イザヤ書 46章3~4節 「高齢者の神」~高齢者の日礼拝~
「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」ここには、イスラエルの民をこの世に生まれさせた道についての宣言があります。人間は、いのちも人生も自らで作り出してきたと錯覚しがちです。ここに傲慢があります。しかし、主体はあくまで神なのです。他の可能性はありません。わたしたちの人生は背負われているのです。救い出されているのです。信じるべき方は、この方以外にはないとのイスラエルの信仰的確信がここにはあります。
歳を重ねていくことには、悲しみや苦しみや痛みなどが伴います。いわゆる、「老い」の事実は避けられない現実だからです。それぞれの人生において、幼いころから成長し、歳を重ねる中で様々な経験の中でいのちの充実に向けて成熟してきたことが事実です。しかし、若い頃とつい比べてしまい、身体の調子が今一つ冴えない、病気との付き合いもあるし医者通いも増えてきた、記憶力の低下など、身体や心、精神的な側面についても「衰え」から自由ではなくなってくる現実に心を痛めることもあるでしょう。
これらの「老い」を巡る「衰え」を突き付けられた時に、向かうべき課題があるのだろうと思います。これらの現実を受け止めつつ、今を生かされてあることへの感謝の生き方です。たとえばマタイによる福音書11章28節以下の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」。主イエスのもとにあれば、「疲れ」や「重荷」も主イエスが共に担ってくださっていることによって少し楽になって安らぎが与えられて行く道があると信じるという課題です。主イエスが、このわたしの身体を共に支えて下さり、共に歩んでくださっていると信じ、平安の内に生きる道です。あるいはまた、パウロのコリントの信徒への手紙二 4章16節の「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」。「老い」による「衰え」さえも 「『内なる人』は日々新たにされて」いることを実感する道です。ここには、「高齢者の日」において祝福されたいのちへの全面的な肯定が語られているのではないでしょうか。この祝福が確かであると信じる道への招きがあるのではないでしょうか。
« ヨハネによる福音書 10章1~6節 「連れられて」 | トップページ | ヨハネによる福音書 10章31~42節 「拒絶されても」 »
「イザヤ書」カテゴリの記事
- イザヤ書 46章3~4節 「高齢者の神」~高齢者の日礼拝~(2024.09.15)
- イザヤ書 46章4節 「人生を導く神」(2023.09.17)
- イザヤ書 9章1~6節 「闇の中の光」(2022.11.27)
- イザヤ書 11章6~10節 「神さまの願い」(2021.11.14)
- イザヤ11:6「明日を生きる神の子どもたち」(2019.11.10)
« ヨハネによる福音書 10章1~6節 「連れられて」 | トップページ | ヨハネによる福音書 10章31~42節 「拒絶されても」 »
コメント