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2024年10月

2024年10月27日 (日)

コリントの信徒への手紙二 13章13節 「祝福による関係を作り出す」

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」。この祝福の言葉は、それぞれの教会という群れと聞いている教会員個人に向けられたものですが、これらに閉じられたものではありません。教会や個人が手紙の言葉に押し出されて、礼拝から遣わされ、それぞれの関係や暮らしている街や地方、さらには国単位の広がりをもつものです。

 今日の礼拝後のバザーは、わたしたちの教会がここにこうして存在するということを具体的に知ってもらうことができます。そして、地域との交わりや奉仕の一端を担うことができるのだと考えるのです。教会が街にただ存在するだけでも、何らかの働きがなされるのだという考え方があります。ああ、ここに教会があるのだと知られていることだけです。何かの役に立ったり、心の支えにあるのだとは自信をもって言うことはできないかもしれません。しかし、小さなことかもしれませんが意味なしとは言えないと思います。

 わたしたちのバザーの規模は決して大きいものではありません。また、多少の教会財政のプラスにはなるのかもしれませんが、利益中心には考えていません。どちらかと言うと、街に対する広い意味での証しなのかもしれません。ここに主イエス・キリストの教会が確実に存在するのだということです。何かある時には覚えていてほしいという願いをもっています。

 普段は礼拝を終え、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この祝福を受け、それぞれの場に帰って行きます。今日は、この言葉を受けながらバザーを行うという仕方で、この街の皆さんと一緒に主イエス・キリストの祝福に守られているひとときをご一緒に過ごすことができるなら、ここにわたしたちの教会の証しの働きがあり、豊かで喜ばしいものであることを願います。

2024年10月20日 (日)

ペトロの手紙一 3章11節 「平和を求め、これを追え」

~キリスト教教育週間~

 今日のキリスト教教育週間のテーマは、人のいのちを救う病院です。アハリー・アラブ病院はイスラエルの攻撃を受けても、医療活動をやめてはいません。宗教という枠を越えて、いのちでつながる働きをしているのです。アッラーにしてもヤーウェにしてもイエス・キリストも、神は人を殺すことを求めているのでしょうか。十戒には「殺してはならない」という戒めがあります。タルムード(ヘブライ語聖書に次ぐユダヤ教の聖典)よりも優先させなければならない、律法の中心とも言うべき十戒にあるのです。

 ユダヤ人からパレスチナ人に対する攻撃的な態度、1948年のイスラエル建国以前から今まで続いています。かつてはパレスチナという土地にあって宗教や国家観、暮らし方の違いや小さな諍いはあったとしても、両者が仲良くできていた時代はあるのです。それが愛から憎しみや殺意の時代に移り変わってきたのです。歴史を巻き戻すことはできないのかもしれません。しかし、新しい友人として、また開かれた意味での隣人としてお互いのいのちを大切にしあって喜んで生きられるような世界を求めていくことはできるのではないでしょうか。

 今日のテーマの聖句は「平和を求め、これを追え」です。これは共同訳聖書(最新版)によっています。わたしたちの使っている新共同訳では「平和を願って、これを追い求めよ。」となっています。報道によれば、イスラエルの攻撃が収まる気配は感じられません。激しくなるばかりです。ハマスの指導者が殺され続けています。指導者を殺すために、より多くの人を殺しても良いのだと主張する人もいるでしょう。しかし、指導者を殺しさえすれば問題は解決するのでしょうか。サダム・フセインを殺して、ビンラディンを殺して、カダフィを殺して、世界に平和が訪れたのでしょうか。より混乱が大きくなり広がったのではないでしょうか。如何にして殺さないで問題に対処できるのかが人に与えられた平和を求めてこれを追え、という課題に応えていく道ではないでしょうか。そのためにこそ、学ぶことの必要性を感じています。

 聖書には、覇権主義や殺しを良いこととして教えている箇書が確かにあります。これは否定できません。しかし、わたしたちが第一には読むべきは平和という課題に向かう箇書です。 イザヤ書24節にはこのようにあります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」。戦うことを学ばない生き方を求めたいのです。お互いのいのちを慈しみ合い「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」というローマの信徒への手紙1215節の言葉が本当になるような世界を求めて祈りましょう。

2024年10月13日 (日)

ルカによる福音書 23章39~43節 「逆転サヨナラホームラン」

深沢新明神学生(農村伝道神学校)

 十字架刑はローマ帝国に反逆した人を見せしめに処刑する方法だそうです。イエス・キリストはローマ帝国に反逆したわけではないのですが、祭司長、律法学者、ファリサイ人に憎まれ、策略によって十字架につけられました。両隣の十字架の2人はローマの支配をはね返そうと何か反乱を起こした人たちのようです。どんな事をしたのでしょうか。聖書には何も書かれていませんが、愛国心に燃え、ローマ帝国の支配に我慢できなかった人たちでしょう。何人か、何十人が話し合って反乱を起こしたのでしょうか。しかし、失敗し、捕まって処刑されることになりました。十字架につけられ、身動きできず、あと何時間かで死ぬというところまで来てしまいました。「オレの人生は何だったのか。何でこんな死に方をしなけりゃいけないのか。」などと思ったのでしょうか。昔のこと、子ども時代のこと、家族や友達のことなど思い出したりしたでしょうか。

 この2人も初めは十字架のイエスをののしっていました。片方の人は途中で何を思ったのか、「この方は何も悪いことはしていない。」「イエスよ。御国においでになる時は、私を思い出して下さい。」と言い出しました。隣で十字架につけられているこの人は私たちと何か違うと思ったでしょうか。騒いだり、わめいたりせず、文句も言わない。ローマ帝国に反逆したのでもない。黙って磔にされている。「神の子」とか「イスラエルの王」とか言われている、この人は普通の人と違う。どういう人なのだろう。よく分からないけれど、この人は本当に神の子なのか?キリストなのか?もしかするとそうかも知れない。「この人にすがってみよう」と思ったのかもしれません。

 十字架のまわりにいた律法学者、ファリサイ人、国会議員、ローマの兵隊、見物しているぐんしゅうはだれ一人このイエスが神の子キリストで、私たちすべての罪を背負って神に罰せられていることは知りませんでした。弟子たちやイエスの側にいた人たちもがっかりしたり、逃げ出したり、悲しんだりで、まだ十字架につけられたイエスのことがわかっていませんでした。

 イエスの隣の十字架で「私を思い出して下さい。」と言った人は、人生の最後の最後の土壇場でイエスにすがり、救われることになりました。九回裏の逆転サヨナラホームランのような人生となりました。イエス・キリストの十字架の救いはどれだけ大きく負けていても、ひっくり返す救いです。

 人間が滅びるのを黙って見ていることができない神様とイエス・キリストの命をかけた救いは私たちの為にも用意されています。いくら感謝しても感謝しきれない救いです。

 「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(テモテ一 26

2024年10月 6日 (日)

ヨハネによる福音書 11章38~44節 「墓から出てこい」(世界聖餐日)

 ラザロの<いのち>が復活したような出来事は、主イエスは、弁護者・聖霊として働き続けているという信仰の告白物語として読むことが必要です。<いのち>をもたらす仕方での復活は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ところの「今ここに」おいて関係という出来事があるということです。「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼びかけられているのは、ラザロ本人だけでなくて、今、この物語に触れている一人ひとりなのだということです。

 死臭漂う姿なのはラザロその人一人だけなのかという問いがあるのです。ラザロの「手と足を布で巻かれたまま」で「顔は覆いで包まれていた」姿は、自分とは一切関わりにないことだと胸を張って言い切れる人がどれほどいるのでしょうか。ラザロは死んで四日も経ち、死臭が漂い「手と足を布で巻かれたまま」で「顔は覆いで包まれていた」姿で墓におさめられている姿です。ここに向かって、語られてた主イエスの「出て来なさい」という言葉を、わたしに向かう言葉として受け止め、聴き直すことができないでしょうか。「ラザロ」との呼びかけを自分の名前が呼ばれていると読み替えてみることができないでしょうか。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」との宣言は、あのラザロと変わらないわたしたちに向けられてもいるのです。この世における、わたしたちの<いのち>はこの世を越えた<いのち>と無関係ではないということなのです。この世の<いのち>とかの国での<いのち>が、主イエスの復活において結ばれているがゆえに、新しい<いのち>の可能性への招きを信じることができるのです。ラザロの死において、その死を<いのち>へと向かわせる時、主イエスは大声で「出てきなさい」と呼びかけられました。その主イエスは「心に憤りを覚え、興奮して」います。これほどまでラザロを思う主イエスの心は、実はわたしたちにも向けられているのだと今日の聖書は告げているのです。

 今のあなたの姿は死んだラザロとどれほどの違いがあるのか思いめぐらせてみなさい、との呼びかけです。ラザロと読み手には、大きな違いはないのだということです。彼とさほど変わりのない惨めさの中にあることが知らされていると思うのです。このことに加えて、「出てきなさい」との言葉にラザロと共に与ることが赦されてある現実が、出来事として起きるのだと信じることができるのです。

 「出てきなさい」と墓に向けて語られた言葉が、主イエスの愛の力がラザロと友人・知人たちへと広がっていったように、わたしとわたしたち、今や神のもとにいる知人・友人たちというこの世とあの世の隔たりさえを乗り越えていく、豊かな招きの言葉として「今ここで」語られていることを確認したいのです。

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