ヨハネによる福音書 10章31~42節 「拒絶されても」
今日の聖書によれば、捕われようとしているその場から主イエスは逃れてヨルダンの向こう側に行かれ、42節に「そこでは、多くの人がイエスを信じた」とあります。ここで場が移動していますが、もしかしたら前の場所、石打されそうになったところからやって来た人もいたかもしれません。
主イエスの活動は当初はユダヤの会堂の中でもなされていましたが、次第に追い出されるようになりました。ヨハネ福音書は、その追い出しが激しくなってきた頃に書かれています。「追い出し」は、追い出す側の正義や信仰の正しさを根拠にします。しかし、その正義や信仰的な正しさが神から来ているのか、と吟味することが求められるのではないでしょうか。34節と35節の引用元の詩編82を参照してみます。「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」、ここに神の思いや願いが込められており、それが肉となったのが主イエスであることを認めてはくれないだろうか、という対話への可能性を開きたいというヨハネ福音書の理解する信仰的な表明があるのだと思うのです。
善と悪、正義と不義、聖さと汚れなどを無自覚に決めつけることは、反対の立場を切り捨てて攻撃することに直結する、ということをわたしたちは肝に銘じるべきでしょう。二元論を根拠とする立場は、自分自身のことや家族や地域社会や国内に留まらず、世界大の規模によって展開されています。これらがエスカレートして戦争や紛争がより暴力的になり、「弱者や孤児」「苦しむ人、乏しい人」「弱い人、貧しい人」をさらに痛めつけていくことは、「神々」の前に屈してしまうことであり、神の思いからかけ離れたところにあるのです。
自分と異なる側を審くのではなく、このことによって傷つく人々をまず思い浮かべることが必要であると思います。痛めつけられている人たちをこそ大切にすること、愛することが神の意志だとの提示が主イエスの存在そのものであったのではないでしょうか。この主イエスを根拠にしていけば、単純な光と闇という対立関係があったとしても、その間に新しい関係性を構築することができるのではないでしょうか。この可能性が開けてくることを信じることができるのではないでしょうか。ここに今日の聖書の提案が示されている、と思います。この世において、自分の立っている場における自らの善とか正義を相対化し、相手が何を根拠にしながら考えつつ行動していくこと。低みにおかれた人たちとの連帯を求めていく神の愛への共鳴に生きること。ここに神のまことの意志があるのではないかと。拒絶されてもなお、対話の可能性が開かれていくことを信じることができるのだと。
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