ヨハネによる福音書 10章1~6節 「連れられて」
「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。つまり、羊には一頭ずつ名前が与えられていたわけです。「名前」は、羊の個性、一頭一頭のいのちが独自なものであり、それぞれのかけがえのなさを表しています。「名前を呼んで」とは、ただ単に声をかけて呼びかける、ということに留まりません。そのいのちを慈しむ姿勢、大切にすること、尊重することなどが含まれます。羊は群れをなす生き物の代表みたいなものですから、ギリシャ語でも英語などでも単数形と複数形の区別がありません。羊というのは、一塊の群れをもって「羊」と呼ばれる伝統を持っています。しかし、今日の聖書からすると主イエスは、「おーい羊!」と群れ全般に向かって呼びかけているのではなく、羊の個を一頭ずつ気にかけていることが分かります。羊という一括りではなく、一頭ずつの個性や性格、習性などの違いによって見極め、これを大切にする態度を読み取ることもできます。主イエスは、羊の一頭一頭の名前を呼ぶのだということ、そして、その一頭一頭を大切にし、連れて行くのだということを、わたしたちは羊を自分たちに置き換えて安心することができます。しかし、わたしたち羊の側の現実はどうでしょうか。
わたしたちには、一人ひとりに名前が付けられています。生まれてから誰かにつけられたもの、あるいは自分らしく生きるために自らで付け直すこともあります。この「名前」とは単なる記号ではありません。「名前」とは、その人そのもの丸ごとを表す「言葉」です。尊重されなければならない「人権」と言っても決して言い過ぎにはならないかと思います。
主イエスが羊に向かって「名前」で呼んだことは、その羊のあるがままのいのちが全面的に受け止められ、肯定され、尊重されているのだと知ることができます。羊を人として受け止め直すならば、主イエスに自分の「名前」を呼ばれた者は、自分の「ほんとうの名前」を生きるようにして「連れ」出されるのです。ここに主イエスの「人権」への招きがあります。
しかし、風潮は主イエスの姿勢を拒みます。「名前」を呼ぶことのできない勢力があるのです。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」このように指摘される「盗人」や「強盗」に相当するあり方です。「人権」を無視し、拒み、暴力的な思想や行動をもって襲いかかる悪しき力や風潮があるのです。
主イエスに「名前」を呼ばれた者は、これらの悪しき力に抗う使命が与えられていると言えるのではないでしょうか。あなたもわたしも、同じ主イエスによって「名前」を呼ばれるようにして「人権」が尊重されているならば、お互いのあり方として大切にしあう道への招きを受け止めることができるのではないでしょうか。そんな生き方へと呼びかけ、招くのは羊飼いである主イエス・キリストなのだとご一緒に確認したいのです。
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