2024年5月 5日 (日)

ヨハネによる福音書 16章25~33節 「しかし、勇気を出しなさい」

 「わたし」が、「わたし」に対しても、あなたに対しても、誰かないし社会に対しても、自立した存在として生きていないからなのではないかと聖書から問われているのではないでしょうか。「あなたがたには世で苦難がある」というその現実から逃げたいがための行動を選び取ってしまっているのではないかとの反省があります。「わたし」が「わたし」であるために「あなたがたには世で苦難がある」現実を引き受けていく道をあえて選び取るようにと、主イエスは招き促しているのではないかと思うのです。

 「わたし」が「わたし」であることにおいて正直であるか、「わたし」があなたとの関係において誠実な意思表明を行っているか、誰かないしは社会において平和と正義を実現する方向にあるか、これらを自己吟味する促しとして「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という言葉があるのでしょう。できることなら苦難は避けたいというのが人間の本性でしょう。個人としても集団としても妥協してしまう闇の世界観に飲み込まれてはいないか、自らが引き受けるべき苦難から逃げてはいないか、このように問われているのではないでしょうか。この問いは、厳しさを伴うものではあるでしょうが、この言葉を語っているのは、他でもない主イエス・キリストであることを忘れてはなりません。わたしたちの「自立」を支えるのは「わたしは既に世に勝っている」として世の初めから終わりまでのすべてを支配する主イエス・キリストであるのだから、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。」という言葉は、ただの厳しい命令ではないのです。まず、「わたし」が「わたし」となり、あなたがあなたとなり、わたしたちがわたしたちとなる、自立を支える生き方への招きがあるのです。

 主イエス・キリストは今日の教会に向かっても語り続けておられます。パレスチナやウクライナはもとより日本国内においてもヘイトスピーチやハラスメント、貧困など苦難は山積みです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」。主イエス・キリストは勝利者である、このことを根拠にした自立として平和と正義を求める歩みを、正直さをもって何度でも最初から始めていくことができるように願っておられるのではないか、そう信じるのです。

2024年4月28日 (日)

ヨハネによる福音書 15章18~27節 「証し人の使命」

 ヨハネ福音書は「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」と語ります。この世がキリスト者と教会を憎むのは、それ以前に主イエスに対する憎しみがあるからなのだというのです。それはそうでしょう。主イエスは、この世から憎しみ抜かれる仕方で十字架へと追いやられた方だからです。主イエスが憎まれたのは、当時の常識ある人たちの「良心的な正しさ」を根拠として排除された人の仲間となり、友となったことと無関係ではありません。人間の社会は悲しいことに、差別や抑圧を伴った排除によってバランスを保つように権力が統治したがる傾向があるからです。主イエスの時代の常識からすれば、律法を守らない・守れない人たち、律法によって「汚れ」の烙印の押された人たちを差別し排除することは正義でした。また、ユダヤ教徒以外の人々と接触する徴税人も差別の対象とされました。いわば、主イエスは律法という基準によって差別され排除される人たちと交わることによって、治安を乱す危険人物とみなされていたのです。宗教的・政治的な権力からすれば、抹殺する必要があり、必然性があったのです。

 主イエスは、差別や抑圧を行う根拠としての憎しみを、いわば愛によって乗り越えようとしつつ歩まれたのです。憎しみのもたらすものは、他者を切り捨て排除することです。無視するとか暴言を吐くとか暴力を振るうということの根っことなるところの憎しみをもつことは、その人の人権、いのちそのものを全面的に否定することに他なりません。主イエスは愛することにより、憎しみを打ち砕き、お互いのいのちの尊さを取り戻す闘いを貫かれたのです。

 この主イエスに信じ従う者は、この世の常識が大切だと判断することではなく、主イエスが大切にするところこそを選び取るのです。その時、わたしたちには憎しみに対して怖れる必要のないことが1526節で知らされています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」と。さらには27節の「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」という道への招きの途上にあることも同時に知らされるのです。この世界は憎しみに満ち満ちています。しかし、主イエスを信じ従う者には証し人としての使命が与えられているがゆえに、今ここでの自分の課題に真摯に向き合っていくことができるのではないでしょうか。

2024年4月21日 (日)

ヨハネによる福音書 21章15~25節 「愛すること」

 今日は主イエスが同じ問いを3度に亘って行い、これにペトロが応答した点に注目してみたいと思います。3という数には様々な意味があります。象徴的な意味と捉えれば、主イエスはペトロに対し「愛するか」と何度も何度も問いかけたと読むこともできます。愛するということは相手の存在をあるがままに認め、受け止めるところから、より深く豊かな関係性を作り出していく元となるあり方や態度そのものを示すのです。相手の存在も自分の存在も肯定しながら、その間にある関係にOKを出し、もっとより親しい間柄となっていくことです。「わたしを愛しているか」との主イエスからの問いが衝撃として重ねられていくとき、この繰り返し・反復の中で何か違うものが出来事となるのだということです。

 通常、繰り返し・反復とは同じことを単純に繰り返すだけで何の変化も起こらないのだと考えがちです。多くの場合はそうでしょう。しかし、同じ事を繰り返し・反復を続けていく中で、ふと別のところから「気づき」のようなものがやって来ることもあるのです。「わたしを愛しているか」という語りかけは、繰り返されることによって、主イエスとのこれまでの関係を踏まえて今どうなのか、そして将来にわたってどのようになるのか、さらに主イエスを愛するがゆえに生きる方向付け全般をもとらえ直すことへと促していくのです。

 聖書によれば、3度目の問いを受けた時に「悲しくなった」とあります。この「悲しみ」はこの問答において新しい局面が生まれたことを示します。主イエスを愛する以上にまず主イエスから愛されてしまっていることの恵みと憐みとが心から離れない、深い痛みをも伴った感謝と喜びへの気づきへと深められたのです。このペトロの新しい心の変化への招きに向かって主イエスは絶えず「わたしを愛しているか」と問いつづけているのだと知らされるのです。「わたしを愛しているか」との問いに対して「ご存じです」と答えながら、深められることから、自分と他者を主イエスにあって受け入れていく生き方へと展開させられていくのです。ここに主イエスの恵みと憐みがあります。

 「わたしを愛しているか」という語りかけと「ご存じです」との問答の中でやって来た生き生きとした気づきの力によって、主イエスによって愛されていることを愛していくこと、つまり愛における受容の受容によって、生きていくときに困難を乗り越えたりあるいは逃れる道さえ主イエスによって備えられているという信頼のもとに人生は守られているということです。

2024年3月31日 (日)

マルコによる福音書 16章1~8節 「いのちを肯定する力」

 8節の終わり方は不自然です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これでは物語は終われないと思えるからです。しかし、翻訳には現われていませんが、「恐ろしかったからである」のすぐ後にギリシャ語で「ガル」という単語があるのです。この「ガル」は、「なぜならば」とか「というのは」という、その理由や根拠を述べる言葉として使われています。マルコによる福音書には「循環構造」があるとの指摘がありますが、ここから、もう一度最初からマルコによる福音書を読み返していくことによって、ちょうど1章の主イエスの登場からの物語をなぞりつつ、もう一度自分の現場で生きてみなさいという招きの言葉が働き始めるのです。各自に与えられた生きるべき現場としてガリラヤが備えられているのだから、そこで生きよとの招きがあるのです。

 社会の歪みによって傷つき、倒れ、呻く人々のいるところ、それらはすべて現代のガリラヤです。拡大解釈すれば、わたしたちが日ごとに苦労しながらも何とか支えられながら生きている今という日常をガリラヤと呼んでもかまわないのです。今日の聖書は、そのようなわたしたちの現場、生きるべき場にこそ、再会のキリストが復活者として待っていてくださるのだという約束が語られているのです。わたしたちが遣わされていく現場、そこにおいて復活のキリストと再会し、共に主イエスをキリストとして信じ従う道が備えられているのです。ここに、わたしたちが出会いと出会い損ねを続けながらも、復活のキリストと何度でも再会し、従う道がある。このように今日の聖書は、わたしたちに招きの言葉を語っているのです

 再読することにより、インマヌエル・神われらと共にいます方が主イエス・キリストその方であるのだとあらためて気づかされるのではないでしょうか。この出会いに対して開かれていることをもって「主イエスは復活した」と信じることができるのです。私たちの歩みと共におられる主イエスの復活は、わたしたちの丸ごとのいのちを肯定する力として、今も働き続けていることを信じることが赦されているのです。生きることが困難であり、悩み多く、虐げられ、痛めつけられて、差別され、このような様々な苦難にあった人々が、主イエスとの出会いによって、一人ひとりの状況の中で勇気づけられ、立ち上がり、胸を張って、喜びのうちに生かされたことは、福音書の中に閉じ込められた物語・お話などではないのです。悪霊払いや癒しの物語が、わたしたちのところで出来事となるのです。

2024年3月17日 (日)

ルカによる福音書 15章31~32節 「もう一度最初から」

 聖書朗読はルカによる福音書15章31~32節ですが、この物語自体は11節から始まる非常に有名な物語です。

 ある人に息子が二人いました。弟が本来は父の死後に受け継ぐべき財産を生前分与してほしいと願い、そのようになりました。その弟はご承知の通り、放蕩の限りを尽くしてしまい、一文無しになります。さらに飢饉も起こり、食べることすらままならなくなります。仕事はきつく、賃金は安く、やむなくユダヤ人の忌み嫌うブタの世話をする仕事に就きます。ブタの餌すら食べたいと思うほどの困窮状態になりました。そこで、弟は天に対して、父に対して罪を犯していたことを悟り、帰るのです。

 そして【15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。】

 このようにして宴会が始まります。父は、放蕩の限りを尽したこの弟を迎え入れたのです。

 放蕩に身を委ねたこの弟は父の存在に気づかされます。父は底が抜けるほどの愛によって包み込むのです。この父親において示されているのは、神の赦しとしての愛のありようです。無理筋を通して財産を生前贈与させて金に換え、それを使い果たして「もう駄目だ」「もう限界だ」というところにまで身を持ち崩してしまった、愚かさの極みとも言うべき息子に対し、。赦しにより愛によって受け入れていることを伝え、もう一度最初から新しく生き直すためのチャンスを与えたのです。

 わたしたちは、イエス・キリストにおける赦しとしての神の愛の姿をこの物語から示されているのだと受け止めることができます。裏切りや不義理を重ねて誰からも信用されず、窮地に追い詰められても、この物語を生きた物語として信じられるなら、わたしたちは今日のいのちを感謝して受けとめることができるはずです。

2024年3月10日 (日)

マタイによる福音書 6章34節 「主イエスにある楽天性」

 主イエスは語りかけています。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と。今日考えて解決するなら考えればいい。しかし、今日考えても解決できないことは同じ言葉の繰り返しや「どうしたらいいのか」という問いだけがグルグル回って時間が過ぎていき、身も心も消耗するだけ、と気が付かされることもあるのです。

 主イエスのこの言葉には、どこか軽さがあります。しかし、現実の重さや辛さを主イエスはご存じなのですから、それらの重荷を知り尽くしたうえでの言葉であると受け止めるべきです。今日の自分の苦労には責任を持ち、明日の苦労は明日の自分が責任を持つのでいいじゃないか。この呼びかけの軽さには、共に重荷を負い、わたしたちの荷を軽くしてくださる方の思いやりのようなものがあるように感じられます。今日ダメだったから明日もダメなのだと決めつけ絶望して疲れ果ててしまうのではなくて、明日になれば明日の課題との関わりの中で何かしらの新しいことや希望が立ち現われてくるかもしれないという、主イエスの楽観主義のようなものがあるということです。

 ですから、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と立つことができるのです。そして、空の鳥と野の花を人間のあり方として捉え、神と神の国によって養われているあるがままの今の「いのち」を無条件に全面的に肯定しているのです。

 「だから」「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。明日は明日の風が吹く、明日には明日の楽しみや喜びが待っている、このような主イエスにある楽天性にわたしたちも連なることができるのではないでしょうか。このことは現実逃避ではありません。楽天性によって、より解決困難問題に対しての積極的な関わりの動機を支えるものでもあります。明日を楽しむための主イエスにある知恵と希望のようなものです。

 それでは、今、ガザやウクライナなどで恐怖の中におかれている人たちはどうなのか、との思いがよぎります。かの人たちは明日のことを思い悩まずにいられないだろうと。確かにそのことを思うと本当に苦しいです。しかし、誤解を恐れずに言えば、ガザの人たちの「明日」はガザの人たちのものです。わたしたちは、自らが明日生きる希望を主イエスから得て、かの人たちが苦しまない社会を作り出していく力を備えていくべきなのです。主イエスは楽天性の人でしたが、それゆえにより小さく弱くされた人たちに対して何よりもまず寄り添いつつ生きることを目指した方であり、より困難な場に主イエスが共にいてくださることを祈らずにはおられません。

2024年3月 3日 (日)

マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門」

 人間の人間の社会には「同調圧力」というものが存在します。意見や行動の正しさや間違いについて自分で理由を考えることを捨て、少数派になって孤立することを怖れて多数派に合わせるよう強制する無言の圧力のことです。その場の空気を読むことで波風を如何にして立てないか、目立たないでいられるのかという消極的なものもあるでしょう。しかし、この消極的なものであっても、ハンナ・アーレントの言うところの「悪の凡庸さ」と決して無関係でないと思います。ホロコーストという世界最大級の悪とされる事柄でも、ごく平凡な人間が動機も信念も邪悪な心も悪魔的な意図もなしに行いうるとしたのです。

 わたしたち自身も、行動や判断など一つひとつの態度決定が、この「悪の凡庸さ」につながる、同調圧力によって支えられていないかを自己検証する必要を感じます。「狭い門から入」るためには、「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」から自由にならなくてはならないことが知らされます。大変難しいと感じるのではないでしょうか。だから「狭い門」なのです。わたしたちの前には「広い門」が大きな口を開けて待ち構えていることを知らなければなりません。

 主イエスの生涯は御自身が「狭い門」をいくつも入り続け、結果、十字架による処刑となりました。しかし、よみがえりにより勝利したことに希望を抱くわたしたちは、あえて「狭い門」を選ばなくてはならないのです。そのための課題は「従順」にあるのではないかと思うのです。「悪の凡庸さ」につながる「同調圧力」の根っこに「従順」が横たわっているように感じます。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」あった「従順」とは違います。主イエスの「従順」とは、神への「従順」です。神に基づく正義のゆえにより小さくより弱くされた人々と同じ水平に立ち、喜びも悲しみに対しても響き合いながら歩んだのです。主イエスの「従順」の姿は、権力者たちとの論争の場面や両替人の机をひっくり返すような振る舞いにおける「従順」なのです。誰かをないがしろして成り立っている社会に対する抗議としての「従順」とでも呼んだらよいのでしょうか。ですから、わたしたちの安易な「従順」と主イエスの「従順」とは区別されるべきだと考えます。

 自分を屈服させようとする暴力的な意思を、恩恵であるとか愛情であるとかと勘違いする仕方で「従順」になってしまうあり方は「広い門に入」ってしまっている状態だと言えます。この時、共感する相手が誰なのか、その人たちはどのような状況に置かれているのか、ということが重要です。被抑圧者と共に抑圧者に対して波風を立てていくという、まさに主イエスの歩みと重なるあり方にこそ、「共感」というイメージが相応しいのです。決して「幸い」と客観的に呼ばれるはずのない人たちに向かって、生きることの喜びにおいての「共感」に生きた主イエスの姿と重なります。たとえ困難があり、多数派に取り囲まれようとも、あえて「狭い門」を選び取る勇気と愛をもって生きる希望の道へと主イエスは招いているのではないでしょうか。困難な門であっても、なさねばならないことと時はあるのです。

2024年2月11日 (日)

出エジプト記 20章2~6節 「神は神であるから」

「偶像」とは、木や石などを刻んだものとか金属を高温で溶かして型に嵌めて造られたものに限られません。それを基準として自分自身のあり方の根本を支えるものを「偶像」と呼ぶのです。山や海といった豊かな自然であったり、星や月の巡り、あるいは、権威であるとか権力であるとかお金であることもあるでしょう。

 わたしたちは確かに主イエス・キリストの神だけを唯一だとして信じて教会で礼拝を守っています。しかし、本当に聖書に証言されている、主イエス・キリストの神だけを信じ、依り頼み、導かれていると自信をもって断言できるのかと問われれば、口ごもってしまうのです。

 わたしたちは、神にすり替えられたり並べられたりする価値観や判断の基準や考えの基礎になるものの考え方に汚染されていないと言えるのでしょうか。社会のルールとされるものや風潮、たとえば「自衛のための戦争」「死刑制度」「天皇制の存在」宇宙開発、「便利さ」の追求、経済発展、遺伝子操作を伴う医療の発展原発……、それら一つひとつについて自分の頭と心で考え、相対化できているか問い、そこに縛られていないか確認する必要があるかもしれません。

 神でないものを神としてしまうという誘惑は、キリスト者個人にも教会にも付き纏い続けています。この誘惑との闘いなしにキリスト者であり続けることは困難です。

 わたしたちはどこにいるのでしょうか。マタイによる福音書4章のサタンによる主イエスの誘惑物語の1節を思い起こします。【更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

 主イエスの受けられた誘惑は、わたしたちに対するものとしても今の課題となっているように思われます。主イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』」と答えました。この姿勢は、わたしたちが主イエスにおいて「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」を告白していくことと別のことではありません。

 わたしたちは、主イエス・キリストにあって「神は神である」ところから、新しく何度でも始めなくてはなりません。主イエス・キリストにおける三位一体の神のみが唯一のまことの神である、つまり神が神であるという立ち位置に改めて立ち続けなければならないという、今更ながら当たり前のキリスト教会がここにあるのだとの確認のもとで祈り続ける群れでありたいと願います。

2024年2月 4日 (日)

ルカによる福音書 17章20~21節 「ここでもあそこでもなく」

 「神の国はいつ来るのか」という問いは決して観念的なことや心の内側のことに留まらず、今ある世界・体制に対して「あなたはどのような立場をとるのか」という問題意識と無縁ではありません。神の国をどのようにイメージするのか、それがどのようにして来るのか、は真面目にこの世界について接しようと思う人たちにとっては喫緊の課題であったと言えるからです。もうこの世界は神によって終わりが告げられるなら、ローマの支配はことごとく止み、やって来るのは神の平安であり、そこに身を委ねて抵抗の闘いをするのか、あるいは来るべき日は近いのだから何もしないままその時まで耐え忍ぶのか、様々な立場があったことは想像できます。

 主イエスの答えは、彼らの期待するものではありませんでした。「神の国は、見える形では来ない『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と言うのは、神の名による革命によって政治形態を転覆させることとか、新しい王であるとか預言者であるとか救い主を自称する人たちを持ち上げて崇め奉るような運動とか、その他の実力者やカリスマティカーに御すがりしていこう、という態度とは全く異なったものでした。それは、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」という言葉によって分かります。この「あなたがたの間」は、しばしば精神性や内面性のこと、つまり心の持ちようのことだとされますが、平たい言葉で言えば「関係」のことです。神の国とは、人と人との関係において立ち現われるものなのだというのです。相手のことを思いやり、自分からもそうすること。お互いのいのちを愛おしく大切にしあうことの中に神の国は立ち現われるという、主イエスの信頼の表明として読むことができるのです。荒れ果てた時代の乾ききり絶望と隣り合わせの中でも、人には愛し合うことができるのだし、そのお互いを大切にしながら、<今>を生き抜くことの中にこそ神の国はある、そうでなければ必ずそうして見せる、という主イエスの決意なのかもしれません。

 人は神から祝福され恵まれなければならないのに、何故このように人々がお互いにレッテルを張り付け憎しみ合わなければならないのか、軽蔑や差別や抑圧、人が人としてそのいのちが軽くされている現実に対して、神の祝福を受け入れることを取り戻したのです。主イエスには、人々に対する全面的な肯定感が満ち溢れていたからこそ、神の国の実在感があったのです。

 実態として「見える形では」捉えられない「関係」の豊かさを追い求め、育て、慈しむが「わたしとあなた」「わたしとわたし」「わたしと誰か」このような関係の中で立ち現われる神の国なのです。「間」とは手応えのない感覚かもしれません。しかし、ちょっとした言葉や仕草や眼差しに、主イエスに倣う「愛」の欠片があれば決して不可能ではないのです。今生きている場所での<今ここで>のその神の国を喜んで受け入れたいと願うのです。身近なところから世界大の広がりの中で人の作り出す地獄の時代は続いています。だからこそ、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」との言葉の尊さ、豊かさ、憐み深さに対してご一緒に心を寄せたいのです。

2024年1月28日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「受容の受容」

 現代において特に自己肯定感の欠乏からくるであろう歪んだ自己承認欲求の表出が目立つようになってきています。条件付きの愛、取引の愛の中で作られてきた人間関係における暗さがその根底にあるのではないかと思います。

しかしこれは、現代日本の社会に限られたことではなく、新約聖書の時代にも、もちろんありました。当時の感覚で言えば、聖さと汚れという基準です。律法や掟を守っている人、守ることのできている人たちとそうでない人たちとの区別があったのです。病気や「障がい」など都合の悪いことの一切は悪霊の働きとされ、汚れている、罪人であると断罪されていました。そして、社会に復帰するためには清められなければならなかったのです。律法や掟という良きことに従っているならば、その人の人格や存在が社会によって受け入れられるという仕組みであったのです。「罪人」という括りの内側にいる人たちは、「聖さ」を獲得しなければ、その存在さえ認められない社会であったのです。

 しかし、主イエスの受け入れは、律法や掟という基準に依りません。いわば、その人の「罪人」という括りを打ち破ったのです。律法や掟を守っているか、守れているのか、そんなことは一切関わりなく、今生かされてあるいのちを無条件で全面的に認め、受け入れたのです。この主イエスにおける神により受け入れられているところから、人間の側は、その応答として信じる気持ち、その心が起こされるのです。受け入れられていることを受け入れるのです。そのように導かれ整えられていくのです。今日の題を「受容の受容」としましたが、主イエスの神は、どこまでも受け入れる愛そのものです。一切の条件はありません。こういうことをしたらOK、ああいうことをしたらNG,ということはありません。今あるがままの姿で全面的にOKを差し出すのです。信仰とは、これを事実として感謝をもって受け止めるところにあります。神の愛が主イエスとして立ち現われており、その招きに巻き込まれていることを受け止めるところに、応答として神を愛する道が備えられるのです。この神を愛することは、主イエスに全面的に受け入れられていることによる自己肯定感に支えられて、同時に隣人を愛することへと導かれていくのです。

 主イエスの愛を受けての信仰としての受容の受容をより深く理解し、自己肯定感が整えられていくときには、その小さな愛さえも育てられていくのではないかという希望へと導かれていくことを信じることができるのです。この信じる気持ちによって「神の国に近い」道へとつながる可能性に結ばれていくのではないでしょうか。

«ローマの信徒への手紙 12章15節 「生きるために」

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