、祭司長や長老たち、ユダヤ教の権力者を指します。「彼ら」は、神の掟である律法をきちんと守っている自分たちこそが神の前に正義があると思い上がっており、律法を守れない人たちを罪人という括りの中に入れて軽蔑し、社会からはじき出すことによって安心を得ていたのです。これは神の思いではありません。「彼ら」が正しいと思う兄ではなく、「はい」と答えて従わない弟の側にいます。一方、徴税人や娼婦たちは律法を守れず、しかし、「祝福されたいのち」を受け入れている。「嫌」と答えるも従った兄の側です。「彼ら」ユダヤ教の権力者たちの正しさは確かにあるけれども、それが本当に神の思いに適っているのかを謙虚に自己検証できないなら、それは神の意志ではなく人の思いに過ぎず、傲慢さに満ち溢れたものではないでしょうか。「罪人」たちの与った<祝福されたいのち>の自覚がないまま正義を振り回すのは、神の意志ではないと気づくことが大切です。

 人にはそれぞれ自らの信じて疑わないところの正義が大なり小なりあります。その「正義」を疑うこと、確かめることなしに主張するときに偽りに陥ってしまうことに気付くよう、主イエスから促されているのです。身近な人間関係から国際関係に至るまで、それぞれ自らにある正義によって争いが続き、その正義のせいで人を傷つけている現実があるのに、それでもやめることができない。しかし、「正義」を貫くことによる争いから、別の方向性の可能性への気づきを、主イエスはわたしたちに思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 喩の読み手であるわたしたちは兄の側なのか弟の側なのか。実はどちらも、わたしたちの姿ではないかと読めます。他人ではなく兄弟という設定が、同根の存在、分けきれないもととして示しているように思えます。「わたしたち」の「今」とは、兄の立ち位置でもあり、弟の立ち位置でもあるのでしょう。主イエスにおける憐みにおいて、自らの意思に逆らいながらも信じて従う行いへと招かれている存在であり、同時に自らの「正義」に囚われて自由になれない存在でもあるのではないでしょうか。そして、相当困難ではありますが、兄でもあり弟でもありうるのだという自覚を持ち、常に自分の立ち位置を確かめていくことが必要だと思われます。

2022年2月 6日 (日)

マタイによる福音書 20章1~16節 「こんな世界観もある」

 今日の聖書のテーマは、「同一労働同一賃金」とは全く別ののあり方を示します。ぶどう園の主人が朝6時に11デナリオンの約束で労働者を雇い、その後9時、12時、3時、5時にもそれぞれ人を雇った。仕事が終わると全員に1デナリオンずつ払ったという有名な話です。おそらく最も頑強な人から雇われていき、一日中仕事を待ち続け、最後に雇われた人は弱々しく、あるいは高齢だったのかもしれません。この人たちにも生活に必要な額が支払われる。それが神の国なのです。

 井出英策という経済学者がベーシックサービスということを提案しています。消費税を増やしてでも財源を税に置くことにより、ベーシックサービスとして、教育・医療・介護などを全て無償化できるとの考えです。命や暮らしにダイレクトに関わるサービスを全ての人に無償で提供して、生活を保障し、将来の不安を取り除く。その代わりしっかりと税金を取る。貧しい人も含め、みんなで負担を分かち合う。貯蓄ゼロでも不安ゼロ、弱者を助ける社会から弱者を生まない社会に変える。これがベーシックサービスの考え方です。財源については、多額の税収をもたらす消費税を中心に、多様な税の組み合わせを考えるべきだと言います。

 たとえば、三種類の年収の人を例に挙げます。Aさんが年収200万、Bさんが年収600万、Cさんが年収1000万とします。このままだと年収の格差は、Aさんを1とするとBさんは3倍、Cさんは5倍となります。全員に25パーセントの税金をかけると、それぞれ50万、150万、250万で、税収は450万になります。これを現金ではなくサービスとして150万円ずつ均等に配るという提案です。そうするとAさんは150150300万、Bさんは600万、Cさんは900万となり、格差は、それぞれ2倍、3倍となります。住民にとって必要なものは住民みんなで負担しあい、全ての住民に給付するという構想です。貧しい層も税を負担し、富裕層もサービスで給付を受ける。Bさんは、いわゆる中流層で圧倒的多数です。このBさんがCさん側に立ってAさんへの給付に不満を持つ今の制度と違って、Bさんが不満を持たずにAさん側に立つことができれば、世界は変えていける。そしてベーシックサービス政策なら、それが可能だと。

 このように主張する井出英策の理解の方向性は、ぶどう園主人のたとえで語られている主イエスの示す世界観を現代的な世界観に転じてく可能性として読み取ることもできるのではないでしょうか。

2022年1月23日 (日)

マタイによる福音書 18章21~35節 「自分を見つめ直してみれば」

 何回赦せばいいのかについてペトロは7回でいいのかと主イエスに問います。主イエスは、その70倍をと答えます。「7」は「何度も」を意味する完全数ですから、ペトロという人間の側から精一杯の「赦し」の意気込みを表します。しかし、主イエスは、そうではなくて人間では計り知ることのない、限界が突破されている「赦し」を語るのです。このあり方こそが赦しの事態なのです。一切の条件付けから自由にされて、人が今ここで生かされてあることいることを、主イエスは生き方すべてによって知らせたのではないでしょうか。この、底が抜けるような主イエス・キリストの赦しに与っているという事実からこそ、初めて自分を見つめ直すことができ、そこから他の人に対する「赦し」の姿勢が整えられるはずだというのが今日の聖書のテーマであるように思われます。まず、主イエス・キリストの底が抜けるような赦しの事実に与ることなくして、他の人に対する「赦し」や「赦し合い」は起こりえないのだということです。中心はまず、主イエス・キリストという「赦し」としての神の意志にあるのだということです。

 しかし、それでも人間の実際はそんなに神の思いを真っすぐに受け止めて理解していないのです。そのことを畳み込むようにして23節以下でたとえが語られているのです。人間の現実は、このように罪の赦しが「借金の帳消し」として語られています。

 主イエス・キリストの「赦し」に与っているゆえにこそ、他の人に対する接し方が整えられる方向があることが知らされます。このように定められていれば、他の人に対しても、あの人もまたわたしと同じように主イエスによって無条件の「赦し」に与っていることへと気づきが与えられるのです。そうすれば、接し方が変わって来るのではないでしょうか。ただ、ここでの他の人に対する「赦し」とは、なあなあの関係にしてしまうことや問題点を不問にしてしまうことではありません。同じように主イエス・キリストの「赦し」のもとにある者同士であること、しなわち「対等」であることから接していくことができるようになるということです。上下関係や力関係ではなくて、事柄における平等さにおいて自由に対話していけるということです。相手の存在自体が主イエスによって無条件に認められているお互いであることを前提にしていけるということです。主イエス・キリストの「赦し」のもとにあるがゆえに、他の人に対して、どうしたらいいのか、という課題の前での基本的な態度が整えられていくのではないでしょうか。

2022年1月16日 (日)

マタイによる福音書 13章51~52節 「古いもの・新しいもの」

 聖書の解釈には完全な正解が存在せず、「とりあえず」という限界があります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。】と51節にありますが、続く物語において主イエスの逮捕から十字架刑の場面では逃げてしまったことからすれば、弟子たちの「分かりました」という言葉の疑わしさを否定することはできません。しかし、「分かりました」と言えるに至ることの限界を知りつつ、信じることと聖書から学ぶことをより深めていきたいのです。

 聖書を自分で読んで学ぶことへの提案というかお誘いとして、今日の聖書を読むことができるのではないでしょうか。現代社会に暮らすわたしたちは一人静かに聖書と向かい合う時間を持つことは難しいかもしれません。それでも、聖書に向かい合い、そこから示される主イエス・キリストの言葉と出会いたいと願うのです。伝えられた良き知らせとしての神の言葉は、わたしたちに向かってすでに語られています。わたしたちは、それを開かれた聖書として受け止め、これに応えていく態度であればいいのだと思います。

 聖書は、細かく読んでいくと矛盾だらけで統一観などありません。だから解釈に幅が出ます。聖書は信じるものであって批判的に解釈したり学んだりするものではないという意見も少なくないことは承知しています。しかし、福音書の主イエス自身、旧約聖書を批判的に読んでいたことが山上の説教の態度から分かります。「あなたがたも聞いているとおり、〇○と命じられている。しかし、わたしは言っておく。」という仕方で神の思いを展開されたのです。この主イエスの旧約に対する態度は、わたしたちが聖書を読む方向を示していると思われます。

 この主イエスの態度から今日の聖書を読むならば、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」が示すのは、古いものは価値ありとか新しいものに力があるとかいう頑なさではなく、もっと自由で、より豊かな生き方で聖書に向かう、ということではないでしょうか。マタイ福音書が言いたいことは、旧約の流れを引き継ぎながら自由に喜ばしく、聖書に親しみながら歩む人生っていいものだ、ということかもしれません。わたしたちも、柔らかい心と体で聖書に向き合い、そこから示されていきたいと思います。

2022年1月 9日 (日)

マタイによる福音書 13章44~46節 「人生の価値」

 「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」とあります。「宝」と「真珠」はいずれも非常に価値の高いものとして引き合いに出されており、すべての人間が買い取られている状態が天の国のたとえとなっています。イエス・キリストという代価をもって神はわたしたちを買い取ってくださるのだと語りながら、すべての人間が「宝」であり「真珠」であると読み手に伝えたいと願っているのです。つまり、見出される人間の人生の価値の素晴らしさを述べているのです。

 イエス・キリストは、祭司長や律法学者たちからすれば銀貨30枚の価値しかないと判断されたのですが、神は、このイエス・キリストをもって、すべての人間を買い取る代価とされたのです。値段のつけられないほどの贈り物として十字架の出来事によって罪の赦しというとてつもない贈り物を差し出したのです。わたしたちの存在すべては神の所有とされているのですから、神はわたしたちが神の思いに生きることを求めておられます。

 このイエス・キリストにおける神の思いを受けて歩むことは、パウロの生き方と共鳴しています。神から買い取られた人生を神にささげつつ全生涯を賭けることには価値があるからです。取るに足らないわたしたちが、すでに「宝」や「真珠」のような価値ある人生を歩んだキリスト者たちの歴史は2000年来続いており、わたしたちも教会を通じて連なっています。この代表の一人としてパウロの自覚に従えば、コリントの信徒への手紙一 6章20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」となります。わたしたちは、イエス・キリストが代価を支払ってくださったがゆえの「宝」であり「真珠」として、立たされています。この促しに応えていくことは信じ従うことに他なりません。

 イエス・キリストの尊さについて言い尽くすことは人間には不可能です。お金で換算することなどできません。このイエス・キリストによって買い取られたすべての人間の人生は、パウロにおいてそうであったように教会の内側だけに留められているだけでは不十分です。信じ従う中で、新しい出会いを求めていく歩みへと導かれるものだからです。

2022年1月 2日 (日)

マタイによる福音書 13章24~30節 「待つことを学びつつ」

 天の国のたとえ話です。良い麦の種を蒔いたところ、芽が出て成長すると毒麦も現れた。敵がこっそり毒麦の種を蒔いていったからです。毒麦を抜き集めましょうかと問う僕たちに主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と答えたとあります。

 聖書の言いたいことは、教会内の相手に向けて安易に善悪を判断することはやめておこうということです。その人が善であるのか悪であるのかの判断は、そもそも人間のすることではないということです。もちろん、人ではなく悪事に対して正したり修正したりすることは必要です。しかし、それでも善悪の判断の前提とされている考え方の物差しが間違っている可能性もありますから注意が必要でしょう。その時々の風潮や力ある人たちに対する忖度の問題や長いものに巻かれろ式の判断も働くことがあるのです。ですから、早急に判断するのではなく、神の語りかけを待つことを学ぶ必要があります。このことは単に何もしないことではなく、無関心とも違います。察し、考え続けることが必要です。イエス・キリストを根拠にして、教会における関係性において安易に善悪を判断しないようにとの警告として受け止めることができるように思われます。それは、社会における関係性の判断にも広がりゆくものです。

 教会に集う一人ひとりも、育ちゆく麦と同じように生きており成長を続けています。この成長が主イエス・キリストの言葉に促され導かれているのかを絶えず確認していくことが大切です。早期に毒麦を見つけて排除するよりも、お互いの成長を待ち合う態度を失うことなく歩む教会でありたいと思います。ここに教会が立ちもすれば倒れもする重大な事柄があるのだと今日の聖書は告げているのではないでしょうか。神に任せるべき事柄と人間の分を弁えることの区別をきちんと行うことのできる知恵を祈り求めたいと思います。簡単・便利を追求する現代にあって、「待つ」ことはなかなか困難です。一度立ち止まれとの促しのもとで、待つことを学ぶことには根気、忍耐が必要です。しかし、主イエスの言葉から離れることがなければ成し遂げられるのだと信頼していくことによってなされるのだとの読みもできるはずなのです。

2021年12月24日 (金)

マタイによる福音書 1章18~25節 「イエスはここに」

 天使が夢でヨセフに現れて、「マリヤが男の子を生む。イエスと名付けなさい」また「その名はインマヌエルと呼ばれる「神は我々と共におられるという意味である」と語られています。名前はイエスなのだけれども、その中身にはインマヌエルという意義が込められているということになります。イエスにも意味があります。「神は救い」という意味です。神の御子がイエスでありインマヌエルであるということは、神は我々と共にいる、それが救いなのだということです。

 イエスの説教を聞いていた人たちの多くは、社会的な弱者でした。当時のユダヤ教の掟を守れない・守らないがゆえに「罪人」として断罪されていたり、軽蔑され抑圧され差別されていた人たちでした。主イエスは、今、生きていること自体が重荷であり苦痛であり、つらさの極みへと強いられた人たちのいのちこそが、一切の条件なしにそのままでOKとされているのだとの宣言を行ったのです。本当の友となり仲間となることを、神が共にいることの実践としてなされたのです。病気の人を癒し、貧しい人や孤独な人と一緒に食事をしました。生きていることはそれだけで神からの祝福なのだから、そのことをお互いに喜び合う、そのような生き方へと導くものでありました。

 当時は極めて格差社会であり差別社会でしたから、水平社会を目指すイエスは宗教的権力者たちやローマ帝国の勢力から、危険人物だとされたのも当然のことです。イエスの姿勢は、人のいのちを圧迫する勢力に対して抗うことになり、結果十字架刑に処せられることになったのです。しかし、殺されても三日目によみがえり本当の救い主として立ち続けておられる方が、イエス・キリストなのです。

 マタイによる福音書の最後は「 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で締められています(28:20)。誕生から復活後まで、イエスは共にいてくださることを貫かれていきます。誰一人として孤独のままで捨てておくことはなさらないのです。わたしたちが、いつどこにいようとも、またどのような状況に置かれていようとも共にいることを決してやめることがないのです。わたしたちが自覚するとかしないにかかわらず、一緒にいることを祝福しつつ喜んでくださる方です。今のあなたがそのあるがままの姿でOKだと宣言し、受け入れてくださったのです。このことを事実として受け止めるのか拒むのかは自由です。しかし、それでもイエスは今年も、わたしたちと共にいてくださることを目指して生まれてくださるのです。ここにイエスはここに確かに臨んでおられることを喜ぶクリスマスの祝福があることを信じましょう。

2021年10月24日 (日)

マタイによる福音書 12章43~45節 「信仰は窮屈なのか」

 43節は「汚れた霊は人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。」とあります。追い出された汚れた霊は、ほかの棲家が見つからず、結局戻ってきます。すると、44節後半「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた」ので、45節後半「出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」とあります。追い出された汚れた霊は仲間を連れて、元の棲家に無事に戻ったというのです。

 この話にわたしは、主イエスのユーモアを感じます。信仰のあり方に対して、もっとおおらかであっていいのではないかと、ファリサイ派や律法学者のあり方に対して皮肉をもって応答しているからです。家を徹底的に綺麗にすれば、汚れた霊にとって快適に住むことができるようになる。つまり、それよりも、自分の中のまがい物の「基準」や「正義」を振りかざして「掃除をして、整え」た「空き家に」は、汚れた霊をたくさん招き寄せてしまうことになるのです。自分たちを顧みて、心を委縮させ窮屈な生き方を強いるのではなく、もっと自由でしなやかでしたたかで温かいあり方。生きていることがそのままで喜ばしい、そのような信仰のあり方へと促し、導くことを語っているのではないでしょうか。

 汚れた霊とは、その人や社会や国が、彼らの中にある独善的な「基準」や「正義」の追求によって綺麗にするところに招き寄せられて増殖するのでしょう。神によって祝福されている人間のいのちの事態を軽んじ、押しつぶしていくものです。これに抗うことが、主イエスによる、いのちの取り戻しとしての汚れた霊や悪霊を追い払うことだったのではないでしょうか。

 追い出された、汚れた霊や悪霊の働きは、住み家である人間を探し続けて、隙を窺っているのです。必要なのは、隙を見せない生き方への迫りではないでしょうか。これは、綺麗に掃除された家の世界観や社会観とは全く別の方向に向かう生き方です。わたしたちは、社会から強いられた「基準」や「正義」から自由だとは言えないかもしれません。違いを見極めるためには、絶えず主イエスこそが、神がわれらと共におられるというインマヌエルの事実からのみ発想する態度が求められているのではないでしょうか。軽やかやユーモアを忘れず、この時代の不正義に抗いつつ呻くことがあったとしても大丈夫なのだとの信頼のもと歩みたいと願っています。

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