2023年11月19日 (日)

コリントの信徒への手紙一 11章27~34節 「主イエスの食卓の回復」

 最後の晩餐が「聖餐」の聖書的な根拠となっていることは確かです。しかし、主イエスの食卓の場面は福音書に数多く記されています。「罪人」「徴税人」たち、あるいは大勢の人々との食卓などがあります。これらが濃縮されて最後の晩餐に集約されている、つまり、主イエスの食卓は最後の晩餐に至るまでに意味が広がり、深まってきていると考えるのです。パウロのコリント教会に対する、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」という怒りの元には、主イエスの食卓に対する共鳴があると思うのです。誰かを排除する食卓、食べられない人を無視したり、思いを寄せることをしないこと、これらは主イエスの食卓には「ふさわしくない」のです。

 わたしたちの住む国で、何十万円もする食事を楽しむ人々がいる一方、給食以外の食事にありつけない子どもたちがいます。その格差を僅かでも埋めるべく「子ども食堂」や炊き出しなどを提供する人々がいます。主の食卓に連なると言えるでしょう。

 清らかで厳粛な宗教儀礼としてではなく、主イエスが自らをかけて行った数々の食卓の場面を思い返し、最後の晩餐に至る道筋から「聖餐」をあえて祝いたいと願います。「聖餐式」は、傍から見たら幼稚なママゴトに過ぎないのかもしれません。キリスト教徒の自己満足にすぎないのかもしれません。

 しかし、それでも主イエスの食卓の回復を映し出す儀式でありたいと願うのです。わたしたちの多くは、比較的貧困ではないと言えるでしょう。わたしたちは、この意味において、食べられない人たちを思いながらも食べることができてしまっているという、食にまつわる後ろめたさの塊のような存在なのかもしれません。主イエスの食卓を回復することを「聖餐」に映し出し、祈りを込めたいと思うのです。誰一人取り残されることなく、思う存分食べることのできる世界、それは決して夢物語ではなく、やがて来るはずだと信じたいのです。

 主イエスの活動されたパレスチナでは、今、食べ物も水すらない状態で攻撃にさらされている人たちがいます。その映像を目にしながら日々満腹できている側の者が何を吞気なことを、という思いも胸に突き刺さります。それでも、この願いのもとで主の食卓の回復を祈りたいのです。

 パウロの語るところの「ふさわしくないままで」という状況がこの国の中に限らず世界中に満ち溢れている状態があります。ここから、「聖餐」を祝いつつ、「飯が天です ああ 飯はみんながたがいに分かち食べるもの」(金芝河)という世界に至るために祈るのです。主イエス・キリストはその身をパンとブドウ液という象徴において差し出されていることを、「聖餐」という儀式を通して心に刻みたいのです。このようにご一緒に確認し、来るべき神の国へのお思いと心を寄せるものとして整えられたいと願います。

2023年11月12日 (日)

マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」

~子ども祝福礼拝~

 主イエスの語る、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とは、どういうことでしょうか。この世界の初めは神さまが創りました。初めがあるなら終わりもあるはずです。その終わりがいつになるのかは誰にもわかりませんが、その時まで主イエスはずっと一緒にいてくださるのだというのです。今生きている人の中で、主イエスを実際に見たことがある人は、誰もいません。でも、教会は見えない主イエスだけれども一緒にいてくださるのだと信じています。

 主イエスを見ることはできません。でも不思議な風が働くところにはどこにでも主イエスは一緒にいてくださるのです。あなたとわたしの間、友だちや家族などとの間で、嬉しいことでも悲しいことでも、どこかで心が通じ合っていたり、心を寄せているところにはどこにでも、です。主イエスの願いはすべての人に「幸い」という祝福が届けられていくことです。「幸い」が届けられるのは、ただ自分にとって都合の良い「幸せ」を感じているところだけではありません。食べるものがないところ、怪我や病気などとてもつらいところ、主イエスの願いが届けられているなんて信じられないところにまで届いていく、不思議な風のような聖霊の働きによって主イエスはいつも一緒なのです。

 この主イエスは今日もまた、わたしたちと一緒にいてくださるのです。そして、わたしたちという顔見知りの人たちの間にだけではなくて、まだ会ったこともない世界中の人たちと心がつながっていく道があるのだとも信じることができるのです。主イエスの願っている本当の「平和」を願い、祈り求めていこうとするところには、もうすでに主イエスが待っていてくださることを信じることができるのです。

本当に悲しいことですが、今、世界は「平和」ではありません。そして、わたしたちも毎日がうれしくて楽しいことばかりではありません。けれども、主イエスは世界中で起こっていることや、わたしたちの毎日を全部見守っていてくださるのです。そして、人と人との間に一緒にいてくださるのです。

 わたしたちは毎日の生活の中で「神さまがいつも共にいてくださる(インマヌエル)」ことを忘れてしまいがちです。だから、「インマヌエル」を繰り返し、安心を取り戻すのです。今日は子ども祝福の礼拝ですが、「祝福」というのは、この「インマヌエル」を心と身体の隅々にまで行き渡らせることです。神としての主イエスが、聖霊として、見えないけれども今も生きて働いていてくださるのです。

2023年10月29日 (日)

マタイによる福音書 5章13~16節 「街の教会」

 主イエスは、「地の塩」「世の光」「である」とわたしたちに向かって断言されています。これは、驚くべき言葉です。いったいわたしたちに何の資格や能力、この世に対して働きかける言葉や力などがあるというのでしょうか。自らを省みれば何の取柄もないと言うしかないのではないのではないと思えます。今あるがままのわたしたちの姿を主イエスは「地の塩」「世の光」「である」との言葉は、つまりは、わたしたちの能力や努力によっているのではないことを潔く認める必要があるということだろうと思います。「塩」であることも「光」であることも、いずれにせよわたしたち自らを根拠にした言葉、宣言ではないのです。主イエスが語っているがゆえにこそ、その根拠があります。

 今日の午後、わたしたちはバザーを開催します。わたしたちが、この街の中にある暗い部分に対して「塩」としての役割を担うことや、「光」としての働きによって何かしらの問題解決や暮らしやすさの一端を担うことなどはできないかもしれません。しかし、それでも「ここに教会がある」のだと、バザーを行うことによって少しばかり示すことはできるのではないでしょうか。小さな交わりの業かもしれません。ささやかな働きなのかもしれません。16節には「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあります。もちろん、わたしたちのバザーが普通言うところの「立派な行い」だということではありません。しかし、長い目で見れば「あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」道は決して閉ざされてはいないことを信じることはできます。そして、そのことが「天を指し示す」すなわち「立派な行い」になっていくのです。

 ここに教会があり、この教会は「地の塩」「世の光」「である」との宣言による委託のもとで歩んでいることの証しに少しばかりでも参与できたなら、大成功と言ってもいいのではないでしょうか。教会は、主イエスにあって神を愛することと隣人を愛することを教えられています。そのあり方が「地の塩」「世の光」「である」と受け止められるところなのだとして、「ここに教会がある」ことを恵みとして受け止めたいのです。

2023年10月22日 (日)

ヨハネによる福音書 17章3節 「永遠のいのち」

 今日の聖書は次のように語ります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」。この言葉からわたしたちが考えがちなのは、「肉体は滅んでも霊ないし魂は不滅である。」あるいは、「肉体という牢獄に閉じ込められた魂は、その死によって解放される」などかもしれません。しかし、「永遠のいのち」とは、主イエス・キリストの神について知ること、つまり認識です。人はどこから来て、どこに行くのかを知っているのか、ということです。永遠の過去から永遠の将来において主イエス・キリストが今を支えているがゆえに、わたしたちは今、救いの約束が実現されているという認識です。主イエス・キリストは、その生涯、十字架の処刑による死、復活、昇天をもって、そして天にありつつ聖霊の働きによって、「今」を支えるのです。ちょうどハイデルベルク信仰問答59の答えにあるように、です。「わたしが、キリストにあって神の御前に義とされ、そして永遠の生命の相続人となる」と。

 このあり方から、わたしたちは、自らのこの世における死の現実が、主イエスにおける永遠によって支えられているがゆえに、この世の基準や価値観である「生から死」という方向から「死からいのち」という方向によって守られていること、「永遠のいのち」という賜物のもとで今のいのちが祝福されていることが知らされるのです。ここに「永遠のいのち」を知る信仰があります。だからこそパウロは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と語ることができたのです。

 農村伝道神学校の初代校長ストーン宣教師は、洞爺丸の事故の際、救命具を譲って命を落としました。彼は、この「永遠のいのち」を自身の存在丸ごとで受け止めていたからこそ、躊躇なく救命具を譲ったのではないかと思うのです。「友のために命を捨てる」という行為は、ただ自己犠牲的な愛によって導かれたのではなく、「永遠のいのち」を知る強さに支えられていたのだろうと。

 わたしたちは、この世における死が得体のしれないこと、おそるべきこと、悲しむべきことであることを確かに知っています。このことは主イエスご自身も知っていたことです。だからこそ、この杯を取り除いてほしいとゲッセマネの園で祈られたのです。主イエスは十字架刑によって殺され、無残な死を迎えました。しかし復活者として死に勝利したのです。この主イエス・キリストの守りのうちにあることは、すでにその復活の力により、今、「永遠のいのち」の賜物に与りながら歩むことへと招かれているということであり、その意義をもってわたしたちは「永遠のいのちを信ず」と告白することが赦されているのです。どこから来て、どこに向かうのかが約束されてある今を覚えご一緒に祈りましょう。」

2023年10月15日 (日)

テサロニケの信徒への手紙二 3章16節 「共に福音に生きる」

「キリスト教教育週間」を覚えて

 先ほど観たスライド「カンボジア アガペホーム子どもたちに神さまの愛と教育を」は、日本キリスト教協議会教育部によって提供されたものですが、「日本バプテスト女性連合」が作成したものです。

 アガペホームは2人のインドの宣教師によって2005年から始められています。親と暮らせない子どもを引き取って一緒に暮らしながら学校に通わせています。この、子どもの家の活動アガペホームの働きは、とても小さなものかもしれません。それでも教育はとても大切です。教育とはただ単に知識を詰め込み、試験に合格し、有名大学に入学し、大手企業や官僚になるという、いわば「エリートコース」に乗るための方法ではありません。この世の価値観における上昇志向に追随するものでもありません。

 今日の聖書で主イエスの言うところの「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」という価値観に共鳴する方向性においてではなく、人間の間の上下関係や優劣関係、権力関係を相対化しつつ、「仕える者」「僕」としての生き方を学ぶことこそが教育の意味なのではないでしょうか。この点については、青山学院短大で長らくキリスト教教育を教えてこられた水野誠先生の言われる「教育が飼育になってはならない」と同じだと思います。言い換えれば、学校教育が、良い大学良い就職へと促す飼育になっていないか、との警告です。教育には自分で考え自分の言葉にしていくことこそが必要なのです。そして教育の目的は何かしらの権力や大きな勢力や力に寄り添い、要領よく生きることなのではなくて、自分が不利になることや孤立することを怖れることなく、正しい意味での「正義」を求めていくことと違いはないのです。教育とは、人との関わりや対話によって自らの過ちや勘違いなどに「気づく」ということ、そして、ならばどうしたらいいのかを思い巡らすことをも含む広い意味を持つのです。

 省みてわたし自身を含め多くの人々は、果たして教育の意味や意義を自ら主体的に考えているのでしょうか。行動しているでしょうか。今日のスライドはわたしたちの学びです。「キリスト教教育週間」の「教育」は、わたしたちにも向けられているのではないでしょうか。カンボジアのアガペホームの子どもたちに思いを寄せ、連帯し共鳴できるような教育的な態度を自らの課題とするきっかけになるのではないかと思います。このような意味での教育を教会の働きの中に取り入れていくことは、「共に福音に生きる」方向性を整えていくことと決して別の事柄ではないと思うのです。

 

2023年10月 8日 (日)

マタイによる福音書9章9~13節 ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節 「聖マタイの召命」角川太郎神学生(農村伝道神学校)

 本日は上大岡教会にお招きいただき誠にありがとうございます。農村伝道神学校2年の角川太郎と申します。神学生や牧師を目指している方は召命感を問われる機会が少ないと思います。

 では召命とは一体何なのでしょうか。召命について、16世紀のバロックを代表する天才画家カラヴァッジョが描いた「聖マタイの召命」を通して、皆さまと一緒に考えてみたいと思います。本作は、本日の聖書箇所マタイによる福音書9:9-13の一場面です。みすぼらしい服装をした素足のイエスと聖ペテロが右側から近づいてきます。中央に腰掛ける三人の男性は、イエスがやってきたことに気づいていますが、左側の二人の男性は気づかずにじっとお金を勘定しているようです。これは、徴税人であったマタイのもとにキリストが現れ「私に従いなさい」と言った瞬間です。

 この作品に関して、美術研究者の間で常に論争になっています。それは、一体誰がマタイなのかという問題、いわゆる「マタイ論争」です。絵の中央に位置する「私ですか」と自分のことを指さすようにみえる中年の髭の人物がマタイか、それとも左側に位置する一心不乱にお金を数えている若者がマタイか。皆さまは、どちらがマタイだと思われますか。

 イエスは、中年の髭の男性、あるいはお金を数えている若い男性のどちらかを指差したのではなく、その場所にいた全員に指差していたのではないでしょうか。

 イエスの公生涯を通してみると、イエスは、当時のユダヤの規範に反して、さまざまな人々、例えば罪人、病人、異邦人、女性たちとの境界線を越えて共にいてくださいました。すなわち、イエスは、徴税所にいた全員を招いてくださった。それに気づいて応答して立ち上がったのはマタイだけだったと思います。召命というと、特別に選ばれた者というイメージがありますが、実は、全ての者が招かれていて、それに気づいた、気づいてないだけなのではないでしょうか。私には、そう思えてならないのです。

 選ばれたという感情は、時に人を傲慢にしてしまう。選ばれたのではない、主の招きに気づいただけという気持ちで、驕ることなく謙虚に、マタイ福音書における神への愛と人への愛に生きることをいつも心にとめていたい。

 そのような心があれば、そしてマタイのように呼びかけに、少しでも多くの人々が応答して立ち上がってくれれば、世界の争いによって、嘆き悲しみ小さく弱くされた者を少なくすることができるのではないでしょうか。誰もが徴税人、誰もがマタイになれる。そのような世界が来ることを、心よりお祈りいたしましょう。

2023年10月 1日 (日)

ローマの信徒への手紙 6章3~4節 「洗礼によって」

(世界聖餐日)

 洗礼式は、主イエス・キリストを信じ従うことを神と人の前で明らかにすることによって、具体的な教会の一員になるという入会の儀式です。来るべき日・終末に向かいつつ、この世を旅するなかで一緒に教会を作り上げていく教会の仲間となることです。教会における責任と義務とが与えられることでもあります。キリスト者になるということは、具体的などこかの教会に所属しなければならないのです。

 教会が洗礼を行う根拠は、まず主イエスご自身が洗礼者ヨハネから受けたという事実にあります。ヨハネの洗礼は「罪の赦しをえさせる」目的であったと福音書は証言しています。しかし、主イエスに赦されなければならない罪があったのでしょうか。確かに、ユダヤ教の権力やローマの権力の側からすれば、神を冒涜したことや反逆者であったとの判断から犯罪者として当時最も忌み嫌われていた恐るべき十字架によって処刑されました。しかしこの十字架は神の側からすれば、罪ではありません。マルコによる福音書の主イエスの洗礼の記事によれば「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞かれました。神の側からすれば、愛する御子であり、神の心に適う者として確信があったのです。その神の思いの通り、当時のユダヤにあって、より小さくより弱くより儚くより悲しくされていた人たちの、まことの友であり仲間として、主イエスは「共に喜び共に泣く」歩みを続けたのです。人の丸ごとのいのちは上下、優劣には一切関わりなく、差別なく神から喜ばれ祝福されているという事実に固く立ち、神の「心に適う者」として主イエスは生涯を全うしたのです。

洗礼式におけるいのちの方向はこの世の理解とは異なります。わたしたちの通常の理解では、この世に生まれ出たいのちは幼い状態から成長し、年齢を重ね死に向かうというものです。これは確かに客観的な事実です。しかし、教会の理解は「いのちから死」なのではなく「死からいのち」なのです。

 主イエス・キリストを信じ、従うことを少しでも願っているなら洗礼は受けるべきです。洗礼は人を救うのです。救うと言っても悩みのない人生や毎日が喜びに満ち溢れているという暮らしが待ち受けているわけでは必ずしもありません。信じ従うべき主イエス・キリストは十字架に磔られた方です。安易な生き方など似合いません。より困難な生き方が待ち受けているかもしれません。より悩み多い人生なのかもしれません。しかし、十字架の主イエス、復活の主イエスに守られた人生の始まりです。主イエスが他者と共に生きた、その生き方に倣いつらなる恵みへと招かれている本当が事実となるのです。主イエスの受けられた洗礼によって、わたしたちが新しいいのちへと生きることの恵みをご一緒に確認したいのです。洗礼があるからこそ、主イエスに倣い、信じ従う道を祈りつつ模索して生きたいのです。

2023年9月24日 (日)

使徒言行録 2章37~38節 「罪の赦し」

 ペトロは、元々それほど立派で清廉潔白で純粋無垢の人間ではありません。主イエスに対する裏切り者と呼んでも言い過ぎではないことが福音書から読み取ることができます。生前の主イエスとの活動における彼の姿を思い起こしていただきたいのですが、勘違いや無理解を何度も重ねてきた軽薄さから自由でなかったのです。その極みが、主イエスが逮捕されてしまった時に表されています。三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言い募ったのです(ルカ226162)。仲間だと知られたら同じ目に合うかもしれないという恐怖心や脅えから自分の身を守るために放った言葉です。ペトロは主イエスを重ねて知らないと語ることで見捨てた、しかし主イエスは決してペトロを見捨てることはしなかったのです。「振り向いてペトロを見つめられた」主イエスの眼差しを愛そのものだと感じたのではないでしょうか。裏切り者であり卑怯者であり、弱虫であり、情けなさと無力さの塊のようなペトロを穏やかに包み込む主イエスの眼差しによって、全身が丸ごとのあるがままのペトロが赦しに包まれる経験をしてしまったのではないでしょうか。この時の「激しく泣いた」姿が、後悔や自己嫌悪から感謝と喜びへと転じていったのではないかと思うのです。このことへの感謝が復活という出来事によって支えられ、ペトロは主イエスの証人として、今日の箇書にあるように説教できる者となったのです。

 主イエス・キリストの贖いにおける罪の赦しに与って歩む道が備えられていることは、信じ従うものに希望と勇気を与えます。今日の聖書ではペトロは使徒として理想的に描かれています。基本的にはキリストの証人としての生涯を全うしたのでしょう。しかし、この使徒ペトロにおいても優柔不断さやいい加減さが残されていたことはが分かります(ガラテヤ211以下のいわゆる「アンティオキアの衝突」参照)。ある意味人間味をも感じるところです。「罪の赦し」に与って生きることは、完全無欠な人間になることではありません。欠けのある人間です。それでも「罪の赦し」のゆえに、的を外してしまう「罪」から、主イエスからの問いかけによって生き方の方向性を転換していく悔い改めへと導かれるのです。他者との関係も「赦された罪人」同士という理解に立ちながら歩みたいと願います。「赦された罪人」である自分が、相手をも「赦された罪人」として接することは、相手に非を認めた時に不問に付す、ということではなくて、新しく対話を続けながら、お互いが主イエスにあって「赦されている」仲間としてつながり、共感していき生き方を模索していくことでもあるでしょう。

2023年9月17日 (日)

イザヤ書 46章4節 「人生を導く神」

(高齢者の日礼拝)

 今日の聖書です。「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」。これらの言葉を、わたしたちが故郷に帰るイメージとして解釈してみたいと思います。神の息によって造られたわたしたちは神に背負われている存在であることが宣言されています。第二イザヤの文脈によれば、バビロン捕囚から解放されて故郷であるイスラエル、ユダの地、やがて復興され中心となるエルサレムに向かうことが歌われています。しかし、今日はその場を天国ないしは神の国として読んでみたいと思います。

 讃美歌484の『主われを愛す』の1番によれば、「主われを愛す」がゆえに「恐れはあらじ」として今を受け入れて、OKとする信仰です。主イエスが愛してくださっているがゆえに、歳を重ねることにまつわるマイナスに見える事柄一切を含めながら、全面的にその一人ひとりの丸ごとのいのちが受け入れられて祝福されてしまっている現実を、応答として賛美しているのです。歳を重ねていく中に人生を導く神の働きの本当・リアリティーが存在するのです。わたしたちのこの世における使命の中心には「主われを愛す」があります。この現実から人生は「本国は天」、つまり神の国・天国に向かっていくのです。神の国・天国とは、単なる死後の世界なのではありません。神の支配のことであり、その領域のことでもあります。主イエス・キリストの願いや思い、その優しさや慈しみの満ち満ちた世界であり場のことです。「御心が天になるごとく」が実現されている場です。わたしたちの導かれる人生の目標でもあります。

 主イエス・キリストによって保証され、守られ、確保されている世界観であり場に向かって人生を導く神が、年齢を重ね高齢を迎えた一人ひとりに語りかけているのです。それは、さらに言えば『主われを愛す』の3番の歌詞と共鳴するものです。「みくにの門を ひらきてわれを招きたまえり、いさみて昇らん。」。この道が人生を導く主イエス・キリストによって歳を重ねて高齢者とされている、お一人おひとりに備えられていることを信じ、ご一緒に祈りつつ歩みましょう。

2023年9月10日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章12~26節 「聖徒の交わり」

 教会は、「聖徒の交わり」です。というと、主イエス・キリストを信じる人たちとその群れが即「聖」であると受け止められがちです。しかし、実際はどうでしょうか。人びとの集まりに過ぎません。およそこの世で起こりうるあらゆる悪しき事柄は、教会においてもあると言わざるを得ません。それでも、教会は、「聖徒の交わり」なのです。それは、教会につらなる一人ひとりとその群れ自身が「聖」なるものなのではなくて、主イエス・キリストが「聖」であるからというのが理由です。主イエスをキリストと告白する教会はすべて「聖」なるものです。主イエス・キリストによって呼び集められているという限定においてです。また、教会とは来るべき日・終末が到来すれば無用のものとなる暫定的なものでもあります。それでも、その日に至るまで、主イエスの名によって集められ、あらゆる悪の危険にさらされながらも「赦された罪人ら」として教会は「聖」であるのです。

 1章2節には次のようにあります。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」。パウロga

 コリントの信徒へ向けて書いたこの手紙を読み進めていくと、分派争いや食卓を巡る、富んでいる者と貧しい者との問題などが山積みです。とても「聖」なる姿ではありません。しかし、パウロはこの手紙の書きだし部分で「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と語りかけているのです。それは主イエス・キリストがまことの意味での「聖」であるがゆえに、教会は様々な問題を抱えながらも「聖」とされていく途上にあることを希望のもとに語りかけているのです。

 今日のテキストは非常に有名なところです。教会につながる一人ひとりを体の一部分として喩えることで、それぞれにおいて優劣や上下の関係のもつれを解いていくように促すのです。「お前は要らない」「お前たちは要らない」こうした言葉は教会には相応しくないというのです。

 「キリストの体」の「部分」である一人ひとりとしてのわたしたちは、主イエス・キリストによって、すなわち十字架と復活の業によって、完全に、安心が、無条件に「ある」と保障され「聖徒の交わり」へと導かれる存在なのです。この事実に応答することをまず祈りと賛美によって応えていく中で、広い意味での伝道へと派遣されていくのではないでしょうか。

«コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 「公同の教会」

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