ルカによる福音書

2022年7月17日 (日)

ルカによる福音書 12章22~34節 「思い悩むな」

 忌み嫌われた「烏」と、捨てられ燃やされてしまう「野原の花=雑草」としての男たちと女たちの今を、主イエスは見つめています。主イエスが「思い悩むな」と呼びかけつつ指し示されているのは、主イエスの周りに集まっている下積みを余儀なくされた人々の現実です。強いられている「思い悩み」から方向転換し、生き方や考え方を修正することを促しているのです。あなたたちの今の現実は、「烏」のように嫌われ、疎んぜられ、雑草のように価値がないものとされ、踏みつけにされ、捨てられているかもしれない。そのような、日々の暮らしの慌ただしさに溺れてしまうようにしてあなたたちは自分を見失ってしまっていないか。しかし、「烏」や「雑草」が、あるがままに、今輝いている現実、その満ち満ちたいのちを考えて見なさい、と。その、社会から軽んじられている生命が、すでに祝福されてしまっているという事実に注目することによって「思い悩み」を打ち砕くのが、今日の主の言葉です。あの栄華を極めたソロモンなんぞとは比べ物にならないほど、あなたたちの生命は尊いのだとして、です。

 主イエスの慈しみがここにはあります。この生命への立ち帰りの言葉が、「思い悩むな」ということなのです。「烏」や「野原の花」として侮蔑されている被差別者に向けられた、全面的ないのちの肯定です。このことにわたしたちは慰められます。しかし一方で、侮蔑的な言葉、いわば、「ヘイトスピーチ」を少数者に向かって投げかける多数者の側にいることも自覚する必要があることに気づかされるのです。わたしたちはヘイトスピーチを直接することはないかもしれません。しかし、それを止めることをしていない、ということにおいて加担しているのです。このことを自覚することはなかなか難しいものです。

 聖書における主イエスの言葉は、「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」語られているかに注目する必要がありますが、「思い悩むな」は、この5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)を自分事の中で整理して、強いられた座標軸を少しずらしてみよ、という促しであり、同時に招きの言葉でもあるのです。侮蔑の言葉を語ることで自らの正しさにあることにしがみ付き、他者を排除することでしか自分を確証できないような状態から自由にならなければならないのです。主イエスの「烏」と「野原の花」の祝福を少数者と共に与るためには、別の道を選ばなくてはならないのです。侮蔑する多数派の側の立場を自ら暴き出しながら悔い改めていかねければならないのです。「痛みを抱えている仲間の側から見たことあるのか」「仲間として、あるいは一番小さくされている弱い立場に置いてきぼりにされているその人たちの側から見たことあるのか」という本田哲郎神父の読み方に共鳴します。そのうえで、主イエスの道に連なる道を模索しながら歩んでいきたいのです。

2022年6月12日 (日)

ルカによる福音書 12章10~12節 「信仰を言い表す」

~子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスの活動は、ガリラヤ地方からユダヤ教の中心の街であるエルサレムに移ってきました。ある晩、弟子たちと一緒にいるところに、主イエスを邪魔者だと思っていた人たちに連れられた兵隊たちがやってきて、主イエスは逮捕されてしまいます。その時に、あれほどどんなことがあってもイエスさまについていくと言っていたペトロは怖くて逃げ出してしまったのです。そして、主イエスが逮捕されて、裁判を受け、十字架で殺されていくのを遠くから見ることしかできませんでした。その時に色んな人たちから、「お前はあのイエスという人の仲間ではないのか」と聞かれます。ペトロは自分も捕まってしまうのではないかと不安で、「そんな人は知らない」と3回も答えてしまったのです。

 主イエスは十字架で殺されてから3日目に生き返りました。この復活の主イエスは逃げ出してしまった弟子たちを赦し、聖霊の力によって励まし勇気を与えるのです。ペトロは、主イエスと一緒にいることができなかったこと、逃げ出してしまったことが恥ずかしくて悲しくて仕方がなかったのですが、こんなひどい自分を主イエスが赦してくださったということに驚き、そして嬉しさに溢れます。復活の主イエスから新しく生きていくことができる力をいただいたのです。この力によって、心の底から「信仰を言い表す」ことができるようにされたのです。「イエスさま大好き」という言葉がはじめて本当にされていったのです。「イエスさまが大好き」なのは、主イエスの復活の力の赦しにあることが知らされたのです。このことによってペトロは、主イエスの仲間であることを怖がったり脅えたりすることをしなくなりました。「イエスさま大好き」という、とても明るい心や気持ちで生きることができるようになったのです。主イエスを邪魔者だと思うような人たちにいじめられたって本当に怖いことではない、と分かったからです。何があっても、どんなことが起こっても復活の主イエスのお守りがあるから大丈夫だと知らされたからです。

 困ったことや辛いこと、悩みや悲しいことがあっても、主イエスの力に導かれて自分の言葉で言い表すことができるようにされたのです。今日の聖書には、このように書かれています。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」どんな時でも、イエスさまは目に見えなくても聖霊として一緒にいてくださるのだから大丈夫、わたしたちの語るべき、そして聖霊の働きが言葉を作り出し、導き、支えてくださることを知っていれば大丈夫なのです。

2022年1月30日 (日)

ルカによる福音書 4章1~12節 「イエスの試練~神は何を望むのか?」 井谷 淳

 この箇所にてイエスは、分かりやすく「荒野」という場所に身を置きます。時系列に沿って聖書を読むとその直前に洗礼を受けていますが、「聖霊」に満たされていた状況の中で、伝道者として自分自身に欠落していた内面的世界への検証の必要性を強く感じたのでありましょう。聖書の中での「荒野」という場所は神から最も離れた場所、神から見捨てられてしまった場所であります。イエスが処刑されたゴルゴダの丘もまた、そのような神の恩恵から外されてしまった場所でありました。最も荒廃した場所にて霊によって引き回されている中でイエスは自分自身の様々な「弱さ」を認識し、その内的な欺瞞性と対峙していかざるを得ない状況がもたらされたのであります。本日の箇所で頻出する「悪魔」の存在はイエス自身が抱える「もう一人の自分自身」であり、神に換わってイエス自身の信仰の対象を乗り換えさせようと何度も試むのであります。「罪」の根幹には必ず「誘惑」が存在いたします。悪魔はその「誘惑の引き金」に指をかけさせる存在である事をイエスは熟知していました。洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、伝道者としての意識が高まっていたイエスは未だ自己の内的世界にこの[誘惑]が多く存在し続けている事を、霊によって告げ知らされてしまったのであります。この「誘惑」が「弱さ」であり、「欺瞞」であります。そして「誘惑」の内容は宗教者として影響力を持つであろう自分自身への期待感、物理的に奇跡を起こすことの出来る「自己能力の乱用」、世の在り方を操作し、支配力を持つという「虚栄心」及び「自己承認欲求」、神殿という宗教象徴の上に立つという「自己顕示欲求」等々であります。これらの事柄がイエスの内的欲求として存在していた事を、イエス自身が明確に認識してしまったのであります。

 イエス自身が一つ間違えれば、誘惑の引き金を引き「罪」へのハードルを越えてしまう、否自分のような者こそが、「罪」を容易に犯してしまう事をも同時に認識してしまったのであります。或いはこのような誘惑を抱えている自分自身を既に「罪人」であると規定してしまった可能性もあるのではないでしょうか。聖書中に「罪人との宴」、「罪の無い者から石を投げよ」等の場面の中でイエスは罪人に寄り添う存在ではありません。イエスもまた罪人であったのです。現代社会の「荒野」の中で罪人イエスは罪人である私達と今も共にあるのです。

2021年6月27日 (日)

ルカによる福音書 23章26~27節 「共に背負った十字架」 井谷淳 伝道師

 私達は一生の中でどれだけの人と出会い、また擦れ違っていくのでしょうか?

 人間は「性質」としてある程度固定化された「予定調和的な関係性」をイメージし、その人間関係の中での「安定感」を求めてゆく。内容を問わず「共同体」という「社会単位」はこの様に営まれているのではないかと感じます。そしてその「共同体」には必然的に「掟」が存在致します。恐らく予定調和的な人間関係の「最大公約数の不文律」の要素が[掟]として機能してゆくのでしょう。そしてその「掟」から外れる者、或いは何かの「違和感」を感じる人間に対しては「排除の論理」が働いてゆきます。本日の聖書箇所の主人公は正にこの「排除の論理」の中で「社会から消去されてゆこうとするイエス」と「全く(偶発的)にイエスと出会い」その「死に最後まで立ち会った人物」である「キレネ人シモン」であります。

 この「キレネ人シモン」は、たまたま「通行していただけ」なのでしょう。そして本当に「偶然に」イエスの「十字架の行列」と「遭遇してしまった」のです。少なくとも「イエスという罪人」が十字架に貼り付けになる一部始終を「眺めたい」という「野次馬の類」ではなかった筈です。たまたま「頑健」で「体格が良い」という理由だけでローマ兵から「白羽の矢」を立てられたこの「キレネ人シモン」は強制的に「人事不肖」に陥ったイエスの代わりに正に「無理やり」本来的には「イエスが背負うべき十字架」を担がされてしまったのであります。「シモン」はイエスの事を全く知りません。全くの初対面であります。しかし「担がされた重い十字架」だけではなく、イエスに向かって投げられた石つぶてが当たったり、イエスを嘲る罵声をも浴びせられます。「野次馬である群集」にとっては「罪人イエス」と共に十字架を担ぎ歩いているシモンは「同類の人間」に見えた事でありましょう。シモンは内心、全く「生きた心地」はしなかった筈です。

 刑場に着きシモンはイエスの「臨終」に立ち会います。イエスとシモンはまともに会話を交わす時間も無かったでしょう。この後シモンはイエスが短い人生の中で「何を背負わされてきたのか」悟り、キリスト者と成って行ったので在ります。共同体から「排除され」「消去されてゆくイエス」の「臨終」に立ち会ったシモンの人生はこの後「大きな転換」を迎えてゆきます。本日の箇所は私達に「隣人」「人間の関わり」に関して大いに考えさせる箇所なのではないでしょうか。街で擦れ違ってゆく不特定多数の「見ず知らずの人達」。神が私達に望まれている関わりがその中にもあるのかもしれません。

2020年12月20日 (日)

ルカによる福音書 2章1~7節 「飼い葉桶の情景」 

 幼な子の主イエスの生まれてきた姿を思うと、何だか悲しくて寂しくて惨めな感じがします。王などの偉い人の幼な子と全然違います。でも、この姿こそが、神が本当の人間として生まれた姿なのだと忘れないようにと聖書は教えてくれているのです。

 幼な子の主イエスはマリアとヨセフが宿もなく助けもなく、困り果てているところに生まれてきました。清潔とは言い難い動物の餌箱に寝かされて。このことは、これから育っていく主イエスが、どのような方なのかを暗示しています。

主イエスは、わたしたちが知っているようにやがておとなになり、悲しくて寂しくて惨めな思いをし、いじめられている人や差別され、弱くされている人たちと心の通じ合う友だちになっていくのです。つらい思いをしてきた人は、同じような人たちと、体の真ん中から分かり合いたいという心が与えられます。主イエスは、寂しくて悲しくて惨めなところに生まれてきたからこそ、ひとりぼっちの人が一人でもいてはいけないことを知っていたのです。今生きていることを誰かと一緒に喜び合うことが何よりも大切なのだということです。人が生きるためには、誰かと喜びによってつながっているという実感が大切です。誰かに見守られている感覚でもあります。

 この、主イエスの姿から、誰かに心を寄せていくことを忘れてはいけないことがクリスマスの意味だと教えられてくるのです。クリスマスは、餌箱に寝かされている主イエスの姿を思うことで、やがておとなになった主イエスが寄り添う人になったこと、元気づける人になったこと、いのちを大切にする人になったこと、人と人とはお互いのいのちを喜び合ってこそ生きるものだと指し示す物語です。そのことを忘れないよう、わたしたちはクリスマスを祝うのです。

 クリスマスを短い言葉で言うと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ316)ということです。

 主イエスが生まれるずっと前に書かれた「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)の言葉にある「男の子」が主イエスのことだと教会は信じています。「インマヌエル」という言葉は、「神は我々と共におられる」ということです。

 主イエスとしてがわたしたちと一緒にいてくださることを心に刻むこと、それがクリスマスです。とりわけ寂しい思いをしている人のところに、あなたと一緒にいるのだと生まれてくださいます。その人の生きている場所に来てくださるのです。そのことを決して忘れてはならない、嬉しいことなのだよと心に刻むことなのです。主イエスが、いつだってわたしたちと一緒にいてくださって助けてくださり祝福してくださる。このことから力をいただいて、わたしたち一人ひとりも誰かの友だちになっていくように、お互いを喜び合っていくようにと教えているのです。

2020年12月 6日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「お言葉どおり」

 今日の聖書は、天使からのお告げに対して開かれていくマリアの受け身の姿勢、受動性を表わしています。それは38節の「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とあるとおりです。その「お言葉」とは、良き知らせである「福音」を指し、その内容は人に仕える道を歩みつつ十字架から復活へと至る主イエスのいのちそのものです。そのいのちを孕むことをもって「この身に成りますように。」と受け止めているのです。

 この神に対して受け身である、受動的なマリアは、同時に世に対して行動的、能動的に立ち上がるのです。146節から55節の歌です。この箇書では、この世において弱りを強いられている人々の自由に向かう解放が高らかに歌われています。特に51節から53節では明確です。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」

 このマリアの物語は、神が歴史に介入し、その業がわが身に起こる時に受動から能動へと転じていく信仰のあり方が明確な形になっているのです。すなわち、神に対して自らの存在を受動的に受け止めることは、同時にこの世に対する能動的な正義を求める道へと展開するのだという筋道があることを示しているのです。このマリアの受動から能動への態度決定は、主イエスのあり方の先取りとして受け止めることができます。主イエスの支配とは、人を、そのあるがままで祝福されたいのちを回復していくこです。

 ルカによる福音書では「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(62021)とあるように、主イエスの活動は能動的な部分ばかりが目立つように思われるかもしれません。しかし、その前提としてゲッセマネの祈り「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」があり、それは先ほどのマリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉によって先取りされているのです。祈りとは神からの呼びかけに対する応答として受動的な信仰的な態度なのです。主イエスの公の活動は「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」の道なのです。もちろん、自らの考えや判断に基づく主体的な行動を続けて来られたことに間違いはありませんが、根っこのところで支えているのは神に対しする受動であったことを忘れてはなりません。

 この、受動から能動への道筋を教会はクリスマスの備えとしてのアドベントにおいて共々確認しておきたいのです。マリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」との祈りの言葉の共鳴に生きることが、主イエスの道に連なるからです。あるがままにと受け身であること、受動的であることは消極的な生き方ではありません。積極的な能動的な生き方を開いていく神の支えなのです。

2020年11月29日 (日)

ルカによる福音書 1章5~25節 「待つ事の意味」  井谷 淳 

 私達の目の前にもたらされる[朗報]とは時として「両義的なもの」であります。イエスの生誕日であるクリスマスは私達にとっては「喜ばしい福音の日」ですが、他宗教を信ずる「隣人」にとっては「喜べない日」なのかもしれません。このように[知らせ]を受け取る人が「直面している現実」の[在り方]によってその[知らせ]の「価値」も様々に変わってしまうのです。

 祭司ザカリアが天使ガブリエルによってヨハネ生誕の「知らせ」を受けた時の心情は複雑なものでありました。待望の子どもを授かったと素直に喜べない気持ちの背後には、ザカリアとエリザベトの直面している[二人とも既に年をとっていた](7節)という現実があります。生まれてくる子どもに対して果たして充分に「扶養者としての役目」を果たせるだろうかという思い、子が一人前になるまで寄り添ってゆけるだろうかという「現実的な不安」が頭をよぎった事でしょう。また「何故今になって」「何故一番望んでいた時期に子を授けてくれなかったのだ?」と神を疑い、恨む思いも気持ちに含まれていたのかも知れません。神はこのようなザカリアの複雑な心情を見抜いたように、彼に[沈黙]を余儀なくさせます。目前に在る「現世的な事情」から離れ[沈黙]の中での[祈り]の中で神が「本当に求めているもの」を見極める時間をザカリアに与えたのです。その意において「待つ」という事は時として「沈黙」と同義であると感じます。生まれてくる子どもを育ててゆく事は神から与えられた「喜び」であり、同時に神から与えられた「試練」でもあります。冒頭にお伝えした「朗報に纏わる両義性」をどのように乗り越えてゆくかが、この二人が神から与えられた新しい「課題」でありました。

 生まれてきた洗礼者ヨハネは後にヘロデ王によって殺害されてしまいます。そして「待望のメシア」イエスも十字架の上で非業の死を遂げます。現世的な感覚においてはヨハネとイエスの死は決して「喜ばしいもの」ではないのかも知れません。しかし後に「試練を背負わされる運命」にあるヨハネとイエスという二人の人物の関係をも考えながら「生誕の意味」が何故に喜ばしいものであるのか「待ちながら」「祈りの中で考えてゆく」そのような時間をこの「待降節」の期間に私達は神から与えられていると切に感じるのです。

2020年11月15日 (日)

ルカによる福音書 2章52節 「神と人とに愛されて」 -子ども祝福合同礼拝―

 アニメの「それ行け!アンパンマン」には、「バイキンマン」(正しくは「ばいきんまん」)という悪役が登場しますが、小さな子どもに人気のあるキャラクターのようです。バイキンマンのする「悪さ」に共鳴するからかもしれません。バイキンマンの心は、多かれ少なかれ誰もがもっているものです。アンパンマンも、悪戯や意地悪をするバイキンマンを諫めはするものの、排除しようとはしません。バイキンマンの存在をそのまま受け止めているようです。バイキンマンの心が押さえつけられたり、切り捨てたりせずにしっかり受け止められてこそ、子どもたちは安心して育ち、バイキンマンの心をコントロールする技を身につけていけるのでしょう。子どもたちのもつバイキンマンの心を、まるごとに受けとめるのがおとなの役目です。おとなにとって大切なのは、子どもを教え導くことよりも、寄り添い見守ることだと思います。

 子どもたちは、バイキンマンの心がムクムク出てきてしまっても大丈夫。その心も一緒に神様は受け止めてくださいます。お家の人や先生たちは、悪いことをしたときには叱るでしょう。それがおとなの役割だからです。アンパンマンがバイキンマンと闘うように。でも、神様はそっと見守っていてくださる、そのことをどうぞ忘れないでください。勉強ができたら、お手伝いをしたら、○○ができたら‥‥という条件は、神様には全くないのです。

 子どもたちがバイキンマンに心惹かれてしまう現実をこそ今、子どももおとなも一緒に受け止めていくことが必要です。「○○すれば」とか、「××になれば」ということなしに、「あるがままのあなたが全部OKだよ」と受け止められている安心感をもつこと、寄り添ってくれるおとながいると心から感じられること、それがまず何よりも大切です。バイキンマンを受け入れているアンパンマンのように、子どもの自分勝手を受け止めることができるおとなでありたい、と願います。

 このあり方をイエス様は子どもたちを祝福することで教えてくれています。イエス様のところに子どもたちが連れて来られた時に弟子たちが叱りますが、泣いたり走ったりうるさくて「良い子」ではなかったからかもしれません。しかしイエスは、弟子たちを怒りました。子どもたちをあるがままで受け入れたのです。抱き上げ、手を置いて祝福されたとは、そういうことです。

 「神と人とに愛された」状態とは、イエスがこのようにあるがままの子どもたちの姿を「大丈夫」「OK」と言っていることに、おとなたちも賛成していくことです。子どもたちを見守るおとなたち、おとなたちを導く子どもたち。この関係をイエスが作り出していくださっていることを覚える日にしましょう。きっと心が暖かくなっていくはずです。

2020年10月11日 (日)

ルカによる福音書 12章31~34節 「天に富を積みなさい」鳥潟 紘一 神学生(農村伝道神学校)

創世記1章には「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」と書かれています。この記述には、その時代、王こそが神の姿を表し、王だけが価値のある存在とされる価値観に対する強い批判があります。ここには、いや、王だけではない、全ての人間が神にかたどられた存在であり、全ての人間には価値があるんだという思想が含まれています。イエスはその生涯の歩みのなかで、名もない一人一人を大事にしてくれました。社会からはじき出されるような一人にも、「あなたは大事」と教えてくれました。5千人が満腹したというあの奇跡物語は、人々がそんな彼と出会い、その愛に触れてしまったために、五千人という大人数にもかかわらず、一人一人が、一人一人として、一人一人のために、互いに分かち合うことができた。与え合うことができたのだと想像します。ではその時、イエスは何をしていたのか。ただそこにいただけなのか。そうかもしれません。ただし、人間のことを、徹底的に信じていて下さいました。「神にかたどって創造された」人間の価値と、そして愛の可能性を信じて、そして照らし出した。普段ではなかなかに見えにくい、自分でさえ気づかないような、人間の愛の可能性に光を当ててくれた。人間にとって「信じる」ことは力になりますが、「信じられる」ということもまた力です。イエスは信じたのだと思います。これが人間に示されたキリストの奇跡だと、今では考えています。世界には、思ったよりも結構たくさんの善意があります。確かに人間は罪に囚われます。しかしこの罪の存在が同時に愛を持つというのも確かな事実です。小さなことに目を向けたいと思います。小さな愛に気付きたいと思います。イエス・キリストが示すからです。このイエス・キリストという存在のゆえに、人間に向けた神の眼差しがいかなるものかを思い出したいと思います。

2020年5月10日 (日)

ルカによる福音書 8章22~25節 「イエスはそこにいるのだから」

 ある日、主イエスは「湖の向こう岸に渡ろう」と弟子たちと舟に乗り込みました。「向こう岸」には、後に続く26節からの文脈では「悪霊に取りつかれたゲラサの人」がいたので、おそらく会いに行ったのだと思われます。40節の物語でも二人の女性の癒しの物語が続いています。この「湖の向こう岸に渡ろう」という言葉には、出会いを求めて、しかも癒しの業を行うという目的意識を念頭にした方向が示されていると読むことができます。つまり、病という困難情況から人を自由にすることで生き生きとしたいのちの質を向上させ、今生きていることへの喜びを取り戻すことが目的とされていたのでしょう。

 今日の聖書は、その途上でのエピソードとなります。その主イエスの意志を理解できなかった弟子たちの無理解の姿を描くことで、読み手に反面教師としての姿を見せようとしているのではないしょうか。

 舟を漕ぎ出したのは良かったのですが、主イエスはぐっすりと寝てしまったとあります。そこに急に激しい突風が起こり、水をかぶってしまい、このままでは船が沈んでしまう危険にさらさされると弟子たちは恐怖を覚えたのでしょう。ガリラヤ湖の突風は珍しいことではなかったようです。周りは山に囲まれており、天気の加減で冷たい風が流れ込んでくることもあったようなのです。弟子たちの何人もがガリラヤ湖の漁師でしたから、この現象について知らなかったはずがありません。突風に対処する術を知らなかったとは考えにくいのです。それなのに何故、彼らはおののいてしまったのでしょうか。主イエスが一緒にいることから油断していたのでしょうか、慌てて主イエスを起こして「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めます。この、弟子たちの姿。自分たちはプロの漁師であるとのプライドを捨てています。主イエスがいるのだからと、自分たちの信仰に安住することで理由のない自信や安心感にすでに溺れてしまっていたのかもしれません。主イエスの存在に信頼つつも、寝ていることで、その働きが無効にされているという不信感であったのかもしれません。

 主イエスは寝ています。突風により水をかぶり舟が沈むような状況に襲われたとしても、です。ここに主イエスの楽天的な信の態度を読み取ることができます。しばしば、わたしたちは何か不安なことや悩み、悲しさに陥ると眠れなくなることがあります。眠ることができるとは、安心感の中で神の守りに全的信頼を寄せることができているということです。突風が起こることもあるだろう、ガリラヤ湖の自然なのだから。しかし、眠ることができる。この態度をテキストから信仰と読むことができるのではないでしょうか。困難な時にでも眠れる力。弟子たちに信があれば主イエスと一緒に寝ていることができた、わたしはそう思います。しかし、弟子たちはその無理解と不信仰のゆえに主イエスを起こしたのです。すると主イエスは起き上がって風と荒波を叱りつけ、嵐は静まって凪になったのです。主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問いかけ、弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と言い合った。こういう物語です。

 このテキストは、ただ単に自然の脅威に対して主イエスが絶対的な力をもっている素晴らしい能力者だということではありません。突風によって水をかぶり沈みかける舟の中で安心して眠る主イエスと、慌てふためく弟子たちの対比によって、信仰とは何かを弟子たちを反面教師として読者に悟らせようという意図を読み取ることができます。

 困難な状況に対して、眠ることで示される信なのか慌てふためく不信なのかを、神に委ねて生きるあり方を問うているのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」という弟子たちの言葉は、自然奇跡を行った主イエスに対する感嘆と偉大な奇跡行為者への驚きという風に捉えてしまうと、万能者である主イエスの像しか与えられません。そうではないのです。もちろん奇跡行為者である主イエスの力を否定するわけではありません。重要なのは、反面教師としての弟子たちの姿であり、これは、現代の弟子である教会に対する、自らの信仰に安住してはいないか、自らの信仰に対する自己検証である神学することを怠ってはいないか、という警告の物語なのです。

 確かに、わたしたちは主イエスをキリストと信じ、告白し、教会につながっています。主イエスが一緒にいてくださることを疑いもしていないでしょう。しかしそれはどこまで本当で真摯なものか、というところまでテキストは問いかけているのです。主イエスが一緒にいてくださるはずなのに、何故課題や苦しみから自由になれないのか、と。次から次へと解決困難な問題が起こってくる中、眠っておられる主イエスに対し、働いていないキリストなのではないかと不信に揺れていないかと。

 しかし、主イエスが眠っておられるのは、そこに全的な信があるからに他ならないのです。本当に困難な状況なのかを見極める必要があるということです。

 それでも、「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めたことに対して「風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」のですから「めでたし、めでたし」なのでしょう、きっと。しかし、忘れてはならないのは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という問いに対して「「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と感嘆をもって答えるだけでは充分ではないということです。「この方はどなたなのだろう」という疑問に対して、神学していく義務がキリスト者にあるという自覚が大切なのではないでしょうか。

 主イエスが共にいてくださることを根拠にしつつ、主イエスと一緒に歩む道に、わたしたちはすでに招かれてしまっているのです。8章26節以下では奇跡物語が続きます。最初に述べたように、出会い、苦しんでいる人の生き直しを支えるために、「向こう岸」に行くのです。9章1節からは弟子たちの派遣の記事へとさらに続きます。弟子たちは、主イエスの命じる伝道に導かれていくのです。ルカによる福音書に描かれる弟子たちの姿は過去の事柄に留まりません。今の、そしてこれからのわたしたちの姿でもあるのです。主イエスに促され、支えが必要な人と出会い、その隣人となっていく時に、その根拠となるのは、嵐の中、主イエスが共にいてくださる安心です。ただし、そこで油断しないように気を付けなければなりません。嵐の湖で眠る主イエスに動揺せず、信頼することができるか。常に「この方はどなたなのだろう」との問いを生きるものとして整えられ、主イエスに相応しく歩むことができるように祈りましょう。

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