2022年7月31日 (日)

創世記 1章31節 「いのち」

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とは、神によって創り出されたとしか言いようのない事態を示します。この、いのちの事態そのものが奇跡としか言いようのない現実として日ごとにあるということです。このいのちにおいて一人ひとりの人間は全く平等なのです。どんなに「極悪人」とされていても、そのいのちにおいては誰彼が制限を与えたり、奪ったりすることは赦されてはいないのです。「極めて良」い事態を創り出したのは人間ではなく、あくまで神なのです。この神の側からの創造と、その結果に対する、あらゆるいのちの全面的無条件の肯定を事実として受け止めることから始めるべきなのではないでしょうか。

 わたしたちは、わたしたちのいのち、寿命をどうすることもできません。わたしたちにできることは、この貸し与えられているいのちを感謝のもとで受け止める生き方を前進させていくことです。このことはただ単に、わたしという一人の人間の心の中という内面性に閉じこもることではありません。いのちにおいては、貧富の差や能力の差、善人であるとか悪人であるとかが問われないということです。このいのちは、神が貸し与えてから取り去られるまでの間という、いわば「寿命」が尽きるまで精一杯生き抜くところに意義があります。時として、生きている意味が分からなくなることもあるでしょうし、迷いが生じることも少なくないかもしれません。しかし、神の意志によってわたしたちの命が今、ここにあることには神の側から意義や意味が与えられていると信じることはできるのです。

 ただ神だけが知る時に至るまで、わたしたちはこの世において貸し与えられたいのちに与っています。このことは、わたしに貸し与えられたいのちに生きることとは、誰かと共に生き、お互いのいのちを認め合い、喜び合うことと別のことではありません。ですから、この世における愛する者、親しい者のいのちが神のもとへ帰る時には、残された一人ひとりは言いようのない悲嘆や悲しみに襲われるのです。わたしたちのいのちは、創造者である神によってそれぞれ貸し与えられているだけではなくて、結ばれていくことも願われているのです。やがてわたしもこの世から神のもとに帰る日が来ることは確かなのですが、その時に至るまでの主イエス・キリストの神の支えにあって、お互いのいのちを喜び合う歩みを続けたいと願っています。

2022年7月24日 (日)

ヨハネによる福音書 16章25~33節 「キリストの勇気に与って」

 わたしたちは、生かされた存在としてのいのちはあくまで「この世」と呼ばれる現在進行形の「今」という時から決して自由になることはできません。現実の「この世」のことは、どうでもいいとしてしまう信仰のあり方は、コリント教会においてパウロを敵と見做した人たちの勢力の信仰理解と深く共鳴しています。「この世」的な日常を生きる生活人であることをやめてしまって、心であるとか内面、精神性だけを天国に向けて現実逃避することに他なりません。天国的な信仰の醜さがここにはあります。堅実なキリスト者は、このような傾向を否定します。「あなたがたには世で苦難がある。」という現実を主イエスにあって自ら引き受けていくのです。あくまで「この世」でのいのちのあり方を見失うことがないのです。

 「世」とは、今生きている身近なところから地球規模の世界全般を示します。この情報社会にあっては日常生活の身近なところから国際関係に至るまで、古代と比べものにならないくらい多様な圧迫・艱難・苦難・苦しみ・悩みなどがいのちに対して強い力で襲いかかってきます。今、生かされてあることにまつわる一切予測不可能な未来への不安が横たわっているのだということです。あの、見渡せば砂漠や岩場など枯れた大地の中で渇きや飢えに対する危険にも増してです。古代に比べて「あなたがたには世で苦難がある」現実は強められ深められていると言えるかもしれません。わたしたちの暮らす現代社会とは決して大げさではなく、危険に満ち満ちているのです。しかし、主イエスの言葉は時代を越えてこのような意味での「苦難がある」現実に対して「しかし、勇気を出しなさい」と語り続けているのです。

 勇気や元気は、自分の力や能力などを頼りにすることではなく、あくまで主イエス・キリストの側からによってのみ生まれるのだということです。詩編23によれば「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」ということであり、ヨハネによる福音書10章に「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」とあるとおりに、です。

 主イエス・キリストが「勇気を出しなさい」と語りかけているのは、その「勇気」のもとを自分こそが授けるのであるという決意の表れです。「勇気」や「元気」が生まれるのは、わたしたちからではなく、主イエス・キリストの側からの行いによるものなのです。この主イエス・キリストからの招きと促しを知るものは「勇気」と「元気」に与る生き方へと導かれるのです。

2022年7月17日 (日)

ルカによる福音書 12章22~34節 「思い悩むな」

 忌み嫌われた「烏」と、捨てられ燃やされてしまう「野原の花=雑草」としての男たちと女たちの今を、主イエスは見つめています。主イエスが「思い悩むな」と呼びかけつつ指し示されているのは、主イエスの周りに集まっている下積みを余儀なくされた人々の現実です。強いられている「思い悩み」から方向転換し、生き方や考え方を修正することを促しているのです。あなたたちの今の現実は、「烏」のように嫌われ、疎んぜられ、雑草のように価値がないものとされ、踏みつけにされ、捨てられているかもしれない。そのような、日々の暮らしの慌ただしさに溺れてしまうようにしてあなたたちは自分を見失ってしまっていないか。しかし、「烏」や「雑草」が、あるがままに、今輝いている現実、その満ち満ちたいのちを考えて見なさい、と。その、社会から軽んじられている生命が、すでに祝福されてしまっているという事実に注目することによって「思い悩み」を打ち砕くのが、今日の主の言葉です。あの栄華を極めたソロモンなんぞとは比べ物にならないほど、あなたたちの生命は尊いのだとして、です。

 主イエスの慈しみがここにはあります。この生命への立ち帰りの言葉が、「思い悩むな」ということなのです。「烏」や「野原の花」として侮蔑されている被差別者に向けられた、全面的ないのちの肯定です。このことにわたしたちは慰められます。しかし一方で、侮蔑的な言葉、いわば、「ヘイトスピーチ」を少数者に向かって投げかける多数者の側にいることも自覚する必要があることに気づかされるのです。わたしたちはヘイトスピーチを直接することはないかもしれません。しかし、それを止めることをしていない、ということにおいて加担しているのです。このことを自覚することはなかなか難しいものです。

 聖書における主イエスの言葉は、「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」語られているかに注目する必要がありますが、「思い悩むな」は、この5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)を自分事の中で整理して、強いられた座標軸を少しずらしてみよ、という促しであり、同時に招きの言葉でもあるのです。侮蔑の言葉を語ることで自らの正しさにあることにしがみ付き、他者を排除することでしか自分を確証できないような状態から自由にならなければならないのです。主イエスの「烏」と「野原の花」の祝福を少数者と共に与るためには、別の道を選ばなくてはならないのです。侮蔑する多数派の側の立場を自ら暴き出しながら悔い改めていかねければならないのです。「痛みを抱えている仲間の側から見たことあるのか」「仲間として、あるいは一番小さくされている弱い立場に置いてきぼりにされているその人たちの側から見たことあるのか」という本田哲郎神父の読み方に共鳴します。そのうえで、主イエスの道に連なる道を模索しながら歩んでいきたいのです。

2022年7月10日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章13節 「父・子・聖霊のひとりの神」

「三位一体」は「相互作用する3点セット」の意味でつかわれることが多いのですが、それは本来の意味とは違います。三角錐のように3つの側面をもつひとつの「もの」というのがキリスト教本来の意味です。「三位一体」の神は、一人でありながら父・子・聖霊という役割の中で呼びかけと招きにおいて働き続けておられるのです。ユダヤ教からキリスト教への脈絡の中でいわゆる「偶像礼拝」は否定的に捉えられています。これはただ単に「偶像」を礼拝することが間違った宗教・汚らわしい宗教という意味ではありません。神とは物言わぬものではないのだということです。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この言葉は、「三位一体」における恵みと愛と交わりとが、それぞれの姿の中で実体となること、現実となることを、働き続ける神への信頼のもとでの感謝と応答として相手に祝福を祈るものです。「三位一体」における神は固まって動かないものではないのだとの表明でもあります。絶えず、呼びかけと招きにおいて、その働きをやめない方なのだとの表明でもあるのです。

コリント教会はパウロがアキラとプリスキラたちと共同して立ち上げました。しかし、パウロがコリントを去ってから分派などの問題が次から次へと起こり続けていたのです。何とか解決策を見出したい思いでパウロはコリント教会に手紙を書き続けました。パウロが願うような解決の方向には至らなかった可能性はあります。そのことをパウロは自覚していたのでしょう。しかし、それでも教会が教会として同じ神を信じ、共に信仰生活を歩むことができることを信じていたに違いないのです。

人間の知恵には限界があります。様々なアドバイスを書き送っても、それが主イエスに倣い、応答していく証の態度であったとしても、あくまでパウロ自身の考えや理解から自由ではないという限界のあったことは言えるのです。だから、コリント教会の今を整えるために、まとめとして神に委ねる必要があったのです。それが「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」という祈りでした。具体的に神が働いてくださるに違いないと信じていたからでしょう。

わたしたちは、このパウロの1313節の言葉を今のこととして受け止めることができるのではないでしょうか。「三位一体」「父・子・聖霊のひとりの神」が呼びかけと招きのあることを信じます。今もなお生きている神がおられることに信頼を置いて歩むことができる幸いに感謝したいと思います。

 

2022年7月 3日 (日)

コリントの信徒への手紙一 1章18~31節 「十字架の言葉」

 十字架刑は、ユダヤ人にとっても異邦人であるローマ人にとっても受け入れがたい、おぞましいものでした。十字架は決して美しいものではありません。日曜の朝から不快な言葉を並べ、申し訳ありませんが、血の匂いや糞尿などにまみれ、悪臭漂い、無残なものです。人をこれまでかと言うほど、そのいのちを侮辱しつつ殺していく死刑の方法であったのです。ローマの考え方からすれば反逆者、政治犯、奴隷の処刑であり、ユダヤ教では木に架けられた死体は神に呪われたものです。

 この、主イエス・キリストの十字架の出来事はキリスト教信仰にとっての試金石です。わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を引き受け、主イエスが十字架上であがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。

 主イエスを信じ、従う者とは、この十字架の事実・出来事に打たれたものを指します。十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による主イエスの死によって、わたしたちはいのちへと呼び覚まされ、生きるべき道が備えられていることを知らされるのです。

 弱いけれども強いと述べるパウロは、順風満帆に地中海沿岸を旅しながらキリスト教を宣教したのではありません。持病を抱え様々な艱難の連続だったのです。弱いけれども強いという支えと導きを、あの十字架によって知らされていたのです。わたしたちもパウロと同様に確かに弱いのです。具体的な体の病や痛みをもち、人間関係や生活のことで頭を悩ませ苦しんでいる日常です。しかし、十字架の主イエスに信じ従うことは、わたしたちの日毎に圧し掛かる苦しみの中にあって、主イエスの十字架の苦しみのゆえに、自らの重荷を負いつつも生き抜く祝福を信じているのです。あえて勇気と希望のもとに、です。その力が、十字架の主イエスによって、わたしたち一人ひとりに、すでに備えられているのです。このことを信じることができるようにと赦され、招かれているのです。

 十字架における主イエス・キリストは、「世の無学な者」「世の無力な者」を選ぶことによって、わたしたちのまことの友となるようにして寄り添い続けているのです。知恵もなく、力や財力もないからこそ、わたしたちは選ばれたのです。仮に資産や能力に恵まれた人であるなら、それを誇りにしない、そこに依り頼まず、それを手放すことも恐れないでいられる身軽さ、たとえ大きなものをもっているように思えても、それは神から見れば無きに等しいものだと気づくことが与えられています。わたしたちに向かって、様々な仕方であらゆる悪しき「知恵」を相対化する視座を与えるようにして、主イエスは傍らに父続けてくださっています。この主イエスにある道へと立ち返りつつ歩んでいく決意を新たにしたいと願うものです。

2022年6月26日 (日)

使徒言行録 5章1~11節 「神を欺かないために」

 わたしたちは、教会はイエス・キリストの神を信じているがゆえに純粋で間違ったことなどするはずがないという幻想を抱いてしまうことがしばしばあります。しかし、この世で起こる犯罪をも含めた人間のあらゆるエゴイズムはどんなことであっても教会の中で起こり得るのです。むしろ、人間の罪深さや愚かさがあからさまに生のまま表れてしまう場が教会なのかもしれません。土地を売ったお金の一部を手元に残したのに全部献金したと嘘をついたアナニアとサフィラが突然死したという物語はこのことを表しているともいえるのでしょう。

 教会には様々な人間のエゴイズムが形を変えながら存在します。アナニアとサフィラの偽りの献金は氷山の一角です。表面に出ることなく燻っていることも少なくないと思われます。それら一つひとつに対して「聖霊」の導きを祈りつつ歩むほかありません。限界ある人間の集まりとしての教会を絶えず「聖霊」の計らいに委ねながらも自己吟味し続けることを止めないことです。主イエスの憐みに包まれていることへの信頼抜きには教会の歩みは不可能です。様々なエゴイズムが満ちているからこそ教会なのかもしれません。使徒言行録は、先ほど指摘したようにアナニアとサフィラを描くことで「教会」の現実を明らかにしているのです。

 しかし、教会が下世話な問題の只中にあったとしても、「聖霊」に支えられた正直さが大切なのだというのが今日のテーマの中心であろうと思われます。この点を外さなければ様々な問題があったとしても、「神を欺く」ことがないのです。自らの言葉や振る舞いを正していくことができるのです。さらには、教会の中での対話の方向も開けてくるのだということです。わたしたち自身はアナニアとサフィラのように露骨な偽りはしていないでしょう。しかし、わざわざ「教会」とはこういう現実から自由ではないのだと使徒言行録が証言している以上、わたしたちにとって彼らのことを他人事として読むことも間違っているでしょう。肝心なことは、彼らの現実とは形が違っていても似ている点があることを認めていくことです。そのうえで「聖霊」に支えられた正直さを求め、祈りつつ歩むことの他ないのだと認めること、ここに「神を欺かない」道が示されるのではないでしょうか。わたしたちのあらゆる欺瞞を受け止めつつも、より正しい道へと導く「聖霊」の働きを求めていきましょう。

2022年6月19日 (日)

使徒言行録 4章13~22節 「神の前での正しさを求めて」

 4章13節によれば「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」とあります。「無学な普通の人」として、です。学者のように律法の知識を蓄えていたわけではなかったでしょう。学があり、律法の知識に長けていたのであれば、波風を立てることなく、その社会の中で適応した従順な態度や振る舞いによって時代の要求する期待された人間像に相応しく振舞っていさえすればよかったはずです。規格化された人間として飼い慣らされた生き方をしていればよかったのです。しかし、死者の中からよみがえった主イエスの聖霊の力によって、飼い慣らされて従順になるのではなくて、自由への招きに与ってしまっているのです。

 その時々の時代の要求する従順から、不従順によって生きる可能性をペトロとヨハネの態度から読み取ることができます。当時のユダヤ教権力に対して従順であることは、他から与えられた意思に屈服した生き方を選ぶことです。その屈服した生き方が身体に、そして普段の生活にまで染み込んでしまい、空気のように当たり前のことになってしまっているという不幸があるのです。ここからの解放をペトロとヨハネは身をもって、あえて権力への不従順として、イエス・キリストを証しているのです。「無学な普通の人」は決してマイナスばかりのことではありません。無学であるからこそ自由を受け入れる余地があり、イエス・キリストの復活、そしてその聖霊の働きに身を委ねることができるようにされたのです。

 19節では「しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。』」とあります。このセリフは珍しいものではなくて、ペトロとヨハネのオリジナルのものでもなかったでしょう。わたしたちが受け取るべきは、死者の中から復活した主イエスの聖霊の働きによって導かれるものです。これは、ペトロとヨハネの宣教活動が生前の主イエスの活動をお手本にしながらなぞっている物語の構成からも理解できることです。

 わたしたちに求められているのは「無学な普通の人」に留まることです。情報過多なこの社会にあって翻弄されず、聖霊の働きを受け入れるだけの余白を持ち、「神の前に正しいかどうか、考え」ることに他なりません。イエス・キリストにおける聖霊の働きに身を委ねることによって決断、言葉、振る舞いが方向づけられるのです。今を歴史的責任のもとで歩むべき「神の前に正しい」道が開かれていくことを確認したいと願っています。この聖霊の主イエス信じることに絶えず立ち返りながら、わたしたちは自らのあり方を省み、より神の前に正しいかどうかを自己吟味する道へと招かれているのです。

2022年6月12日 (日)

ルカによる福音書 12章10~12節 「信仰を言い表す」

~子どもとおとなの合同礼拝~

 主イエスの活動は、ガリラヤ地方からユダヤ教の中心の街であるエルサレムに移ってきました。ある晩、弟子たちと一緒にいるところに、主イエスを邪魔者だと思っていた人たちに連れられた兵隊たちがやってきて、主イエスは逮捕されてしまいます。その時に、あれほどどんなことがあってもイエスさまについていくと言っていたペトロは怖くて逃げ出してしまったのです。そして、主イエスが逮捕されて、裁判を受け、十字架で殺されていくのを遠くから見ることしかできませんでした。その時に色んな人たちから、「お前はあのイエスという人の仲間ではないのか」と聞かれます。ペトロは自分も捕まってしまうのではないかと不安で、「そんな人は知らない」と3回も答えてしまったのです。

 主イエスは十字架で殺されてから3日目に生き返りました。この復活の主イエスは逃げ出してしまった弟子たちを赦し、聖霊の力によって励まし勇気を与えるのです。ペトロは、主イエスと一緒にいることができなかったこと、逃げ出してしまったことが恥ずかしくて悲しくて仕方がなかったのですが、こんなひどい自分を主イエスが赦してくださったということに驚き、そして嬉しさに溢れます。復活の主イエスから新しく生きていくことができる力をいただいたのです。この力によって、心の底から「信仰を言い表す」ことができるようにされたのです。「イエスさま大好き」という言葉がはじめて本当にされていったのです。「イエスさまが大好き」なのは、主イエスの復活の力の赦しにあることが知らされたのです。このことによってペトロは、主イエスの仲間であることを怖がったり脅えたりすることをしなくなりました。「イエスさま大好き」という、とても明るい心や気持ちで生きることができるようになったのです。主イエスを邪魔者だと思うような人たちにいじめられたって本当に怖いことではない、と分かったからです。何があっても、どんなことが起こっても復活の主イエスのお守りがあるから大丈夫だと知らされたからです。

 困ったことや辛いこと、悩みや悲しいことがあっても、主イエスの力に導かれて自分の言葉で言い表すことができるようにされたのです。今日の聖書には、このように書かれています。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」どんな時でも、イエスさまは目に見えなくても聖霊として一緒にいてくださるのだから大丈夫、わたしたちの語るべき、そして聖霊の働きが言葉を作り出し、導き、支えてくださることを知っていれば大丈夫なのです。

2022年6月 5日 (日)

使徒言行録  2章1~11節 「自分の言葉が生まれる時」

 今日の聖書は、聖霊に満たされた弟子たちが突然に各国の言葉で神について語り始めたという有名な記事です。読みながら、言葉にまつわる日常のもどかしさを感じました。わたしが接するほとんどの人は日本語が母語であると思いますが、その日本語である言葉が通じないという経験のあることを思うからです。家族や友人など親しい者同士であっても、同じ信仰に立っているとしても、です。発した言葉がその意図通りに相手に届くとは限らない、ということです。

また、社会全体として、これまで以上に言葉を発する力も聞く力も衰えてきているようにも思われます。とりわけ、国際間において様々な場で侵略行為などがなされている現状にあっては尚更です。井上ひさしは言葉の力を信じていたのでしょう。2006年7月に出版された『子どもにつたえる日本国憲法』の中で9条1項を以下のように「翻訳」しています。「(略)けれども私たちは/人間としての勇気をふるいおこして/この国がつづくかぎり/その立場を捨てることにした/どんなもめごとも/筋道をたどってよく考えて/ことばのちからをつくせば/かならずしずまると信じるからである/よく考えぬかれたことばこそ/私たちのほんとうの力なのだ」。ここには聖霊降臨の力によって、言葉が通じる道筋があるはずだとの課題が示されていると思えるのです。

 一番伝えたい大切な言葉とは、理路整然とした説得的な理論に基づいたものであるとは限りません。語る人の中での理論や理屈、ものの考えの正しさだけでは十分ではないのです。同じ言葉を語っていても、そこに込められた意味が同じだとは限らないからです。

 わたしたちは言葉の氾濫した時代の中で、言葉自身のもっている正直さとか本音、真心とかが伝わることを信じられなくなっています。言葉の力を信じられなくなっているのかもしれません。しかし、通じる言葉があり、それを聖霊の働きによって信じることができるのだと思い起こさせようとして使徒言行録21節からの物語は語りかけているのではないでしょうか。心の奥底からの今一番大切で正直な言葉は、たどたどしく不器用であっても、また理路整然とした論理体系がなくても信じるに足りる言葉なのです。だから、ここに希望を託し、諦めてはならないとでも言いたげです。わたしたちの語る言葉が開かれていくことを信じてみないかという呼びかけが聞こえてくるのです。

2022年5月29日 (日)

使徒言行録 1章1~11節 「キリストの昇天」

 キリスト教の歴史理解については聖書を比べながら読むとかなり多くの違いやズレがあることに気が付きます。これらの違いについては、それらが書かれているテキストについての説教で扱うことになると思います。今日は、キリスト教の歴史の基本的な理解を大まかに説明するところを確認することから始めていきたいと思います。使徒信条で「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」と言われている箇書についてです。

 一般的なキリスト教の歴史理解は、同じ著者によって書かれたルカによる福音書から使徒言行録の流れに沿っています。かつての旧約の民イスラエルにおいて約束された救いがユダヤ人という閉ざされた民族からすべての民へと広がりゆく出来事として主イエス・キリストが登場したことから展開していきます。まず主イエスの「時」があります。その生涯における活動において神の意志が実現しました。多くの人たちが生き直すことや喜びに生きる道へと招かれたのです。しかし、この主イエスは十字架という当時の最も忌み嫌われる処刑によって殺されてしまいます。ユダヤ教においては神に呪われた者の死であり、ローマの文脈では奴隷の死であり反逆者の死としての見せしめとしてなされたのです。しかし、この十字架の死がなぶり殺しで見せしめであったことを踏まえながらも、だからこそこの十字架の死は、人間の存在の根本にある罪の現実を身代わりとして、代理としての死であると理解されたのです。これはいわゆる「贖罪」として受け入れられています。この殺された主イエスが神に起こされること、よみがえらされることにより、全面的に肯定され、救いが現実化したというのです。そして、復活の主イエスは40日間弟子たちと共にいて神の国について話されたのです。40日の40とは、非常に象徴性の強い数字であり、かつては、ノアの洪水物語での雨の降る続いた期間でもあり、またイスラエルの民の荒れ野での40年を思い起こさせますし、さらにはモーセが十戒を受けるために断食した期間も40日でした。また、主イエスの誘惑の期間を思い起こさせるものでもあります。準備しながら待つ聖なる期間を40日とか40年とか理解するのは読み込みになるのかもしれませんが、相当な期間であるとか十分な期間であるとかということはできると思います。

 復活してからの40日間、主イエスは弟子たちと共にいましたが、この世に居続けることは許されませんでした。天に帰る日がやってきたのです。天とは、現代人からすれば地球は丸いのですから空の上には宇宙が広がっていることは常識とされていますが、当時の人びとの理解によれば神のいる場であったわけです。現代的に理解すれば、天というのは人間の技術や理解など、あらゆる知恵を絞っても到底手の届かない領域と理解すればいいのかもしれません。

 弟子たちは、せっかく主イエスが復活してくださったのだから、ずっとこのまま一緒にいてほしいと願ったように思われます。弟子たちの「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いに対して、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」。このような言葉を残したままで「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。40日間、主イエスは弟子たちと一緒にいて神の国についての話をしたのですから十分理解したことを踏まえて天に帰って行かれたのではないかと思うのです。いわば、あなたがたにあって、わたしはいなくなるけれども、あなたがたは与えられた使命をもって歩んでいけるし、その歩みを見守っているのだから、基本的なところでは安心していけばいいのだし、きっと大丈夫という気持ちがあったのかもしれません。しかし、弟子たちはまだまだ十分話を聞かされていないと思ったのか、一緒にいなければ嫌だという気持ちがあったのか、あるいは心だけでも主イエスと共に天に一緒に行きたいと願ったのか、ともかく名残惜しさに満たされていたのでしょう。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」とあります。天を見つめていたということは、穿った見方になるかもしれませんが、自分たちが残された地上、自分たちの生きる現場である、この世における責任性や使命に見向きもしなかったことが読み取れるような気がします。そこで、「白い服を着た二人の人」が登場します。「二人」という表現の仕方は、ルカによる福音書の著者の手癖のようなもので他の箇書にも表れます。主イエスと一緒に磔られた罪人も二人であったなど逆の立場を対比する場合もありますが、一人だと客観性がないと考えている節のある使われ方もあります。たとえば、活動の初期において洗礼者ヨハネから主イエスの許に遣わされたのは二人です。エルサレムに入る時に用意する子ろばを連れてこさせるのも二人ですし、過ぎ越しの食卓を用意させるのも二人です。空の墓に現れた輝く衣を着た人も二人、エマオ途上で復活の主イエスに出会ったのも二人です。このように見てくると、ルカによる福音書においては客観的な確実さを表現するための二人であることが分かります。今日の箇書での二人の言うことは「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」です。つまり、このセリフが強調されて読まれることをルカによる福音書は求めていることになります。主イエスは天に昇られた。だからといって、弟子たちはいつまでも天を仰いでばかりいるのは間違っているとの指摘があるのです。

 先ほどの主イエスの言葉には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」とあります。これは使徒言行録の2章の初めの聖霊降臨を先取りしています。主イエスは天に昇るのですが、聖霊を送ることにより、来るべき日である来臨の時まで「教会の時」が始まっていくのだとの指摘でもあります。

 主イエスが天に昇られたことは、確かに弟子たちにとっては淋しく悲しく、心細くなるような別れであったことは理解できます。しかし、この別れは全く主イエスとの関係が断絶してしまうようなものではなくて、かつて直接顔と顔を合わせ語り合い、振る舞いによって慰められ、生き直しの喜びに生かされていたことがゼロになってしまうことではないのです。天に向かって雲に包まれるようにしていってしまう主イエスの姿は、これから先、心だけを天に向けることで、この世を軽んじる生き方をしてしまうのではなくて、この世における責任性を喜びのうちに生きて行けという命令があるのではないでしょうか。テキストでは今はまだ聖霊は下ってはいない時点にあるけれども約束があり、実際2章では現実化したと読み手は知っているのです。なぜ「天を見上げて立っているのか。」という言葉から、復活の主イエスとの出会いを経験していればこの世・地上での生き方を証の生き方へと転換していく責任性がキリスト者にはあることを、白い服を着た二人によって語らせているのではないでしょうか。

 現代の教会につらなるわたしたちに「天を見上げて立っているのか。」と問われるあり方が全くないとは思われません。主イエスの教えは心のことだけが課題になっていると理解して、この世の王国と神の王国を別のこととして理解する、ルター以降の二王国説に陥ってしまい、この世の事柄は社会的なことであるから教会には関係のないことで話題にすべきではないとか、あるいはこの世を軽蔑して宗教の聖なる世界観に溺れるようにして現実から逃げ出すとか、さらには主イエスを必要以上に聖なる存在として理解するがゆえにこの世における責任性を無視するとか言った生き方を正当化するキリスト教会も存在します。しかし、主イエスの昇天によって明らかにされている、この世における責任性の問題から逃れられないと理解するのが、証の生活に生きるキリスト者のあり方なのではないでしょうか。主イエスが天に昇って行かれるときに、聖霊を与えるという約束が弟子たちのあり方に展開されていく記事が4章に展開されていきます。2章で聖霊を受けた教会という群れは力が与えられます。主イエスを証する人たちが起こされ、語り行動へと導かれていきます。例えば、4章以降ではペトロとヨハネは議会で取り調べを受け、主イエスの名によって話したり教えたりすることが禁じられます。しかし、彼らはその禁をあえて破る生き方を選ぶのです。419節以下でペトロとヨハネは答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と語るのです。

 わたしたちは、今日の聖書の語りかけを受けて、どこに立ち、証の生涯を歩むのでしょうか。もちろん、わたしたちはナチに抵抗したバルトやボンヘッファーやニーメラーではありません。アメリカの公民権運動のキング牧師でもありません。そもそもわたしたちの所属する日本基督教団は大日本帝国の戦争に積極的に協力するところから成立していることを覚えないわけにはいきません。1939年に宗教団体法が成立し、宗教各派が協力して翼賛体制を作り出していくのです。非国民と思われていたキリスト教会は、一人前の臣民としての誇りを持つことが出来るようになりました。宗教団体法の可決の後、1940年に青山学院を会場にして行われた皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会で教団の成立の気運が非常に高まった道に従って1941年に日本基督教団は成立したのです。この教団に所属している以上戦争責任・戦後責任を負いつつ歩む方向を志すのだという流れもあり、一方でこれを否定する流れもあります。

 今日、わたしたちがここで確認しておきたいこと。それは、昇天に関する信仰理解は、聖霊降臨信仰から来臨信仰の間にある、「教会の時」としての今を生きるためには、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」に続く「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」との約束の実現における聖霊降臨の励ましによって立ち上がり歩みだしたペトロとヨハネの生き方、証の姿を心に刻むことだと思われます。どれほど、具体的な今という現実認識に対して関わり続けられるのかは明確に応えることは単純ではありません。困難でもあります。しかし、この視点・立場に留まり続けることによって神の栄光を現すわたしであり、群れであることへの途上を歩むものとして整えられるようにとの促しが物語の教えるところなのではないでしょうか。この点に関して不安や迷いが生じることは十分に予想できます。また、わたしたちの力や勇気の足りなさを自覚しないわけではありません。しかし、主イエス・キリストの導きと支えの確かさにあって歩むことが赦されているところに慰めがあることは確かであると信じつつ従う道は用意されているのです。

祈り

いのちの源である神!

昇天から来臨に至る約束において働かれる聖霊に委ねつつ歩ませてください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によってささげます。

                          アーメン。

 

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