ルカによる福音書

2024年3月17日 (日)

ルカによる福音書 15章31~32節 「もう一度最初から」

 聖書朗読はルカによる福音書15章31~32節ですが、この物語自体は11節から始まる非常に有名な物語です。

 ある人に息子が二人いました。弟が本来は父の死後に受け継ぐべき財産を生前分与してほしいと願い、そのようになりました。その弟はご承知の通り、放蕩の限りを尽くしてしまい、一文無しになります。さらに飢饉も起こり、食べることすらままならなくなります。仕事はきつく、賃金は安く、やむなくユダヤ人の忌み嫌うブタの世話をする仕事に就きます。ブタの餌すら食べたいと思うほどの困窮状態になりました。そこで、弟は天に対して、父に対して罪を犯していたことを悟り、帰るのです。

 そして【15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。】

 このようにして宴会が始まります。父は、放蕩の限りを尽したこの弟を迎え入れたのです。

 放蕩に身を委ねたこの弟は父の存在に気づかされます。父は底が抜けるほどの愛によって包み込むのです。この父親において示されているのは、神の赦しとしての愛のありようです。無理筋を通して財産を生前贈与させて金に換え、それを使い果たして「もう駄目だ」「もう限界だ」というところにまで身を持ち崩してしまった、愚かさの極みとも言うべき息子に対し、。赦しにより愛によって受け入れていることを伝え、もう一度最初から新しく生き直すためのチャンスを与えたのです。

 わたしたちは、イエス・キリストにおける赦しとしての神の愛の姿をこの物語から示されているのだと受け止めることができます。裏切りや不義理を重ねて誰からも信用されず、窮地に追い詰められても、この物語を生きた物語として信じられるなら、わたしたちは今日のいのちを感謝して受けとめることができるはずです。

2024年2月 4日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「ここでもあそこでもなく」

 「神の国はいつ来るのか」という問いは決して観念的なことや心の内側のことに留まらず、今ある世界・体制に対して「あなたはどのような立場をとるのか」という問題意識と無縁ではありません。神の国をどのようにイメージするのか、それがどのようにして来るのか、は真面目にこの世界について接しようと思う人たちにとっては喫緊の課題であったと言えるからです。もうこの世界は神によって終わりが告げられるなら、ローマの支配はことごとく止み、やって来るのは神の平安であり、そこに身を委ねて抵抗の闘いをするのか、あるいは来るべき日は近いのだから何もしないままその時まで耐え忍ぶのか、様々な立場があったことは想像できます。

 主イエスの答えは、彼らの期待するものではありませんでした。「神の国は、見える形では来ない『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と言うのは、神の名による革命によって政治形態を転覆させることとか、新しい王であるとか預言者であるとか救い主を自称する人たちを持ち上げて崇め奉るような運動とか、その他の実力者やカリスマティカーに御すがりしていこう、という態度とは全く異なったものでした。それは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」という言葉によって分かります。この「あなたがたの間」は、しばしば精神性や内面性のこと、つまり心の持ちようのことだとされますが、平たい言葉で言えば「関係」のことです。神の国とは、人と人との関係において立ち現われるものなのだというのです。相手のことを思いやり、自分からもそうすること。お互いのいのちを愛おしく大切にしあうことの中に神の国は立ち現われるという、主イエスの信頼の表明として読むことができるのです。荒れ果てた時代の乾ききり絶望と隣り合わせの中でも、人には愛し合うことができるのだし、そのお互いを大切にしながら、<今>を生き抜くことの中にこそ神の国はある、そうでなければ必ずそうして見せる、という主イエスの決意なのかもしれません。

 人は神から祝福され恵まれなければならないのに、何故このように人々がお互いにレッテルを張り付け憎しみ合わなければならないのか、軽蔑や差別や抑圧、人が人としてそのいのちが軽くされている現実に対して、神の祝福を受け入れることを取り戻したのです。主イエスには、人々に対する全面的な肯定感が満ち溢れていたからこそ、神の国の実在感があったのです。

 実態として「見える形では」捉えられない「関係」の豊かさを追い求め、育て、慈しむが「わたしとあなた」「わたしとわたし」「わたしと誰か」このような関係の中で立ち現われる神の国なのです。「間」とは手応えのない感覚かもしれません。しかし、ちょっとした言葉や仕草や眼差しに、主イエスに倣う「愛」の欠片があれば決して不可能ではないのです。今生きている場所での<今ここで>のその神の国を喜んで受け入れたいと願うのです。身近なところから世界大の広がりの中で人の作り出す地獄の時代は続いています。だからこそ、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」との言葉の尊さ、豊かさ、憐み深さに対してご一緒に心を寄せたいのです。

2024年1月 7日 (日)

ルカによる福音書 2章8~20節 「羊飼いたちの賛美」

 当時の被差別者である羊飼いたちは、主イエスとマリアとヨセフとの出会いによって生き方を全面的に変えます。20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とあります。救い主である幼な子との出会いがあまりにも素晴らしかったので自分たちの現場に向かって賛美歌を歌いながら帰って行ったと読めます。しかし、この「賛美しながら帰って行った」とは、賛美する姿勢で自分たちが現場で生きる決意をしたのだと読む方が相応しいと思います。かつては他人の眼差しに敵意や悪意を感じ、できるだけ接触を避け、また自己卑下もあったであろう羊飼いたちが、それらとは正反対の生き方へと転じたということではないでしょうか。胸を張り、正面を見据え、自らの尊厳を認めつつ生きる生き方へと転じたのです。神を讃える賛美の生き方とは、自らの尊厳に生きることと別のことではありません。強いられる軽蔑などの苦しみに寄り添う無力な幼子こそがまことのキリストであることは、自分たちの生き方を全面的に認め支えるところの「あなたがたへのしるしである」のです。 羊飼いたちが「賛美しながら帰って行った」という生き方の転換は、いわば人権の回復がなされたのだと理解します。この人権の回復に寄り添うのかどうかが、クリスマスの実質化と非常に強く共鳴しているのだと考えざるを得ないのです。クリスマスを祝うということは、ただ単に主イエス・キリストがこの世に向かってプレゼントされたことに留まらないのです。問題は、その中身であり方向性です。そして、それを自分たちの課題として担うことが、そのプレゼントとしての恵みに応えていく道なのではないかと思うのです。

 主イエスのナザレでの登場においてイザヤ書の言葉があります。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」。このような解放、自由への招きとしての「主の年」の実現が主イエスなのです。水平な平等な人間関係、お互いの人権が尊重される社会の実現です。この方向付けがクリスマスでもあるのです。

 クリスマスにおいて主イエス・キリストというプレゼントを何にも代え難い恵みとして受け止めたいのです。そして、わたしたちも、羊飼いたちの「賛美しながら帰って行った」という生き方に心を寄せ共鳴する、わたしたち自身の「賛美しながら帰って行った」が出来事となる道を求めてご一緒に歩みたいと思います。現代の課題としてクリスマスの祝福を共に受けることとは、現代の羊飼いたちと連帯していくことと、この世において弱い立場に置かれている人びとの尊厳を取り戻す働きにつながることと、別のことではありません。

2023年12月31日 (日)

ルカによる福音書 1章46~55節 「主をあがめ」

 マリアは「主をあがめ」「救い主である神を喜びたたえます」。それは、神の主権が確かであることによって、自らに起こっている救い主を宿していることへの賛美です。しかも、その内容は非常に力強く、神の思いや願いがどのようにして、どこに向かっているのかを歌い上げるのです。51節以下を読んでみます。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」。これは、神の主権がこの世に打ち立てられることによる革命の宣言のようでもあります。この世の価値観一切が逆転し、神の世界・神の国の実現と到来を歌い上げているのです。ルカによる福音書の「つもり」としては、この「革命」は主イエス・キリストの登場により実現する。世俗のまた宗教的権力によって優劣や上下関係が作りだされている現実を変革し、抑圧され差別されている人びとを解放し、飢えているものを満たし、富める者を空腹へと追いやるのだというのです。この記事はルカによる福音書での主イエスがナザレの会堂で安息日に会堂でイザヤ書を朗読した記事を思い起こさせます(41621)。

 ここで注目したいのは、マリアの革命の声は彼女自身の決意によって発せられてはいますが、彼女自身を根拠としたものではなく、天使ガブリエルを通して伝えられた主イエスの誕生の知らせに関するやり取りの中で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えた、その従順に由来するのです。語られている神からの言葉に「戸惑い」「考え込んだ」とありますが、これをわたしは祈りと呼んでも間違いではないと思います。つまり、この神の言葉に対して「お言葉どおり、この身に成りますように」と自らの位置を受けとめ、祈りの中で革命の歌という自分からの主体的な働きかけの言葉へと転じていったのです。この受動から祈りにおいて能動へと転じていくあり方は、マリアにのみ留まるのではなくて、主イエスに従う者のあり方全般のひな型とでもいうべき姿なのではないでしょうか。神の言葉は語られている。その言葉に対して全存在をかけて受け身となり祈る。その中で能動的に初めの一歩として胸を張って歩み出す。これが信仰者のあり方なのだと呼びかけているのではないでしょうか。クリスマスを祝うことの意味は、この世の権力を相対化し、主イエス・キリストの王権が確立されていく道に受動から祈りをもって能動へと導かれていくところにあるのではないでしょうか。

2023年12月10日 (日)

ルカによる福音書 4章14~21節 「主の恵み」

 ルカ福音書によれば、主イエスの登場は「主の恵みの年を告げるためである」ということです。この「恵みの年」とは、レビ記25章に描かれている「ヨベルの年」のことです。細かい規定になっているのですが、連作障害のことを考え畑を7年目に休ませるという、当時の農業の知恵が反映されています。大きなテーマは、77倍の次の年には、つまり50年目ごとに1回、すべての借金はなくされるし、土地も元の持ち主に返され、奴隷も解放される、というものです。これが本当に実行されたのかどうかは確かではありませんし、読み方によってはイスラエル同胞の間という閉じられた発想もある感じなのです。もしかしたら、この「ヨベルの年」というものは、イスラエルの民が頭の中で思い描いただけの夢物語や理想の繁栄に過ぎないのかもしれません。

 しかし、イスラエルの民を選び支え導いた神の意志はどこにあるのかを祈りの中から応えようとした世界観であるなら、現代的な課題として受け止め直すには十分な問題提起であろうと思えるのです。借金に喘ぎ、土地も奪われ、奴隷とされてしまう過酷な現実、その歴史の中で、神による恵みが50年目の年において実現する、これは具体的な歴史に介入し、働きかける「主の恵み」以外の何物でもない、そのような信仰がここにはあるのではないでしょうか。

 貧しいところ、困り果てているところに対して、歪みを平らにするように社会全体の不平等を一度リセットし、平らにするという発想があるのです。借金などで首が回らない経済状態を知っているからこそ、ここからの解放が「主の恵み」なのだとされるのです。社会をもう一度正しい方向に向かって作り直していく道はないのか、このことを人間の知恵によるのではなく神による主の恵みとしての律法、掟の回復として主イエスは登場したのです。いわば、世直しの具体として、です。これをこそ「福音」なのだとルカは証言しています。さらに「捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし」と。この「ヨベルの年」「主の恵みの年」は不平等によって敗れた世界を回復するという教えです。

 誰もが貧困や暴力やあらゆる悪しき力や出来事から解放され、喜びと平安のうちに生きることのできる世界が必ずや来るのだと信じる信仰において、今ある理不尽に抗い、主イエスにある正義を祈り求めつつ歩むとき、わたしたちの場には、クリスマスの主イエスが今年も来てくださるに違いないのです。

2023年12月 3日 (日)

ルカによる福音書 21章25~28節 「人の子が来る」

 今日の聖書は、世の終わりに関わる記事の文脈になります。戦争や暴動、天変地異やいのちの危険など破滅の前兆や予感だけでなく実感として肌で感じられる状況があるのです。いまのわたしたちと同じように。もうこの世は終わりを迎えているのではないか、恐怖や不安や絶望の中で耐えうるのか、どうしたらよいのか、ただ滅びゆく世界の中で何もできず、自らの無力さに打ちひしがれているしかないのか、このような状況の中での態度決定が求められているのではないでしょうか。

 この世界は神による天地創造で始まったのであれば、終わりもいつかはやって来るのでしょう。しかし、その終わりの時とは神によってのみもたらされるものであるのだから、そのことに心騒がせるのではなく、今取りうる態度決定に心を注ぐべきとの提案がなされているのではないか、その提案が今日の聖書なのではないだろうかと思うのです。クリスマスを待つことと、世の終わりを待つこととはどこか似ています。いずれも、主は来られるという知らせのゆえに態度決定が整えられるのだということです。クリスマスの近づきも世の終わりの近づきも、主は来られるがゆえにあえて希望する、信仰的な態度が求められるのです。

 世の終わりを予感させるようなことがあっても、それは終わりではない。終わりは神にのみあり、その時は神だけが知っているのだということです。前兆のようなものは、あくまで「ようなもの」に過ぎないのです。わたしたちがより頼むべき言葉とは、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」。ここにあります。来臨の主イエスはやがて来られる、その根とはクリスマスの主イエスが2000年前に来られたところにあります。この主イエスは、悲惨の只中に向かって語りかけたように生き抜かれたのです。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」、主イエスの「幸いである」との祝福は、そのような悲惨の中にあって、その悲惨を打ち破る闘いの生きた言葉であったのです。この言葉の決定的な転回点が十字架刑と復活であるのです。やがて天に昇られた主イエスはキリストであり続け、神の右の座から聖霊として「幸いである」という力をもって臨んでおられるのです。この主が世の終わりにおいて来られる、この根拠としてクリスマス、救い主の誕生があるのです。わたしたちは、クリスマスを祝うために待つことを学ばなければなりません。その態度は、やがて世の終わりに来られる主イエスがクリスマスの主として来られたがゆえに、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」という言葉によって整えられるのです。この時代にあって世界へ思いを馳せ、平和の主イエスにあってクリスマスを待ち望むこととは、これです。

 ご一緒に、「身を起こして頭を上げなさい。」という言葉に依り頼む者として歩みたいのです。「あなたがたの解放の時が近いからだ」との言葉に信頼を寄せながら、平和の主イエスの誕生を祝う道へと連なりたいと願うのです。

2023年7月23日 (日)

ルカによる福音書 24章36~43節 「よみがえり」

 「ここに何か食べ物があるか」と語り、差し出された焼いた魚をむしゃむしゃと食べた主イエスの姿を思うと、主イエス一流のユーモアを感じてしまいます。焼いた魚を具体的に食べるところを見せることによって、食事を共にする姿勢を貫かれた生前の主イエスの生き方全般が象徴的に表されているように思えるのです。同じ地平、同じ場で共に生きるとは、「一緒に食べること」と決して無縁ではないからです。主イエスの、より弱く貧しく痛めつけられている人たちと共に生きる、一貫したその生き方を思い起こさせるに十分なパフォーマンスとして、焼いた魚を食べているかのようです。むしゃむしゃと魚にかぶりつく姿でもって、復活したいのちをもって、わたしはここにいるよ、と訴えかけているのではないでしょうか。人びとの強いられた低み、差別されている場で一緒に食べるという生前の一貫した生き方を、復活の姿において全面的に肯定しているということです。かつての主イエスの生き方が神によって認められる仕方で、死に打ち勝たれたのだと。このようにして、わたしはここにいる、そしてわたしにつらなり一緒に食べていこうという促しとしても読めるのです。

 日本語の感覚では、「食べる」という言葉には生活全般の意味をも含まれた使われ方があります。たとえば、「どんな仕事をしているか」を「○○で食べている」と表現するように、どのように食べていくのかとは、どのように生きるのかと意味は変わらないのです。同じように、今日の聖書で焼いた魚を復活の主イエスが見せているのは、身体の復活を証明すると同時に、かつての生き方を思い起こさせ、一緒に食べる方向に向かって歩み直そうじゃないかという呼びかけとしても読むことができるのではないでしょうか。

 この世において、わたしたちは復活の主イエスの励ましのもとで証しの道へと立てられています。この世の価値観や風潮に溺れてしまうこともあるかもしれません。復活の主イエスをキリストと信じることは、ただ単に精神的内面的な事柄に閉じられたものではありません。焼いた魚を食べる主イエスの生前の姿をなぞるものでもあります。イエスに倣う生き方への招きがあるからです。この点について、復活の主イエスに与りながら生きることは、恵みのもとでの決断が強いられることもあるでしょう。信仰が立つか倒れるかの瀬戸際に立たされることもあるのかもしれません。しかし、そのような危うさを抱えつつも、焼いた魚にかぶりつく復活の主イエスの朗らかさやユーモアに支えられながら、この世を旅する群れとして証しの道をご一緒に歩みたいと願います。

2022年11月20日 (日)

ルカによる福音書 12章13~21節 「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」

(収穫感謝礼拝)

 今日の今日の聖書は、おそらく長男ではない人からの財産分与に関する仲介の願いに対する応えの形をとっていますが、財産のある者たちへの皮肉のたとえ話となっています。豊作だったために倉を大きく建て直して経済的に何の心配もない優雅な将来像を描いている金持ちに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と批判します。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とまとめの言葉を語ります。ここでの問題の中心は、富んでいる者がより富むことに溺れていく愚かさ、「貪欲」です。この「貪欲」からいかにして自由になっていけるのかという問題提起としても読むことができるのではないでしょうか。

 この点についての試みの一つにフードバンクという運動があります。1967年にアメリカのアリゾナ州フェニックス市において世界で初めて始まったようです。これが日本では2000年くらいから広がり、様々な形やグループによって運営されています。フードバンクとは、安全に食べられるのに包装の破損や過剰在庫、印字ミスなどの理由で流通に出すことができない食品を企業などから受け取り、必要としている施設や団体、困窮世帯に無償で提供する活動です。食品ロスの軽減にもつながっています。これに加え、個人宅で余った食品を受け付ける活動や、別な形として「子ども食堂」などの活動も広がってきました。

 非力な小規模教会であるわたしたちにはフードバンクのような大掛かりなことはできなくても、せめてわずかでもという願いから、住宅地の教会ができる「収穫感謝」の一つの形として、また年間を通して、集めた米を「信愛塾」に届けることをしています。

 先ほど絵本『世界がもし100人の村だったら』から引用しましたが、これを「横浜がもし100人の村だったら」という風に発想したら、わたしたちにできることは他にも何かあるのではないかと思い描くことができる広がりへと導かれるのではないでしょうか。

 主イエスが、「愚か」と呼んだ「貪欲」から、わたしたちは自由ではありません。しかし、主イエスからの気づきが与えられることによって、信じ従う道があるはずなのです。今日、この礼拝において「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」という道に招かれていることを感謝しながら歩んでいきたいと思います。

2022年10月16日 (日)

ルカによる福音書 18章9~14節 「『正しさ』の欺瞞から」

 今日の聖書を読むときには、ファリサイ派なのか徴税人なのかという二者択一・〇×式で、自分はどちらに当てはまるのかを考えがちになると思います。しかし、この二種類の人が例に挙げられているのは、どちらもそれは「わたし」の可能性としてあること、さらにはこの両者の間で揺れ動き続けている「わたし」のことです。わたしという存在をわたしとして理解するためには誰かと比べてしまうこともあるでしょう。その時に、このファリサイ派のように「うぬぼれ」と「見下し」によって自分が自分であることを確認してしまうこともあるでしょう。あるいは、この徴税人のように自分の存在根拠や頼るべきものが何一つなく、空っぽのような状態として自分を捉えているかもしれません。さらには、その間で揺れ動く悩める存在なのかもしれません。

 それら一切を含めた存在がわたしです、と認めていく正直さこそを主イエスは求めているのではないでしょうか。わたしというあり方は、ある時は高ぶった者であり、またある時は卑屈な者でもあるのです。そして、その間で自分とはいったい誰なのかに思い悩むわたしがいるのです。いわば、審きによって恵まれ、恵みによって審かれていくのではないでしょうか。この揺れ動きの中で受け入れられていくことによって、あるがままの自分自身を肯定していく道へと導かれていくのではないでしょうか。わたしという存在は、ここでのファリサイ派と徴税人のどちらでもあるのです。この、どちらでもあり、その間で揺れ動きながらも自分自身になっていく道を主イエスは見届けつつ、守り導いてくださるのだと信じています。

 ファリサイ派の立場であろうと徴税人の立場であろうと、そしてその間で揺れ動いていたとしても、主イエスは、審きと恵みによって、このわたしを見届けてくださっているに違いないのです。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。しかし「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という、その入れ替えの途上にあることを信じればいいのです。誰彼に見せるために義人を演じる必要はないし、自己卑下して自分のことを必要以上に愚かだと演じる必要もありません。今あるわたしが主イエスによって声をかけられ、招かれていること。導かれている現実に身を委ねていけばいいのです。ファリサイ派であるのか徴税人であるのかという立場を二つに分けて、どちらかを選び取れということではないのです。あるがままの姿で、主イエス・キリストの前での正直さに向かって歩んでいけばいいのです。その時々において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」との宣言に身を委ねていけばいいのです。そうすれば、人間の作り出す「正しさ」の欺瞞から自由になり、主イエス・キリストの神の「正しさ」に向かって生き直すことへと導かれるのだ、と信じます。

2022年10月 9日 (日)

ルカによる福音書 5章1~節11 「網をおろして」農村伝道神学校3年 後藤田 由紀夫 神学生

 群衆に取り囲まれるように、イエスキリストは現われる。そして日常生活の中のシモンたちに声をかける。「沖へ漕ぎだし、あなたたちの網を降ろして漁をしなさい」。シモンは漁師のプロ。お言葉ですが、と切り返すも、イエスに引き入れられていく。イエスの言葉は、シモンと、シモンの廻りの関係性を示す複数形の言葉に変わり、そこから場面が急展開していく。シモンは仲間と共に舟をこぎ出し、網を下ろす作業に変わる。魚を捕らえる網は人と人をつなぐネットワーク構築の関係性を示し、二そう目の舟に応援を求め「働き手」の輪が広がっていく。転じて、シモンと仲間が、イエスの弟子としてネットワークを構築していく担い手に変えられていく。岸辺の群衆は、福音を伝えるシモンとその仲間が群衆の中に入っていく事を暗示している。

 今日の聖書の箇書は場面の展開が目まぐるしい。時代の変化が加速化している21世紀の私たちに似ていないか?

 私は、20年以上の両親の介護経験からも、特に「網をおろして」の部分に強く惹かれる。   

1.「網をおろして」は、湖面で網は広がっていく  2004年、老人ホーム入居の前日、デイ・サービスから帰宅した父が失踪した。私は仕事から帰宅後、自宅付近の町田市街を捜索したが見つからず、翌朝、町田署に捜索願いを提出。捜索エリアが拡大され、三日後に三浦半島の城ケ島入口で、無事保護され、ネットワークの網を広げる意味を思い知らされる。

2.「網を下ろしてみなさい」の動詞はギリシャ語原文では、複数形が使われている。シモンの廻りの関係性を示す言葉ともとれる。  父の死後、母の自宅介護について「奥さんも限界に来ています。介護は、自分達で背負いきるのは、無理ですよ、早くお母さんを老人ホームに入れなさい。それが、お母さんと奥さんを解放することになるのです」と警告をいただいた。その助言を受けて、父と同じ老人ホームに入居、昨年末に生涯を閉じるまで。自分の力に頼る解決から他者との関係性から生まれた解決であった。

 9節、シモンと仲間は大量の魚に驚いた。これは主から出た恵みの大きさを表している。結果として、生かされて生きる生き方に変えられた。だから主を恐れたのである。

 さて、2000年から始まったコロナショックによって、「ソ―シャルディスタンス」の状況下になった。教会では手紙、電話、ライブ配信等の工夫しながら現在まで至っている。私たちは、孤立を強いられているように見えるが、キリストにつながれていくことに気付く。私たちの「網」ネットワークは「6節おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」ではなく、緊急事態宣言で「網が張り裂けた」というギリシャ語原文に近い状況を経験することになったのではないか?              

 私たちは、「ソ―シャルディスタンス」のところにいるけれども、「心の距離」を縮め、主を恐れつつ、主エスの「網をおろして」の御言葉によって、主につながれていく網にとらえられ、歩んでいこうではないか。

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