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2024年8月18日 (日)

ヨハネによる福音書 8章3~11節 「主イエスは見ている」

 今日の聖書では、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」とあることから、著者は「性善説」に立っているかのように感じます。「性善説」とは孟子が唱えたとされるあり方で、人間というものは、そもそも善の基本があって、それを発展させ徳性に至るという考え方です。人間はもとが良いものだというのです。しかし、人間はそもそも誰一人として逃れられない根本的で決定的な「罪」が根付いているというユダヤ的な発想からすれば、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」という場面には違和感があります。聖書のテキストを好意的に読めば、「こうあればいいのに」という理想的な場面として著者は描きたかったのでしょうか。

 わたしたちを巡る現代社会のリンチの発想は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って」ではありません。気に入らないことなら何でもいいとばかりに寄って集って標的を定めたら、とことん詰めてヘイトスピーチで叩き潰していこうとする空気が満ち溢れています。我先に石を投げつけることが主流のようになっているのではないでしょうか。インターネットの発達によって、石を投げつけるにしても匿名性で守られている以上、自らの攻撃的なあり方は表に現れにくいし、このことによって無責任に攻撃をエスカレートさせることもデマをでっち上げて煽り立てることもできるようになっているのです。

 ここでは、人間の持つこのような攻撃性を無化しつつ、その女性の立場を、また石を投げつけようとする立場を、沈黙によって問う主イエスの姿勢が、わたしたちのところにも染み渡ってくることへの期待をも持つのです。

 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と語り、その後は沈黙し「身をかがめて地面に書き続けられた」、この言葉において、この女性に対して、また同時にその場にいる人たちに対して主イエスの姿からの迫りがあることを確認したいと思います。この場にいる人たちが、自分たちの「正義」に縛られた「悪意」に気づくことで自らが正されて「一人また一人と、立ち去って」行ったこと、この意味において自らに非を認めることができたこと。そして、この女性には、誰からも罪に定められることなく、「行きなさい」と自由に生きるために前進していく力が与えられたこと。これらを確認しておきたいのです。いずれの道も決して安易なことではありません。しかし、沈黙をもって主イエスは自らの姿を思い描くことへと導き、方向を与えてくださることを信じることはできます。主イエスは支える沈黙の力として働かれるはずなのです。ここに信頼しながら、自らの姿が明らかにされつつ、主イエスにあるところの相応しさの道を歩みたいと願うのです。沈黙の主イエスの見守りに信頼しつつ、歩んでいきましょう。

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