2022年11月20日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章14~17節「わたしたちは神さまの子ども」(子ども祝福礼拝)

(子ども祝福礼拝)

 イエスさまが神さまの大切な子どもとして人間になったことによって、イエスさまは神さまからの力を受けて、他の人たちみんながきょうだいとなる道を作り出してくださいました。誰もが神さまの子どもとして愛されていることを教えてくれたのです。みんなのいのちが何よりもとても大切だよ、と教えたり、困っている人を助けたり、ご飯が食べられない人と一緒に食べたり、悲しかったり寂しかったりする人たちを慰めたり、力づけたりしたのです。今生きていることは、本当はうれしいことなんだよって。

 そうすると、みんなもだんだんとイエスさまの心が分かるようになってきたのです。イエスさまが大切に思っているのは、強い人や正しい人、ユダヤ教の教えや約束事を守ることではなく、もっと別なことだと気が付くようにされたのです。今日の聖書のローマの信徒への手紙の別のところでは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」という言葉がありますが、この手紙を書いたパウロさんが、誰かと「共に」「一緒に」生きていくことがイエスさまの心であり神さまの願いだと分かったからこそです。

 霊という目に見えない神さまの力を信じたパウロさんは、イエスさまという神さまから与えられた、より弱く、つらい人たちと一緒に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(12:15)」という言葉を語る人にされたのです。目に見ることはできなくても、すぐ傍にいて守ってくれるし支えてくれている、そういう神さまが自分たちを子どもとして大切にしてくれていることを伝えていこうと決意したのです。神さまの子どものイエスさまが一緒にいてくれるから、イエスさまの力が働くところの人たちはみんな神さまの子どもなのだというのです。

 神さまがすぐ傍にいてくれる。そこにはイエスさまを中心とした神さまの子どもたちのつながりが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」くという出来事として起こるのだということです。ここで一緒に喜んだり、泣いたりする、みんな神さまの子どもとして守られている安心感が与えられているのです。

 今日は、「子ども祝福礼拝」です。ここには子どもたちだけではなくて、おとなの人たちもいます。実は、今はおとなになっている人たちも子どもであった時代があります。今の子どもだけではなくて、昔子どもだったおとなたちも一緒に神さまの子どもなのです。一番上のお兄さんのイエスさまのきょうだいなのです。

 今日は、今の子どもたちに祝福を祈りますが、同時に昔子どもだったおとなたちも神さまの子どもとして守られているし、祝福されていることを忘れないようにしたいと思います。子どももおとなもイエスさまの神さまの子どもとして、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」というつながりの中で歩んでいこうよ、という呼びかけに包まれていることを忘れないように歩んでいきましょう。

2022年10月30日 (日)

マタイによる福音書 9章32~34節 「自分の言葉で語る力」

 今日の聖書は、悪霊に憑かれて口の利けなかった二人の人が主イエスのところに連れてこられ、語る力が与えられた物語です。この話は、実際に口で発する言葉に限定する必要はないと思います。人に向かって語ることや書くことだけでなく、全般的な自分の意志を伝えるということの広がりとして受け止めていいのだと思います。主イエスが悪霊を追い出すことによって言葉の力が与えられた物語として読むのです。

 わたしは、言葉の力が圧倒的に欠けていますから、誤解されることもあるでしょうし、不用意な言葉を使うことも少なくありません。考えたことを整理して、伝える言葉にしていくことが得意ではないのです。それでも、隠れた神が主イエス・キリストという具体的な人間として見える姿で現れたこと、この方が十字架上の処刑を経て復活したこと、今や天に帰られた主イエスの神が聖霊として働き続けている、と言わざるを得ないのです。この、聖霊によって支えられ、導かれているがゆえに、今わたしはここにこうして立たされているのだと信じています。

 聖書を読むと、自分自身の言葉の力の不足を感じたり、脅えたり、不安になったり、という場にこそ導きが与えられた記事がいくつも出てきます。出エジプトの指導者としてモーセは召命を受けた時「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」と答えます。しかし神はアロンをその助けとして与えます。また、預言者エレミヤが召命を受けた時には「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」という彼に向かって神は次のように語りかけ、支えます「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」。怖じ惑い、怯むときに神は支えるのです。この支えが新約においては、主イエスの汚れた霊や悪霊を追い出す業に通じます。この、主イエスの言葉をマルコによる福音書13章には「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(13:11)として、「最後まで耐え忍ぶ者」(13:13)になるための相応しい言葉を聖霊が備えるのだという信仰理解が示されているのです。

 言葉の力は、人間の内にはないのだということです。確かに、わたしたちは自分の言葉で語る力で表現しなければならない現実に何度もぶち当たると思います。しかし、これに対処するのは自分という主体であることに違いはないのですが、ここでの基本は、あくまで聖霊なのだという信仰がなければならないのです。主イエスの神が聖霊として働くことで共にいてくださることこそが、信仰者の現実なのだということです(ハイデルベルク信仰問答53を参照)。 

        

2022年10月23日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章27~28節 「ミャンマーの子どもたちと」 (キリスト教教育週間)

 ミャンマーは安定した歴史を歩んできてはいませんが、昨年2月1日に発生した軍事クーデターにより軍隊が国の主導権を奪い取ってからさらに厳しいことになっています。ミャンマーは軍隊によって成り立ち、成長してきたという事情がありますから、軍隊はミャンマーの人びとから支持されることなど必要としていません。軍隊こそが国を正しく導くのだという固い信念を感じさせます。要するに軍隊の言うことだけを聞く政権を作り出し、完成させるところにあるのです。軍事によって、すべての国を治める方向こそが正しいのだという理屈があるのです。そのために目障りなアンサウンスーチーとNLD(国民民主連盟)を排除したいという願いに基づいているのです。

 しかし、軍隊とは関わりなく穏やかで銃を向けられることなく暮らしたい、という多くの人々の中から具体的に対して明確に抵抗する人々もいます。その抵抗の一つが、先ほど観ましたスライド、アトゥトゥミャンマー支援の学習資料「ミャンマーに平和を」で展開されている、教育の働きであろうと思います。教育とは、ただ単に言葉や算数などの科目を知識として受け身で捉えることではありません。自分で考えることの基本を育てていくことです。自分がどのように生きていくのか、歩んでいくのか、などについては、直感とかフィーリングによるだけではなくて、自分の中で言葉を紡ぎ、発していくことによって育てられていくものです。この基本を押さえていけば、軍隊こそが、あるいは自分こそが正義であるという発想につながる人間になっていくことはないだろうと思います。その時々の雰囲気や空気に流されることなく、「わたし」になっていくことができると信じています。

 今日の聖書は次のように語りかけています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」。この聖書を広い意味として受け止めたいと思います。人のいのちが銃などによって脅かされていても、生き抜くための民衆の知恵の世界観があるのだと教えているのではないでしょうか。そのためには、具体的にこちらの側も銃をとるということも否定はできませんが、もっと別の抵抗の仕方もある、様々な賜物をもつ人々がいるのだから、知恵を出し合うことで開かれる道がある。もっともっと新しいことや別の物語やワクワクしながら喜んで抵抗していく、このようないのちのつながりに生きる道があると信じることが赦されているのではないでしょうか。

2022年10月16日 (日)

ルカによる福音書 18章9~14節 「『正しさ』の欺瞞から」

 今日の聖書を読むときには、ファリサイ派なのか徴税人なのかという二者択一・〇×式で、自分はどちらに当てはまるのかを考えがちになると思います。しかし、この二種類の人が例に挙げられているのは、どちらもそれは「わたし」の可能性としてあること、さらにはこの両者の間で揺れ動き続けている「わたし」のことです。わたしという存在をわたしとして理解するためには誰かと比べてしまうこともあるでしょう。その時に、このファリサイ派のように「うぬぼれ」と「見下し」によって自分が自分であることを確認してしまうこともあるでしょう。あるいは、この徴税人のように自分の存在根拠や頼るべきものが何一つなく、空っぽのような状態として自分を捉えているかもしれません。さらには、その間で揺れ動く悩める存在なのかもしれません。

 それら一切を含めた存在がわたしです、と認めていく正直さこそを主イエスは求めているのではないでしょうか。わたしというあり方は、ある時は高ぶった者であり、またある時は卑屈な者でもあるのです。そして、その間で自分とはいったい誰なのかに思い悩むわたしがいるのです。いわば、審きによって恵まれ、恵みによって審かれていくのではないでしょうか。この揺れ動きの中で受け入れられていくことによって、あるがままの自分自身を肯定していく道へと導かれていくのではないでしょうか。わたしという存在は、ここでのファリサイ派と徴税人のどちらでもあるのです。この、どちらでもあり、その間で揺れ動きながらも自分自身になっていく道を主イエスは見届けつつ、守り導いてくださるのだと信じています。

 ファリサイ派の立場であろうと徴税人の立場であろうと、そしてその間で揺れ動いていたとしても、主イエスは、審きと恵みによって、このわたしを見届けてくださっているに違いないのです。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。しかし「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」という、その入れ替えの途上にあることを信じればいいのです。誰彼に見せるために義人を演じる必要はないし、自己卑下して自分のことを必要以上に愚かだと演じる必要もありません。今あるわたしが主イエスによって声をかけられ、招かれていること。導かれている現実に身を委ねていけばいいのです。ファリサイ派であるのか徴税人であるのかという立場を二つに分けて、どちらかを選び取れということではないのです。あるがままの姿で、主イエス・キリストの前での正直さに向かって歩んでいけばいいのです。その時々において「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」との宣言に身を委ねていけばいいのです。そうすれば、人間の作り出す「正しさ」の欺瞞から自由になり、主イエス・キリストの神の「正しさ」に向かって生き直すことへと導かれるのだ、と信じます。

2022年10月 9日 (日)

ルカによる福音書 5章1~節11 「網をおろして」農村伝道神学校3年 後藤田 由紀夫 神学生

 群衆に取り囲まれるように、イエスキリストは現われる。そして日常生活の中のシモンたちに声をかける。「沖へ漕ぎだし、あなたたちの網を降ろして漁をしなさい」。シモンは漁師のプロ。お言葉ですが、と切り返すも、イエスに引き入れられていく。イエスの言葉は、シモンと、シモンの廻りの関係性を示す複数形の言葉に変わり、そこから場面が急展開していく。シモンは仲間と共に舟をこぎ出し、網を下ろす作業に変わる。魚を捕らえる網は人と人をつなぐネットワーク構築の関係性を示し、二そう目の舟に応援を求め「働き手」の輪が広がっていく。転じて、シモンと仲間が、イエスの弟子としてネットワークを構築していく担い手に変えられていく。岸辺の群衆は、福音を伝えるシモンとその仲間が群衆の中に入っていく事を暗示している。

 今日の聖書の箇書は場面の展開が目まぐるしい。時代の変化が加速化している21世紀の私たちに似ていないか?

 私は、20年以上の両親の介護経験からも、特に「網をおろして」の部分に強く惹かれる。   

1.「網をおろして」は、湖面で網は広がっていく  2004年、老人ホーム入居の前日、デイ・サービスから帰宅した父が失踪した。私は仕事から帰宅後、自宅付近の町田市街を捜索したが見つからず、翌朝、町田署に捜索願いを提出。捜索エリアが拡大され、三日後に三浦半島の城ケ島入口で、無事保護され、ネットワークの網を広げる意味を思い知らされる。

2.「網を下ろしてみなさい」の動詞はギリシャ語原文では、複数形が使われている。シモンの廻りの関係性を示す言葉ともとれる。  父の死後、母の自宅介護について「奥さんも限界に来ています。介護は、自分達で背負いきるのは、無理ですよ、早くお母さんを老人ホームに入れなさい。それが、お母さんと奥さんを解放することになるのです」と警告をいただいた。その助言を受けて、父と同じ老人ホームに入居、昨年末に生涯を閉じるまで。自分の力に頼る解決から他者との関係性から生まれた解決であった。

 9節、シモンと仲間は大量の魚に驚いた。これは主から出た恵みの大きさを表している。結果として、生かされて生きる生き方に変えられた。だから主を恐れたのである。

 さて、2000年から始まったコロナショックによって、「ソ―シャルディスタンス」の状況下になった。教会では手紙、電話、ライブ配信等の工夫しながら現在まで至っている。私たちは、孤立を強いられているように見えるが、キリストにつながれていくことに気付く。私たちの「網」ネットワークは「6節おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」ではなく、緊急事態宣言で「網が張り裂けた」というギリシャ語原文に近い状況を経験することになったのではないか?              

 私たちは、「ソ―シャルディスタンス」のところにいるけれども、「心の距離」を縮め、主を恐れつつ、主エスの「網をおろして」の御言葉によって、主につながれていく網にとらえられ、歩んでいこうではないか。

2022年10月 2日 (日)

ルカによる福音書 16章19~31節 「神の食卓の風景」(世界聖餐日)

 今日は「世界聖餐日」です。「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」です。

 ルカと言行録の教会は、当時のギリシャ・ローマ世界の中にあって比較的経済的に裕福な国際人たちの集まりであり、自分たちの状況に対して「これでいいのか」という問題意識があったと思われます。自分たちは、今日の聖書で言えば「ある金持ち」の立場であり、貧しい人たちとの対比において審かれている存在なのだという自覚があったと思われます。1626節の「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」という現実を主イエスからの厳しい問いかけとして受け止める姿勢があるのです。自分たちからは決して越えられない「大きな淵」を認めつつ、それでもつながることができないのかという問題意識があるのではないでしょうか。この物語のような死後の世界ではなく、今生きている、金持ちと貧しい人との関係なのだという問題意識があったはずです。ここで描かれているのは、金持ちに対する逃れることのできない審きです。しかし、金持ちであること自体が悪だとはルカは考えてはいないようでもあります。16章の初めの記事に「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあることからすれば、富がより良い関係へと整えていくものとなる可能性に対して開いていると言えるのです。

 わたしたちは今日の聖書を読みながら自らを省みると、いやいやいや金持ちの側じゃないよと思いがちだとは思います。しかし1620節以降の「ラザロというできものだらけの貧しい人」という生き方も、ここにいるわたしたちの多くはしてはいないのではないでしょうか。両者を比べれば、少なからず金持ちの側により近いと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 神の恵みの方向性は、主イエス・キリストにおいて事実として起こされました。このラザロの姿は、ただ単に虐げられた惨めな人間が今や父祖アブラハムのもとで宴会に与っている、ということではありません。ラザロにおいて現わされているのは(イザヤ書53章を参照)、貧しく弱く小さくされ軽蔑されて十字架に至った主イエス・キリストの姿なのではないでしょうか。ラザロとの間にある「大きな淵」とは、わたしたちと主イエス・キリストとの間にある「大きな淵」でもあります。

 今日の聖書から読み返していくならば、主イエスがそうであったようにラザロの友となり仲間となる道につながっていくべき志を整えていくことが、聖餐の方向を定めていくことになるのではないかと考えるのです。「神の食卓の風景」とは、アブラハムの懐に抱かれたラザロの姿として描かれていることからすれば、「大きな淵」を乗り越えていと小さき者である主イエスと共なる、という挑戦的な生き方への招きです。この主イエスからの招きに応えていこうと願うものです。[

2022年9月25日 (日)

マタイによる福音書16章13~20節「岩の上に教会を」

 今日の聖書は、しばらくの間わたしにとって躓きでした。マルコとルカではイエスが自分のことを誰だと考えているかという問いに対して、メシア(キリスト)であるという告白をしているだけなのですが、マタイだけが、いわゆる「鍵の権能」と呼ばれるペトロに対して特別扱いをしているとしか読めなかったからです。つまり、後のローマカトリックの教皇制度の聖書的な根拠として扱われてきたのです。19節では「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とあるように、この世と天上の世界との間のつながりに関わる権限がペトロにのみ与えられているのです。ここには、マタイ福音書における二種類の人間の選別の権威が与えられていることになります。天の国に入れるものと入れないものを選り分ける発想がマタイにはあり、その権限が全面的に主イエスからペトロに移されていると読めるからです。18節には「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。ペトロという言葉は、元はペトロスで石を表し、ここでの「岩」はペトラで別の意味合いがあるように読めますが、マタイの意図としてはペトロという石が岩なのだ、と読ませたがっているように思われます。ここで「石」としてのペトロスから、「岩」としてのペトラにされていることには別の意味が示されているように思われます。いくつもの詩編には神を「岩」と表現している箇書が見つかります。たとえば詩編18編32節「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。」詩編62編3節「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」などから分かります。つまり、主イエスの口にペトロが主イエスないしは神に成り代わることへの道を開いてしまっていると言えるからです。

 霊的な問題でも肉体の問題でも構いませんが、地上でのいのちも天の国のいのちでも、ペトロを介してないと意味をなさないのだとでも言いたげです。当時の感覚や、もしかしたら現代の感覚でもあるのかもしれませんが、天の国に入るためにペトロを介することによらなければならいということです。マタイには、二種類の人間を選り分ける発想があります。24章では、終わりの日に関する説教の中で40節と41節では「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」とあります。続く45節以下の小見出しによれば「忠実な僕と悪い僕」があります。さらに続く25章1節からは十人の乙女がいて五人ずつが良い悪いで分けられます。そして、25章31節以下では「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」とあります。義人と罪人、善人と悪人を選り分ける思想があちらこちらに散りばめられているのです。このような発想は、教会の内側と外側、救われるものと滅ぼされる者、天の国に入れるものと弾き飛ばされる者などに対して明確な線引きを行うことで、強引に、マタイの理解するところの良い側に向かう良い人間へと方向づける暴力的な発想と権力を感じます。

 このような区別ないしは差別的な発想は初代教会に始まります。後のカトリック教会に及ぶものであったことは確かです。現代のカトリック教会も、この発想から完全に自由であるのかについては疑問のあるところです。しかし、宗教改革の問題提起の一つであった教皇制の問題は解決を見たとは思えません。最近のアメリカの教会で使われているかどうかは確かではありませんが、アメリカのローマカトリックがプロテスタントを揶揄するときに牧師のことを「タイニー ポープ」という言葉を使っていたようです。要するに「ちっぽけな教皇」という意味です。ローマカトリックからすれば、ポープたる教皇は世界に冠たる偉大なものであるのに、プロテスタントは小さなお山の対処に過ぎないというのです。もちろん、アメリカのプロテスタントは地味な教会でなければ教会員が何百人どころか何千人規模のところも少なくないはずですが、それでもローマカトリックからすれば、牧師なんかは「タイニー ポープ」に過ぎないということなのでしょう。とは言うものの、このペトロが「岩」である神の代理人のようなあり方は、日本のような教会員が百人に満たない規模の教会でも決して無縁ではありません。

18節をもう一度読んでみます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。このペトロに与えたとされる権威が現代の日本の教会にとって決して無縁ではないことを批判的に検証し、聖書を読み直していく必要を感じています。自覚しているか、していないかを別にして、実際のところ必要以上に「鍵の権能」もしくは、ここから由来する判断などをもとにして牧師自身が立ち振る舞ってはいないかどうかを検証する必要があると思われます。単純に、この人はいい人であの人は悪い人みたいな選り分けをしている牧師は決して少なくないというのが、わたしの印象です。自分たちの立ち位置に反対する立場に対して露骨な悪意をもった振る舞いや発言を見聞きすることは実際のところ少なくないからです。プロテスタントの多くは牧師になるために按手礼という儀式が行われます。手を置くことで任職するものです。日本基督教団の場合は教区総会で行われることが多いです。教憲教規によれば教区総会議長が行うことになっています。コロナ期間は別でしたが、習慣としては、正教師になろうとしている人の頭に議長が手を置き、その方に数人が手を置き、その肩に手を置き…とつながって、その場にいる正教師が一塊になる感じで行われます。神奈川教区の場合は出席正教師が100名弱ほどの出席がありますから、この光景を初めて見る人はギョッとするかもしれません。この儀式が隠れた意味でのサクラメントになっているのではないかと感じたことがあります。洗礼式や聖餐式に与る以上に喜んだ志願者を見て(あれほどの喜び方を洗礼式と聖餐式のたびににしているなら、かろうじて認めてもいい)、鼻白んだ記憶があります。この按手礼が「ペトロの手」であるとして使徒継承だと考える人も少なくないようです。

 このまま、今日のテキストを解釈するだけではマタイによる福音書の二種類の人間を分け隔てることで、一方を救い、もう一方を滅びに至る道へと導くことになってしまいます。18節の「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」との言葉をもう一度捉え返す方向を探ってみたいのです。ヒントとなるのが、18章15節から20節です。読んでみます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この聖書自身にも問題がないわけではありません。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」とあるからです。異邦人や徴税人に対して主イエスが受け入れ祝福した態度とは逆の方向を指した言葉であり、もしかしたらマタイ福音書の差別的な本音が現れているのかもしれません。しかし、ここでの中心は16章で語られたペトロに対しての言葉が18章18節では広がりの中で解釈されていることです。それは次のようにあります。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」。つまり、ペトロだけでなく「あなたがたに授ける」と「あなたがた」に対して鍵の権能を与えていると拡大されているからです。鍵の権能はペトロ一人だけに対して閉じられ続けていくものではないということです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあるように、教会の共同性の中で自己検証されることによって修正すべき点は修正されなければならないということです。ペトロは確かに教会の伝統からすれば、使徒の中の使徒、指導者の中の指導者なのかもしれません。しかし、ペトロも限界のある人間であることを忘れてはならないのです。今日の16章13節から20節のテキストは教会の伝統におけるペトロの優越性を語っていることに違いありません。しかし、その後に続く「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ところの主イエスから常に正されていかなければならないのです。ペトロのような存在は古代教会から現代教会、わたしたちの場合は日本基督教団ですが、暴走することが少なくありません。

 神は神であり、人は人であるという原則から外れてはならないのです。教会は神の御心に従うものです。役割分担としての教職や指導者もそうです。ペトロは確かに初代の教会の指導者であったという事実は変えられません。しかし、今日の聖書の箇書の続きの16章22節以下では「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』エスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」このように諫められています。山上での変貌でもペトロの無理解があります。他にも主イエスに対する理解の足りなさはいくつもあります。そもそも逮捕直前に「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い、さらには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とさえ言ったにもかかわらず、逃げ出してしまったではありませんか。逮捕後、主イエスのことを「知らない」と言い募り、26章75節には次のようにあります。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」

 もう一度今日の箇書に戻ります。人としての限界をもつ、このようなペトロに「鍵の権能」を与え、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と主イエスは語りかけているのです。人としての臆病さや卑怯な態度、あるいはおっちょこちょいであることなど、弱さや惨めさを踏まえた上での言葉として受け止め直すことができれば、あのペトロをもって「岩」とし、その上に教会を建てるとの言葉には主イエスの慰めと憐みが染み渡ってくるのではないでしょうか。このようなペトロを思い起こすならば、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、決してペトロ一人に閉ざされたものではないことへと理解が広がってくるのではないでしょうか。「二人または三人」であるところの、わたしもあなたというわたしたちそれぞれが共に、自分であり続けると同時にわたしたちという共同体、つながりとして「岩」となるようにして教会を生きることへと招かれていると信じることができるのではないでしょうか。ここに主イエスからの慰めと憐みを共に与ることのできる幸いがある、このように信じることができるのです。ご一緒に祈りましょう。

祈り

二人または三人としての共同性の中で「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」との言葉が、

わたしたちの中で事実として起こされますように。

主イエスに信じ従う群れとして整えられますように。

主イエスの守りのうちにあって、祈り考え、発言し、行動していくことができますように。

共に主イエスの道を歩ませてください。

信じ従う喜びを感謝し、この祈りを主イエス・キリストの御名よってささげます。

                                アーメン。

2022年9月18日 (日)

創世記 12章1~9節 「人生という旅」(高齢者の日)

 今日はアブラハムの旅立ちについての記事です。出発の場所はカルデアのウルであったとあります。ここから結果的にはカナンに向かう旅が始まるのですが、この時点で目的地は神によって示されていませんでした。12章1節で「「わたしが示す地」とあるだけで、どこに行けとは言われていないのです。しかし、アブラハムは旅立ちます。中継地点のハランにおいてアブラハムは75歳であったとあります。175歳で生涯を終えるまで、それこそドラマティックな旅が続くのです。100年間にわたる旅の始まりです。もちろん実年齢であったとは考えられませんが、おそらく長寿だったのでしょう。

 今日のアブラハムの旅立ちに示される課題は、75歳と相当な年齢になってから、まだ見知らぬ場所へと新しい旅が神に示されるかぎりにおいて始まるのだという可能性です。どんなに歳を重ねていたとしても、いつだって新しい世界に向かって開かれている現実があるのだとの宣言としても読めるのです。歳をとることを前向きに捉える日野原重明戦線のように、あるいは「老人力」の価値観でもいい。歳を重ねていくことに対しては神からの恵みがともなうという信仰理解に立つことが赦されていると信じることができるのです。

 わたしは人のいのちは人間の持ち物ではないという立場をとります。ですから、いのちを生かすことも殺すことも人間がわがままを貫く仕方で自由にしてはならないものだと考えています。十戒の中の「殺してはならない」という教えの積極性は、神の貸し与えたいのちである以上最大限に尊べという命令であり、「生きよ」という促しであると思うのです。この地上でのわたしたち一人ひとりのいのちは、あくまで神に所属します。主イエスが福音書において、様々な弱りのある人たちに向かって寄り添い、生き直しを促し導いたことは神の願う世界観だったのです。あなたはあなたの道を、わたしはわたしの道を、主イエスにあって相応しく歩んでいけばいい、この寿命が尽きるまで。その道はすでに祝福されてしまっているのだから安心していて大丈夫。この信頼のもとで今のいのちに感謝しながら、ともに祈り合い支え合いながら歩む途上に主イエスの祝福がないはずがない、そう信じているのです。日ごとに「今日はよい一日だった」「生きていてよかった」ということに感謝をもって過ごしていけばいい、と思います。同時に大切なのは他者の旅路を邪魔しないこと。

 最終的な行先・目的地さえも告げられないまま押し出された、年老いたアブラハムの旅立ちには、神によって備えられている道、人生という旅に対する祝福の原型のようなものがあります。神の約束と守りのうちに神の名を呼び求めながら歩むところには、平安があるのです。

2022年9月11日 (日)

マタイによる福音書 27章45~56節 「キリスト者はどこから来るのか?」

 51節の後半から53節はマタイによる福音書にしかありません。この箇書は、墓が開かれることによって新しい現実の始まりを表しているように思われます。岩という、かつて考えられていた聖なる価値観が裂かれること、そして地盤が根本的に揺さぶられることによって今、全く新しくされたというイメージです。これは、51節の前半の「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」とも共鳴しています。エルサレム神殿には、入り口から入ってすぐのところに、聖所というものがありました。その一番奥には、垂れ幕で仕切られた至聖所と呼ばれる場所があり、ここは最も聖なる場所であり、大祭司一人だけが入る資格が与えられていました。ですから、神殿の中にある垂れ幕が避けるのを外にいた百人隊長たちが見たというのは当然あり得ないことです。しかし、ここでは事実は問題なのではなくて、ユダヤ教の神殿の至聖所に象徴される当時の世界観の根拠が崩れ落ち、新しい世界観が登場したことを示します。この新しい世界観をもたらしたのが、主イエス・キリスト以外にはありえないというのがマタイによる福音書の理解です

 わたしたちの通常思い描く人生の流れは、死が終着駅です。しかし、そうではありません。5253節に「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」とあるように、マタイの教会に所属している人たちの自己理解が表されています。墓が開かれることによって、かつて眠りについたという死者たちが生き返ったという言葉通りの意味合いを越えて、今生きている者も含めて墓という死の世界からいのちの世界に移されたという信仰の告白となっているのです。

 「キリスト者はどこから来るのか?」という問いへのマタイによる福音書の教会の答えとは、墓が開かれるところからやって来る、ということです。墓というとジメジメして冷たく憂鬱で、明るいイメージから遠いところにあるように思われがちです。しかし、墓は決して暗いものではなく、主イエスの十字架刑→死→墓→復活という出来事に照らされて明るさへと転じていくのです。ここには、主イエスに支えられた明るい力が存在します。

「インマヌエル・神は我々と共におられる」事実に支えられて、この道を歩むことがキリスト者のあり方です。主イエス・キリストが、墓という死の世界からいのちの光の復活の世界への歩みにおいて共におられます。この意味において、キリスト者は復活を踏まえた主イエスの墓から生まれているのです。

2022年9月 4日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「神の国はあなたがたの間に」

 人は一人では生きられない、そう言われます。わたしと誰かの間には、複雑なものであれ単純なものであれ、何かしらの関係があります。この人と人との関係にこそ「神の国」があるというのです。わたしたちは、毎日身近なところからもっといろいろな広がりの中で様々な人との関係において生きています。そして、人と人との関係という「間」には、言葉で説明しきれないほどの複雑さがあります。この「間」という関係においてこそ「神の国」として主イエスの思いが実現していくことは、その人のいのちが最も尊ばれ尊重され、かけがえのなさが最大限に受け止められる場でもあるのです。よく使われる言葉として「人権の尊重」という言葉を当てはめてみると分かりやすいかもしれません。

 汚れた霊につかれた人は、遺棄され差別され排除され、その人のいのちの価値さえ認められてはいませんでした。社会の邪魔者のようにして扱われていたのです。その人のいのちが条件なしに全面的に認められ受け入れらえている「関係」が「神の国」でなければ、何が「神の国」なのでしょうか。この世で貶められたままの状態を耐え忍び、その上で死んだ後や、あるいは世の終わりにやってくる「神の国」に希望を預けることにどれほどの意味があるのでしょうか。この世におけるいのちを、主イエスが受け入れているのでなければ、「神の国」は空虚なのではないでしょうか。今、生かされてある喜びが、わたしという一人の人間の内側に閉じられたものではなくて、誰かという他者との関わり、その「関係」を育てていくところにこそ現れ、成立しなければ、本当の喜びと呼ぶことはできないのではないでしょうか。

 「神の国」とは、福音において展開される具体的な世界観のことです。わたしたちの今のありよう自体が「神の国」と呼ばれる事態へと方向付けがなされるということです。ここでの「間」としての「神の国」の展開は、神の主権に支えられて展開される人権の捉え直しと呼んでもいいのではないでしょうか。人権というと人間の側からの自己主張だと思われるかもしれません。しかし、主イエスにのみ基づく「間」に展開される「神の国」とは、あらゆる人と人との間をより相応しい方向へと導く神の意志として働き続けているのです。

 主イエス・キリストは次のように語ることを決してやめない方であることを覚えておきたいのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と。この「間」という関係が主イエス・キリストがなさった働きにおいて「神の国」として生まれ、育てられ、絶えず新しい可能性を孕んでいること、そしていついかなる時も希望することが赦されていることを信じたいのです。わたしたちの知恵や能力では計り知ることのできない「間」があるのです。何気ない日常に只中においてすでに主イエスによって働きかけ続けられている「神の国」の導きと支えを信じます。

«ローマの信徒への手紙 8章18~25節 「希望において救われる」

無料ブログはココログ