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2024年11月17日 (日)

マタイによる福音書 6章5~15節 「祈るときには」

 主イエスは、今日の5節から8節ではファリサイ派や律法学者たちを念頭に置いた「偽善者」という言葉を使いながら、「人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」と批判します。また、「異邦人」という言葉で、荒っぽい分類だとは思いますが、当時のユダヤ教以外の宗教全般を念頭に置いて「くどくどと述べてはならない。」「言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」と批判しています。これらの祈りのあり方について細かな説明は省略しますが、要するに「人に見せつける祈りの態度」が問題視されています。目立つ場所で、大袈裟な仕草、いかにも自分が立派な信仰者であるかのようにして朗々と美しい言葉で歌うようにして祈る思い上がりや傲慢さがあるのだと指摘します。言葉を数多く連ねて自分の我を神に対して押し付けるようなこともあるのだというのです。この、「人に対して見せつける祈り」は、この行為自体が目的となっており、神に対して正直で自らの弱さをさらけ出すような、切なる言葉で祈る態度は感じられません。この箇書を読めば、普通に納得できることでしょう。そういうわけなので、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と続けられます。

 しかし、ただ、この「人に見せつける祈り」の問題性は、実際の「会堂や大通りの角」という場所の問題に留まりません。「奥まった自分の部屋」という密室での一人だけの祈りにおいても全く問題なしとは考えられないからです。どういうことかと言うと、そこでは「人に見せつけて」はいないのかもしれませんが、「自分に見せつけている」可能性があると考えるからです。つまり、信仰的な確信とかを自ら作り上げて見せることを自分に対して行ってしまうこともあり得るからです。乱暴な言葉で言えば、自分の信仰的な確信をさらに深めるようにして、自己陶酔していく、信仰において独りよがりで我儘で自分勝手な祈りにとても近づくからです。「人に見せつける祈り」も「自分に対して見せつける祈り」、このどちらからも自由になっているのかを自己検証する必要があるのではないでしょうか。

 キリスト者の祈りは、主イエス・キリストを通して神に対して自らの言葉をもって向かうことです。祈りとは、すでに神によって知られ、受け止められている現実に対して、自分の位置やあり方を自分の言葉で訴えることで、自分のあり方や考え方が修正され、時には訂正されていく道でもあります。何でも自分の願いを正直に祈りとして述べるべきです。それが、自分勝手な我儘であったとしても。祈りが深められていくときには、神の側からの導きにおいて修正や訂正が与えられるはずなのです。

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