2023年3月12日 (日)

マタイによる福音書 26章47~56節 「友よ」

 主イエスはゲッセマネの園の祈りにおいて、自らの逮捕に対して腹を括っていたのです。2642節の言葉にあるように、です。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」。この「あなたの御心」から照らすと、ユダに対する主イエスの態度が分かってくるのではないでしょうか。

 ユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と主イエスを捕えようとする人たちに示しました。主イエスがユダに語る「しようとしていることをするがよい」との言葉を支えているのは「あなたの御心が行われますように」というゲッセマネの園の祈りでの決意です。ですから、ユダに「友よ」と親しげに語りかけることができたのです。ここには、裏切りに溺れてしまっているユダに対する哀しみが込められていたのかもしれません。十字架への道行きという運命に直面しながら、裏切りという仕方で振舞うユダに対しても「友よ」と呼びかける懐の深さと愛とを思わずにはいられません。

 しかし同時にユダの心の奥深く、本人さえも気が付かない深みまで見通す愛があったのではないでしょうか。

 この主イエスの「友よ」という呼びかけの言葉は、ユダにだけ語りかけられている閉じられたものではありません。手下を切りつけた弟子にも届けられているでしょうし、後に主イエスを知らないと誓うペトロも含め、その場にいた主イエスを取り囲む仲間たちにも広げられていたのかもしれません。決してあなたを見捨てることはしない。どのようなことがあろうと、あなたはわたしにとって「友」なのだとの主イエス・キリストの決意がここにはあるのではないでしょうか。「あなたの御心が行われますように」とは、主イエスの祈りの中で与えられた生き方であり、死に方です。このような方向で「友よ」との呼びかけは、単なる言葉上のことではなくて実を結んでいくものなのだと、ご一緒に確認しておきたいところです。この「友よ」との呼びかけが、ユダだけではなくて、今もわたしたちのところに届けられていることを感謝のうちに受け止めたいと願います。ユダは主イエスに覚えられていることによって救われています。そしてさらに、主イエスの「友よ」という呼びかけが、憎しみ合い敵対する世界中に起こっている悲惨に向かっても届けられ、その働きの終わることのないことを信じたいのです。

2023年3月 5日 (日)

創世記 2章18~25節 「助け手」

 2章21節以下によれば「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」とあります。ここでは「パートナー」「助け手」との関係を基本に据えることの重要性を語っているのです。そして、お互いは、このあり方において祝福されており、響き合う存在へと招かれているということです。「あなた」と呼ぶべき存在が神から与えられたのです。

 しかし、この対の関係を、神から備えられたものとして基本に据えながらも、人間はこの祝福を拒み、裏切ってしまう存在でもあることが、続く誘惑物語などからうかがい知ることができます。この対である祝福の「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」という関係は永遠不滅ではなく、破れてしまうこともある。「パートナー」「助け手」をありのままに尊重する態度から外れてしまうことがあるのです。根源的には祝福されている対が、実際の生活レベルでは呪いとなり得るのです。

 この呪いの状況を祝福へと取り戻すのはイエス・キリストであると教会は信じています。イエス・キリストのゆえに、罪にまみれた呪いの現実が祝福の今へと転じていく途上にあるのだとの宣言として、今日の聖書に聴きたいと思います。「人が独りでいるのは良くない」からこそ、神は「パートナー」である「助け手」を相応しく用意してくださっているのではないでしょうか。死別や悩ましい決別の経験にあっても、祝福の現実は閉ざされてはいかず、希望へと開かれていることを確認することができるのではないでしょうか。「パートナー」である「助け手」のあり方は、「夫婦」という関係だけではなくて、もっと広がりゆくものとして捉えて良いと思います。仕事上のパートナー、あるいは親友。親子関係も保護し保護されるという枠組みだけでなく、対等な「助け手」として相手を受け入れることが求められていると思います。

 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」との言葉をシンプルに受け止めたいと思います。「あなたとわたし」という対の関係を喜び合う存在へと造られたものであることに中心的なメッセージがあります。わたしたちは人間としての破れに満ちているために、「完全」であるとか「無垢」であるというところからはかけ離れた存在です。しかし、それでも対の人間の創造において神の祝福の確かさは揺らぐことはないのです。そのために主イエス・キリストの導きのもとで、この対の関係をこれからも育み続けていくことのできる希望が与えられていることを信じることができるのです。

 

2023年2月19日 (日)

創世記 1章26~31節 「人の役割」

 この大地も自然も人間を含むあらゆるいのちある生き物は神によって造られたのだと聖書は語りかけています。必ずしも創世記の創造物語は歴史的に証明される仕方で読む必要はありません。重要なのは、石ころも含めいのちあるものはすべて、神によって造られたのだということです。人間の力によってではなく、です。この造られたものであるという現実に対して謙虚さをもって受け止め直すことが現代社会にとって必要なのだと語りかけているのです。

 「支配せよ」の意味を思いのままにできると勘違いしているかのような思い上がりから、人間は自由になれないでいます。この現実は近代から現代に至る中で急速に加速し、地球の温暖化により気象のバランスが崩れ、砂漠化や山火事あるいは大洪水などがのしかかって来ています。そこで、地球の環境の保護が叫ばれるようになってきています。でも、まだまだ人間の意識は地球全体に対して上から目線のように思われます。たとえば、「保護」という言葉と、その感覚です。人間が「保護」できると考え、その能力や技術や知恵があると思い上がっているのではないでしょうか。「保護」という言葉には優位に立場から、より弱い場に対しての優越感から自由でない感覚が付きまといます。ここでは「保護」というよりも「仕える」という感覚の方がよいと思うのです。「仕える」の方が相手に対しての尊敬と、自らを低くし謙虚になる意味合いがあるからです。この意味で「すべて支配せよ」という言葉を理解していくべきです。人間は神によって造られているがゆえの謙虚さに立ち返るということが大切なのです。

 「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」は「熟慮の複数形」と言われます。これは、神と差し向かい、対話的存在であることによってのみ、人間は人間であり得るということかもしれません。神に聴き従う中で、自らの判断が謙虚さにおいて整えられているときに「似姿」として立ち現われるような存在なのだということでしょう。人間は「似姿」ではあるけれども、神と人間との間には決定的に大きな違いと限界が置かれているということです。人間には、神との関係の中で犯してはならない領域があることをわきまえて謙虚さに生き、地上に対する責任性にあるという自覚に留まることが求められているということです。一人ひとりの人間が神と差し向かい、ひとりの人間として謙虚さに基づく責任性において自立していくことから、信仰的な決断と行動において破壊的な「支配」ではなく「仕える」道へと招かれる、このような意味での創造信仰を今日の課題としてご一緒に確認しておきたいのです。

2023年2月12日 (日)

創世記 11章1~9節 「人間の欲望を神は‥」

 バベルの塔の物語は、「一つの民」「一つの言葉」としての価値観を神が退け、言葉の通じない混乱(バラル)へと導かれるという物語です。ここには審きしかないのでしょうか。

 わたしたちは、安易に「一つの民」「一つの言葉」に依り頼んでいれば安心だとか意思が通じ合うとか思いがちですが、それはただ単に合言葉や符牒などの幻想を共有しているにすぎないのです。どこかで本音を隠して相手に合わせるような言葉を選んでしまうことも多いでしょう。「強制的同一化」という側面も忘れてはなりません。自由に生きるためには、自分の言葉を自分の心に正直な仕方で紡ぎ出していくことが必要なのではないでしょうか。かの「聖霊降臨」にあずかった先輩たちが堂々とガリラヤ訛りで語った言葉が聖霊の助けにより通じていった出来事と、バベルの塔の物語は対をなしています。

 この時代も一つのバビロンであるという実感は、技術革新などの急激な発展や発達の中で感じてらっしゃると思います。神のようになりたい、有名になりたい、というバベルの塔の現実は世界中にあふれています。だからこそ、散らされる混乱というバラルを、恵みとしてもう一度与る道が備えられていることを信じることができるのではないでしょうか。

 神によって挫折させられたバベルの塔の物語が神からの恵みの物語として受け止め直されていくならば、より豊かな関係性に基づく世界が、僅かでも、わたしたちに近づいてくることが知らされつつあるのではないでしょうか。確かに、バラルの民であるがゆえに、同じ日本語を使う場合でさえ、わたしたちは言葉の通じなさを感じます。どうしてわかってくれないのか、言葉の使い方が下手なのだろうか、などなど悩みます。悩んでいいのです。通じない言葉、混乱させられているバラルな言葉の世界にあって、それでも聖霊の助けによって支えられていることに信頼していけばいいのです。バベルという「一つの民」「一つの言葉」から、バラルという混乱ではあっても自分が自分になっていく言葉の獲得を選び取っていくことを求めつつ歩んでいきたいのです。この混乱というバラルの方向性にこそ、主イエスにおいて実現した自由への道は用意されているはずだからです。

2023年2月 5日 (日)

創世記 4章1~12節 「きょうだい」

 カインとアベルの物語において投げかけられているのは、社会的・経済的・文化的により豊かとされる側から、より貧しい側に向かって、より強い側からより弱い側に向かって、自然に配慮する姿勢が必要だということです。傲慢にならず、卑屈にならず、守る側も守られる側もお互いを大切にしあうことが求められているということです。

「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」という神からの問いかけは、「弟の番人」「弟の守り手」という自らの立場を自覚していくことへの促しがあるのではないでしょうか。現代においても人類は「地上をさまよい、さすらう者」としての限界の中に置かれており、相も変わらず、様々な仕方での「きょうだい殺し」から自由になることができず、殺戮はやむことがありません。「血が土の中から叫んでいる」現実において呪われているとしか思えないような事態です。カインによるアベル殺害の出来事は決して原初史のエピソードのひとつに留まるものではありえません。人類がアダムとエバの末裔ならば、すべての民は「きょうだい」です。「きょうだい殺し」は現代に至るまで、様々な形を変え、規模の大小はあるけれど、人間の歴史の中で絶えることなく起こり続けているのです。

 解決への道筋はあるのだろうかと恐れや不安などに陥り、希望が見いだせなくなっています。より強力な軍事的な力を増し加えていく道しか世界には残されていないのでしょうか。確かに、即効性のある解決方法は見つからないでしょう。かといって手をこまねいていることも誠実ではないように思われます。カインの末裔であることをわきまえ、その呪いを自ら引き受け、「地上をさまよい、さすらう者」である現実の中で神の意志を受けて歩むことしかないのではないでしょうか。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」という思いの中で、「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」という脅えに囚われてしまっているのでしょう。それでも、神の守りのゆえに祈りによって神から自らのあり方の正しさへと導かれ、「今この時」になすべきこと、すべきでないことを見極める知恵、絶望に陥らない希望、平和を実現する勇気、これら主イエス・キリストからやってくる聖霊の助けから始めていくことしかないのでしょうか。人間という限界のゆえに、絶対的な正しさを得ることは不可能ではあるでしょう。しかし、限界ある人間に対して託された道があると信じることはできるのではないでしょうか。

2023年1月29日 (日)

創世記 3章20~24節「皮の衣といちじくの葉」

 蛇の誘惑によって最初の二人の人間は「善悪を知る」ことを覚えました。しかし人間の得た「知」は、神との対話の中から導き出される、より豊かなものではなくて、人間の自由意志という限界の中での極々限られた理解に過ぎません。人間の知恵の浅さとか狭さという限界を示すものです。「恥ずかしい」という感情を得た彼らが用意したのは、「いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うもの」でした。これは下着の類ではなくて腰帯、正装として身に着ける誇りあるものだとされます。しかし、人間の側からの誇りある衣装であったとしても、限界のある「善悪を知る」知識や経験に縛られているものですから、滑稽さや浅はかさ、見せかけの威勢のよさを読み取ることができるのではないでしょうか。

 エデンの園での暮らしは「善悪の知識の木から」食べてしまったことによって破られて、その東にあるこの世へと追い払われました。様々な労苦を担いつつ暮らさなくてはならなくなったのです。しかし、この神による追放は、ただ単に切り捨てや見捨てとは決定的に違います。321節には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあるからです。ここで注意しておきたいのが、人間の作り出した「いちじくの葉」と神が用意した「皮の衣」の対比です。人間の薄くて浅い限界のある「善悪を知る」知識を越えて、追い出しにあたって、股間だけを覆う腰帯より優れた、身体全体を覆い守る「皮の衣」が用意されたのです。

 古代から現代に至るまで、自らを頼りとする「いちじくの葉」の腰帯に象徴される歪んだ人間の万能感は、様々な「発展」を遂げています。パソコンやドローン、遺伝子操作、そして原子力、どれもみな生活向上という表面と同時に兵器という裏面をも忘れがちです。現代社会の中にある、身近なところから国際関係に至る地球規模でのあり方が、自らを頼りとする「いちじくの葉」の腰帯に縛り付けられ、そこから身動きが取れなくなっている混迷が今なのではないでしょうか。

 わたしたちがアダムとエバの末裔であることを思い出せと創世記は語りかけています。人間の存在を規定しているのは「皮の衣を作って着せられた」という神の思いに支えられた守りである、という事実を思い起こせと。創世記は、人間の現実を神に照らされる仕方で見極めることを求めています。「いちじくの葉」の腰帯としての自らにより頼み、自らの判断を正しいとする万能感と神の守り導きである配慮としての「皮の衣」。このどちらを選び、歩むのかを今日の聖書はわたしたちに向かって問いかけているのではないでしょうか。

2023年1月22日 (日)

マタイによる福音書 4章23~25節 「教会の働き」

 教会とは、礼拝に集められることが働きの目的すべてではありません。これだけでは不十分です。送り出し・派遣に与ることへとつながるのではければ不十分です。証しの歩みにこそ、教会の働きの使命があるからです。キリスト者であることとは、ただ単に洗礼を受け、聖餐にあずかり、礼拝において神の御言葉を聞くことに留まらないのです。受けることによって、証しの現場へと送り出されること・派遣されていくときにこそキリスト者になり教会になっていくのです。

 主イエスの教えと奇跡によるいやしを今のこととして捉えなおしてくことが、その時々の教会のテーマとなります。現代の教会にこれを大まかに当てはめると、礼拝において語られた事柄をこの世に向かう奉仕の力とするという流れになろうかと思われます。この場合の「奉仕」とは「ボランティア」のような狭い意味ではありません。社会への向き合い方と言ったらいいでしょうか。礼拝において聖書に証言されている主イエス・キリストの御言葉に聴くことによって自らが整えられる必要があります。主イエスによって受け入れられ祝福されている事実に巻き込まれてしまっていることを受け止め直すことです。「幸い」の祝福にあって、「地の塩」「世の光」として証しへと歩みだすことです。上大岡教会の礼拝の最後に「派遣」があります。「わたしは誰をつかわすべきか。だれがわたしと共に行くだろうか。」との問いに対して、「ここにわたしがおります。わたしをつかわしてください。」と応答し、祝福を受け、歩み始めることです。

 このことを福音書は、奇跡によるいやしの物語として表現しているのです。わたしたちは古代の世界観で奇跡によるいやしの物語と表現されていたことを現代に応用していく必要があります。確かに、これは奇跡なのではないのかと思えるような経験をすることも全くないわけではありません。神秘体験をする人もいるかもしれません。しかし、多くの人の場合は違います。日常の平凡な暮らしの中で、主イエスであったら、このような場面でどうするだろうか、どんな言葉を発するだろうか、どのような判断や決断をするのだろうかと思いめぐらせながら、その時々の判断を信仰に応じて選び取っていくこと、その時に働く力が奇跡なのです。わたしたちは礼拝から押し出されることで奇跡の力を得、その力の恵みの中で社会と向き合う時、そこにいやしが起こされるのです。

2023年1月15日 (日)

マタイによる福音書 4章18~22節 「人間をとる漁師」

 主イエスに招かれた人たちは、必ずしも模範的で立派な人格であったわけではないのです。むしろ、主イエスの真心から離れてしまうような鈍い心根から自由でなかったことが分かります。しかし、この人たちが主イエスから呼ばれ、招かれ続けていた事実は揺らぐことがありません。主イエスの逮捕に際して逃げ出すような見苦しさからも、また他の弟子たちよりも自分たちが優っているという思い上がりからも自由ではありません。彼らが主イエスを見捨てることはあっても、この人たちは、主イエスから見捨てられることはないのです。主イエスは、弟子たちの混乱や迷いにもかかわらず、一貫して愛することをやめないのです。この弟子たちへの思いを、復活の後に彼らは気付かされ、自らの裏切りを思い知らされるところから立ち直り、自らの現場であるガリラヤへと立ち返る勇気と希望が与えられたのです。この弟子たちへの主イエスの思いは、現代の弟子たちであるわたしたちへの思いと変わることはありません。主イエスは、誰であれ、どんな人であれ、その人の丸ごとのいのちを無条件に、そして全面的に受けいれ、肯定し、赦し、愛し続ける方なのです。

 この主イエスは、直接の弟子たちだけではなくて、様々な弱りや病、苦しみや悩み、悲しみの中にある人たちと、どのような場でどのように出会ったのか、またどのようにして生き直しを促しながら一緒に生きることを志したのか、を今のこととして捉えなおすときには、主イエスは時代を越えて過去の人ではなくなるのです。今、確実に復活者として生きている人であることが確認されるのです。わたしたちが、自分のことを顧みるならば、こんな時にはイエスならどうするのだろうとか、あの人やこの人の仕草や口ぶりの中に主イエスの影を見るような感覚を覚えるとか、今のこととしての主イエスを身近なこととして捉えることができる瞬間ってあると思うのです。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスは、活動の最初に4人の漁師たちを招きました。重要なのは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の促しによって、それぞれの場で知恵を働かせ、工夫や創造によって、より人生の質を高めていくような人間関係を作り出していく方向に招かれていることを信じていくことです。より幸せな道、生きていることの幸いに生きることとはどのようなことなのかを絶えず主イエスにあって確認し、実践していくことに他ならないのです。この道への招きが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉の意味するところです。

2023年1月 1日 (日)

マタイによる福音書 4章12~17節 「天の国は近づいた」

 教会が起こされて以来の2千年間、人間の世界は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」であり続けたとしか理解できないほどの歴史なのだということを、いわゆる「世界史」、もっと狭く捉えて「教会史」において思い知らされ続けていることは否定できません。わたしたち自身の、そして歴代の教会の無力さを突きつけられることも少なくありません。しかし、それでもわたしたちはクリスマスの祝福における「すでに」を手放すことなく、完成していない神の国を待ち続ける「いまだ」という現実の中で、あえて希望することが赦された存在であることを確認しておきたいのです。

 「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの出来事はクリスマスによって指示されていることを思い起こしたいのです。「すでに」とは「大きな光を見」ることであり、「光が射し込んだ」事実を示します。この「すでに」と「いまだ」という「教会の時」という緊張関係を支えるのは、「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に他なりません。この事実は、マタイによる福音書の終わりの部分である、2816節以下で確認することができます。このようにあります。【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」】「すでに」語られた主イエスの言葉に生かされながら、「いまだ」という「教会の時」を歩み続けなさい。そこに主イエスが共におられるのだから、不安や恐れや脅えが起こったとしても、支えと導きがあるのだとの固い約束がある、ここに希望をつなぐことが赦されているのです。キリスト者とは、「すでに」と「いまだ」との間の緊張の中で「神は我々と共におられる=インマヌエル」の事実に生かされており、その責任ゆえの正義を求めていくものです。主イエスとしての「天の国は近づいた」という現実に支えられて「悔い改めよ」という方向に招かれていることを今日はご一緒に確認したいと思います。

2022年12月24日 (土)

ヨハネによる福音書 1章1~15節 「まことの光」

 旧約聖書の天地創造物語にある、神の第一声は「光あれ」という言葉でした。この「光」とは、可視的なものではなくて、天地に関わる一切の「根源としての光」です。キリスト教会はこの「光」を、ユダヤ教のこの「創造信仰」を、「イエスの十字架の死と復活を中心とする救いの出来事」として再解釈しました。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。】(ヨハネ1:15a)。

 この信仰から次のように受け止めることができるのではないでしょうか。被造物としての「地」であるこの世界は混沌として絶望に満ちているように見えるかもしれない。しかしこの世界は神の言葉「光あれ」によって創造され、よきものとして積極的に肯定されたものなのです。「光あれ」という神の言葉は、イエス・キリストとして、今日、わたしたちに向かって語られています。イエス・キリストは、この混沌の世界にあって、わたしたちの目には見えないけれど、わたしたちの根源を照らす光なのです。混沌に秩序をもたらし、闇に光をもたらす、希望の光、救いの光、人間がそれによって生きることが赦される土台のような光がイエス・キリストであることを、共に感謝をもって確認したいと思います。

 主イエス・キリストは、旧約に示された神「光あれ」との思いが人となった姿そのものです。この方こそが「まことの光」「根源的な光」なのだと確認するのがクリスマスを祝うということです。現代社会の混沌のただ中にあっても、教会に示されている光は揺らぐことがないのです。「光あれ」という言葉によって開かれた神の祝福が、イエス・キリストという「まことの人」として、わたしたちのところに来られたという事実から、人間の中にある深くて暗い「闇」が明るみに出される方向へと導かれていくのではないでしょうか。

 この意味において、クリスマスを祝うことは「平和」への願いや祈りを込めて歩むことと別のことではないのです。光としての主イエス・キリスト、その誕生の光のまことに照らされることによって、世界中を覆いつくしているかに見える「闇」の現実を今、自分たちの置かれている場から応えていくことが求められているのではないでしょうか。「クリスマスおめでとう」という嬉しい挨拶の中には、主イエスの語られた「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」という祝福の力が込められているのです。

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