ルカによる福音書

2023年7月23日 (日)

ルカによる福音書 24章36~43節 「よみがえり」

 「ここに何か食べ物があるか」と語り、差し出された焼いた魚をむしゃむしゃと食べた主イエスの姿を思うと、主イエス一流のユーモアを感じてしまいます。焼いた魚を具体的に食べるところを見せることによって、食事を共にする姿勢を貫かれた生前の主イエスの生き方全般が象徴的に表されているように思えるのです。同じ地平、同じ場で共に生きるとは、「一緒に食べること」と決して無縁ではないからです。主イエスの、より弱く貧しく痛めつけられている人たちと共に生きる、一貫したその生き方を思い起こさせるに十分なパフォーマンスとして、焼いた魚を食べているかのようです。むしゃむしゃと魚にかぶりつく姿でもって、復活したいのちをもって、わたしはここにいるよ、と訴えかけているのではないでしょうか。人びとの強いられた低み、差別されている場で一緒に食べるという生前の一貫した生き方を、復活の姿において全面的に肯定しているということです。かつての主イエスの生き方が神によって認められる仕方で、死に打ち勝たれたのだと。このようにして、わたしはここにいる、そしてわたしにつらなり一緒に食べていこうという促しとしても読めるのです。

 日本語の感覚では、「食べる」という言葉には生活全般の意味をも含まれた使われ方があります。たとえば、「どんな仕事をしているか」を「○○で食べている」と表現するように、どのように食べていくのかとは、どのように生きるのかと意味は変わらないのです。同じように、今日の聖書で焼いた魚を復活の主イエスが見せているのは、身体の復活を証明すると同時に、かつての生き方を思い起こさせ、一緒に食べる方向に向かって歩み直そうじゃないかという呼びかけとしても読むことができるのではないでしょうか。

 この世において、わたしたちは復活の主イエスの励ましのもとで証しの道へと立てられています。この世の価値観や風潮に溺れてしまうこともあるかもしれません。復活の主イエスをキリストと信じることは、ただ単に精神的内面的な事柄に閉じられたものではありません。焼いた魚を食べる主イエスの生前の姿をなぞるものでもあります。イエスに倣う生き方への招きがあるからです。この点について、復活の主イエスに与りながら生きることは、恵みのもとでの決断が強いられることもあるでしょう。信仰が立つか倒れるかの瀬戸際に立たされることもあるのかもしれません。しかし、そのような危うさを抱えつつも、焼いた魚にかぶりつく復活の主イエスの朗らかさやユーモアに支えられながら、この世を旅する群れとして証しの道をご一緒に歩みたいと願います。

2022年11月20日 (日)

ルカによる福音書 12章13~21節 「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」

(収穫感謝礼拝)

 今日の今日の聖書は、おそらく長男ではない人からの財産分与に関する仲介の願いに対する応えの形をとっていますが、財産のある者たちへの皮肉のたとえ話となっています。豊作だったために倉を大きく建て直して経済的に何の心配もない優雅な将来像を描いている金持ちに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と批判します。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とまとめの言葉を語ります。ここでの問題の中心は、富んでいる者がより富むことに溺れていく愚かさ、「貪欲」です。この「貪欲」からいかにして自由になっていけるのかという問題提起としても読むことができるのではないでしょうか。

 この点についての試みの一つにフードバンクという運動があります。1967年にアメリカのアリゾナ州フェニックス市において世界で初めて始まったようです。これが日本では2000年くらいから広がり、様々な形やグループによって運営されています。フードバンクとは、安全に食べられるのに包装の破損や過剰在庫、印字ミスなどの理由で流通に出すことができない食品を企業などから受け取り、必要としている施設や団体、困窮世帯に無償で提供する活動です。食品ロスの軽減にもつながっています。これに加え、個人宅で余った食品を受け付ける活動や、別な形として「子ども食堂」などの活動も広がってきました。

 非力な小規模教会であるわたしたちにはフードバンクのような大掛かりなことはできなくても、せめてわずかでもという願いから、住宅地の教会ができる「収穫感謝」の一つの形として、また年間を通して、集めた米を「信愛塾」に届けることをしています。

 先ほど絵本『世界がもし100人の村だったら』から引用しましたが、これを「横浜がもし100人の村だったら」という風に発想したら、わたしたちにできることは他にも何かあるのではないかと思い描くことができる広がりへと導かれるのではないでしょうか。

 主イエスが、「愚か」と呼んだ「貪欲」から、わたしたちは自由ではありません。しかし、主イエスからの気づきが与えられることによって、信じ従う道があるはずなのです。今日、この礼拝において「人の愚かさを越えて収穫感謝へ」という道に招かれていることを感謝しながら歩んでいきたいと思います。

2022年10月16日 (日)

ルカによる福音書 18章9~14節 「『正しさ』の欺瞞から」

 今日の聖書を読むときには、ファリサイ派なのか徴税人なのかという二者択一・〇×式で、自分はどちらに当てはまるのかを考えがちになると思います。しかし、この二種類の人が例に挙げられているのは、どちらもそれは「わたし」の可能性としてあること、さらにはこの両者の間で揺れ動き続けている「わたし」のことです。わたしという存在をわたしとして理解するためには誰かと比べてしまうこともあるでしょう。その時に、このファリサイ派のように「うぬぼれ」と「見下し」によって自分が自分であることを確認してしまうこともあるでしょう。あるいは、この徴税人のように自分の存在根拠や頼るべきものが何一つなく、空っぽのような状態として自分を捉えているかもしれません。さらには、その間で揺れ動く悩める存在なのかもしれません。

 それら一切を含めた存在がわたしです、と認めていく正直さこそを主イエスは求めているのではないでしょうか。わたしというあり方は、ある時は高ぶった者であり、またある時は卑屈な者でもあるのです。そして、その間で自分とはいったい誰なのかに思い悩むわたしがいるのです。いわば、審きによって恵まれ、恵みによって審かれていくのではないでしょうか。この揺れ動きの中で受け入れられていくことによって、あるがままの自分自身を肯定していく道へと導かれていくのではないでしょうか。わたしという存在は、ここでのファリサイ派と徴税人のどちらでもあるのです。この、どちらでもあり、その間で揺れ動きながらも自分自身になっていく道を主イエスは見届けつつ、守り導いてくださるのだと信じています。

 ファリサイ派の立場であろうと徴税人の立場であろうと、そしてその間で揺れ動いていたとしても、主イエスは、審きと恵みによって、このわたしを見届けてくださっているに違いないのです。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。しかし「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という、その入れ替えの途上にあることを信じればいいのです。誰彼に見せるために義人を演じる必要はないし、自己卑下して自分のことを必要以上に愚かだと演じる必要もありません。今あるわたしが主イエスによって声をかけられ、招かれていること。導かれている現実に身を委ねていけばいいのです。ファリサイ派であるのか徴税人であるのかという立場を二つに分けて、どちらかを選び取れということではないのです。あるがままの姿で、主イエス・キリストの前での正直さに向かって歩んでいけばいいのです。その時々において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」との宣言に身を委ねていけばいいのです。そうすれば、人間の作り出す「正しさ」の欺瞞から自由になり、主イエス・キリストの神の「正しさ」に向かって生き直すことへと導かれるのだ、と信じます。

2022年10月 9日 (日)

ルカによる福音書 5章1~節11 「網をおろして」農村伝道神学校3年 後藤田 由紀夫 神学生

 群衆に取り囲まれるように、イエスキリストは現われる。そして日常生活の中のシモンたちに声をかける。「沖へ漕ぎだし、あなたたちの網を降ろして漁をしなさい」。シモンは漁師のプロ。お言葉ですが、と切り返すも、イエスに引き入れられていく。イエスの言葉は、シモンと、シモンの廻りの関係性を示す複数形の言葉に変わり、そこから場面が急展開していく。シモンは仲間と共に舟をこぎ出し、網を下ろす作業に変わる。魚を捕らえる網は人と人をつなぐネットワーク構築の関係性を示し、二そう目の舟に応援を求め「働き手」の輪が広がっていく。転じて、シモンと仲間が、イエスの弟子としてネットワークを構築していく担い手に変えられていく。岸辺の群衆は、福音を伝えるシモンとその仲間が群衆の中に入っていく事を暗示している。

 今日の聖書の箇書は場面の展開が目まぐるしい。時代の変化が加速化している21世紀の私たちに似ていないか?

 私は、20年以上の両親の介護経験からも、特に「網をおろして」の部分に強く惹かれる。   

1.「網をおろして」は、湖面で網は広がっていく  2004年、老人ホーム入居の前日、デイ・サービスから帰宅した父が失踪した。私は仕事から帰宅後、自宅付近の町田市街を捜索したが見つからず、翌朝、町田署に捜索願いを提出。捜索エリアが拡大され、三日後に三浦半島の城ケ島入口で、無事保護され、ネットワークの網を広げる意味を思い知らされる。

2.「網を下ろしてみなさい」の動詞はギリシャ語原文では、複数形が使われている。シモンの廻りの関係性を示す言葉ともとれる。  父の死後、母の自宅介護について「奥さんも限界に来ています。介護は、自分達で背負いきるのは、無理ですよ、早くお母さんを老人ホームに入れなさい。それが、お母さんと奥さんを解放することになるのです」と警告をいただいた。その助言を受けて、父と同じ老人ホームに入居、昨年末に生涯を閉じるまで。自分の力に頼る解決から他者との関係性から生まれた解決であった。

 9節、シモンと仲間は大量の魚に驚いた。これは主から出た恵みの大きさを表している。結果として、生かされて生きる生き方に変えられた。だから主を恐れたのである。

 さて、2000年から始まったコロナショックによって、「ソ―シャルディスタンス」の状況下になった。教会では手紙、電話、ライブ配信等の工夫しながら現在まで至っている。私たちは、孤立を強いられているように見えるが、キリストにつながれていくことに気付く。私たちの「網」ネットワークは「6節おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」ではなく、緊急事態宣言で「網が張り裂けた」というギリシャ語原文に近い状況を経験することになったのではないか?              

 私たちは、「ソ―シャルディスタンス」のところにいるけれども、「心の距離」を縮め、主を恐れつつ、主エスの「網をおろして」の御言葉によって、主につながれていく網にとらえられ、歩んでいこうではないか。

2022年10月 2日 (日)

ルカによる福音書 16章19~31節 「神の食卓の風景」(世界聖餐日)

 今日は「世界聖餐日」です。「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」です。

 ルカと言行録の教会は、当時のギリシャ・ローマ世界の中にあって比較的経済的に裕福な国際人たちの集まりであり、自分たちの状況に対して「これでいいのか」という問題意識があったと思われます。自分たちは、今日の聖書で言えば「ある金持ち」の立場であり、貧しい人たちとの対比において審かれている存在なのだという自覚があったと思われます。1626節の「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」という現実を主イエスからの厳しい問いかけとして受け止める姿勢があるのです。自分たちからは決して越えられない「大きな淵」を認めつつ、それでもつながることができないのかという問題意識があるのではないでしょうか。この物語のような死後の世界ではなく、今生きている、金持ちと貧しい人との関係なのだという問題意識があったはずです。ここで描かれているのは、金持ちに対する逃れることのできない審きです。しかし、金持ちであること自体が悪だとはルカは考えてはいないようでもあります。16章の初めの記事に「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあることからすれば、富がより良い関係へと整えていくものとなる可能性に対して開いていると言えるのです。

 わたしたちは今日の聖書を読みながら自らを省みると、いやいやいや金持ちの側じゃないよと思いがちだとは思います。しかし1620節以降の「ラザロというできものだらけの貧しい人」という生き方も、ここにいるわたしたちの多くはしてはいないのではないでしょうか。両者を比べれば、少なからず金持ちの側により近いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 神の恵みの方向性は、主イエス・キリストにおいて事実として起こされました。このラザロの姿は、ただ単に虐げられた惨めな人間が今や父祖アブラハムのもとで宴会に与っている、ということではありません。ラザロにおいて現わされているのは(イザヤ書53章を参照)、貧しく弱く小さくされ軽蔑されて十字架に至った主イエス・キリストの姿なのではないでしょうか。ラザロとの間にある「大きな淵」とは、わたしたちと主イエス・キリストとの間にある「大きな淵」でもあります。

 今日の聖書から読み返していくならば、主イエスがそうであったようにラザロの友となり仲間となる道につながっていくべき志を整えていくことが、聖餐の方向を定めていくことになるのではないかと考えるのです。「神の食卓の風景」とは、アブラハムの懐に抱かれたラザロの姿として描かれていることからすれば、「大きな淵」を乗り越えていと小さき者である主イエスと共なる、という挑戦的な生き方への招きです。この主イエスからの招きに応えていこうと願うものです。[

2022年9月 4日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「神の国はあなたがたの間に」

 人は一人では生きられない、そう言われます。わたしと誰かの間には、複雑なものであれ単純なものであれ、何かしらの関係があります。この人と人との関係にこそ「神の国」があるというのです。わたしたちは、毎日身近なところからもっといろいろな広がりの中で様々な人との関係において生きています。そして、人と人との関係という「間」には、言葉で説明しきれないほどの複雑さがあります。この「間」という関係においてこそ「神の国」として主イエスの思いが実現していくことは、その人のいのちが最も尊ばれ尊重され、かけがえのなさが最大限に受け止められる場でもあるのです。よく使われる言葉として「人権の尊重」という言葉を当てはめてみると分かりやすいかもしれません。

 汚れた霊につかれた人は、遺棄され差別され排除され、その人のいのちの価値さえ認められてはいませんでした。社会の邪魔者のようにして扱われていたのです。その人のいのちが条件なしに全面的に認められ受け入れらえている「関係」が「神の国」でなければ、何が「神の国」なのでしょうか。この世で貶められたままの状態を耐え忍び、その上で死んだ後や、あるいは世の終わりにやってくる「神の国」に希望を預けることにどれほどの意味があるのでしょうか。この世におけるいのちを、主イエスが受け入れているのでなければ、「神の国」は空虚なのではないでしょうか。今、生かされてある喜びが、わたしという一人の人間の内側に閉じられたものではなくて、誰かという他者との関わり、その「関係」を育てていくところにこそ現れ、成立しなければ、本当の喜びと呼ぶことはできないのではないでしょうか。

 「神の国」とは、福音において展開される具体的な世界観のことです。わたしたちの今のありよう自体が「神の国」と呼ばれる事態へと方向付けがなされるということです。ここでの「間」としての「神の国」の展開は、神の主権に支えられて展開される人権の捉え直しと呼んでもいいのではないでしょうか。人権というと人間の側からの自己主張だと思われるかもしれません。しかし、主イエスにのみ基づく「間」に展開される「神の国」とは、あらゆる人と人との間をより相応しい方向へと導く神の意志として働き続けているのです。

 主イエス・キリストは次のように語ることを決してやめない方であることを覚えておきたいのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と。この「間」という関係が主イエス・キリストがなさった働きにおいて「神の国」として生まれ、育てられ、絶えず新しい可能性を孕んでいること、そしていついかなる時も希望することが赦されていることを信じたいのです。わたしたちの知恵や能力では計り知ることのできない「間」があるのです。何気ない日常に只中においてすでに主イエスによって働きかけ続けられている「神の国」の導きと支えを信じます。

2022年7月17日 (日)

ルカによる福音書 12章22~34節 「思い悩むな」

 忌み嫌われた「烏」と、捨てられ燃やされてしまう「野原の花=雑草」としての男たちと女たちの今を、主イエスは見つめています。主イエスが「思い悩むな」と呼びかけつつ指し示されているのは、主イエスの周りに集まっている下積みを余儀なくされた人々の現実です。強いられている「思い悩み」から方向転換し、生き方や考え方を修正することを促しているのです。あなたたちの今の現実は、「烏」のように嫌われ、疎んぜられ、雑草のように価値がないものとされ、踏みつけにされ、捨てられているかもしれない。そのような、日々の暮らしの慌ただしさに溺れてしまうようにしてあなたたちは自分を見失ってしまっていないか。しかし、「烏」や「雑草」が、あるがままに、今輝いている現実、その満ち満ちたいのちを考えて見なさい、と。その、社会から軽んじられている生命が、すでに祝福されてしまっているという事実に注目することによって「思い悩み」を打ち砕くのが、今日の主の言葉です。あの栄華を極めたソロモンなんぞとは比べ物にならないほど、あなたたちの生命は尊いのだとして、です。

 主イエスの慈しみがここにはあります。この生命への立ち帰りの言葉が、「思い悩むな」ということなのです。「烏」や「野原の花」として侮蔑されている被差別者に向けられた、全面的ないのちの肯定です。このことにわたしたちは慰められます。しかし一方で、侮蔑的な言葉、いわば、「ヘイトスピーチ」を少数者に向かって投げかける多数者の側にいることも自覚する必要があることに気づかされるのです。わたしたちはヘイトスピーチを直接することはないかもしれません。しかし、それを止めることをしていない、ということにおいて加担しているのです。このことを自覚することはなかなか難しいものです。

 聖書における主イエスの言葉は、「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」語られているかに注目する必要がありますが、「思い悩むな」は、この5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)を自分事の中で整理して、強いられた座標軸を少しずらしてみよ、という促しであり、同時に招きの言葉でもあるのです。侮蔑の言葉を語ることで自らの正しさにあることにしがみ付き、他者を排除することでしか自分を確証できないような状態から自由にならなければならないのです。主イエスの「烏」と「野原の花」の祝福を少数者と共に与るためには、別の道を選ばなくてはならないのです。侮蔑する多数派の側の立場を自ら暴き出しながら悔い改めていかねければならないのです。「痛みを抱えている仲間の側から見たことあるのか」「仲間として、あるいは一番小さくされている弱い立場に置いてきぼりにされているその人たちの側から見たことあるのか」という本田哲郎神父の読み方に共鳴します。そのうえで、主イエスの道に連なる道を模索しながら歩んでいきたいのです。

2022年6月12日 (日)

ルカによる福音書 12章10~12節 「信仰を言い表す」

~子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスの活動は、ガリラヤ地方からユダヤ教の中心の街であるエルサレムに移ってきました。ある晩、弟子たちと一緒にいるところに、主イエスを邪魔者だと思っていた人たちに連れられた兵隊たちがやってきて、主イエスは逮捕されてしまいます。その時に、あれほどどんなことがあってもイエスさまについていくと言っていたペトロは怖くて逃げ出してしまったのです。そして、主イエスが逮捕されて、裁判を受け、十字架で殺されていくのを遠くから見ることしかできませんでした。その時に色んな人たちから、「お前はあのイエスという人の仲間ではないのか」と聞かれます。ペトロは自分も捕まってしまうのではないかと不安で、「そんな人は知らない」と3回も答えてしまったのです。

 主イエスは十字架で殺されてから3日目に生き返りました。この復活の主イエスは逃げ出してしまった弟子たちを赦し、聖霊の力によって励まし勇気を与えるのです。ペトロは、主イエスと一緒にいることができなかったこと、逃げ出してしまったことが恥ずかしくて悲しくて仕方がなかったのですが、こんなひどい自分を主イエスが赦してくださったということに驚き、そして嬉しさに溢れます。復活の主イエスから新しく生きていくことができる力をいただいたのです。この力によって、心の底から「信仰を言い表す」ことができるようにされたのです。「イエスさま大好き」という言葉がはじめて本当にされていったのです。「イエスさまが大好き」なのは、主イエスの復活の力の赦しにあることが知らされたのです。このことによってペトロは、主イエスの仲間であることを怖がったり脅えたりすることをしなくなりました。「イエスさま大好き」という、とても明るい心や気持ちで生きることができるようになったのです。主イエスを邪魔者だと思うような人たちにいじめられたって本当に怖いことではない、と分かったからです。何があっても、どんなことが起こっても復活の主イエスのお守りがあるから大丈夫だと知らされたからです。

 困ったことや辛いこと、悩みや悲しいことがあっても、主イエスの力に導かれて自分の言葉で言い表すことができるようにされたのです。今日の聖書には、このように書かれています。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」どんな時でも、イエスさまは目に見えなくても聖霊として一緒にいてくださるのだから大丈夫、わたしたちの語るべき、そして聖霊の働きが言葉を作り出し、導き、支えてくださることを知っていれば大丈夫なのです。

2022年1月30日 (日)

ルカによる福音書 4章1~12節 「イエスの試練~神は何を望むのか?」 井谷 淳

 この箇所にてイエスは、分かりやすく「荒野」という場所に身を置きます。時系列に沿って聖書を読むとその直前に洗礼を受けていますが、「聖霊」に満たされていた状況の中で、伝道者として自分自身に欠落していた内面的世界への検証の必要性を強く感じたのでありましょう。聖書の中での「荒野」という場所は神から最も離れた場所、神から見捨てられてしまった場所であります。イエスが処刑されたゴルゴダの丘もまた、そのような神の恩恵から外されてしまった場所でありました。最も荒廃した場所にて霊によって引き回されている中でイエスは自分自身の様々な「弱さ」を認識し、その内的な欺瞞性と対峙していかざるを得ない状況がもたらされたのであります。本日の箇所で頻出する「悪魔」の存在はイエス自身が抱える「もう一人の自分自身」であり、神に換わってイエス自身の信仰の対象を乗り換えさせようと何度も試むのであります。「罪」の根幹には必ず「誘惑」が存在いたします。悪魔はその「誘惑の引き金」に指をかけさせる存在である事をイエスは熟知していました。洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、伝道者としての意識が高まっていたイエスは未だ自己の内的世界にこの[誘惑]が多く存在し続けている事を、霊によって告げ知らされてしまったのであります。この「誘惑」が「弱さ」であり、「欺瞞」であります。そして「誘惑」の内容は宗教者として影響力を持つであろう自分自身への期待感、物理的に奇跡を起こすことの出来る「自己能力の乱用」、世の在り方を操作し、支配力を持つという「虚栄心」及び「自己承認欲求」、神殿という宗教象徴の上に立つという「自己顕示欲求」等々であります。これらの事柄がイエスの内的欲求として存在していた事を、イエス自身が明確に認識してしまったのであります。

 イエス自身が一つ間違えれば、誘惑の引き金を引き「罪」へのハードルを越えてしまう、否自分のような者こそが、「罪」を容易に犯してしまう事をも同時に認識してしまったのであります。或いはこのような誘惑を抱えている自分自身を既に「罪人」であると規定してしまった可能性もあるのではないでしょうか。聖書中に「罪人との宴」、「罪の無い者から石を投げよ」等の場面の中でイエスは罪人に寄り添う存在ではありません。イエスもまた罪人であったのです。現代社会の「荒野」の中で罪人イエスは罪人である私達と今も共にあるのです。

2021年6月27日 (日)

ルカによる福音書 23章26~27節 「共に背負った十字架」 井谷淳 伝道師

 私達は一生の中でどれだけの人と出会い、また擦れ違っていくのでしょうか?

 人間は「性質」としてある程度固定化された「予定調和的な関係性」をイメージし、その人間関係の中での「安定感」を求めてゆく。内容を問わず「共同体」という「社会単位」はこの様に営まれているのではないかと感じます。そしてその「共同体」には必然的に「掟」が存在致します。恐らく予定調和的な人間関係の「最大公約数の不文律」の要素が[掟]として機能してゆくのでしょう。そしてその「掟」から外れる者、或いは何かの「違和感」を感じる人間に対しては「排除の論理」が働いてゆきます。本日の聖書箇所の主人公は正にこの「排除の論理」の中で「社会から消去されてゆこうとするイエス」と「全く(偶発的)にイエスと出会い」その「死に最後まで立ち会った人物」である「キレネ人シモン」であります。

 この「キレネ人シモン」は、たまたま「通行していただけ」なのでしょう。そして本当に「偶然に」イエスの「十字架の行列」と「遭遇してしまった」のです。少なくとも「イエスという罪人」が十字架に貼り付けになる一部始終を「眺めたい」という「野次馬の類」ではなかった筈です。たまたま「頑健」で「体格が良い」という理由だけでローマ兵から「白羽の矢」を立てられたこの「キレネ人シモン」は強制的に「人事不肖」に陥ったイエスの代わりに正に「無理やり」本来的には「イエスが背負うべき十字架」を担がされてしまったのであります。「シモン」はイエスの事を全く知りません。全くの初対面であります。しかし「担がされた重い十字架」だけではなく、イエスに向かって投げられた石つぶてが当たったり、イエスを嘲る罵声をも浴びせられます。「野次馬である群集」にとっては「罪人イエス」と共に十字架を担ぎ歩いているシモンは「同類の人間」に見えた事でありましょう。シモンは内心、全く「生きた心地」はしなかった筈です。

 刑場に着きシモンはイエスの「臨終」に立ち会います。イエスとシモンはまともに会話を交わす時間も無かったでしょう。この後シモンはイエスが短い人生の中で「何を背負わされてきたのか」悟り、キリスト者と成って行ったので在ります。共同体から「排除され」「消去されてゆくイエス」の「臨終」に立ち会ったシモンの人生はこの後「大きな転換」を迎えてゆきます。本日の箇所は私達に「隣人」「人間の関わり」に関して大いに考えさせる箇所なのではないでしょうか。街で擦れ違ってゆく不特定多数の「見ず知らずの人達」。神が私達に望まれている関わりがその中にもあるのかもしれません。

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