マタイによる福音書

2024年11月17日 (日)

マタイによる福音書 6章5~15節 「祈るときには」

 主イエスは、今日の5節から8節ではファリサイ派や律法学者たちを念頭に置いた「偽善者」という言葉を使いながら、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」と批判します。また、「異邦人」という言葉で、荒っぽい分類だとは思いますが、当時のユダヤ教以外の宗教全般を念頭に置いて「くどくどと述べてはならない。」「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」と批判しています。これらの祈りのあり方について細かな説明は省略しますが、要するに「人に見せつける祈りの態度」が問題視されています。目立つ場所で、大袈裟な仕草、いかにも自分が立派な信仰者であるかのようにして朗々と美しい言葉で歌うようにして祈る思い上がりや傲慢さがあるのだと指摘します。言葉を数多く連ねて自分の我を神に対して押し付けるようなこともあるのだというのです。この、「人に対して見せつける祈り」は、この行為自体が目的となっており、神に対して正直で自らの弱さをさらけ出すような、切なる言葉で祈る態度は感じられません。この箇書を読めば、普通に納得できることでしょう。そういうわけなので、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と続けられます。

 しかし、ただ、この「人に見せつける祈り」の問題性は、実際の「会堂や大通りの角」という場所の問題に留まりません。「奥まった自分の部屋」という密室での一人だけの祈りにおいても全く問題なしとは考えられないからです。どういうことかと言うと、そこでは「人に見せつけて」はいないのかもしれませんが、「自分に見せつけている」可能性があると考えるからです。つまり、信仰的な確信とかを自ら作り上げて見せることを自分に対して行ってしまうこともあり得るからです。乱暴な言葉で言えば、自分の信仰的な確信をさらに深めるようにして、自己陶酔していく、信仰において独りよがりで我儘で自分勝手な祈りにとても近づくからです。「人に見せつける祈り」も「自分に対して見せつける祈り」、このどちらからも自由になっているのかを自己検証する必要があるのではないでしょうか。

 キリスト者の祈りは、主イエス・キリストを通して神に対して自らの言葉をもって向かうことです。祈りとは、すでに神によって知られ、受け止められている現実に対して、自分の位置やあり方を自分の言葉で訴えることで、自分のあり方や考え方が修正され、時には訂正されていく道でもあります。何でも自分の願いを正直に祈りとして述べるべきです。それが、自分勝手な我儘であったとしても。祈りが深められていくときには、神の側からの導きにおいて修正や訂正が与えられるはずなのです。

2024年8月25日 (日)

マタイによる福音書 16章18~20節 「心を一つにして求めるなら」 原 直呼

 「19…どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」の最後は、本田哲郎訳も田川建三訳も「わたしもその中にいるからである。」となっており、主イエスが真ん中にいてくださるからこそ、わたしたちは心を一つにすることができるし、そのようにして求めることを神はかなえてくださるのだと読めます。ただ「あなたがたのうち二人が」は、その後の「二人または三人」からも、二人から広がっていくものと考えられます。

 また、本田哲郎神父は「心を一つにして実行に移すことは」と訳しています。実行が伴ってこその祈り。ただ、「実行に移す」ことは必ずしも「みながそろって行動を起こす」こととは限らないと思います。様々な事情で「共に行動する」こともある。行動を起こせる者の背後には「心を一つに」した者たちの支えがある、ということではないでしょうか。

 「心を一つにして求める」ことは、一見心地よく、安心できるような感じですが、実はとても難しいようにも思います。多くの情報にさらされ多様な価値観を持ついっぽうで同質者集団をつくりがちなわたしたちが、仲間意識を超えて、一人ひとりの気持ちをあわせて願う、田川訳で言えば「願い求めることについて地上で一致する」ことは、現実と照らし合わせて想像すると、かなりハードルが高いようにも思えます。

 このハードルを超えようとしている方々のことを、教区平和集会での渡邉さゆりさん(日本バプテスト同盟牧師)による講演で知りました。日本バプテスト同盟とミャンマーキリスト教バプテストは、2019年に宣教協約を結んだそうです。20212月にミャンマーで軍事クーデターが起きたことを受け、渡邊さんたちは毎週金曜夜、「拘束された市民の解放を求め、民主化のために抵抗する人々との連なりの証しとして」オンラインで祈り会を始めました。8月に結成した「アトゥトゥ(いっしょ、共に、の意)ミャンマー」は、活動の特徴のひとつが「抵抗運動としての祈り会を軸に運動を続ける」です。まさに「心をひとつにして求める」です。献金が集まり、送金・支援物資の送付も始まりました。祈りを中心に置いて3年間一度も休まず続け、自然発生的に活動が様々に広がっていくアトゥトゥミャンマーは、聖書の言葉のリアルとして、その存在を示しています。

 アトゥトゥミャンマーから希望を与えられて、困難な道ではあるけれど、神の国の実現を「心を一つにして求める」ことができますようにと、今、あらためて願います。

2024年3月10日 (日)

マタイによる福音書 6章34節 「主イエスにある楽天性」

 主イエスは語りかけています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と。今日考えて解決するなら考えればいい。しかし、今日考えても解決できないことは同じ言葉の繰り返しや「どうしたらいいのか」という問いだけがグルグル回って時間が過ぎていき、身も心も消耗するだけ、と気が付かされることもあるのです。

 主イエスのこの言葉には、どこか軽さがあります。しかし、現実の重さや辛さを主イエスはご存じなのですから、それらの重荷を知り尽くしたうえでの言葉であると受け止めるべきです。今日の自分の苦労には責任を持ち、明日の苦労は明日の自分が責任を持つのでいいじゃないか。この呼びかけの軽さには、共に重荷を負い、わたしたちの荷を軽くしてくださる方の思いやりのようなものがあるように感じられます。今日ダメだったから明日もダメなのだと決めつけ絶望して疲れ果ててしまうのではなくて、明日になれば明日の課題との関わりの中で何かしらの新しいことや希望が立ち現われてくるかもしれないという、主イエスの楽観主義のようなものがあるということです。

 ですから、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と立つことができるのです。そして、空の鳥と野の花を人間のあり方として捉え、神と神の国によって養われているあるがままの今の「いのち」を無条件に全面的に肯定しているのです。

 「だから」「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。明日は明日の風が吹く、明日には明日の楽しみや喜びが待っている、このような主イエスにある楽天性にわたしたちも連なることができるのではないでしょうか。このことは現実逃避ではありません。楽天性によって、より解決困難問題に対しての積極的な関わりの動機を支えるものでもあります。明日を楽しむための主イエスにある知恵と希望のようなものです。

 それでは、今、ガザやウクライナなどで恐怖の中におかれている人たちはどうなのか、との思いがよぎります。かの人たちは明日のことを思い悩まずにいられないだろうと。確かにそのことを思うと本当に苦しいです。しかし、誤解を恐れずに言えば、ガザの人たちの「明日」はガザの人たちのものです。わたしたちは、自らが明日生きる希望を主イエスから得て、かの人たちが苦しまない社会を作り出していく力を備えていくべきなのです。主イエスは楽天性の人でしたが、それゆえにより小さく弱くされた人たちに対して何よりもまず寄り添いつつ生きることを目指した方であり、より困難な場に主イエスが共にいてくださることを祈らずにはおられません。

2024年3月 3日 (日)

マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門」

 人間の人間の社会には「同調圧力」というものが存在します。意見や行動の正しさや間違いについて自分で理由を考えることを捨て、少数派になって孤立することを怖れて多数派に合わせるよう強制する無言の圧力のことです。その場の空気を読むことで波風を如何にして立てないか、目立たないでいられるのかという消極的なものもあるでしょう。しかし、この消極的なものであっても、ハンナ・アーレントの言うところの「悪の凡庸さ」と決して無関係でないと思います。ホロコーストという世界最大級の悪とされる事柄でも、ごく平凡な人間が動機も信念も邪悪な心も悪魔的な意図もなしに行いうるとしたのです。

 わたしたち自身も、行動や判断など一つひとつの態度決定が、この「悪の凡庸さ」につながる、同調圧力によって支えられていないかを自己検証する必要を感じます。「狭い門から入」るためには、「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」から自由にならなくてはならないことが知らされます。大変難しいと感じるのではないでしょうか。だから「狭い門」なのです。わたしたちの前には「広い門」が大きな口を開けて待ち構えていることを知らなければなりません。

 主イエスの生涯は御自身が「狭い門」をいくつも入り続け、結果、十字架による処刑となりました。しかし、よみがえりにより勝利したことに希望を抱くわたしたちは、あえて「狭い門」を選ばなくてはならないのです。そのための課題は「従順」にあるのではないかと思うのです。「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」の根っこに「従順」が横たわっているように感じます。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あった「従順」とは違います。主イエスの「従順」とは、神への「従順」です。神に基づく正義のゆえにより小さくより弱くされた人々と同じ水平に立ち、喜びも悲しみに対しても響き合いながら歩んだのです。主イエスの「従順」の姿は、権力者たちとの論争の場面や両替人の机をひっくり返すような振る舞いにおける「従順」なのです。誰かをないがしろして成り立っている社会に対する抗議としての「従順」とでも呼んだらよいのでしょうか。ですから、わたしたちの安易な「従順」と主イエスの「従順」とは区別されるべきだと考えます。

 自分を屈服させようとする暴力的な意思を、恩恵であるとか愛情であるとかと勘違いする仕方で「従順」になってしまうあり方は「広い門に入」ってしまっている状態だと言えます。この時、共感する相手が誰なのか、その人たちはどのような状況に置かれているのか、ということが重要です。被抑圧者と共に抑圧者に対して波風を立てていくという、まさに主イエスの歩みと重なるあり方にこそ、「共感」というイメージが相応しいのです。決して「幸い」と客観的に呼ばれるはずのない人たちに向かって、生きることの喜びにおいての「共感」に生きた主イエスの姿と重なります。たとえ困難があり、多数派に取り囲まれようとも、あえて「狭い門」を選び取る勇気と愛をもって生きる希望の道へと主イエスは招いているのではないでしょうか。困難な門であっても、なさねばならないことと時はあるのです。

2023年11月26日 (日)

マタイによる福音書 25章31~40節 「小さい者の一人に」

 今日の箇書は、実はそう単純ではありません。小さい者(=主)が飢えていたときに食べさせたのかどうか、のどが渇いていたときに飲ませたかどうか、旅をしていたときに宿を貸したかどうか、裸のときに着せたかどうか、病気のときに見舞ったかどうか、牢にいたときに訪ねたかどうか、これらについて人間の側に自覚がないのです。いわば身に覚えがないことをもって、「わたし」である「王」、すなわち主イエスに対して行ったか、あるいは行わなかったかが問われ、同時に審かれてしまうのです。乱暴な言い方をすれば、祝福されることも審かれることも、いずれにせよ理不尽な仕方でなされるのです。言われる側からはどうすることもできないのです。言われる側の努力や生活態度などの、どこをどうしたらよかったのかは示されていないのです。自分たちが何をしたのか、あるいは何をしなかったのかという自覚なしに、身に覚えのないことで祝福か審きが与えられてしまうことになります。

 善と悪の判断基準は、「わたし」と語りかけるところの「王」である主イエスにしかないのだ、つまり、人間の側から判断する善や正しいこと、正義など良きこととされる一切は、神の前には無であると示しているのではないでしょうか。このように聖書は、わたしたち人間の作り上げた倫理を解体することによって、主イエスの側からのみの倫理を提出しているように思えるのです。つまり、人としてどうあるべきかという倫理の問題は、主イエスがどうであったかを基準にして、主イエスに対してなされる時にこそ、本当として働くのだということです。ですから、それがいかに優れており誠実で真面目で嘘がないものであったとしても、本当の働きに至る人間の側からの道は一切閉ざされているということなのです。主イエスの働きから導かれるところの主イエスに対する働きにおいて、事が起こされる、倫理が動き始めるということがあるのだと確認できるように思われます。

 この方向性においてのみ、つまり主イエスがキリストであること。この方の言葉と振る舞いにおいてのみ「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」が出来事としてなるのだというのです。主イエスの思い、願い、考え、判断、決断から示される道のみが、わたしたちの道だということです。神を愛し、隣人を愛するという主イエスの道から始まるのです。わたしたちが小さい者の一人に出会うところに主イエスは共におられる、そう信じる道から離れないように祈るのです。

 

2023年11月12日 (日)

マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」

~子ども祝福礼拝~

 主イエスの語る、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とは、どういうことでしょうか。この世界の初めは神さまが創りました。初めがあるなら終わりもあるはずです。その終わりがいつになるのかは誰にもわかりませんが、その時まで主イエスはずっと一緒にいてくださるのだというのです。今生きている人の中で、主イエスを実際に見たことがある人は、誰もいません。でも、教会は見えない主イエスだけれども一緒にいてくださるのだと信じています。

 主イエスを見ることはできません。でも不思議な風が働くところにはどこにでも主イエスは一緒にいてくださるのです。あなたとわたしの間、友だちや家族などとの間で、嬉しいことでも悲しいことでも、どこかで心が通じ合っていたり、心を寄せているところにはどこにでも、です。主イエスの願いはすべての人に「幸い」という祝福が届けられていくことです。「幸い」が届けられるのは、ただ自分にとって都合の良い「幸せ」を感じているところだけではありません。食べるものがないところ、怪我や病気などとてもつらいところ、主イエスの願いが届けられているなんて信じられないところにまで届いていく、不思議な風のような聖霊の働きによって主イエスはいつも一緒なのです。

 この主イエスは今日もまた、わたしたちと一緒にいてくださるのです。そして、わたしたちという顔見知りの人たちの間にだけではなくて、まだ会ったこともない世界中の人たちと心がつながっていく道があるのだとも信じることができるのです。主イエスの願っている本当の「平和」を願い、祈り求めていこうとするところには、もうすでに主イエスが待っていてくださることを信じることができるのです。

本当に悲しいことですが、今、世界は「平和」ではありません。そして、わたしたちも毎日がうれしくて楽しいことばかりではありません。けれども、主イエスは世界中で起こっていることや、わたしたちの毎日を全部見守っていてくださるのです。そして、人と人との間に一緒にいてくださるのです。

 わたしたちは毎日の生活の中で「神さまがいつも共にいてくださる(インマヌエル)」ことを忘れてしまいがちです。だから、「インマヌエル」を繰り返し、安心を取り戻すのです。今日は子ども祝福の礼拝ですが、「祝福」というのは、この「インマヌエル」を心と身体の隅々にまで行き渡らせることです。神としての主イエスが、聖霊として、見えないけれども今も生きて働いていてくださるのです。

2023年10月29日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「街の教会」

 主イエスは、「地の塩」「世の光」「である」とわたしたちに向かって断言されています。これは、驚くべき言葉です。いったいわたしたちに何の資格や能力、この世に対して働きかける言葉や力などがあるというのでしょうか。自らを省みれば何の取柄もないと言うしかないのではないのではないと思えます。今あるがままのわたしたちの姿を主イエスは「地の塩」「世の光」「である」との言葉は、つまりは、わたしたちの能力や努力によっているのではないことを潔く認める必要があるということだろうと思います。「塩」であることも「光」であることも、いずれにせよわたしたち自らを根拠にした言葉、宣言ではないのです。主イエスが語っているがゆえにこそ、その根拠があります。

 今日の午後、わたしたちはバザーを開催します。わたしたちが、この街の中にある暗い部分に対して「塩」としての役割を担うことや、「光」としての働きによって何かしらの問題解決や暮らしやすさの一端を担うことなどはできないかもしれません。しかし、それでも「ここに教会がある」のだと、バザーを行うことによって少しばかり示すことはできるのではないでしょうか。小さな交わりの業かもしれません。ささやかな働きなのかもしれません。16節には「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあります。もちろん、わたしたちのバザーが普通言うところの「立派な行い」だということではありません。しかし、長い目で見れば「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」道は決して閉ざされてはいないことを信じることはできます。そして、そのことが「天を指し示す」すなわち「立派な行い」になっていくのです。

 ここに教会があり、この教会は「地の塩」「世の光」「である」との宣言による委託のもとで歩んでいることの証しに少しばかりでも参与できたなら、大成功と言ってもいいのではないでしょうか。教会は、主イエスにあって神を愛することと隣人を愛することを教えられています。そのあり方が「地の塩」「世の光」「である」と受け止められるところなのだとして、「ここに教会がある」ことを恵みとして受け止めたいのです。

2023年10月 8日 (日)

マタイによる福音書9章9~13節 ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節 「聖マタイの召命」角川太郎神学生(農村伝道神学校)

 本日は上大岡教会にお招きいただき誠にありがとうございます。農村伝道神学校2年の角川太郎と申します。神学生や牧師を目指している方は召命感を問われる機会が少ないと思います。

 では召命とは一体何なのでしょうか。召命について、16世紀のバロックを代表する天才画家カラヴァッジョが描いた「聖マタイの召命」を通して、皆さまと一緒に考えてみたいと思います。本作は、本日の聖書箇所マタイによる福音書9:9-13の一場面です。みすぼらしい服装をした素足のイエスと聖ペテロが右側から近づいてきます。中央に腰掛ける三人の男性は、イエスがやってきたことに気づいていますが、左側の二人の男性は気づかずにじっとお金を勘定しているようです。これは、徴税人であったマタイのもとにキリストが現れ「私に従いなさい」と言った瞬間です。

 この作品に関して、美術研究者の間で常に論争になっています。それは、一体誰がマタイなのかという問題、いわゆる「マタイ論争」です。絵の中央に位置する「私ですか」と自分のことを指さすようにみえる中年の髭の人物がマタイか、それとも左側に位置する一心不乱にお金を数えている若者がマタイか。皆さまは、どちらがマタイだと思われますか。

 イエスは、中年の髭の男性、あるいはお金を数えている若い男性のどちらかを指差したのではなく、その場所にいた全員に指差していたのではないでしょうか。

 イエスの公生涯を通してみると、イエスは、当時のユダヤの規範に反して、さまざまな人々、例えば罪人、病人、異邦人、女性たちとの境界線を越えて共にいてくださいました。すなわち、イエスは、徴税所にいた全員を招いてくださった。それに気づいて応答して立ち上がったのはマタイだけだったと思います。召命というと、特別に選ばれた者というイメージがありますが、実は、全ての者が招かれていて、それに気づいた、気づいてないだけなのではないでしょうか。私には、そう思えてならないのです。

 選ばれたという感情は、時に人を傲慢にしてしまう。選ばれたのではない、主の招きに気づいただけという気持ちで、驕ることなく謙虚に、マタイ福音書における神への愛と人への愛に生きることをいつも心にとめていたい。

 そのような心があれば、そしてマタイのように呼びかけに、少しでも多くの人々が応答して立ち上がってくれれば、世界の争いによって、嘆き悲しみ小さく弱くされた者を少なくすることができるのではないでしょうか。誰もが徴税人、誰もがマタイになれる。そのような世界が来ることを、心よりお祈りいたしましょう。

2023年4月16日 (日)

マタイによる福音書 28章16~20節 「世の終わりまで」

 主イエスの愛によるへりくだりと謙遜は、インマヌエル・神は我々と共におられる、ということです。このことを根拠にして「わたしは世の終わりまで」という約束のうちにわたしたちは歩んでいくのです。それは、生前の主イエスの生き方や言葉に倣う生き方を選ぶということです。主イエスは、他者に仕えるというへりくだりと従順において自らを捨てていく主イエスなら、今わたしのいる立ち位置でどのような判断をし、行動するのだろうかと思いめぐらせながら歩むことです。それは聖書と祈りによって導かれてのことです。このような生き方が広い意味での「弟子となる」ことです。そのようにして、人と人との支え合いとしてのつながりは、共にいてくださる主イエス・キリストによって守られているのです。復活の主イエスは、いついかなる時も共にいてくださいます。今は直接見ることも触れることも許されてはいません。ただ、聖書の証言する生前の主イエスの言葉と振る舞いとしての教えを今のこととして、すでに共にいてくださる主イエスの聖霊の導きがあるのです。

 讃美歌21533番に『どんなときでも』という題の歌があります。こんな歌です。

1 どんなときでも、どんなときでも、苦しみにまけず、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛をしんじて。

2 どんなときでも、どんなときでも、幸せをのぞみ、くじけてはならない。 イェスさまの、イェスさまの愛があるから。

 この歌をわたしは実はあまり好きではありません。つい、くじけたっていいじゃないかと思ってしまうのです。しかし、作詞者の高橋順子さんが骨肉腫との苦しい闘病生活の中で7歳という短い生涯を終えて天に召されていく途上での言葉であったことを知り、少し印象が変わりました。くじけそうになる小さな子どもが必死に主イエスの愛に生きようとする姿があることに気づかされたからです。

 「世の終わり」とは、文字通りには「この世の終わり」を意味します。しかし、わたしたちのこの世でのいのちの終わりであると読むこともあながち間違いではないかもしれません。この世の後のいのちにおいても、もちろん、主イエスは共にいてくださるのでしょうが…。

 わたしたちもまた、それぞれの重荷を抱えており、人知れず涙し、自らの弱さにくずおれることもあるでしょう。しかし、そこにこそインマヌエル・神が我々と共におられるという事実に立つ信仰者としての新しい歩みを求ましょう。

2023年3月26日 (日)

マタイによる福音書 27章32~44節 「十字架の上で」

 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」。罵りと軽蔑の声が主イエスを取り囲みます。主イエスは十字架の上にいるままです。十字架から降りなかったのは、あえてしなかったのではなくて、実際にできなかったのです。これはつまり、できないほどにまことの人間になっていたからです。これほどまでに神の人間性を貫かれたのです。

 ここには、共にいようとするインマヌエルという意志が貫かれているのではないでしょうか。十字架上での弱さの極みにある姿こそが「インマヌエル=神は我々と共におられる」を思い起こすことへと導くのです。

 主イエス・キリストは、呪われ殺されていきました。この主イエス・キリストに躓くのか信じるのかが、わたしたちに向かって問いかけられているのです。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。

 悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による死によって、その死の姿からいのちへの招きへと逆説的に祝福へと招かれている事実に立つところに、わたしたちは今、生かされているのです。

 パウロは、Ⅱコリント134で次のように述べています。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」

 主イエス・キリストは、あの十字架の上でまことの人としての弱さの極みにおられます。その十字架が、わたしやあなた、そしてわたしたちと共にいたいという願いであり、その実現であるということを心に刻み、インマヌエルが十字架においてなされている事実を感謝したいと願います。低みの極みとしての十字架において、すべての人間の逃れられない闇である根源的な「罪」を主は担っているのです。このことを貫くことによって、わたしたちが水平な関係としての仲間になる、ということが事実なされたのです。

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