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2024年9月

2024年9月22日 (日)

ヨハネによる福音書 10章31~42節 「拒絶されても」

 今日の聖書によれば、捕われようとしているその場から主イエスは逃れてヨルダンの向こう側に行かれ、42節に「そこでは、多くの人がイエスを信じた」とあります。ここで場が移動していますが、もしかしたら前の場所、石打されそうになったところからやって来た人もいたかもしれません。

 主イエスの活動は当初はユダヤの会堂の中でもなされていましたが、次第に追い出されるようになりました。ヨハネ福音書は、その追い出しが激しくなってきた頃に書かれています。「追い出し」は、追い出す側の正義や信仰の正しさを根拠にします。しかし、その正義や信仰的な正しさが神から来ているのか、と吟味することが求められるのではないでしょうか。34節と35節の引用元の詩編82を参照してみます。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」、ここに神の思いや願いが込められており、それが肉となったのが主イエスであることを認めてはくれないだろうか、という対話への可能性を開きたいというヨハネ福音書の理解する信仰的な表明があるのだと思うのです。

 善と悪、正義と不義、聖さと汚れなどを無自覚に決めつけることは、反対の立場を切り捨てて攻撃することに直結する、ということをわたしたちは肝に銘じるべきでしょう。二元論を根拠とする立場は、自分自身のことや家族や地域社会や国内に留まらず、世界大の規模によって展開されています。これらがエスカレートして戦争や紛争がより暴力的になり、「弱者や孤児」「苦しむ人、乏しい人」「弱い人、貧しい人」をさらに痛めつけていくことは、「神々」の前に屈してしまうことであり、神の思いからかけ離れたところにあるのです。

 自分と異なる側を審くのではなく、このことによって傷つく人々をまず思い浮かべることが必要であると思います。痛めつけられている人たちをこそ大切にすること、愛することが神の意志だとの提示が主イエスの存在そのものであったのではないでしょうか。この主イエスを根拠にしていけば、単純な光と闇という対立関係があったとしても、その間に新しい関係性を構築することができるのではないでしょうか。この可能性が開けてくることを信じることができるのではないでしょうか。ここに今日の聖書の提案が示されている、と思います。この世において、自分の立っている場における自らの善とか正義を相対化し、相手が何を根拠にしながら考えつつ行動していくこと。低みにおかれた人たちとの連帯を求めていく神の愛への共鳴に生きること。ここに神のまことの意志があるのではないかと。拒絶されてもなお、対話の可能性が開かれていくことを信じることができるのだと。

2024年9月15日 (日)

イザヤ書 46章3~4節 「高齢者の神」~高齢者の日礼拝~

 「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」ここには、イスラエルの民をこの世に生まれさせた道についての宣言があります。人間は、いのちも人生も自らで作り出してきたと錯覚しがちです。ここに傲慢があります。しかし、主体はあくまで神なのです。他の可能性はありません。わたしたちの人生は背負われているのです。救い出されているのです。信じるべき方は、この方以外にはないとのイスラエルの信仰的確信がここにはあります。

 歳を重ねていくことには、悲しみや苦しみや痛みなどが伴います。いわゆる、「老い」の事実は避けられない現実だからです。それぞれの人生において、幼いころから成長し、歳を重ねる中で様々な経験の中でいのちの充実に向けて成熟してきたことが事実です。しかし、若い頃とつい比べてしまい、身体の調子が今一つ冴えない、病気との付き合いもあるし医者通いも増えてきた、記憶力の低下など、身体や心、精神的な側面についても「衰え」から自由ではなくなってくる現実に心を痛めることもあるでしょう。

 これらの「老い」を巡る「衰え」を突き付けられた時に、向かうべき課題があるのだろうと思います。これらの現実を受け止めつつ、今を生かされてあることへの感謝の生き方です。たとえばマタイによる福音書1128節以下の言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」。主イエスのもとにあれば、「疲れ」や「重荷」も主イエスが共に担ってくださっていることによって少し楽になって安らぎが与えられて行く道があると信じるという課題です。主イエスが、このわたしの身体を共に支えて下さり、共に歩んでくださっていると信じ、平安の内に生きる道です。あるいはまた、パウロのコリントの信徒への手紙二 416節の「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」。「老い」による「衰え」さえも 「『内なる人』は日々新たにされて」いることを実感する道です。ここには、「高齢者の日」において祝福されたいのちへの全面的な肯定が語られているのではないでしょうか。この祝福が確かであると信じる道への招きがあるのではないでしょうか。

2024年9月 8日 (日)

ヨハネによる福音書 10章1~6節 「連れられて」

 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。つまり、羊には一頭ずつ名前が与えられていたわけです。「名前」は、羊の個性、一頭一頭のいのちが独自なものであり、それぞれのかけがえのなさを表しています。「名前を呼んで」とは、ただ単に声をかけて呼びかける、ということに留まりません。そのいのちを慈しむ姿勢、大切にすること、尊重することなどが含まれます。羊は群れをなす生き物の代表みたいなものですから、ギリシャ語でも英語などでも単数形と複数形の区別がありません。羊というのは、一塊の群れをもって「羊」と呼ばれる伝統を持っています。しかし、今日の聖書からすると主イエスは、「おーい羊!」と群れ全般に向かって呼びかけているのではなく、羊の個を一頭ずつ気にかけていることが分かります。羊という一括りではなく、一頭ずつの個性や性格、習性などの違いによって見極め、これを大切にする態度を読み取ることもできます。主イエスは、羊の一頭一頭の名前を呼ぶのだということ、そして、その一頭一頭を大切にし、連れて行くのだということを、わたしたちは羊を自分たちに置き換えて安心することができます。しかし、わたしたち羊の側の現実はどうでしょうか。

 わたしたちには、一人ひとりに名前が付けられています。生まれてから誰かにつけられたもの、あるいは自分らしく生きるために自らで付け直すこともあります。この「名前」とは単なる記号ではありません。「名前」とは、その人そのもの丸ごとを表す「言葉」です。尊重されなければならない「人権」と言っても決して言い過ぎにはならないかと思います。

 主イエスが羊に向かって「名前」で呼んだことは、その羊のあるがままのいのちが全面的に受け止められ、肯定され、尊重されているのだと知ることができます。羊を人として受け止め直すならば、主イエスに自分の「名前」を呼ばれた者は、自分の「ほんとうの名前」を生きるようにして「連れ」出されるのです。ここに主イエスの「人権」への招きがあります。

 しかし、風潮は主イエスの姿勢を拒みます。「名前」を呼ぶことのできない勢力があるのです。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」このように指摘される「盗人」や「強盗」に相当するあり方です。「人権」を無視し、拒み、暴力的な思想や行動をもって襲いかかる悪しき力や風潮があるのです。

 主イエスに「名前」を呼ばれた者は、これらの悪しき力に抗う使命が与えられていると言えるのではないでしょうか。あなたもわたしも、同じ主イエスによって「名前」を呼ばれるようにして「人権」が尊重されているならば、お互いのあり方として大切にしあう道への招きを受け止めることができるのではないでしょうか。そんな生き方へと呼びかけ、招くのは羊飼いである主イエス・キリストなのだとご一緒に確認したいのです。

2024年9月 1日 (日)

ヨハネによる福音書 8章31~38節 「真理はあなたがたを自由にする」

 主イエスは語りかけています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この言葉は、主イエスの言葉に留まることをもって弟子となり、それを導く「ほんとう」によって自由へと歩む方向付けと導きがあるということです。

 ところで、わたしたちは果たして、主イエスの言葉において示される「ほんとう」によって自由へと向かっているのでしょうか。「ほんとう」でないものを、あたかも「ほんとう」のことのようにして誤解していないでしょうか。デマや噂を「ほんとう」として刷り込まれて、強制的な誰かの意志に服従する、そのような従順に犯されてはいないでしょうか。

 聖書の文脈では、主イエスを「信じたユダヤ人たち」に対しての言葉です。これに対して彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と不満を述べ、自らがすでに「自由」であると言いたげです。しかし、彼らの自覚に隠された「奴隷根性」、つまり、何かしらの権威を傘に着ることで保証されていると思う勘違いのあることが理解できていないのです。常に、今ある自分の立ち位置を主イエスの「真理」に基づいて正していかなければならないのです。そうでなければ、「奴隷」としての「従順さ」において「服従」に溺れてしまうのです。これは「自由」とは程遠いものです。

 「真理はあなたたちを自由にする。」という立ち位置は、デマや噂に飲み込まれない道への招きがあります。「真理」によってもたらされる「自由」に与ることは、この世における責任的な生き方を選び取ることと別のことではありません。その人の内面性に閉ざされて完結するものではないのです。

 この意味において、今一度主イエスの言葉に立ち返りたいと願うのです。そうでなければ、わたしたちは「関東大震災」の混乱の中でデマを信じて「異質なもの」への襲撃に走った人たちの誤った道を再び歩むことになりかねないからです。何かしらの権力や扇動者たちの従順な奴隷になってはならないのです。この御言葉はそのままで信じるに値するものです。すなわち、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」。この御言葉のもと、デマや噂に溺れないで、責任的な生き方をこの世においてなしていくことを願います。主イエスの真理において自由へと歩みたいのです。

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