ルカによる福音書 24章36~43節 「よみがえり」
「ここに何か食べ物があるか」と語り、差し出された焼いた魚をむしゃむしゃと食べた主イエスの姿を思うと、主イエス一流のユーモアを感じてしまいます。焼いた魚を具体的に食べるところを見せることによって、食事を共にする姿勢を貫かれた生前の主イエスの生き方全般が象徴的に表されているように思えるのです。同じ地平、同じ場で共に生きるとは、「一緒に食べること」と決して無縁ではないからです。主イエスの、より弱く貧しく痛めつけられている人たちと共に生きる、一貫したその生き方を思い起こさせるに十分なパフォーマンスとして、焼いた魚を食べているかのようです。むしゃむしゃと魚にかぶりつく姿でもって、復活したいのちをもって、わたしはここにいるよ、と訴えかけているのではないでしょうか。人びとの強いられた低み、差別されている場で一緒に食べるという生前の一貫した生き方を、復活の姿において全面的に肯定しているということです。かつての主イエスの生き方が神によって認められる仕方で、死に打ち勝たれたのだと。このようにして、わたしはここにいる、そしてわたしにつらなり一緒に食べていこうという促しとしても読めるのです。
日本語の感覚では、「食べる」という言葉には生活全般の意味をも含まれた使われ方があります。たとえば、「どんな仕事をしているか」を「○○で食べている」と表現するように、どのように食べていくのかとは、どのように生きるのかと意味は変わらないのです。同じように、今日の聖書で焼いた魚を復活の主イエスが見せているのは、身体の復活を証明すると同時に、かつての生き方を思い起こさせ、一緒に食べる方向に向かって歩み直そうじゃないかという呼びかけとしても読むことができるのではないでしょうか。
この世において、わたしたちは復活の主イエスの励ましのもとで証しの道へと立てられています。この世の価値観や風潮に溺れてしまうこともあるかもしれません。復活の主イエスをキリストと信じることは、ただ単に精神的内面的な事柄に閉じられたものではありません。焼いた魚を食べる主イエスの生前の姿をなぞるものでもあります。イエスに倣う生き方への招きがあるからです。この点について、復活の主イエスに与りながら生きることは、恵みのもとでの決断が強いられることもあるでしょう。信仰が立つか倒れるかの瀬戸際に立たされることもあるのかもしれません。しかし、そのような危うさを抱えつつも、焼いた魚にかぶりつく復活の主イエスの朗らかさやユーモアに支えられながら、この世を旅する群れとして証しの道をご一緒に歩みたいと願います。
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