マタイによる福音書

2023年11月12日 (日)

マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」

~子ども祝福礼拝~

 主イエスの語る、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とは、どういうことでしょうか。この世界の初めは神さまが創りました。初めがあるなら終わりもあるはずです。その終わりがいつになるのかは誰にもわかりませんが、その時まで主イエスはずっと一緒にいてくださるのだというのです。今生きている人の中で、主イエスを実際に見たことがある人は、誰もいません。でも、教会は見えない主イエスだけれども一緒にいてくださるのだと信じています。

 主イエスを見ることはできません。でも不思議な風が働くところにはどこにでも主イエスは一緒にいてくださるのです。あなたとわたしの間、友だちや家族などとの間で、嬉しいことでも悲しいことでも、どこかで心が通じ合っていたり、心を寄せているところにはどこにでも、です。主イエスの願いはすべての人に「幸い」という祝福が届けられていくことです。「幸い」が届けられるのは、ただ自分にとって都合の良い「幸せ」を感じているところだけではありません。食べるものがないところ、怪我や病気などとてもつらいところ、主イエスの願いが届けられているなんて信じられないところにまで届いていく、不思議な風のような聖霊の働きによって主イエスはいつも一緒なのです。

 この主イエスは今日もまた、わたしたちと一緒にいてくださるのです。そして、わたしたちという顔見知りの人たちの間にだけではなくて、まだ会ったこともない世界中の人たちと心がつながっていく道があるのだとも信じることができるのです。主イエスの願っている本当の「平和」を願い、祈り求めていこうとするところには、もうすでに主イエスが待っていてくださることを信じることができるのです。

本当に悲しいことですが、今、世界は「平和」ではありません。そして、わたしたちも毎日がうれしくて楽しいことばかりではありません。けれども、主イエスは世界中で起こっていることや、わたしたちの毎日を全部見守っていてくださるのです。そして、人と人との間に一緒にいてくださるのです。

 わたしたちは毎日の生活の中で「神さまがいつも共にいてくださる(インマヌエル)」ことを忘れてしまいがちです。だから、「インマヌエル」を繰り返し、安心を取り戻すのです。今日は子ども祝福の礼拝ですが、「祝福」というのは、この「インマヌエル」を心と身体の隅々にまで行き渡らせることです。神としての主イエスが、聖霊として、見えないけれども今も生きて働いていてくださるのです。

2023年10月29日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「街の教会」

 主イエスは、「地の塩」「世の光」「である」とわたしたちに向かって断言されています。これは、驚くべき言葉です。いったいわたしたちに何の資格や能力、この世に対して働きかける言葉や力などがあるというのでしょうか。自らを省みれば何の取柄もないと言うしかないのではないのではないと思えます。今あるがままのわたしたちの姿を主イエスは「地の塩」「世の光」「である」との言葉は、つまりは、わたしたちの能力や努力によっているのではないことを潔く認める必要があるということだろうと思います。「塩」であることも「光」であることも、いずれにせよわたしたち自らを根拠にした言葉、宣言ではないのです。主イエスが語っているがゆえにこそ、その根拠があります。

 今日の午後、わたしたちはバザーを開催します。わたしたちが、この街の中にある暗い部分に対して「塩」としての役割を担うことや、「光」としての働きによって何かしらの問題解決や暮らしやすさの一端を担うことなどはできないかもしれません。しかし、それでも「ここに教会がある」のだと、バザーを行うことによって少しばかり示すことはできるのではないでしょうか。小さな交わりの業かもしれません。ささやかな働きなのかもしれません。16節には「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあります。もちろん、わたしたちのバザーが普通言うところの「立派な行い」だということではありません。しかし、長い目で見れば「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」道は決して閉ざされてはいないことを信じることはできます。そして、そのことが「天を指し示す」すなわち「立派な行い」になっていくのです。

 ここに教会があり、この教会は「地の塩」「世の光」「である」との宣言による委託のもとで歩んでいることの証しに少しばかりでも参与できたなら、大成功と言ってもいいのではないでしょうか。教会は、主イエスにあって神を愛することと隣人を愛することを教えられています。そのあり方が「地の塩」「世の光」「である」と受け止められるところなのだとして、「ここに教会がある」ことを恵みとして受け止めたいのです。

2023年10月 8日 (日)

マタイによる福音書9章9~13節 ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節 「聖マタイの召命」角川太郎神学生(農村伝道神学校)

 本日は上大岡教会にお招きいただき誠にありがとうございます。農村伝道神学校2年の角川太郎と申します。神学生や牧師を目指している方は召命感を問われる機会が少ないと思います。

 では召命とは一体何なのでしょうか。召命について、16世紀のバロックを代表する天才画家カラヴァッジョが描いた「聖マタイの召命」を通して、皆さまと一緒に考えてみたいと思います。本作は、本日の聖書箇所マタイによる福音書9:9-13の一場面です。みすぼらしい服装をした素足のイエスと聖ペテロが右側から近づいてきます。中央に腰掛ける三人の男性は、イエスがやってきたことに気づいていますが、左側の二人の男性は気づかずにじっとお金を勘定しているようです。これは、徴税人であったマタイのもとにキリストが現れ「私に従いなさい」と言った瞬間です。

 この作品に関して、美術研究者の間で常に論争になっています。それは、一体誰がマタイなのかという問題、いわゆる「マタイ論争」です。絵の中央に位置する「私ですか」と自分のことを指さすようにみえる中年の髭の人物がマタイか、それとも左側に位置する一心不乱にお金を数えている若者がマタイか。皆さまは、どちらがマタイだと思われますか。

 イエスは、中年の髭の男性、あるいはお金を数えている若い男性のどちらかを指差したのではなく、その場所にいた全員に指差していたのではないでしょうか。

 イエスの公生涯を通してみると、イエスは、当時のユダヤの規範に反して、さまざまな人々、例えば罪人、病人、異邦人、女性たちとの境界線を越えて共にいてくださいました。すなわち、イエスは、徴税所にいた全員を招いてくださった。それに気づいて応答して立ち上がったのはマタイだけだったと思います。召命というと、特別に選ばれた者というイメージがありますが、実は、全ての者が招かれていて、それに気づいた、気づいてないだけなのではないでしょうか。私には、そう思えてならないのです。

 選ばれたという感情は、時に人を傲慢にしてしまう。選ばれたのではない、主の招きに気づいただけという気持ちで、驕ることなく謙虚に、マタイ福音書における神への愛と人への愛に生きることをいつも心にとめていたい。

 そのような心があれば、そしてマタイのように呼びかけに、少しでも多くの人々が応答して立ち上がってくれれば、世界の争いによって、嘆き悲しみ小さく弱くされた者を少なくすることができるのではないでしょうか。誰もが徴税人、誰もがマタイになれる。そのような世界が来ることを、心よりお祈りいたしましょう。

2023年4月16日 (日)

マタイによる福音書 28章16~20節 「世の終わりまで」

 主イエスの愛によるへりくだりと謙遜は、インマヌエル・神は我々と共におられる、ということです。このことを根拠にして「わたしは世の終わりまで」という約束のうちにわたしたちは歩んでいくのです。それは、生前の主イエスの生き方や言葉に倣う生き方を選ぶということです。主イエスは、他者に仕えるというへりくだりと従順において自らを捨てていく主イエスなら、今わたしのいる立ち位置でどのような判断をし、行動するのだろうかと思いめぐらせながら歩むことです。それは聖書と祈りによって導かれてのことです。このような生き方が広い意味での「弟子となる」ことです。そのようにして、人と人との支え合いとしてのつながりは、共にいてくださる主イエス・キリストによって守られているのです。復活の主イエスは、いついかなる時も共にいてくださいます。今は直接見ることも触れることも許されてはいません。ただ、聖書の証言する生前の主イエスの言葉と振る舞いとしての教えを今のこととして、すでに共にいてくださる主イエスの聖霊の導きがあるのです。

 讃美歌21533番に『どんなときでも』という題の歌があります。こんな歌です。

1 どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。

2 どんなときでも、どんなときでも、幸せをのぞみ、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛があるから。

 この歌をわたしは実はあまり好きではありません。つい、くじけたっていいじゃないかと思ってしまうのです。しかし、作詞者の高橋順子さんが骨肉腫との苦しい闘病生活の中で7歳という短い生涯を終えて天に召されていく途上での言葉であったことを知り、少し印象が変わりました。くじけそうになる小さな子どもが必死に主イエスの愛に生きようとする姿があることに気づかされたからです。

 「世の終わり」とは、文字通りには「この世の終わり」を意味します。しかし、わたしたちのこの世でのいのちの終わりであると読むこともあながち間違いではないかもしれません。この世の後のいのちにおいても、もちろん、主イエスは共にいてくださるのでしょうが…。

 わたしたちもまた、それぞれの重荷を抱えており、人知れず涙し、自らの弱さにくずおれることもあるでしょう。しかし、そこにこそインマヌエル・神が我々と共におられるという事実に立つ信仰者としての新しい歩みを求ましょう。

2023年3月26日 (日)

マタイによる福音書 27章32~44節 「十字架の上で」

 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」。罵りと軽蔑の声が主イエスを取り囲みます。主イエスは十字架の上にいるままです。十字架から降りなかったのは、あえてしなかったのではなくて、実際にできなかったのです。これはつまり、できないほどにまことの人間になっていたからです。これほどまでに神の人間性を貫かれたのです。

 ここには、共にいようとするインマヌエルという意志が貫かれているのではないでしょうか。十字架上での弱さの極みにある姿こそが「インマヌエル=神は我々と共におられる」を思い起こすことへと導くのです。

 主イエス・キリストは、呪われ殺されていきました。この主イエス・キリストに躓くのか信じるのかが、わたしたちに向かって問いかけられているのです。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。

 悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による死によって、その死の姿からいのちへの招きへと逆説的に祝福へと招かれている事実に立つところに、わたしたちは今、生かされているのです。

 パウロは、Ⅱコリント134で次のように述べています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

 主イエス・キリストは、あの十字架の上でまことの人としての弱さの極みにおられます。その十字架が、わたしやあなた、そしてわたしたちと共にいたいという願いであり、その実現であるということを心に刻み、インマヌエルが十字架においてなされている事実を感謝したいと願います。低みの極みとしての十字架において、すべての人間の逃れられない闇である根源的な「罪」を主は担っているのです。このことを貫くことによって、わたしたちが水平な関係としての仲間になる、ということが事実なされたのです。

2023年3月19日 (日)

マタイによる福音書 26章69~75節 「ペトロの涙の味」

 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と語ってからそれほど時を経ず、ペトロは大祭司カイアファの屋敷の中庭で、「一人の女中」「ほかの女中」「そこにいた人々」から次々に、あのガリラヤのイエスと一緒にいた人だと指摘されます。指摘される度に「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言い、「そんな人は知らない」と「誓って打ち消した」さらには「呪いの言葉さえ口にしながら」とあります。ここにはペトロが主イエスを知らないという言い方や態度がより強く、より激しくなっていくことが読み取れます。

 「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との主イエスの言葉を思い出して「外に出て、激しく泣いた」のペトロの涙の味はどのようなものであったのかを思うのです。味としては客観的にはそうでしょう。知らないと言うだろうと予告した「イエスの言葉を思い出した。」とあるのは、その言葉それ自体のことに留まらず、かつて共に過ごした活動の日々、さらにはその場の空気感や雰囲気、一緒にいるという喜びや充実感や感謝や祈りやつながり、自分が見守られている平安。これらが一気に押し寄せてやってきたのではないでしょうか。しかし、これら自らの存在根拠が破れてしまったのです。自分の愚かさとか弱さに対する後悔とか無念さしかありません。一人の破れた惨めな姿です。主イエスを知らないと言ってしまうことは、どのように言い繕ったとしても取り返しのつかない出来事です。豊かな日々を自分の弱さで台無しにしてしまったという慙愧の念。それが涙の味になってしまっていたのではないでしょうか。ペトロは泣く度に、この自分の弱さを味わってしまう。しかし、復活の主イエスと出会うことによって、さらにそこに喜びと感謝の味が加わっただろうことが、後のペトロの様子から伺われます。

 ペトロの姿は、わたしにとって他人事だとは思えません。このペトロの「知らない」という姿に示される弱さや惨めさは、ペトロと何が違うのかと問いかけ迫って来るのです。しかし、涙の味はペトロが自らで捉え返していくことによって、悲しみや後悔や懺悔から復活の約束において喜びに向かう感謝の涙に変えられていく希望を知らされるのです。この意味において赦されてある存在であることは揺るぐことはないのです。

2023年3月12日 (日)

マタイによる福音書 26章47~56節 「友よ」

 主イエスはゲッセマネの園の祈りにおいて、自らの逮捕に対して腹を括っていたのです。2642節の言葉にあるように、です。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」。この「あなたの御心」から照らすと、ユダに対する主イエスの態度が分かってくるのではないでしょうか。

 ユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と主イエスを捕えようとする人たちに示しました。主イエスがユダに語る「しようとしていることをするがよい」との言葉を支えているのは「あなたの御心が行われますように」というゲッセマネの園の祈りでの決意です。ですから、ユダに「友よ」と親しげに語りかけることができたのです。ここには、裏切りに溺れてしまっているユダに対する哀しみが込められていたのかもしれません。十字架への道行きという運命に直面しながら、裏切りという仕方で振舞うユダに対しても「友よ」と呼びかける懐の深さと愛とを思わずにはいられません。

 しかし同時にユダの心の奥深く、本人さえも気が付かない深みまで見通す愛があったのではないでしょうか。

 この主イエスの「友よ」という呼びかけの言葉は、ユダにだけ語りかけられている閉じられたものではありません。手下を切りつけた弟子にも届けられているでしょうし、後に主イエスを知らないと誓うペトロも含め、その場にいた主イエスを取り囲む仲間たちにも広げられていたのかもしれません。決してあなたを見捨てることはしない。どのようなことがあろうと、あなたはわたしにとって「友」なのだとの主イエス・キリストの決意がここにはあるのではないでしょうか。「あなたの御心が行われますように」とは、主イエスの祈りの中で与えられた生き方であり、死に方です。このような方向で「友よ」との呼びかけは、単なる言葉上のことではなくて実を結んでいくものなのだと、ご一緒に確認しておきたいところです。この「友よ」との呼びかけが、ユダだけではなくて、今もわたしたちのところに届けられていることを感謝のうちに受け止めたいと願います。ユダは主イエスに覚えられていることによって救われています。そしてさらに、主イエスの「友よ」という呼びかけが、憎しみ合い敵対する世界中に起こっている悲惨に向かっても届けられ、その働きの終わることのないことを信じたいのです。

2023年1月22日 (日)

マタイによる福音書 4章23~25節 「教会の働き」

 教会とは、礼拝に集められることが働きの目的すべてではありません。これだけでは不十分です。送り出し・派遣に与ることへとつながるのではければ不十分です。証しの歩みにこそ、教会の働きの使命があるからです。キリスト者であることとは、ただ単に洗礼を受け、聖餐にあずかり、礼拝において神の御言葉を聞くことに留まらないのです。受けることによって、証しの現場へと送り出されること・派遣されていくときにこそキリスト者になり教会になっていくのです。

 主イエスの教えと奇跡によるいやしを今のこととして捉えなおしてくことが、その時々の教会のテーマとなります。現代の教会にこれを大まかに当てはめると、礼拝において語られた事柄をこの世に向かう奉仕の力とするという流れになろうかと思われます。この場合の「奉仕」とは「ボランティア」のような狭い意味ではありません。社会への向き合い方と言ったらいいでしょうか。礼拝において聖書に証言されている主イエス・キリストの御言葉に聴くことによって自らが整えられる必要があります。主イエスによって受け入れられ祝福されている事実に巻き込まれてしまっていることを受け止め直すことです。「幸い」の祝福にあって、「地の塩」「世の光」として証しへと歩みだすことです。上大岡教会の礼拝の最後に「派遣」があります。「わたしは誰をつかわすべきか。だれがわたしと共に行くだろうか。」との問いに対して、「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。」と応答し、祝福を受け、歩み始めることです。

 このことを福音書は、奇跡によるいやしの物語として表現しているのです。わたしたちは古代の世界観で奇跡によるいやしの物語と表現されていたことを現代に応用していく必要があります。確かに、これは奇跡なのではないのかと思えるような経験をすることも全くないわけではありません。神秘体験をする人もいるかもしれません。しかし、多くの人の場合は違います。日常の平凡な暮らしの中で、主イエスであったら、このような場面でどうするだろうか、どんな言葉を発するだろうか、どのような判断や決断をするのだろうかと思いめぐらせながら、その時々の判断を信仰に応じて選び取っていくこと、その時に働く力が奇跡なのです。わたしたちは礼拝から押し出されることで奇跡の力を得、その力の恵みの中で社会と向き合う時、そこにいやしが起こされるのです。

2023年1月15日 (日)

マタイによる福音書 4章18~22節 「人間をとる漁師」

 主イエスに招かれた人たちは、必ずしも模範的で立派な人格であったわけではないのです。むしろ、主イエスの真心から離れてしまうような鈍い心根から自由でなかったことが分かります。しかし、この人たちが主イエスから呼ばれ、招かれ続けていた事実は揺らぐことがありません。主イエスの逮捕に際して逃げ出すような見苦しさからも、また他の弟子たちよりも自分たちが優っているという思い上がりからも自由ではありません。彼らが主イエスを見捨てることはあっても、この人たちは、主イエスから見捨てられることはないのです。主イエスは、弟子たちの混乱や迷いにもかかわらず、一貫して愛することをやめないのです。この弟子たちへの思いを、復活の後に彼らは気付かされ、自らの裏切りを思い知らされるところから立ち直り、自らの現場であるガリラヤへと立ち返る勇気と希望が与えられたのです。この弟子たちへの主イエスの思いは、現代の弟子たちであるわたしたちへの思いと変わることはありません。主イエスは、誰であれ、どんな人であれ、その人の丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に受けいれ、肯定し、赦し、愛し続ける方なのです。

 この主イエスは、直接の弟子たちだけではなくて、様々な弱りや病、苦しみや悩み、悲しみの中にある人たちと、どのような場でどのように出会ったのか、またどのようにして生き直しを促しながら一緒に生きることを志したのか、を今のこととして捉えなおすときには、主イエスは時代を越えて過去の人ではなくなるのです。今、確実に復活者として生きている人であることが確認されるのです。わたしたちが、自分のことを顧みるならば、こんな時にはイエスならどうするのだろうとか、あの人やこの人の仕草や口ぶりの中に主イエスの影を見るような感覚を覚えるとか、今のこととしての主イエスを身近なこととして捉えることができる瞬間ってあると思うのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスは、活動の最初に4人の漁師たちを招きました。重要なのは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の促しによって、それぞれの場で知恵を働かせ、工夫や創造によって、より人生の質を高めていくような人間関係を作り出していく方向に招かれていることを信じていくことです。より幸せな道、生きていることの幸いに生きることとはどのようなことなのかを絶えず主イエスにあって確認し、実践していくことに他ならないのです。この道への招きが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の意味するところです。

2023年1月 1日 (日)

マタイによる福音書 4章12~17節 「天の国は近づいた」

 教会が起こされて以来の2千年間、人間の世界は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」であり続けたとしか理解できないほどの歴史なのだということを、いわゆる「世界史」、もっと狭く捉えて「教会史」において思い知らされ続けていることは否定できません。わたしたち自身の、そして歴代の教会の無力さを突きつけられることも少なくありません。しかし、それでもわたしたちはクリスマスの祝福における「すでに」を手放すことなく、完成していない神の国を待ち続ける「いまだ」という現実の中で、あえて希望することが赦された存在であることを確認しておきたいのです。

 「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの出来事はクリスマスによって指示されていることを思い起こしたいのです。「すでに」とは「大きな光を見」ることであり、「光が射し込んだ」事実を示します。この「すでに」と「いまだ」という「教会の時」という緊張関係を支えるのは、「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に他なりません。この事実は、マタイによる福音書の終わりの部分である、2816節以下で確認することができます。このようにあります。【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】「すでに」語られた主イエスの言葉に生かされながら、「いまだ」という「教会の時」を歩み続けなさい。そこに主イエスが共におられるのだから、不安や恐れや脅えが起こったとしても、支えと導きがあるのだとの固い約束がある、ここに希望をつなぐことが赦されているのです。キリスト者とは、「すでに」と「いまだ」との間の緊張の中で「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に生かされており、その責任ゆえの正義を求めていくものです。主イエスとしての「天の国は近づいた」という現実に支えられて「悔い改めよ」という方向に招かれていることを今日はご一緒に確認したいと思います。

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