2024年9月 1日 (日)

ヨハネによる福音書 8章31~38節 「真理はあなたがたを自由にする」

 主イエスは語りかけています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、主イエスの言葉に留まることをもって弟子となり、それを導く「ほんとう」によって自由へと歩む方向付けと導きがあるということです。

 ところで、わたしたちは果たして、主イエスの言葉において示される「ほんとう」によって自由へと向かっているのでしょうか。「ほんとう」でないものを、あたかも「ほんとう」のことのようにして誤解していないでしょうか。デマや噂を「ほんとう」として刷り込まれて、強制的な誰かの意志に服従する、そのような従順に犯されてはいないでしょうか。

 聖書の文脈では、主イエスを「信じたユダヤ人たち」に対しての言葉です。これに対して彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と不満を述べ、自らがすでに「自由」であると言いたげです。しかし、彼らの自覚に隠された「奴隷根性」、つまり、何かしらの権威を傘に着ることで保証されていると思う勘違いのあることが理解できていないのです。常に、今ある自分の立ち位置を主イエスの「真理」に基づいて正していかなければならないのです。そうでなければ、「奴隷」としての「従順さ」において「服従」に溺れてしまうのです。これは「自由」とは程遠いものです。

 「真理はあなたたちを自由にする。」という立ち位置は、デマや噂に飲み込まれない道への招きがあります。「真理」によってもたらされる「自由」に与ることは、この世における責任的な生き方を選び取ることと別のことではありません。その人の内面性に閉ざされて完結するものではないのです。

 この意味において、今一度主イエスの言葉に立ち返りたいと願うのです。そうでなければ、わたしたちは「関東大震災」の混乱の中でデマを信じて「異質なもの」への襲撃に走った人たちの誤った道を再び歩むことになりかねないからです。何かしらの権力や扇動者たちの従順な奴隷になってはならないのです。この御言葉はそのままで信じるに値するものです。すなわち、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」。この御言葉のもと、デマや噂に溺れないで、責任的な生き方をこの世においてなしていくことを願います。主イエスの真理において自由へと歩みたいのです。

2024年8月25日 (日)

マタイによる福音書 16章18~20節 「心を一つにして求めるなら」 原 直呼

 「19…どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」の最後は、本田哲郎訳も田川建三訳も「わたしもその中にいるからである。」となっており、主イエスが真ん中にいてくださるからこそ、わたしたちは心を一つにすることができるし、そのようにして求めることを神はかなえてくださるのだと読めます。ただ「あなたがたのうち二人が」は、その後の「二人または三人」からも、二人から広がっていくものと考えられます。

 また、本田哲郎神父は「心を一つにして実行に移すことは」と訳しています。実行が伴ってこその祈り。ただ、「実行に移す」ことは必ずしも「みながそろって行動を起こす」こととは限らないと思います。様々な事情で「共に行動する」こともある。行動を起こせる者の背後には「心を一つに」した者たちの支えがある、ということではないでしょうか。

 「心を一つにして求める」ことは、一見心地よく、安心できるような感じですが、実はとても難しいようにも思います。多くの情報にさらされ多様な価値観を持ついっぽうで同質者集団をつくりがちなわたしたちが、仲間意識を超えて、一人ひとりの気持ちをあわせて願う、田川訳で言えば「願い求めることについて地上で一致する」ことは、現実と照らし合わせて想像すると、かなりハードルが高いようにも思えます。

 このハードルを超えようとしている方々のことを、教区平和集会での渡邉さゆりさん(日本バプテスト同盟牧師)による講演で知りました。日本バプテスト同盟とミャンマーキリスト教バプテストは、2019年に宣教協約を結んだそうです。20212月にミャンマーで軍事クーデターが起きたことを受け、渡邊さんたちは毎週金曜夜、「拘束された市民の解放を求め、民主化のために抵抗する人々との連なりの証しとして」オンラインで祈り会を始めました。8月に結成した「アトゥトゥ(いっしょ、共に、の意)ミャンマー」は、活動の特徴のひとつが「抵抗運動としての祈り会を軸に運動を続ける」です。まさに「心をひとつにして求める」です。献金が集まり、送金・支援物資の送付も始まりました。祈りを中心に置いて3年間一度も休まず続け、自然発生的に活動が様々に広がっていくアトゥトゥミャンマーは、聖書の言葉のリアルとして、その存在を示しています。

 アトゥトゥミャンマーから希望を与えられて、困難な道ではあるけれど、神の国の実現を「心を一つにして求める」ことができますようにと、今、あらためて願います。

2024年8月18日 (日)

ヨハネによる福音書 8章3~11節 「主イエスは見ている」

 今日の聖書では、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」とあることから、著者は「性善説」に立っているかのように感じます。「性善説」とは孟子が唱えたとされるあり方で、人間というものは、そもそも善の基本があって、それを発展させ徳性に至るという考え方です。人間はもとが良いものだというのです。しかし、人間はそもそも誰一人として逃れられない根本的で決定的な「罪」が根付いているというユダヤ的な発想からすれば、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」という場面には違和感があります。聖書のテキストを好意的に読めば、「こうあればいいのに」という理想的な場面として著者は描きたかったのでしょうか。

 わたしたちを巡る現代社会のリンチの発想は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」ではありません。気に入らないことなら何でもいいとばかりに寄って集って標的を定めたら、とことん詰めてヘイトスピーチで叩き潰していこうとする空気が満ち溢れています。我先に石を投げつけることが主流のようになっているのではないでしょうか。インターネットの発達によって、石を投げつけるにしても匿名性で守られている以上、自らの攻撃的なあり方は表に現れにくいし、このことによって無責任に攻撃をエスカレートさせることもデマをでっち上げて煽り立てることもできるようになっているのです。

 ここでは、人間の持つこのような攻撃性を無化しつつ、その女性の立場を、また石を投げつけようとする立場を、沈黙によって問う主イエスの姿勢が、わたしたちのところにも染み渡ってくることへの期待をも持つのです。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語り、その後は沈黙し「身をかがめて地面に書き続けられた」、この言葉において、この女性に対して、また同時にその場にいる人たちに対して主イエスの姿からの迫りがあることを確認したいと思います。この場にいる人たちが、自分たちの「正義」に縛られた「悪意」に気づくことで自らが正されて「一人また一人と、立ち去って」行ったこと、この意味において自らに非を認めることができたこと。そして、この女性には、誰からも罪に定められることなく、「行きなさい」と自由に生きるために前進していく力が与えられたこと。これらを確認しておきたいのです。いずれの道も決して安易なことではありません。しかし、沈黙をもって主イエスは自らの姿を思い描くことへと導き、方向を与えてくださることを信じることはできます。主イエスは支える沈黙の力として働かれるはずなのです。ここに信頼しながら、自らの姿が明らかにされつつ、主イエスにあるところの相応しさの道を歩みたいと願うのです。沈黙の主イエスの見守りに信頼しつつ、歩んでいきましょう。

2024年8月12日 (月)

マタイによる福音書 5章9節 「平和に向かう道」

 「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」。有名なフレーズですが、この「平和を実現する人々は、幸いである」とは、「平和」が自然に、また自動的に与えられる現実でないことを示しています。人間には果たして「平和」の道へと押し進めていく能力や知恵などあるのだろうかと思えるのですが、主イエスはこの働きに参与するものこそが「神の子」なのだというのです。「神の子」というのは、神によって良しとされ、祝福され、喜ばれたあり方です。現代の世界は、この意味で主イエスの神を傷つけ、悲しませ、相応しくないあり方なのではないかと思えます。

 旧約聖書を通して読むと、戦争や争いなどを肯定的に描いているところが少なくありません。しかし同時に旧約聖書には、戦争を否定し、「覇権主義」を乗り越えようとする神学もあるのです。イザヤやエレミア、ミカなどの預言者たちの働きの中には戦争を食い止めようとする努力が見られるのもまた事実です。戦争によって傷つけられるのは、まず弱い立場に置かれたものであるか分かっているからこそ、その時々の王などの権力に対してモノを言うことで波風を立てていったのです。

 創世記において示されているのは、完成された世界としての「エデンの園」です。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」とあるように、です。神はそこに人間を住まわせることにしたのです。そして「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言葉をかけました。しかし、有名な蛇の誘惑の物語にあるように最初の二人の人間はこの実を食べてしまったのです。

 この後、二人はその園から追い出されますが、「善悪の知識の木」から実を食べてしまったことから、様々な人間の問題行動が導き出されるという結果に陥ったと創世記は理解しています。

 「善悪の知識の木」の実から得られた「知恵」「知識」のもつ決定的な問題性です。わたしたちは忘れがちですが、この「知恵」「知識」にはプラス面と同時にマイナス面があるのです。とは、いのちを生かすことにも殺すことにも用いることができ、人生の質を高めることも低めることもでき、人権を尊重することも貶めることもできるものです。

 この「知恵」「知識」の悪用が現代に至る歴史です。この中にあって、人間の「知恵」や「知識」が膨れ上がること・傲慢さから自由にされ、闇の力から自由にされて真価を発揮できるような「平和を実現する」道への祈りがここにあれば、絶望することはないと信じることができるのではないでしょうか。

 

2024年8月11日 (日)

ヨハネによる福音書 7章40~52節 「対立の中で」

ヨハネ福音書は冒頭で、イエスの出所があくまで天なのだと語っています。このことを「命は人間を照らす光であった」「光は暗闇の中で輝いている」にもかかわらず「暗闇は光を理解しなかった」というのです。この「理解しなかった」現実の具体の一つとして今日の聖書の文脈があるのです。

 イエスをキリストとして受け止め理解するためには聖書からの語りかけに耳を傾けなければならないのは当然なのですが、聖書には神・イエスのすべてが描かれているのではないことを常に忘れず、書かれていないことも含め聖書を読む立場へと立ち返る必要がありそうです。

イエスがメシアかどうか議論している人々は、人間の側からの追求や研究などによって神を認識できる、すなわちイエスを理解できるという考えに囚われていたと思われます。しかし理解とは、イエスの側からの歩み寄り、ちょうど逮捕の場面でイエスを探しに来た人々に向かって「わたしである」と進み出たように、主イエスの側からもたらされる信仰です。

 信仰にとっての不誠実とは、悪意や偏見によってだけでなく、熱心で真面目で誠実な信仰的な態度にもひそんでいます。メシア、救い主、神である者は、こうあってほしい、あるいはこうでなければならない、という願いは、人間の持つ根本的な神認識にまつわる歪みであり呪いです。

 ここから自由にされていく信仰があるのだとの思いに立ち返りたいのです。いのちのパン、いのちの水とは、わたしという存在一切を生かしているイエスそのものの象徴です。イエスの側からのみ信仰は起こされるのです。わたしたちそれぞれのキリストとの出会い方は違いますが、多くの場合、自分がイエスをキリストと信じるという決断をくだし、「分かった」ということから始まっているかのように考えがちです。今日の聖書の文脈で言えば、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」という指摘の後で、議論が交わされその結果イエスがメシアであることは確かだと認められたという展開を想像することもできますが、このような流れがわたしたちの中で起こったゆえの「信じる」なのだと、わたしたちは錯覚しがちです。

 確かにヨハネ福音書を読むと「信じる」ことの主体性についての言葉をいくつも見つけることができます。しかし、わたしたちが信じる決断はイエスの側からの「選び」によって導き出されたものであることが前提です。すなわち1516節にあるようにです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」。この任命において、わたしたちは「信じる」ことへと導かれているのです。

2024年7月28日 (日)

ヨハネによる福音書 6章41~59節 「イエスの肉と血」

 本田哲郎神父の翻訳解釈によれば、41節から47節には「天から来たパン=イエス=のもとに来る人は、神に導かれている」という小見出しがあり、48節から59節には「イエスの生身(肉)に食らいつき、その生きざまに徹底してならえ」という小見出しがつけられています。今日の聖書を読み解くにあたって、ここにヒントがあるように思います。

 日本語で「飯を食う」とか「食べる」という時には、生計を立てるとか生活することを意味します。そして、どうやって飯を食うのかという問いがあるとすれば、ただ単にどんな仕事をして生活していくのか、という狭い意味だけではなくて、そもそもどのような態度や姿勢で生きていくのか?生きるべき信条とは何なのか?何を指標にして生きていくのか?という、生き方全般のあり方に対する問いとなるのではないでしょうか?

 今日の聖書が問うのは、読み手であるわたしたちが、主イエスの肉と血に与って生きているのかどうかを省みてみなさい、ということなのではないか、ということです。福音書に描かれている主イエス・キリストの生き方に倣い、真似びつつ歩んでいるのか、という問いが投げかけられているのではないでしょうか。福音書を細かく読めば、主イエスが、当時の格差社会、宗教的・経済的な差別社会、これら抑圧的な社会の仕組みの中で悩み苦しみ、苦闘の日々を送り、食うや食わずの不安定な生活が強いられている人たちと一緒に生きる喜びを作り出す働きの道を、十字架に向かって歩まれたことが浮かび上がってきます。差別される側の人たち、律法を守らない人たち、守れない人たち、汚れと判断される病気や障害や職業、そのような人たちの命が無条件で、そして生贄をささげなくても、今あるがままの姿で全面的に肯定されていることの表明・宣言を、主イエスはその身をもって行ったのではないでしょうか。今、生かされてあるあなたの命はそのままで美しい、祝福されているのだと語り続けたのではないでしょうか。

 主イエスの肉と血に与るということは、キリストをもっと知るために信じる道を歩み続けることです。現代社会において飲み食いは非常に厳しいです。戦争や紛争、災害や経済的な理由などにより具体的な飢えの問題は切実です。この時代にあって、飢え渇きのない世界を求めて、主イエスの肉と血に共に与る世界に向けって祈りつつ歩みながら、まことの平和がこの地上になりますようにと祈るものです。

2024年7月21日 (日)

ヨハネによる福音書 6章22~27節 「いのちの糧」

 26節を田川建三は次のように解釈しています【著者の眼から見れば、「徴」を見てイエスのことを持ち上げるような人々よりも、奇跡がどうこうではなく、素朴に、イエスが与えてくれたパンを食べて満足した、という人々の方が安心して会話できる相手だ、ということになる】。つまり、主イエスと一緒にパンを食べること、そして満腹することを全面的に承認する方向です。いわば、主イエスの食卓における祝福を肯定し、観念化や精神化に陥らず、単純に食べて満足している中に平安があるという発想があるのだと、わたしは受け止めています。

 この意味で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」この言葉を理解したいと思うのです。そしてさらには「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いに対する答えとして「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」という世界観に向かっていきたいと願っています。

 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」この言葉を、永遠の命に与るためと信仰的に閉ざされた理解をするのがおそらく多数派であろうことは承知しています。しかし、通常の食卓と聖餐という儀式の食卓を分離するのではなく、主イエスは共なる食卓にこそ「永遠の命に至る食べ物」は備えられていること、その食卓を「聖餐」から「日常」へと取り戻すことの必要性を感じています。

 人が生きていくこと、いのちを保持するためには様々なものが必要です。特に、単純に食べることが大切です。何かしらの食べ物を食べることによって消化・吸収し排泄します。吸収された食べ物は血となり肉となり、身体を維持するエネルギーとなります。今、ここで生かされてあるいのちは食べることによって支えられているのです。辺見庸が、世界各地の日常食を食べる体験を書いた『もの食う人びと』というルポがあります。そこには、腐ったもの、放射能に汚染された料理も含まれます。そして「食べられない」現実も。ここに描かれている食べるという営みが「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という言葉と共鳴しているように、わたしには思えてくるのです。「永遠の命に至る食べ物」は、「すべての人が満腹」という日常の食卓の先にある、と思えるのです。主イエスは誰と食卓を共にしたのか、このことを常に軸にして考えたいと思います。

2024年7月14日 (日)

ヨハネによる福音書 6章16~21節 「恐れることはない」

 「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」場にある弟子たちを乗せたこの舟。この背後にはヨハネ福音書において主イエスの不在というテーマがあります。ヨハネ福音書の教会が「強い風が吹いて、湖は荒れ始め」ている中にあって、主イエスがいないために滅びに向かっているのではないか、という危機感にあったということです。しかし、その場においてこそ「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を受けることができるのだともいうのです。そして、この舟を、その時々の教会は自分事として読んできました。現代日本の教会においては、教勢が低下し続けている現実のことかもしれません。

 その時々の教会に向かって、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を語りかけ、歩み寄る方です。湖という普通は歩くことの不可能な状況で描かれていますから、この語りかけと歩み寄りには、不可能を越える主イエス自身の自由さに基づいた、主体的な行動だと読み取れます。実際、ヨハネ福音書から現代日本の教会に至るまで、主イエスの不在が問題にならず、実感もされずということがあるでしょうか。それでも、不在の主イエスは、この不在において「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけているのです。この言葉を受けるのかどうか、この問いと迫りに対しての反応、応答が求められているのです。

 「わたしだ。恐れることはない。」との言葉を受ける態度としての相応しさを考える時に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』の一節を思うのです。

 【「僕たちは、この世の中で生きねばならない―『たとえ神がいなくても』-ということを認識することなしに、誠実であることはできない。しかも、僕たちがこのことを認識するのはまさに、神の前においてである。神ご自身が僕たちをしいてそのことを認識させたもう。このように、僕たちが成人することによって、神の前における僕たちの状態を正しく認識するようになるのだ。神は、僕たちが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、僕たちに知らしめたもう。僕たちと共にいたもう神とは、僕たちを見捨てたもう神なのだ(マルコ1534)。神という作業仮説なしに僕たちにこの世の生を営ませる神は、僕たちが絶えずその方の前に立っている神なのである。神の前で、神と共に、僕たちは神なしに生きる」。】(ここで言う「作業仮説とは、これから行う研究や考えをまとめる時に「差し当たって」前提として有効であると設定することです。)

 つまり、主イエスの不在にあって、それでも「神が共におられる」ことを語るとすれば、「神が共におられる」ということがわかる状況に向かう自立が求められているということです。どういうことか。不在の中、「わたしだ。恐れることはない。」との言葉において共にいるところから支えられるのだということです。

2024年7月 7日 (日)

ヨハネによる福音書 5章19~36節 「御子の権威」

 24節では次のように語られます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」。つまり、キリスト者であるわたしたちは、主イエスにあって永遠の命に与っているのだというのです。主イエスによって知られていることを受け止めることで主イエスを知る道に招かれている。そこに「永遠の命」があるということなのではないでしょうか。理解のためのヒントになりそうなのは17章3節の言葉です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。神と主イエスを知ることが「永遠の命」なのだというのです。ここでの「知る」というのは、ただの知識のことではありません。腹の底から「分かった」という、いわば腑に落ちている状態のことです。この永遠の命とは、世の始まる前から今ここにおいてあるということです。主イエスからの呼びかけと歩み寄り、また共におられること、そしてこの世の命の終わりを迎えてもなお、決して無効にならないあり方です。今生かされてあることだけに留まらないのです。25節には次の言葉があります。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」。つまり、死んだ者も生きている者も同様に神の子である主イエスの声を聞くことにおいてつながっているのだというのです。

 生きている者も、死んでいる者も、主イエス・キリストの声に与っている今、その命に与っているのだというのです。十字架において殺害された主イエスがよみがえり、天にのぼり、神の右におられることにおいて、今生きている者も死んでいる者も守られていること、平安にあること、見守られていること、ここにこそ「永遠の命」があるのだというのです。

 十字架上の死を経てよみがえり、神の右という場からの呼びかけの力の及ばない場は存在しないとわたしは考えています。この主イエスの声の届かないところはないと信じているのです。いわば、「天国」とは主イエス・キリストの呼びかけと守り導きの約束や宣言の言葉の届く範囲のことです。広がり続けるイメージで受け止めると分かりやすいかもしれません。向こう側の岸辺である、神の右という場からの呼びかけの届かない場所などないのです。

 十字架の主イエスがぶつかって来るイメージとして語られている感覚です。この場の力において、生きている者にあっては「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」のであるし、死んだ者にあっては「今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」、このような現実が主イエス・キリストの今なのだ、とヨハネ福音書は主イエスの言葉として伝えているのではないでしょうか。

2024年6月30日 (日)

ヨハネによる福音書 4章43~54節 「言葉を信じて」

 今日の箇書は「見ないで信じる者は幸いである」がテーマとして根底にあります。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言う役人に対して「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と返す主イエスの言葉を信じたら癒されていた、という物語です。主イエスは敵対する勢力に所属している人に向かって「あなたの息子は生きる」と語りかけているのです。この主イエスの言葉の姿勢は、今、増殖し続ける「ヘイトスピーチ」とは真逆のものです。

 主イエスの言葉とは、世の中に溢れている、暴力的、破壊的、抑圧的、差別的、排除的な力を振る様々な悪を退けるものです。人を豊かないのちへと招き導くものです。この主イエスの言葉を信じることが「あなたの息子は生きる」が事実として起こされるのだとの証言がここにはあります。ヨハネによる福音書は次のように始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」ここにある言こそが主イエス・キリストです。と同時に創世記の初めの部分で「光あれ。」と語られた創造の主と別の方ではありません。創世記1章の終わりにある「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」この「見よ、それは極めて良かった」のは、神によって祝福された世界であり、あらゆるいのちです。この「極めて良かった」という言葉と「あなたの息子は生きる」という言葉は同じ方向を示しています。いのちの祝福であり、全面的な肯定です。より豊かないのちへの招きです。この言葉のもたらす方向性に連なっているのかという問い、さらにはすでにわたしたちはこの方向性に包まれてしまっているがゆえに「あなたの息子は生きる」との言葉を信じた役人の信仰の道と決して無縁ではないことを確認しておきたいです。

 わたしたちは、荒んだ暴力的な言葉の世界に暮らしています。この只中に向かって、主イエスにある全面的ないのちの肯定の生かす言葉を受け取ることは赦されており、希望を抱くことへと招かれているのです。

 主イエス・キリストの言葉とは、生かす力そのものです。そして、主イエスの言葉とは生きるにも死ぬにも慰めの言葉として語り続けられていくのです。ここに希望をつなぐ一人ひとりであり、群れであることを確認しておきたいのです。

«ヨハネによる福音書 4章21~26節 「御心と、その業」

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