使徒言行録

2023年9月24日 (日)

使徒言行録 2章37~38節 「罪の赦し」

 ペトロは、元々それほど立派で清廉潔白で純粋無垢の人間ではありません。主イエスに対する裏切り者と呼んでも言い過ぎではないことが福音書から読み取ることができます。生前の主イエスとの活動における彼の姿を思い起こしていただきたいのですが、勘違いや無理解を何度も重ねてきた軽薄さから自由でなかったのです。その極みが、主イエスが逮捕されてしまった時に表されています。三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言い募ったのです(ルカ226162)。仲間だと知られたら同じ目に合うかもしれないという恐怖心や脅えから自分の身を守るために放った言葉です。ペトロは主イエスを重ねて知らないと語ることで見捨てた、しかし主イエスは決してペトロを見捨てることはしなかったのです。「振り向いてペトロを見つめられた」主イエスの眼差しを愛そのものだと感じたのではないでしょうか。裏切り者であり卑怯者であり、弱虫であり、情けなさと無力さの塊のようなペトロを穏やかに包み込む主イエスの眼差しによって、全身が丸ごとのあるがままのペトロが赦しに包まれる経験をしてしまったのではないでしょうか。この時の「激しく泣いた」姿が、後悔や自己嫌悪から感謝と喜びへと転じていったのではないかと思うのです。このことへの感謝が復活という出来事によって支えられ、ペトロは主イエスの証人として、今日の箇書にあるように説教できる者となったのです。

 主イエス・キリストの贖いにおける罪の赦しに与って歩む道が備えられていることは、信じ従うものに希望と勇気を与えます。今日の聖書ではペトロは使徒として理想的に描かれています。基本的にはキリストの証人としての生涯を全うしたのでしょう。しかし、この使徒ペトロにおいても優柔不断さやいい加減さが残されていたことはが分かります(ガラテヤ211以下のいわゆる「アンティオキアの衝突」参照)。ある意味人間味をも感じるところです。「罪の赦し」に与って生きることは、完全無欠な人間になることではありません。欠けのある人間です。それでも「罪の赦し」のゆえに、的を外してしまう「罪」から、主イエスからの問いかけによって生き方の方向性を転換していく悔い改めへと導かれるのです。他者との関係も「赦された罪人」同士という理解に立ちながら歩みたいと願います。「赦された罪人」である自分が、相手をも「赦された罪人」として接することは、相手に非を認めた時に不問に付す、ということではなくて、新しく対話を続けながら、お互いが主イエスにあって「赦されている」仲間としてつながり、共感していき生き方を模索していくことでもあるでしょう。

2023年7月30日 (日)

使徒言行録 1章6~11節 「天にのぼり、神の右に」

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と、弟子たちは、どこからか現れた二人の人からの声によって現実へと引き戻されます。天を見上げてばかりいるのは違うのだという指摘です。いつの日なのかは述べられないのですが、やがて主イエスが来臨するという約束があるのです。その来臨に至るまでの間、天を見上げて心を天の国に向けるだけではなくて、今から前を向いて歩きだせという促しとも聴き取れます。主イエスは天に上げられる時に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と弟子たちに語りました。ここで言われているのは、主イエスが天に上げられるのは、あなたがたを見捨てるのではないのだということです。そしてまた、弟子たちが「証人」として生きるための「聖霊」が働くのだという約束が語られてもいるのです。

 主イエスが天に上げられたことに伴う「なぜ天を見上げて立っているのか。」という言葉は、この世における堅実で着実で責任的なキリストの証し人として歩み出せという呼びかけです。復活後40日の間は、共に過ごした弟子たちだけが復活者の恵みに与っていましたが、今や主イエスが天に上げられたことによって、復活の主イエスの働かれる領域が限りなく広がっていく恵みとなったのだ、という表現でもあります。

 天に上った主イエスは、「神の右に座したまえり」と使徒信条にあります。この「座したまえり」とは、じっとして動かず、働かないということではありません。「神の右」とは固定された「場所」ではなく、神の権能を全面的に譲り受けているということです。変幻自在に、神としての自由さによって、人間に寄り添い共にいる力を受けているということの表現です。

 生前の主イエスがガリラヤ湖周辺からエルサレムに、そして十字架へと至る道行きにおいて、より小さくされた人たちや弱くされた人たちに寄り添い、共に生きたところの神の国のしるしは、天に上げられることによって限りない広がりへと展開したということです。

2023年5月28日 (日)

使徒言行録 2章14~21節 「聖霊の注ぎ」

 聖霊降臨の出来事は、悪酔いによるのではないのだとペトロは語ります。預言者ヨエルによってなされた言葉の実現なのだと説明し、解釈を加えているのです。ヨエル書は、イナゴの大群に襲われ、農作物をボロボロにされて、その上周囲の外国に戦争で叩きのめされて、絶望の淵にあったイスラエルの人たちを励ます預言を語ったヨエルの言葉を記録したものです。

 ヨエルは「すべての人にわたしの霊を注ぎ込む」との意志が神にはあると言うのです。このことを「すべての人が預言するようになる」と語ります。いわば、預言の使命の民主化が起こるというのです。特別な誰かではなく、誰しもが神から与えられる霊によって生きる道が備えられているとの宣言として読むことができるように思います。そして、その具体化が「若者は幻を見、老人は夢を見る」という言葉にあるのではないでしょうか。この「幻」や「夢」という言葉は、やがて消え去る虚しい幻想や実現不可能な事柄と読むべきではありません。将来に向かう具体的な展望や計画が神によって備えられていることへの信仰によって支えられている事態への眼差しがあるのです。

 将来を担うべき若者たちには明確な展望を抱くことへの約束があるということでしょう。若者たちが、これからの世界のありように対して具体的に関わっていくことへの希望があるということです。また、「老人は夢を見る」ところの老人は、これまで経験してきた経験や知恵をもとにして、自分たちの世代では導くことのできなかったことを無念に思ったり、残念に感じたりして希望を失い、絶望に陥ることであってはなりません。今まで自分たちが考えてきたことや経験をバトンのようにして手渡していこうとする、これを批判的に受け継いでくれる後の世代への期待に満ちた立場の表明です。

 そして、聖霊降臨において起こっていることをペトロは、世の終わりが今ここで始まっているのだというのです。世の終わりは、聖霊の注ぎとして始まっていることが、ペンテコステ・聖霊降臨において知らされます。エルサレムから始まって、教会が地中海沿岸世界からローマ帝国全体に広がっていく中で、長い時間をかけて完成すると言いたいのでしょう。世の終わりが始まったことがペンテコステの出来事なのです。年齢や性のあり方や富んでいるのか貧しいのか、あるいは体が丈夫であるのかないのかなど、人間が上下関係や優劣をつける基準そのものを無化していく方向性をもつのです。ペンテコステから始まって徐々に広がってゆく、穏やかな方向なのだと受け止め直すことができるのではないでしょうか。世の終わりが完成に向かうとすれば、それは希望となるのではないでしょうか。聖霊の注ぎとしてのペンテコステの力は、今も働かれる主イエス・キリストの神にあります。そこからやって来る支えと導きの力に対して応答していきたいと願います。わたしたち一人ひとりを聖霊の注ぎにおいて用いてくださるに違いないのです。

 

2022年6月26日 (日)

使徒言行録 5章1~11節 「神を欺かないために」

 わたしたちは、教会はイエス・キリストの神を信じているがゆえに純粋で間違ったことなどするはずがないという幻想を抱いてしまうことがしばしばあります。しかし、この世で起こる犯罪をも含めた人間のあらゆるエゴイズムはどんなことであっても教会の中で起こり得るのです。むしろ、人間の罪深さや愚かさがあからさまに生のまま表れてしまう場が教会なのかもしれません。土地を売ったお金の一部を手元に残したのに全部献金したと嘘をついたアナニアとサフィラが突然死したという物語はこのことを表しているともいえるのでしょう。

 教会には様々な人間のエゴイズムが形を変えながら存在します。アナニアとサフィラの偽りの献金は氷山の一角です。表面に出ることなく燻っていることも少なくないと思われます。それら一つひとつに対して「聖霊」の導きを祈りつつ歩むほかありません。限界ある人間の集まりとしての教会を絶えず「聖霊」の計らいに委ねながらも自己吟味し続けることを止めないことです。主イエスの憐みに包まれていることへの信頼抜きには教会の歩みは不可能です。様々なエゴイズムが満ちているからこそ教会なのかもしれません。使徒言行録は、先ほど指摘したようにアナニアとサフィラを描くことで「教会」の現実を明らかにしているのです。

 しかし、教会が下世話な問題の只中にあったとしても、「聖霊」に支えられた正直さが大切なのだというのが今日のテーマの中心であろうと思われます。この点を外さなければ様々な問題があったとしても、「神を欺く」ことがないのです。自らの言葉や振る舞いを正していくことができるのです。さらには、教会の中での対話の方向も開けてくるのだということです。わたしたち自身はアナニアとサフィラのように露骨な偽りはしていないでしょう。しかし、わざわざ「教会」とはこういう現実から自由ではないのだと使徒言行録が証言している以上、わたしたちにとって彼らのことを他人事として読むことも間違っているでしょう。肝心なことは、彼らの現実とは形が違っていても似ている点があることを認めていくことです。そのうえで「聖霊」に支えられた正直さを求め、祈りつつ歩むことの他ないのだと認めること、ここに「神を欺かない」道が示されるのではないでしょうか。わたしたちのあらゆる欺瞞を受け止めつつも、より正しい道へと導く「聖霊」の働きを求めていきましょう。

2022年6月19日 (日)

使徒言行録 4章13~22節 「神の前での正しさを求めて」

 4章13節によれば「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。「無学な普通の人」として、です。学者のように律法の知識を蓄えていたわけではなかったでしょう。学があり、律法の知識に長けていたのであれば、波風を立てることなく、その社会の中で適応した従順な態度や振る舞いによって時代の要求する期待された人間像に相応しく振舞っていさえすればよかったはずです。規格化された人間として飼い慣らされた生き方をしていればよかったのです。しかし、死者の中からよみがえった主イエスの聖霊の力によって、飼い慣らされて従順になるのではなくて、自由への招きに与ってしまっているのです。

 その時々の時代の要求する従順から、不従順によって生きる可能性をペトロとヨハネの態度から読み取ることができます。当時のユダヤ教権力に対して従順であることは、他から与えられた意思に屈服した生き方を選ぶことです。その屈服した生き方が身体に、そして普段の生活にまで染み込んでしまい、空気のように当たり前のことになってしまっているという不幸があるのです。ここからの解放をペトロとヨハネは身をもって、あえて権力への不従順として、イエス・キリストを証しているのです。「無学な普通の人」は決してマイナスばかりのことではありません。無学であるからこそ自由を受け入れる余地があり、イエス・キリストの復活、そしてその聖霊の働きに身を委ねることができるようにされたのです。

 19節では「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。』」とあります。このセリフは珍しいものではなくて、ペトロとヨハネのオリジナルのものでもなかったでしょう。わたしたちが受け取るべきは、死者の中から復活した主イエスの聖霊の働きによって導かれるものです。これは、ペトロとヨハネの宣教活動が生前の主イエスの活動をお手本にしながらなぞっている物語の構成からも理解できることです。

 わたしたちに求められているのは「無学な普通の人」に留まることです。情報過多なこの社会にあって翻弄されず、聖霊の働きを受け入れるだけの余白を持ち、「神の前に正しいかどうか、考え」ることに他なりません。イエス・キリストにおける聖霊の働きに身を委ねることによって決断、言葉、振る舞いが方向づけられるのです。今を歴史的責任のもとで歩むべき「神の前に正しい」道が開かれていくことを確認したいと願っています。この聖霊の主イエス信じることに絶えず立ち返りながら、わたしたちは自らのあり方を省み、より神の前に正しいかどうかを自己吟味する道へと招かれているのです。

2022年6月 5日 (日)

使徒言行録  2章1~11節 「自分の言葉が生まれる時」

 今日の聖書は、聖霊に満たされた弟子たちが突然に各国の言葉で神について語り始めたという有名な記事です。読みながら、言葉にまつわる日常のもどかしさを感じました。わたしが接するほとんどの人は日本語が母語であると思いますが、その日本語である言葉が通じないという経験のあることを思うからです。家族や友人など親しい者同士であっても、同じ信仰に立っているとしても、です。発した言葉がその意図通りに相手に届くとは限らない、ということです。

また、社会全体として、これまで以上に言葉を発する力も聞く力も衰えてきているようにも思われます。とりわけ、国際間において様々な場で侵略行為などがなされている現状にあっては尚更です。井上ひさしは言葉の力を信じていたのでしょう。2006年7月に出版された『子どもにつたえる日本国憲法』の中で9条1項を以下のように「翻訳」しています。「(略)けれども私たちは/人間としての勇気をふるいおこして/この国がつづくかぎり/その立場を捨てることにした/どんなもめごとも/筋道をたどってよく考えて/ことばのちからをつくせば/かならずしずまると信じるからである/よく考えぬかれたことばこそ/私たちのほんとうの力なのだ」。ここには聖霊降臨の力によって、言葉が通じる道筋があるはずだとの課題が示されていると思えるのです。

 一番伝えたい大切な言葉とは、理路整然とした説得的な理論に基づいたものであるとは限りません。語る人の中での理論や理屈、ものの考えの正しさだけでは十分ではないのです。同じ言葉を語っていても、そこに込められた意味が同じだとは限らないからです。

 わたしたちは言葉の氾濫した時代の中で、言葉自身のもっている正直さとか本音、真心とかが伝わることを信じられなくなっています。言葉の力を信じられなくなっているのかもしれません。しかし、通じる言葉があり、それを聖霊の働きによって信じることができるのだと思い起こさせようとして使徒言行録21節からの物語は語りかけているのではないでしょうか。心の奥底からの今一番大切で正直な言葉は、たどたどしく不器用であっても、また理路整然とした論理体系がなくても信じるに足りる言葉なのです。だから、ここに希望を託し、諦めてはならないとでも言いたげです。わたしたちの語る言葉が開かれていくことを信じてみないかという呼びかけが聞こえてくるのです。

2022年5月29日 (日)

使徒言行録 1章1~11節 「キリストの昇天」

 キリスト教の歴史理解については聖書を比べながら読むとかなり多くの違いやズレがあることに気が付きます。これらの違いについては、それらが書かれているテキストについての説教で扱うことになると思います。今日は、キリスト教の歴史の基本的な理解を大まかに説明するところを確認することから始めていきたいと思います。使徒信条で「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」と言われている箇書についてです。

 一般的なキリスト教の歴史理解は、同じ著者によって書かれたルカによる福音書から使徒言行録の流れに沿っています。かつての旧約の民イスラエルにおいて約束された救いがユダヤ人という閉ざされた民族からすべての民へと広がりゆく出来事として主イエス・キリストが登場したことから展開していきます。まず主イエスの「時」があります。その生涯における活動において神の意志が実現しました。多くの人たちが生き直すことや喜びに生きる道へと招かれたのです。しかし、この主イエスは十字架という当時の最も忌み嫌われる処刑によって殺されてしまいます。ユダヤ教においては神に呪われた者の死であり、ローマの文脈では奴隷の死であり反逆者の死としての見せしめとしてなされたのです。しかし、この十字架の死がなぶり殺しで見せしめであったことを踏まえながらも、だからこそこの十字架の死は、人間の存在の根本にある罪の現実を身代わりとして、代理としての死であると理解されたのです。これはいわゆる「贖罪」として受け入れられています。この殺された主イエスが神に起こされること、よみがえらされることにより、全面的に肯定され、救いが現実化したというのです。そして、復活の主イエスは40日間弟子たちと共にいて神の国について話されたのです。40日の40とは、非常に象徴性の強い数字であり、かつては、ノアの洪水物語での雨の降る続いた期間でもあり、またイスラエルの民の荒れ野での40年を思い起こさせますし、さらにはモーセが十戒を受けるために断食した期間も40日でした。また、主イエスの誘惑の期間を思い起こさせるものでもあります。準備しながら待つ聖なる期間を40日とか40年とか理解するのは読み込みになるのかもしれませんが、相当な期間であるとか十分な期間であるとかということはできると思います。

 復活してからの40日間、主イエスは弟子たちと共にいましたが、この世に居続けることは許されませんでした。天に帰る日がやってきたのです。天とは、現代人からすれば地球は丸いのですから空の上には宇宙が広がっていることは常識とされていますが、当時の人びとの理解によれば神のいる場であったわけです。現代的に理解すれば、天というのは人間の技術や理解など、あらゆる知恵を絞っても到底手の届かない領域と理解すればいいのかもしれません。

 弟子たちは、せっかく主イエスが復活してくださったのだから、ずっとこのまま一緒にいてほしいと願ったように思われます。弟子たちの「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いに対して、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」。このような言葉を残したままで「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。40日間、主イエスは弟子たちと一緒にいて神の国についての話をしたのですから十分理解したことを踏まえて天に帰って行かれたのではないかと思うのです。いわば、あなたがたにあって、わたしはいなくなるけれども、あなたがたは与えられた使命をもって歩んでいけるし、その歩みを見守っているのだから、基本的なところでは安心していけばいいのだし、きっと大丈夫という気持ちがあったのかもしれません。しかし、弟子たちはまだまだ十分話を聞かされていないと思ったのか、一緒にいなければ嫌だという気持ちがあったのか、あるいは心だけでも主イエスと共に天に一緒に行きたいと願ったのか、ともかく名残惜しさに満たされていたのでしょう。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」とあります。天を見つめていたということは、穿った見方になるかもしれませんが、自分たちが残された地上、自分たちの生きる現場である、この世における責任性や使命に見向きもしなかったことが読み取れるような気がします。そこで、「白い服を着た二人の人」が登場します。「二人」という表現の仕方は、ルカによる福音書の著者の手癖のようなもので他の箇書にも表れます。主イエスと一緒に磔られた罪人も二人であったなど逆の立場を対比する場合もありますが、一人だと客観性がないと考えている節のある使われ方もあります。たとえば、活動の初期において洗礼者ヨハネから主イエスの許に遣わされたのは二人です。エルサレムに入る時に用意する子ろばを連れてこさせるのも二人ですし、過ぎ越しの食卓を用意させるのも二人です。空の墓に現れた輝く衣を着た人も二人、エマオ途上で復活の主イエスに出会ったのも二人です。このように見てくると、ルカによる福音書においては客観的な確実さを表現するための二人であることが分かります。今日の箇書での二人の言うことは「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」です。つまり、このセリフが強調されて読まれることをルカによる福音書は求めていることになります。主イエスは天に昇られた。だからといって、弟子たちはいつまでも天を仰いでばかりいるのは間違っているとの指摘があるのです。

 先ほどの主イエスの言葉には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とあります。これは使徒言行録の2章の初めの聖霊降臨を先取りしています。主イエスは天に昇るのですが、聖霊を送ることにより、来るべき日である来臨の時まで「教会の時」が始まっていくのだとの指摘でもあります。

 主イエスが天に昇られたことは、確かに弟子たちにとっては淋しく悲しく、心細くなるような別れであったことは理解できます。しかし、この別れは全く主イエスとの関係が断絶してしまうようなものではなくて、かつて直接顔と顔を合わせ語り合い、振る舞いによって慰められ、生き直しの喜びに生かされていたことがゼロになってしまうことではないのです。天に向かって雲に包まれるようにしていってしまう主イエスの姿は、これから先、心だけを天に向けることで、この世を軽んじる生き方をしてしまうのではなくて、この世における責任性を喜びのうちに生きて行けという命令があるのではないでしょうか。テキストでは今はまだ聖霊は下ってはいない時点にあるけれども約束があり、実際2章では現実化したと読み手は知っているのです。なぜ「天を見上げて立っているのか。」という言葉から、復活の主イエスとの出会いを経験していればこの世・地上での生き方を証の生き方へと転換していく責任性がキリスト者にはあることを、白い服を着た二人によって語らせているのではないでしょうか。

 現代の教会につらなるわたしたちに「天を見上げて立っているのか。」と問われるあり方が全くないとは思われません。主イエスの教えは心のことだけが課題になっていると理解して、この世の王国と神の王国を別のこととして理解する、ルター以降の二王国説に陥ってしまい、この世の事柄は社会的なことであるから教会には関係のないことで話題にすべきではないとか、あるいはこの世を軽蔑して宗教の聖なる世界観に溺れるようにして現実から逃げ出すとか、さらには主イエスを必要以上に聖なる存在として理解するがゆえにこの世における責任性を無視するとか言った生き方を正当化するキリスト教会も存在します。しかし、主イエスの昇天によって明らかにされている、この世における責任性の問題から逃れられないと理解するのが、証の生活に生きるキリスト者のあり方なのではないでしょうか。主イエスが天に昇って行かれるときに、聖霊を与えるという約束が弟子たちのあり方に展開されていく記事が4章に展開されていきます。2章で聖霊を受けた教会という群れは力が与えられます。主イエスを証する人たちが起こされ、語り行動へと導かれていきます。例えば、4章以降ではペトロとヨハネは議会で取り調べを受け、主イエスの名によって話したり教えたりすることが禁じられます。しかし、彼らはその禁をあえて破る生き方を選ぶのです。419節以下でペトロとヨハネは答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と語るのです。

 わたしたちは、今日の聖書の語りかけを受けて、どこに立ち、証の生涯を歩むのでしょうか。もちろん、わたしたちはナチに抵抗したバルトやボンヘッファーやニーメラーではありません。アメリカの公民権運動のキング牧師でもありません。そもそもわたしたちの所属する日本基督教団は大日本帝国の戦争に積極的に協力するところから成立していることを覚えないわけにはいきません。1939年に宗教団体法が成立し、宗教各派が協力して翼賛体制を作り出していくのです。非国民と思われていたキリスト教会は、一人前の臣民としての誇りを持つことが出来るようになりました。宗教団体法の可決の後、1940年に青山学院を会場にして行われた皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会で教団の成立の気運が非常に高まった道に従って1941年に日本基督教団は成立したのです。この教団に所属している以上戦争責任・戦後責任を負いつつ歩む方向を志すのだという流れもあり、一方でこれを否定する流れもあります。

 今日、わたしたちがここで確認しておきたいこと。それは、昇天に関する信仰理解は、聖霊降臨信仰から来臨信仰の間にある、「教会の時」としての今を生きるためには、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」に続く「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」との約束の実現における聖霊降臨の励ましによって立ち上がり歩みだしたペトロとヨハネの生き方、証の姿を心に刻むことだと思われます。どれほど、具体的な今という現実認識に対して関わり続けられるのかは明確に応えることは単純ではありません。困難でもあります。しかし、この視点・立場に留まり続けることによって神の栄光を現すわたしであり、群れであることへの途上を歩むものとして整えられるようにとの促しが物語の教えるところなのではないでしょうか。この点に関して不安や迷いが生じることは十分に予想できます。また、わたしたちの力や勇気の足りなさを自覚しないわけではありません。しかし、主イエス・キリストの導きと支えの確かさにあって歩むことが赦されているところに慰めがあることは確かであると信じつつ従う道は用意されているのです。

祈り

いのちの源である神!

昇天から来臨に至る約束において働かれる聖霊に委ねつつ歩ませてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                          アーメン。

 

2020年1月26日 (日)

使徒言行録 7章43~53節 「畏れとは‥」 井谷淳

 私達は「キリスト者」として毎週教会にかよっています。しかし私達のキリスト教会の歴史を鑑みると時として非常に「血なまぐさい争いの爪痕」が存在する事実も否定はできません。代表的なものが宗教改革時の「新教」「旧教」の争いであり、世界各地(北米、中南米、アジア地域)における「キリスト教植民地主義」政策下での先住民族の犠牲者の方々の存在等、様々な角度で「負の歴史」「負の遺産」が照射されてゆくのではないでしょうか。本日の説教箇所は使徒ステファノの説教のクライマックスでありこの直後、律法主義者の「私刑」により殺害されてゆきます。「キリスト教の側」ではステファノの死は「尊い殉教」でありますが、「ユダヤ教ファリサイ主義の側」からは「律法違反者」に対する「当然」の「排除・粛清」であり、彼等の心理の根底にはステファノは公式な裁判を経る事なく「私刑」という形で「処断」しても構わないという「宗教的気運」が存在していたのでしょう。この「宗教的気運」は「先鋭的律法主義者達」をバックアップする当時のユダヤ社会の「或る階層」の最大公約数的な「共通意識」でもありました。この「共通意識」の根底に流れていたのは「ユダヤ教メインライン」的「正義」であります。ステファノは「神殿批判」を公然と行い「繁栄と権威」の「象徴」であるエルサレム神殿を「信仰的象徴」として依拠している人々の「信仰体系」を「神の意」に反するものであると糾弾していました。現実的観点から「エルサレム神殿の繁栄」の恩恵に預かっている人々は確実に当時のユダヤ社会の「中核的な存在」であります。方や「荘厳なエルサレム神殿」に象徴される「国家ユダヤ」が存在する事によって生活が逼迫し、只「搾取・収奪構造」の犠牲となってゆく人々も多く存在していました。つまりこの問題の「エルサレム神殿」をめぐって「利害関係が不一致」な「社会的二層構造」が存在していたのであります。神殿体制の恩恵に預かっていた人間にとって「神殿の繁栄」或いは「国家ユダヤ」の「繁栄」は彼等にとって紛れもない「必要不可欠な実存」であり「信仰的正義」でありました。しかし「正義」という言葉は「或る立場性」をもった人間が「自身の立脚点」を「正当化、安定化」させる為の「概念用語」に過ぎません。いわば人間の「この世的」な「立場性」、「状況性」によって左右されてしまう「言葉」であります。本日の説教題の「畏れ」における「神への畏れ」は「恐怖」の「恐れ・怖れ」とは異なります。「神」のもたらす「義」に対する「畏敬の念」が「真の信仰」であるとステファノの論説は主張します。エルサレム神殿のあり方はこの「畏れ」を「施政者のもたらす恐怖」に転換させ、「恐怖」を中央集権的国家体制を安定させる為の「権威」に転換させてゆきました。そしてこの「権威」を正当化する為の「ユダヤ教教理体系~律法遵守」を「信仰的正義」として「制度的位置付け」を行ったのです。よってステファノを「私刑」によって処断した「ファリサイ主義者達」は自分達の「紛れもない信仰的正義」を「施行」しユダヤ教ファリサイ主義的「聖別」をステファノに「施した」のであります。冒頭で「キリスト教の負の歴史」について言及致しましたが、「キリストの正義の十字架」を掲げて「先住民や異教徒の方々を殺戮していったキリスト教会」のあり方と「ステファノを私刑によって処断したファリサイ主義者達」の間に一体どれ程の相違性があるのでしょうか?両者が「共通して標榜」しているのは「理念」としての「信仰的正義」であります。「キリスト教会」の「権威とされる方々」や「末席に身を置かせていただいている私自身」ですらも、大上段に「己の信ずる正義」を振りかざす「危険性」があるという事も踏まえて非論理化されし「真の神の義」は「人間の価値」に基づく「正義」という「言葉」から「及びもつかない場所」にあると改めて感じさせられるのであります。

2019年6月24日 (月)

使徒言行録 2章43~47節 「信じるために必要なこと」

~「花の日・こどもの日」子どもとおとなの合同礼拝~
 言葉が本当として伝わって、聞いた人が信じるためには、話しだけではなく行いも必要です。「民衆全体から好意を寄せられた。」とは、言葉の中に「本当」が明らかにされたということです。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので」とあります。助け合いながら、相手のことを思いやることを大切にしていたということです。裕福な人も貧しい人も一緒に食べることで、分かち合うことで、助け合うことを行ったのです。
 言葉と行いとがズレないためには、ただ単に正しい行いとして助け合えばいいというだけではありません。相手を大切だと心から思っていなければなりません。ここで気を付けたいのは、「良いことをしなければならない」ではないということです。ただ良いことを「する」ことが大切なのではありません。その「する」の基を見ていなければならないのです。行い、つまり「する」ことが大切なのではなく、「行い」の基こそが重要なのです。○○をするあなた、ではなく、あなたそのものが大事なのです。「する」よりも「ある」が大切なのです。「ある」が大切にされてこそ、「良い行い」をすることができるのです。
 一切の条件なしに、つまり、○○をしたら認めてあげるとか××をできてすごいね、そんなことではないのです。今のあるがままを条件なしに受け止め、認めるということ。これこそを大切にすることです。「する」を「本当」として支えるのは「ある」の全面的な保障なのです。
 主イエスを信じる人たちに「本当」が生まれたのは、主イエスが一人ひとりの今の「ある」を無条件に認めたことを根拠にして「する」という交わり・関係性を育てていく道筋に生きたからなのです。教会に代表される、人と人との関係は、主イエスの心である「聖霊」の働きによって、無条件に「ある」を認められた上で初めて「する」へと導かれることです。このような仕方で人と人とがつながっていくことができると今日の聖書は教えているのです。ここから初めて「一つにされたのである」が事として起こされていくのです。まず、自分自身の「ある」、そして他の人の「ある」を受け止めること、みんなそのままでOKだということ、それが信じるために必要なことです。

2017年6月 4日 (日)

使徒言行録 2章1~13 「聖霊に満たされて」

 今日の聖書は、ガリラヤ人である弟子たちの語る言葉が、地中海沿岸の様々な国から来ている人々の母語として聞かれるという奇跡が起こったのだと記しています。この物語は聖霊の働きである「炎のような舌」は、言葉によってお互いの思いが腑に落ちる仕方で共鳴することが起こることであり、この共鳴によって真実の言葉のあり方とか行方について知らせようとする意図があるのではないでしょうか。
 創世記のバベルの塔の物語(創世記11:1-9)を思い起こします。人間が人間であることをわきまえず、創造者であるかのごとく考え、遺伝子操作などにまで手を出す人間の傲慢さや思い上がりについてです。この被造物である世界、神によって「よし」とされたはずの世界が破滅に向かう途上にあると。バベルの塔の建築をやめさせるために神は言葉を混乱させました。聖霊降臨の出来事は言葉が再び通じ始めるという奇跡です。しかし、バベルの塔の建築を再開させるような意味や意図のもとではありません。人間が自らの能力を誇るのではなく、人間の限界の中で与えられた役割に誠実に応えていくために、言葉は与え直されたのではないでしょうか。人間同士のコミュニケイション、話せば分かるはずだというところにこそ可能性があるのだと。
 対話の可能性の根拠は人間の側にはないし、作り出すこともできないのです。「炎のような舌」としか呼べないような、突然やってくる神からの働きです。イエス・キリストの意思・願いです。生前の主イエス・キリストが目指したところの水平社会です。聖霊の導きのもとで言葉を通じさせていくことによって、人間性の破壊ではなく、心と心が言葉によって共鳴し、共に生きる喜ばしさへと招かれているのだと確認したいのです。人間同士の関係性の再構築なのかもしれません。
 現代社会は世界的に、憎しみとか軽蔑という回路によって組み換えられつつあります。世界は、自分の国、自分の民族、自分の地方を第一とする、このような発想に支配されつつあります。
 今日の物語は、このような「○○ファースト」というエゴイズムを正面から否定する信仰的理解の表明です。聖霊のもたらす言葉の働きとは、人間の尊厳を取り戻すための神の側からの呼びかけの信仰なのです。この聖霊の働きに委ねていくならば、主イエスの言葉につながっていくことができるはずです。このような方向性を言葉において聖霊に満たされていく道が聖霊降臨の出来事です。あの日、あの時教会に与えられたサプライズギフトです。この聖霊という贈り物を受けた初代の教会に連なるものとしての責任に生きることを確認したいと思います。言葉という不便な道具を用いながらも、心と心が共鳴し、つながり合っていくところから新しい世界観が示されていくに違いないと信じることができるからです。そのためのイエス・キリストの聖霊の力に委ねて祈りましょう。

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